仁徳(にんとく)天皇陵は本物か?

宮内庁指定の仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、日本最大の前方後円墳で、大阪府堺(さかい)市にあって、2019年7月6日に世界遺産になった百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群に属して、『日本書紀』で仁徳(にんとく)天皇の墓(はか)を百舌鳥野陵(もずののみささぎ)で、『古事記』が百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)と記して、仁徳(にんとく)天皇を埋葬者と考える人が多い。
僕がよく使う古墳名の大仙(だいせん)古墳は、大山(だいせん)古墳や大仙陵(だいせんりょう)古墳とも呼んで、中国の始皇帝陵とエジプトのクフ王のピラミッド(本物でない根拠が幾らもある)より大きく、ギネス記録でなく、長い時間を仁徳(にんとく)天皇陵と認識して、専門家(考古学界と歴史学界)が昔から埋葬者を疑問視して、埋葬者の特定ができなかった。
それを決着したのは、2007年9月に最初の著書を出版して、本当の倭(わ)の五王を特定した超天才の僕で、現代人(僕以外の人間)よりも遙(はる)かに認識力や判断力などが上回って、世界で一番に史実・真実・事実に近い所にいて、僕以外に誰も特定できない根本的な理由が多い。

天皇不在の年8月4日(西暦251年9月上旬頃)は、三種の神器を強奪して、日本武(やまとたけ)天皇が強行即位して、10月7日(11月上旬頃)に伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市の磯(いそ)神社で殺して、皇室で禁忌の太陽神殺しの大罪で、11月4日(12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が戦死して、日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に邪馬台国(大和国;やまとこく)の仲哀(ちゅうあい)天皇は、4代目天皇に即位して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の父の日本武(やまとたけ)天皇と対立して、それぞれ三種の神器を所持して、2朝廷並列時代に突入した。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、姉で太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺して、同じく古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち;伊勢神宮を神格化)も殺して、日本神話が実話を神話化したと証明された。

仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の正妻になって、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した仲哀(ちゅうあい)天皇の父の日本武(やまとたけ)天皇が物部(もののべ)氏から神功(じんぐう)皇后を選んで、和解のために時間かせぎをしたと考えられる。
しかし年代不明の仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后は、第一子の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んで、愛情が芽生えていって、日本武(やまとたけ)天皇に任(まか)された任務が薄(うす)れていった。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国の攻撃中に戦場で傷ついて、51才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、戦死で間違いなくて、正妻の神功(じんぐう)皇后が舅(しゅうと)の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んで、この数日前に第二子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を身籠(みご)もったと考えられる。
忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)と栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、第一子の初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)と第二子の火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を生んで、2人とも物部(もののべ)氏の血筋だから、火の神様に神格化して、神功(じんぐう)皇后が物部(もののべ)氏である。

仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を攻撃して、17日に67才の日本武(やまとたけ)天皇を殺して、短時間で出雲王国の上層部を一掃(出雲王国の崩壊)して、戦死者が少なかったと考えられる。
出雲王国の崩壊は、出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化して、物部(もののべ)氏の滅亡でなく、6世紀に本家の物部守屋(もののべのもりや)が死んで、物部(もののべ)氏の一部が戦死だから崩壊で、出雲の国譲(くにゆず)り神話の後にすぐ日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話である。
神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(古代朝鮮国家3国の平定)は、西暦320年とするが、260年の出雲王国の平定と入れ替わって、正しく完全解釈できる僕にしか求められなかった。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月18日から12月5日頃(西暦260年11月中旬頃から西暦261年1月上旬頃)まで神功(じんぐう)皇后は、身重(みおも)の体で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の後処理をして、出雲王国が統治した中国地方の各地に使者を飛ばして、対応に追われて1ヶ月以上も出雲に滞在した。

仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の忘れ形見の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を生んで、出生地が京都市与謝(よさ)郡伊根(いね)町の宇良(うら)神社で、祭神が『日本書紀』に記す浦島太郎で、僕が浦島太郎の正体を誉田別尊(ほむだわけのみこと)と仁徳(にんとく)天皇と求めて、出版してない3冊目で公表する。
摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、実弟で2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、新しい三種の神器と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)は、妻の栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと;神功(じんぐう)皇后を神格化)が生んだばかりの瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)に三種の神器を持たせて、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が宮崎県に天孫降臨させて、宮崎県が皇室の故郷の理由である。

応神(おうじん)天皇16年頃(西暦285年頃)に仁徳(にんとく)天皇は生まれて、摂政(せっしょう)25年頃である。
応神(おうじん)天皇40年1月24日(西暦309年2月下旬頃)に父の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と仁徳(にんとく)天皇と大山守皇子(おおやまもりのみこ)の3人を皇位継承者にして、摂政(せっしょう)49年である。
応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、49才で亡くなって、天皇でないため崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と呼ばなくて、『日本書紀』に葬礼日も陵墓名も記さず、摂政(せっしょう)50年である。
宮崎市の前方後円墳の生目(いきめ)1号墳は、3世紀末から4世紀前半の築造で、箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)の相似形で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補である。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の存命中は、宮崎県で息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)が死んで、その息子たち2世代の神様も宮崎県で死んで、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代天皇の神武天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が後を継いだ。

摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、99才で亡くなって、10月15日(11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を葬礼して、大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳が有力候補である。
祖母の神功(じんぐう)皇后の遺言(ゆいごん)は、先に亡くなった父の誉田別尊(ほむだわけのみこと)に代わって、仁徳(にんとく)天皇が新しく即位するため、宮崎県から奈良県に東征(神武(じんむ)東征が正しくは、仁徳(にんとく)東征である)してほしいで、異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を皇位継承権争いで、戦死させて実話がつながる。
大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱は、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話に神話化して、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の物語に祖先化して、登場する神様や人物がこの時代の実在の人物と僕が証明した。

仁徳(にんとく)天皇は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に5代目天皇に即位して、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月中旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、間違いなく3世紀前半から中頃の天皇と証明して、仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳が5世紀前半から中頃の築造で、年代が合致しないと証明した。
仁徳(にんとく)天皇の孫の安康(あんこう)天皇は、安康(あんこう)天皇元年12月14日(西暦395年1月中旬頃)に9代目天皇に即位して、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、倭(わ)の五王で、最初の倭王(わおう)の讃(さん)に当たる。
安康(あんこう)天皇の弟の雄略(ゆうりゃく)天皇は、雄略(ゆうりゃく)天皇元年11月13日(427年12月中旬頃)に10代目天皇に即位して、雄略(ゆうりゃく)天皇3年8月7日(西暦429年9月上旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、倭(わ)の五王で、2番目の倭王(わおう)の珍(ちん)に当たる。
雄略(ゆうりゃく)天皇の息子の清寧(せいねい)天皇は、清寧(せいねい)天皇元年1月(西暦430年2月上旬頃)に11代目天皇に即位して、清寧(せいねい)天皇28年1月16日(西暦457年2月中旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、倭(わ)の五王で、3番目の倭王(わおう)の済(せい)に当たる。
清寧(せいねい)天皇は、世継ぎがいなくて、遠縁の顕宗(けんそう)天皇が顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年1月上旬頃)に12代目天皇に即位して、顕宗(けんそう)天皇14年4月25日(西暦471年5月下旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、倭(わ)の五王で、4番目の世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)に当たる。
仁賢(にんけん)天皇は、仁賢(にんけん)天皇元年1月15日(西暦472年2月中旬頃)に13代目天皇に即位して、仁賢(にんけん)天皇3年8月8日(西暦474年9月上旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、倭(わ)の五王でないことを理由として、大仙(だいせん)古墳の埋葬者から除外した。
仁徳(にんとく)天皇の孫である倭王(わおう)の讃(さん)の安康(あんこう)天皇と倭王(わおう)の珍(ちん)の雄略(ゆうりゃく)天皇、仁徳(にんとく)天皇の曾孫である倭王(わおう)の済(せい)の清寧(せいねい)天皇と世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)の顕宗(けんそう)天皇の4人は、本当の倭(わ)の五王に当たって、在位期間も合致して、大仙(だいせん)古墳の本当の古墳埋葬者と考えられる。
大仙(だいせん)古墳の築造期間は、20年以上だから、在位期間20年以上の天皇陵の可能性が高くて、安康(あんこう)天皇陵か清寧(せいねい)天皇陵の可能性が高いと求めた。

『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇67年10月5日(西暦379年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、天皇陵の土地を定めて、10月18日(11月中旬頃)に陵(みささぎ)を築いて、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日(西暦399年2月中旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、10月7日(11月上旬頃)に所在地不明の陵墓に葬礼した。
総合的に仁徳(にんとく)天皇は、仁徳(にんとく)天皇14年10月5日(西暦347年11月上旬頃)に天皇陵の土地を定めて、10月18日(11月中旬頃)に陵(みささぎ)を築いて、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月中旬頃)に亡くなって、10月7日(11月上旬頃)に所在地不明の陵墓に葬礼したと求められる。
大仙(だいせん)古墳の築造期間は、『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇67年から87年の20年間を最低でも見積もって、仁徳(にんとく)天皇陵と断言する証拠にならなくて、本当の在位期間で否定された。

仁徳(にんとく)天皇の孫の安康(あんこう)天皇は、安康(あんこう)天皇元年12月14日(西暦395年1月中旬頃)に9代目天皇に即位して、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
仁徳(にんとく)天皇34年10月7日(西暦367年11月上旬頃)に葬礼の仁徳(にんとく)天皇陵に干支(えと)の60年間をたし算すると、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に当てはまって、大仙(だいせん)古墳が安康(あんこう)天皇陵の公算が高くて、歴史学(歴史書解釈)の最有力候補になって、これを2024年6月1日に記した。

誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)から武烈(ぶれつ)天皇は、特定できなかった西暦330年から506年までの西暦年を完全に特定して、僕が2023年5月25日の午後5時頃に『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)が正しいと証明してから、日本の建国(天皇家誕生)の84年から329年までの年代と統合して、古代天皇家の西暦年を完全に確定した。
この西暦年の確定は、『日本書紀』神武(じんむ)天皇以降の歴代天皇の在位期間を否定して、僕が求めた正しい歴代天皇の在位期間が間違いないと証明して、この在位期間の対比図が「記紀」の干支(えと)の正しさも証明して、長年の謎(なぞ)を決着した。

埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山(いなりやま;古墳出土)鉄剣に文字を記して、加多支鹵大王(わくかたしるおおきみ;わかたける大王)に仕えた乎居臣(おわくこのおみ)が死んで、辛亥(かのとい)年7月(西暦471年8月頃)中に文字を刻んだと僕が解釈して、僕の求めた雄略(ゆうりゃく)天皇の在位期間が427年即位で、429年死去で、雄略(ゆうりゃく)天皇の在位期間と文字を刻んだ年代が違って、考古学界の定説が間違いと証明できた。
は「獣へん」に草かんむりがなくて、隻と記すのが正しくて、ホームページで表示できるが注意書きにする。
稲荷山(いなりやま)鉄剣の証明は、『倭(わ)の五王の定説と自論』の章に任(まか)せて、稲荷山(いなりやま)鉄剣と大仙(だいせん)古墳が考古学的証拠として、少ないながらも倭(わ)の五王を証明して、僕の功績を歴史上に刻み込んだ。

大仙(だいせん)古墳は、『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇67年から87年の21年間の築造期間を記して、歴史学(歴史書解釈)の最有力候補が安康(あんこう)天皇陵で、考古学(遺跡・遺物)に期待しても、これ以上の特定が困難と考えられる。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(中)(下)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『別冊歴史読本52第82巻21号 図説天皇陵』
株式会社新人物往来社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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