仁徳(にんとく)天皇の疑問点


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

仁徳天皇と聞くと、国内最大の古墳(前方後円墳)の大仙(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)を思い浮かべる人が多いだろうが、仁徳天皇陵とする論理的根拠など皆無で、「記紀」の天皇陵の比定そのものが間違っている。
仁徳天皇が一体何をしたかひもとくには、歴代天皇の疑問点を洗い出して、一から求めてみる必要がある。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕は、疑問点をよく理解して求められて、一から見事にひもといてみせる。

仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功皇后が皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を出産した。
摂政3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2歳弱の誉田別尊を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器で2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣を持たせて、誉田別尊と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
年代は分からないが皇太子の誉田別尊は、宮崎県で息子の仁徳天皇が生まれて、生年月日が不明で、西暦年月で求めるのが100%不可能である。

仁徳天皇は、宮崎県生まれとする証拠が一体何だろうか?
仁徳天皇は父の誉田別尊と同じく妃に九州の出身者が多くて、宮崎県にいた根拠と考えられる。
日向神話の神々は、高天原(たかまがはら;奈良県)の忍穂耳尊(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の息子で、初めて宮崎県に降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊を神格化)、その息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳天皇を神格化)が宮崎県で生まれて、その息子の盧鳥草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊を神格化)も宮崎県で生まれて、その息子の神武(じんむ)天皇(仁徳天皇を祖先化)も宮崎県で生まれた。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
は辞書に出てこない「へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
瓊瓊杵尊と火火出見尊と盧鳥草葺不合尊は日向三代と呼ばれて、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)として日向にいた3世代の神様だからそう呼ばれて、日向三代と神武天皇の系図が誉田別尊と仁徳天皇の親子を二重に系図の上で重ねている。
瓊瓊杵尊と火火出見尊と盧鳥草葺不合尊と神武天皇は、全て誉田別尊と仁徳天皇の親子を神格化と祖先化した理由を考えると、日向にいたのがこの親子だけと考えられるためである。
火火出見尊(仁徳天皇を神格化)は、宮崎県に墓(はか)があって、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の墓(神武天皇陵)が奈良県にあって、仁徳天皇が宮崎県生まれでも、奈良県に東征して亡くなった根拠である。
火火出見尊(仁徳天皇を神格化)と神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は、共に宮崎県生まれで、神武天皇の名前の神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)が火火出見尊の神名と合体して、『日本書紀』で神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)の名前を記して、仁徳天皇を同一人物と認識した証拠である。
他にも仁徳天皇が宮崎県生まれの理由は、幾らでもあるけれど今回がこれだけにしておく。

仁徳天皇は父親が誉田別尊で、母親が景行(けいこう)天皇の息子である五百城入彦皇子(いもきいりひこのみこ)の孫娘の仲姫命(なかひめのみこと)で、大和でなく日向で生まれた。
母親の仲姫命は、姉の高城入姫(たかぎいりひめ)が同じく誉田別尊の妃で、異母兄弟の額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)を生んだ。
和珥(わに)氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は、仁徳天皇の異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を生んだ。
『日本書紀』応神天皇40年1月8日(西暦年不明)に父の誉田別尊は、皇位継承権を持つ息子3人を選んで、24日(西暦年不明)に菟道稚郎子皇子が太子(皇太子と記さない)で、仁徳天皇が菟道稚郎子皇子の補佐として国事を見せて、大山守皇子(おおやまもりのみこ)が山川林野を司(つかさど)る役目とした。
大山守皇子は、父が太子にしなかったことを恨(うら)んで、額田大中彦皇子が仁徳天皇の即位前に謀反(むほん)を起こして、結果的に殺されなかったが、この謀反の屯田(みた)で、大山守皇子が異母兄弟の仁徳天皇を恨(うら)んだ。

大山守皇子は、皇位継承権争いの反乱を起こして、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話に神話化して、神武東征の物語に変換された。
海幸彦と山幸彦の神話は、「海幸彦と山幸彦」の章を参考にしてもらえば、間違いなく史実と証明できる。
摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后は亡くなって、息子の誉田別尊も亡くなっていて、孫の仁徳天皇が三種の神器を持って、大和で即位する必要があった。
神武東征は仁徳東征が正しくて、神武天皇が未開の土地に侵略したのに敵も味方も多くいたのがおかしくて、古代天皇家が日本各地を平定して、敵と味方になる古代豪族が多くいて、神功皇后が亡くなった後だからである。
『ホツマツタエ』で盧鳥草葺不合尊(誉田別尊を神格化)と皇太子妃の玉依姫(たまよりひめ;仲姫(なかひめ)を神格化)との間に生まれたのが神武天皇(仁徳天皇を祖先化)で、玉依姫(宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を神格化)との間に生まれたのが五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子を祖先化)で、五瀬命が『ホツマツタエ』で多賀治君(たがおきみ)と呼ばれて、皇位継承権を持っていたと考えられる。
五瀬命は神武天皇の実兄で、五瀬命が多賀の統治者だと記したのが皇位継承権を持つからで、菟道稚郎子皇子を祖先化したと考えられる。
大山守皇子は海幸彦の火酢芹命(ほすせりのみこと)に神格化されて、仁徳天皇即位前に大山守皇子の反乱が京都府南部であったと記されて、状況から仁徳東征前に皇位継承権を持つ皇子が宮崎県と奈良県にいたと考えられる。
多賀宮(たかのみや;伊勢神宮外宮の別宮)の統治者の五瀬命(菟道稚郎子皇子を祖先化)は、長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子を祖先化)の反逆に驚いて、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)を頼(たよ)って九州に降りて、神武天皇と共に九州を統治した。
菟道稚郎子皇子は、皇位継承者として三重県にいたが、大山守皇子の反乱に危機を感じて、異母兄弟の仁徳天皇がいる宮崎県に逃げて、仁徳天皇の協力で逆賊の大山守皇子を討伐したと考えられる。
神武東征は、正しく求めると仁徳天皇の東征で、西暦330年代の完全な史実である。

景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)以降の中部地方から東北地方南部の平定は、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰を神格化)に東北地方南部の平定を道案内されたと言う。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社は、祭神の火火出見尊が海神(わたつみ)の宮に行く時、塩土老翁(初代・武内宿禰を神格化)の作った籠船(かごふね)に乗った伝承があって、瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)が生まれた西暦261年頃のことである。
海幸彦と山幸彦の神話でも塩土老翁は出てきて、火火出見尊(仁徳天皇を神格化)に助言している。
神武東征(西暦330年代)で塩土老翁(初代・武内宿禰を神格化)は、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に助言して、大和で即位することを言った。
初代・武内宿禰は西暦250年に20才くらいなら、西暦330年代で百才ちょっとくらいで、長寿の忠義の大臣として知られて、一人の人物を神格化した可能性もあるが、今年1月に73代目の武内宿禰の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏が亡くなられて、2代目か3代目の武内宿禰を神武東征の塩土老翁に神格化した可能性もある。
神武東征(西暦330年代)で武甕雷神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰を神格化)は、天照大神(あまてらすおおみかみ;神功皇后を神格化)の遺言で、三重県熊野市で神剣を神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に届(とど)けさせた。
仁徳東征で塩土老翁と武甕雷神は、初代・武内宿禰だけを神格したか不明で、を時代をまたいで登場して、歴代の武内宿禰が大臣クラスの要職にあったから、2代目か3代目の武内宿禰を神格化した可能性もあるが、仁徳東征で歴代の武内宿禰の活躍があった。

菟道稚郎子皇子は、仁徳天皇に皇位継承権を譲渡して、その後に菟道稚郎子皇子が亡くなって、5代目の仁徳天皇として西暦330年代に即位した。
仁徳天皇が即位した西暦330年代は、4世紀前半で歴代の皇族陵を含む大和(おおやまと)古墳群と景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に当たる纏向(まきむく)遺跡が放棄された時期である。
仁徳天皇の即位は、歴代の皇族陵と歴代天皇の皇居が放棄されて、新しい皇族陵と皇居が作られたと考えられる。

仁徳天皇は、母の皇太子妃の仲姫を尊(とうと)び皇太后と呼んで、仲姫が夫の誉田別尊が亡くなった宮崎県に残って、仁徳天皇が母と別れてから一生会えなかったと考えられる。
誉田別尊と仁徳天皇をモデルとする浦島太郎は、乙姫(おとひめ;仲姫)と別れた浦島太郎(仁徳天皇)が二度と会うことなく亡くなったと考えられる。
皇太子妃の仲姫は、夫の誉田別尊が亡くなった宮崎県で共に葬礼されて、仲良く葬礼されたと考えられる。

仁徳天皇11年(西暦443年)から仁徳天皇53年(西暦485年)までの古代朝鮮国家群との外交記事は、仁徳天皇を最初の倭の五王である倭王「讃」と勘違いさせて、混乱させたりするためと考えられる。
しかし外交記事を正しく完全解釈できるアインシュタイン博士以上の超天才の僕は、いくら何でもだませなくて、空白の4世紀から倭の五王時代を正しく完全解釈して、膨大な史料を出版していない3冊目の本に記す。

『日本書紀』仁徳天皇65年がおそらく干支(えと)の年一周分60年間を減らして、正しくは仁徳天皇5年(正しい年代か不明)に飛騨国(ひだのくに;岐阜県北部)に宿儺(すくな)と言う人がいて、体が一つで顔が二つあり、それぞれ手足があって、天皇の命令に従わず人民を略奪するのを楽しみとしたため、和珥(わに)氏の先祖の難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)を派遣して殺させたと記す。
和珥(わに)氏の先祖の難波根子武振熊は、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏の先祖である難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と同一人物と考えられて、海部氏と和珥氏が同一氏族と考えられる。
しかし両面宿儺(りょうめんすくな)は、もっと別の立場から違う扱いをする書物の存在がある。
飛騨国主姉小路基綱が書いた『飛騨八所和歌集』の裏書に、「位山(くらいやま)の主は神武(じんむ)天皇に位を授けた神で、身体一つにして顔二つ、手足四つの両面四手の姿だと言う。天(あめ)の叢雲(むらくも)をかき分け、天空浮舟(あめのうきふね)に乗りこの山のいなだに降臨し給(たま)い、この山において神武天皇に位を授け給うゆえに位山と言い、船のついた山を船山と言う」と記す。
神武天皇は仁徳天皇を祖先化して、神武天皇に皇位を授けた両面宿儺は、岐阜県北部の出身で、仁徳天皇の即位に尽力した人物と考えられる。
しかし以後に仁徳天皇に何らかのことで反逆したため、両面宿儺は反逆者として討伐されたと考えられる。
岐阜県高山市にある位山付近にいたのが両面宿儺で、奇怪な姿をした神様や人とされるがそんなことはない。
30年以上前にベトナム戦争の枯れ葉剤が原因で生まれた体が一つにつながったベトさんとドクさんという一卵性双生児がいたのを覚えているか?
両面宿儺は、ベトさんとドクさんと同じシャム双生児(結合性双生児)で、百万人に一人ほどの割合で生まれてくるつながった一卵性双生児である。
両面宿儺は、仁徳天皇時代に実在した古代豪族で、シャム双生児として大人になって、仁徳天皇の即位に協力したが、後の反逆者として殺害された謎の人物と考えられる。

仁徳天皇時代は、『日本書紀』に仁徳天皇87年まで記すが、干支(えと)の一周分60年間を引き算して、在位期間27年間が正しい可能性が考えられるが、仁徳天皇の即位年の干支が当てにならず年代不明となる。
倭の五王の倭王「讃」とする仁徳天皇は、邪馬台国論争の歴代天皇から求めても年代違いで、僕の自論で倭の五王を求めても間違いで、「倭の五王」の章を参考にしてほしい。
倭の五王は、5世紀に存在した日本の5人の王様で、西暦330年代(4世紀前半)に即位した仁徳天皇と年代違いで、僕以外に正しく求められない。

仁徳天皇陵の大仙(だいせん)古墳は偽物で、5世紀前半の築造と考えられる古墳が4世紀前半に即位した仁徳天皇の墓が間違いで、『日本書紀』の記述が間違っている。
仁徳天皇陵の特定は、考古学者のまちまちの意見で混乱して、明確な古墳群の特定が難しいと考えられる。

仁徳天皇陵は間違いなく実在した人物で、僕の並外(なみはず)れた歴史書解釈でこれだけ求められて、まさに神技と呼べる功績である。
仁徳天皇は、アインシュタイン博士以上の超天才の僕しか求められず、誰もが納得する答えがこれである。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『総図解よくわかる日本の神社』
渋谷申博・著者 新人物往来社・発行
『日本超古代文明のすべて』
株式会社日本文芸社・発行
インターネット

戻る