仁徳(にんとく)天皇の東征(とうせい)と即位

仁徳天皇の系譜
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)1年から5年は、西暦329年から333年までの5年間で、僕がもみじヶ丘病院に医療保護入院した2023年7月21日の午後7時頃に年代を特定して、僕の歴史研究の年代特定で、一番最後に判明した。

誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)は、妃の仲姫(なかひめ)との間に仁徳(にんとく)天皇で、別の妃の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)で、別の妃の高城入姫(たかぎいりひめ)との間に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)を生んだ。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と妃の木花開耶姫(このはなのさくやひめ;高城入姫(たかぎいりひめ)と仲姫(なかひめ)を神格化)は、火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)と火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)を生んで、さらに弟(先祖)の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を生んで、系図が混乱した。
火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)と妃の豊玉姫(とよたまひめ;磐之姫命(いわのひめのみこと)を神格化)は、息子の盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊を神格化)を生んだ。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
は「茲へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と玉依姫(たまよりひめ;3人の妃を神格化)は、息子の五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)と稲飯命(いなひのみこと;額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)を祖先化)と三毛入野命(みけいりののみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)と神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)を生んだ。
『ホツマツタエ』で五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)は、多賀君(たかをきみ;伊勢神宮外宮の別宮)と呼ばれて、皇位継承権を持つ統治者と考えられる。

『日本書紀』の神武(じんむ)天皇の別名は、神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)で、神様の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)と人間の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の名前が合体したことを意味して、同一人物を神格化・祖先化したと証明した。
皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代天皇の神武(じんむ)天皇は、実在の初代天皇の崇神(すじん)天皇と5代目天皇の仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、僕の自論が証明した証拠を「神武(じんむ)天皇の疑問点」で記した。

景行(けいこう)天皇は、宮崎県を含む熊襲(くまそ)王国を平定して、日本武尊(やまとたけのみこと)が宮崎県を含む熊襲(くまそ)王国を滅亡させて、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が宮崎県で暮らして、仁徳(にんとく)天皇が宮崎県で生まれて、3代目の景行(けいこう)天皇から5代目の仁徳(にんとく)天皇(仲哀(ちゅうあい)天皇を除く)の4世代が関係した皇室の故郷(ふるさと)である。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、三種の神器を持って宮崎県に来て、息子の仁徳(にんとく)天皇が生まれた宮崎県に残って、異母兄弟で皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)が奈良県に行って、大山守皇子(おおやまもりのみこ)が皇位継承権争いを起こして、仁徳(にんとく)天皇と菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が協力して、宮崎県から奈良県に東征した。
皇室の故郷(ふるさと)の宮崎県は、古代天皇家の史実(歴史上の事実)が忘れ去られて、僕が正史(正しい歴史)を再現し直して、特定したことでようやく踏(ふ)み出した。

仁徳(にんとく)天皇の系譜は、正しく完全解釈すれば特定できて、僕以外に誰も求められない。

神武東征(仁徳東征)の年代
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の年代は、もみじヶ丘病院に医療保護入院した2023年7月21日の午後7時頃に特定して、『日本書紀』神武(じんむ)天皇時代の干支(えと)の年を2024年10月6日に求めて、明らかな僕の怠慢(たいまん)で、大切な所を見落とした。

神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)は、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が5年間で、宮崎県から奈良県に行って即位して、祖母の神功(じんぐう)皇后の遺言(ゆいごん)で、亡き息子の遺児の仁徳(にんとく)天皇を奈良県に呼び寄せて即位させて、摂政(せっしょう)69年(西暦329年)を神武(じんむ)東征1年と計算した。
神武(じんむ)東征1年(紀元前667年)は、仁徳(にんとく)東征1年(西暦329年)で、神武(じんむ)東征5年(紀元前663年)が仁徳(にんとく)東征5年(西暦333年)で、紀元前663年と西暦333年の3の倍数を合致させて、旧暦(太陰太陽暦)と新暦(太陽暦)を熟知して、『ホツマツタエ』と「記紀」の暦法を作った証拠である。
神武(じんむ)東征5年(紀元前663年)の翌年は、『日本書紀』の己未(つちのとひつじ;紀元前662年)で、奈良県の敵軍を一掃して、神武(じんむ)天皇元年(干支(えと)の辛酉(かのととり;紀元前660年)1月1日(2月11日;建国記念の日)に皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代の神武(じんむ)天皇が即位したと記して、神武(じんむ)東征と仁徳(にんとく)東征を合致できないように年数をワザとずらした。

しかし摂政(せっしょう)69年は、仁徳(にんとく)東征1年(西暦329年)と合致して、空白年が仁徳(にんとく)東征5年(西暦333年)で終わって、翌年の仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が即位して、明らかに神武(じんむ)東征1年(紀元前667年)から神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)の年代を合致させず、超天才の僕が特定するのを待った。
『ホツマツタエ』と「記紀」は、非常に高度な偽装工作で、古代天皇家の正史(正しい歴史)を隠して、人類史上最大最強最高の超天才の僕だけが求められる唯一の人間で、シロウト認識の専門家(考古学会と歴史学会)や凡人(僕以外の人間)がお呼びでない現実で、正しい認識力を持つことが大事である。

『日本書紀』の大山守皇子の反乱
『日本書紀』応神(おうじん)天皇41年2月(西暦310年3月頃)に応神(おうじん)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇がなくなること)して、皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が皇位継承権を仁徳(にんとく)天皇に譲(ゆず)ろうとして、まだ即位しなくて、異母兄弟が互いに堅く辞退して、受け入れずに譲(ゆず)り合った。

皇太子で異母兄の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、異母弟の仁徳(にんとく)天皇を天皇にしようとして、仁徳(にんとく)天皇が兄の皇太子が天皇になってほしいと考えて、互いに譲(ゆず)り合っている所を異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が謀反(むほん)して、皇太子を殺そうと画策した。

この時に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)は、倭(大和;やまと)の屯田(みた)と屯倉(みやけ;天皇の御料田と御倉)を支配しようとして、屯田司(みたのつかさ)で出雲臣(いずもおみ;千家(せんげ)氏)の先祖の淤宇宿禰(おうのすくね)に語って、「この屯田(みた)は元から山守(やまも)りの司(つかさ)どる地で、今自分が治めるから、お前に用がない」と言った。
淤宇宿禰(おうのすくね)は、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)に報告すると、仁徳(にんとく)天皇に言えと言われて、「私が預(あず)かる田は、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)に妨(さまた)げられて治められない」と言った。
仁徳(にんとく)天皇は、倭直(やまとあたい)の先祖の麻呂(まろ)に問われて、「倭(やまと)の屯田(みた)は、元より山守(やまも)りの地と言うが、これがどうか?」と言って、「私には分かりません。弟の吾子籠(あごこ)が知っています」と答えて、吾子籠(あごこ)が韓国に派遣されて、まだ帰還していなかった。

倭直(やまとあたい)や海部(あまべ)氏の先祖の麻呂(まろ)は、奈良県にいて、弟の吾子籠(あごこ)を仁徳(にんとく)天皇のいる宮崎県に向けて派遣して、吾子籠(あごこ)が籠船(かごふね)を意味して、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の珍彦(うづひこ;椎根津彦(しいねつひこ)と同一人物)に当たって、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社を連想させて、倭国造(やまとくにみやつこ)の先祖でもある。

仁徳(にんとく)天皇は、淤宇宿禰(おうのすくね)に言って、「お前は自(みずか)ら韓国に行って、吾子籠(あごこ)を連れて来なさい。昼夜兼行で行け」と、そして淡路島の海人(あま)80人を差し向けて水手(かこ)として、淤宇宿禰(おうのすくね)が韓国に行って、吾子籠(あごこ)を連れて帰って、屯田(みた)のことを尋(たず)ねた。
「伝え聞く所では、垂仁(すいにん)天皇時代に息子の景行(けいこう)天皇に言って、倭(やまと)の屯田(みた)を定めたと言う。その時の勅使(ちょくし)は、『倭(やまと)の屯田(みた)が時の天皇の物で、帝(みかど)の御子(みこ)でも天皇の位(くらい)になければ、司(つかさど)ることはできない』と言った。これを山守(やまも)りの地と言うのは間違いです」と。
仁徳(にんとく)天皇は、吾子籠(あごこ)を額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)の元に派遣して、このことを知らせて、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)が言うべき言葉がなくて、その良くないことを知ったが、許して罰(ばっ)せられなかった。

額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)は、実弟で皇位継承者の大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱に加わったが、直接的な罪状がなかったため処罰されなかったと考えられる。

大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、父が皇太子にしなかったことを怨(うら)んで、重ねてこの屯田(みた)ことも怨(うら)んで、陰謀(いんぼう)を企(くわだ)てて、「皇太子を殺して帝位を奪おう」と言った。
仁徳(にんとく)天皇は、この謀(はかりごと)を聞いて、密(ひそ)かに皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)に知らせて、兵を備(そな)えて守らせた。
大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、兵の備(そな)えを知らず、数百の兵を率(ひき)いて、夜中に出発して、明け方に宇治に着いて、川を渡ろうとした。
その時に菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、粗末(そまつ)な麻(あさ)の服を着て、こっそりと渡(わた)し守(もり)に混ざって、大山守皇子(おおやまもりのみこ)を乗せてこぎ出して、川の中ほどに至って、渡(わた)し守(もり)に船を転覆(てんぷく)させられて、大山守皇子(おおやまもりのみこ)が川にはめられて、水に浮き流れつつ歌を詠(よ)んだ。

千早人(ちはやひと) 宇治(うじ)の渡(わた)りに 棹取(さおと)りに 早(はや)けむ人(ひと)し 我(わ)が許(もこ)に来(こ)む
(莵治(うじ)の渡(わた)りに巧(たく)みな人よ、私を救いに早く来ておくれ。)

しかし伏兵はたくさんいて、岸に着けなくて、大山守皇子(おおやまもりのみこ)が遂(つい)に水死して、この探すと、考羅済(かしわのわたり;京都府京田辺市河原)に浮かんで、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が屍(しかばね)を見て、歌を詠(よ)んだ。

千早人(ちはやひと) 宇治(うじ)の渡(わた)りに 渡(わた)り出(で)に 立(た)てる 梓弓(あずさゆみ) 壇弓(まゆみ) 射切(いき)らむと 心思(こころはも)へ共(と) 射取(いと)らむと 心思(こころはも)へ共(と) 元方(もとへ)は 君(きみ)を思(おも)ひ出(で) 末方(すえへ)は 妹(いも)を思(おも)ひ出(で) 苛痛(いらなけ)く 其(そ)こに思(おも)ひ 悲(かな)しけく 此(こ)こに思(おも)ひ 不射切(いきらず)ぞ来(く)る 梓弓(あずさゆみ) 壇弓(まゆみ)
(宇治の渡(わた)りで、渡(わた)り場に立っている梓(あずさ)の木よ。それを伐(き)ろうと心には思うが、それを取ろうと心には思うが、その本辺(もとへ)では君を思い出して、末方(すえへ)では妹を思い出して、悲しい思いがここまで纏(まと)わりついて、とうとういる梓(あずさ)の木を伐(き)らずに帰った。)

大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、奈良山に葬礼した。

大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱は、宇治川で決着して、この実話を神話化したのが海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話で、宇治川で大山守皇子(おおやまもりのみこ)が苦しむ姿が火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)が潮(しお)の満ち引きで苦しむ姿にそっくりで、僕が黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と共に最も分かりやすく神話化した物語だと思う。
大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、奈良山に葬礼したと記して、奈良市法蓮町(ほうれんちょう)の境目谷(さかいめだに)古墳と言う宮内庁指定の円墳だが、考古学的に調査せず、仁徳(にんとく)東征5年12月(西暦334年1月上旬頃)に大山守皇子(おおやまもりのみこ)が戦死した時期と合致するか分からない。

菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、宮室(おおみや)を宇治に建てて住んだが皇位を仁徳(にんとく)天皇に譲(ゆず)ったので長らく即位せず、皇位が空白で三年がすぎて、漁師が献上品の鮮魚を宇治宮(うじのみや)に届けて、皇太子が漁師に「自分は天皇でない」と言って、返して難波(なんば;大阪市浪速区(なにわく)と中央区)の仁徳(にんとく)天皇に奉納させた。
仁徳(にんとく)天皇は、また返して宇治に奉納させて、両市の献上品が両方を行き来する間に古くなって腐って、それでまた改めて鮮魚を奉納したが、譲(ゆず)り合うことが前と同じで、両市が度々(たびたび)行き来するのに苦しんで、魚を捨(す)てて泣いた。
諺(ことわざ)は、「海人(あま)でもないのに自分が出たことが原因で、自分が泣くことよ」と言われたが、これはこのことから使われるようになった。

菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟は、互いに皇位を譲(ゆず)り合ったのでなく、異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱で、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が戦死したのが真実である。

皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、「自分は兄の志(こころざし)を変えられないことを知った。長生きして天下を煩(わずら)わすのが忍びない。」と言って、遂(つい)に自殺した。
仁徳(にんとく)天皇は、異母兄の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が亡くなったと聞いて、驚いて難波宮(なんばのみや)から急いで、宇治宮(うじのみや)に来て、皇太子の死後3日だった。
仁徳(にんとく)天皇は、胸を打ち泣きさけんで、なすすべを知らない様子で、髪を解(と)いて、屍体(したい)にまたがって、「弟の皇子よ」と3度呼んで、すると俄(にわか)に生き返って、仁徳(にんとく)天皇が皇太子に「悲しいことよ、惜(お)しいことよ。一体なぜ自殺などなさいますか? もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか?」と言った。
皇太子は、仁徳(にんとく)天皇に「天命なのです。誰も止めることはできません。もし先帝の御許(みもと)に参ることがあれば、詳しく兄王が聖(ひじり)で、度々(たびたび)辞退したことを申し上げましょう。あなたは我(わ)が死を聞いて、遠路を駆(か)けつけて下さった。お礼を申し上げなければなりません」と言われた。
菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、同母妹の矢田皇女(やだひめみこ)を奉(たてまつ)りたいと言って、「お引き取りいただくのも迷惑だろうが、何とか後宮の数に入れていただければ」と、そしてまた棺(ひつぎ)に倒れて、遂(つい)に亡くなった。
仁徳(にんとく)天皇は、麻(あさ)の白服を着て、悲しみ慟哭(どうこく)すること甚(はなは)だしく、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の骸(なきがら)を莵道(うじ)の山の上に葬礼した。

菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の墓(はか)は、京都府宇治市の丸山古墳でなく、五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)を葬った和歌山市の竃山(かまやま)神社が菟道稚郎子皇子を葬礼した神社で、近くの古墳が陵墓と考えられて、考古学的な調査が必要である。

仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(313年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は即位したと記すが、本当の即位日が仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)である。

『日本書紀』の大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱は、この反乱(皇位継承権争い)の詳細を知るために記した。

仁徳東征(神武東征)の始まり
応神(おうじん)天皇40年1月4日(309年2月上旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を皇太子で、仁徳(にんとく)天皇と大山守皇子(おおやまもりのみこ)の息子3人を皇位継承者にして、応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)が長崎県の宮殿で亡くなった。
干支(えと)の癸酉(みずのととり)の年は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦313年2月上旬頃)で、仁徳(にんとく)天皇が即位して、西暦年310年から西暦313年まで、大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱で、3年間を皇位継承権が空白だった。
摂政(せっしょう)49年1月24日(西暦309年2月下旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、息子3人を皇位継承者にして、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に祖母の神功(じんぐう)皇后が99才で亡くなって、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が即位して、大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱で、5年間を皇位継承権が空白だった。

神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)は、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が5年間で、宮崎県から奈良県に行って即位して、祖母の神功(じんぐう)皇后の遺言(ゆいごん)で、亡き息子の遺児の仁徳(にんとく)天皇を奈良県に呼び寄せて即位させて、摂政(せっしょう)69年(西暦329年)を神武(じんむ)東征1年と計算した。
神武(じんむ)東征1年(紀元前667年)は、仁徳(にんとく)東征1年(西暦329年)で、神武(じんむ)東征5年(紀元前663年)が仁徳(にんとく)東征5年(西暦333年)で、紀元前663年と西暦333年の3の倍数を合致させて、旧暦(太陰太陽暦)と新暦(太陽暦)を熟知して、『ホツマツタエ』と「記紀」の暦法を作った証拠である。

神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)は、宮崎の宮で藤原氏の直系先祖の天種子(あまのたねこ)たちと共に政治をして、九州でつつがなく統治をした。
ところが大和の香久山(かぐやま)の臣である長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子を祖先化)は、天種子(あまのたねこ)が神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)のお伴として旅立って留守の隙(すき)に、三笠社(みかさやしろ)に納(おさ)めておいた『世嗣文(よつぎふみ)』を盗み写して、これをはじめとして長髄彦(ながすねひこ)が神武(じんむ)天皇のいないことを良いことに、我がまま放題に政治をして世を騒がせた。

神功皇后の摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の神功(じんぐう)皇后が亡くなって、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が代役で政治をして、神功(じんぐう)皇后の孫の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が反乱を起こして、古代天皇家で4度目の皇位継承権争いである。
天種子と仁徳天皇が奈良県にいない時、大山守皇子が仁徳天皇の異母兄弟で、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が皇位継承権争いを静観するしかなく、大山守皇子が盗んだのが三種の神器で反乱に協力する者が多かったと考えられる。
『ホツマツタエ』でフトタマ(布刀玉命;ふとだまのみこと:武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の孫がナガスネ(長髄彦;大山守皇子を神格化)だから、大山守皇子の父が誉田別尊で、母方の祖父が武渟川別と考えられる。
『日本書紀』に仁徳天皇の異母兄弟の額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と大山守皇子の反乱が記されるが、額田大中彦皇子が罪を許されて生かされて、大山守皇子が殺されたことから長髄彦に当たると考えられる。
大山守皇子は海幸彦(うみさちひこ)の火酢芹命(ほすせりのみこと)に神格化されて、仁徳天皇即位前に大山守皇子の反乱が京都府南部であったと記されて、状況から仁徳東征前に皇位継承権を持つ皇子が日向でなく大和にいたと考えられる。

原宮の治君(おきみ)の初代ホノアカリ(品夜和気命(ほむやわけのみこと)を神格化)は、長髄彦(大山守皇子を祖先化)に対抗すべく、ホツマ国(東海地方)と日高見(ひたかみ;東北地方南部)の国の糧(かて)を止めた。
これに対抗して長髄彦は、山崎(京都府乙訓郡大山崎町と大阪府三島郡島本町にまたがる地区の古称)で、川船を妨害したため、大物主(おおものぬし)の櫛甕玉(くしみかたま;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の子孫を神格化)がこれを討とうとされた。

品夜和気命は、『古事記』に記される人名で、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の第一子で、仁徳天皇の伯父(おじ)に当たって実在した人物か不明だが、実在していなければ初代ホノアカリとして神格化された人物がいないことになる。
大山守皇子の様子に抵抗した品夜和気命が兵糧攻めをしても、大山守皇子も妨害してくるため、彦太忍信命の子孫が討伐を考えるほど深刻な状態だったと考えられる。大物主の櫛甕玉は3世紀前半の出雲国王の彦太忍信命を神格化して、仁徳天皇が4世紀前半の人物だから彦太忍信命がとうに亡くなり、大物主の櫛甕玉として神格化されている人物が彦太忍信命の子孫で物部(もののべ)氏の人間と考えられる。

摂政(せっしょう)69年後半以降(西暦329年7月以降)に多賀宮(たかのみや;伊勢神宮外宮の別宮)の統治者の五瀬命(菟道稚郎子皇子を祖先化)は、この騒動に驚いて、神日本磐余彦尊(仁徳天皇を祖先化)の後を追って九州に降りて、神日本磐余彦尊と共に九州を統治して、櫛甕玉(おそらく彦太忍信命を神格化にたとえる人物)が一人で多賀宮にて民を治めた。

菟道稚郎子皇子は、皇位継承者として三重県にいたが、大山守皇子の反乱に危機を感じて、異母兄弟の仁徳天皇がいる宮崎県に逃げて、仁徳天皇の協力で逆賊の大山守皇子を討伐したと考えられて、菟道稚郎子皇子の代わりに彦太忍信命の子孫で物部氏の人間が多賀宮を統治したと考えられる。

ある時に塩土翁(しおづちのおきな;初代・武内宿禰を神格化)が神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に、「飛鳥(あすか)の宮の饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰を神格化)が配下の長髄彦(大山守皇子を祖先化)を従えて、宮中にそむいている。大和の国へ出向かれて平定されるのがよろしいでしょう」と進言されて、すると諸臣も神武天皇も、「もっともである」と口をそろえて言った。
塩土翁(初代・武内宿禰を神格化)はまた、「先に長髄彦(大山守皇子を祖先化)が『世嗣文』を盗み写したことへの制裁も加えないといけない。神武天皇(仁徳天皇を祖先化)はすみやかに行かれた方が良いでしょう」と言った。

このある時は、神武(じんむ)東征1年(紀元前667年)で、世界唯一の僕だけが求められる神技(かみわざ)である。

『ホツマツタエ』仁徳(にんとく)東征1年10月3日(紀元前667年11月上旬頃)は、仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)が正しくて、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)は、兄の五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)などの皇子と家臣と共に船団を揃(そろ)えて、自分たちが管理する三種の神器を持ち出して、宮崎県から船出(ふなで)した。

仁徳東征(神武東征)の始まりは、仁徳(にんとく)天皇を神武(じんむ)天皇に祖先化して、物語を作って隠したのを特定した。

仁徳天皇の船旅
『ホツマツタエ』神武(じんむ)東征1年10月3日(紀元前667年11月上旬頃)は、『日本書紀』神武(じんむ)東征1年(干支の甲寅(きのえとら;紀元前667年)3月5日が間違いで、仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)が正しくて、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍を乗せた船が速水戸(はやすいど;愛媛県佐田岬と大分県佐賀関に挟まれた豊予海峡)に至った。
海人(あま)が乗る一艘(いっそう)の小船が近づいて来て、天日別(あまひわけ)がその船人に尋ねて、「私は国神(くにつかみ)の珍彦(うづひこ)です。海にて釣りをしていますと、神武天皇の船がこちらに見えることを聞き、お迎えに参った次第です」と答えた。
天日別がまた「船を導いてくれるのか?」と尋ねて、珍彦が「はい」と答えると神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が命じて、椎(しい)でできた棹(さお)の末を持たせて船に引き入れて、それにちなんで椎根津彦(しいねつひこ)という名前をもらった。

参考文献『新編 姓氏家系辞書』(著者・太田亮 発行・株式会社秋田書店)で天日別は、度会(わたらい)氏の先祖に天日別命(あめのひわけのみこと)の名前で出てきて、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)の孫とされて、天日別が彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫と考えられる。
珍彦(うづひこ)と椎根津彦(しいねつひこ)は、同一人物で海部(あまべ)氏と倭直(やまとあたい)の先祖で、仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)に登場した吾子籠(あごこ)に当たって、彦坐王(ひこいますのみこ)から始まる出雲系を神格化した国津神(くにつがみ)で、籠船(かごふね)に乗る浦島太郎や京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社などとも合致した。

その後に椎根津彦(吾子籠;あごこ)が導く船は、宇佐(うさ;大分県宇佐市)に至って、宇佐津彦(うさつひこ)の一柱騰(ひとあがり)の宮にて御饗(みあえ)がもよおされて、その時に御膳を運んできた宇佐子姫(うさこひめ)を天種子(あまのたねこ)の妻とすることを、姫の父に願うと許しが出て、めでたく二人が結婚した。

中臣(なかとみ)氏と摂関(せっかん)藤原氏の先祖の天種子は、大分県宇佐市の統治者である宇佐津彦の娘の宇佐子姫と結婚して、中臣氏の直系につながる子供をもうけたと考えられる。

『日本書紀』神武(じんむ)東征1年11月9日(紀元前667年12月上旬頃)は、仁徳(にんとく)東征1年11月9日(西暦329年12月上旬頃)で、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の軍が筑紫(つくし;九州)のヲシ門(と;岡水門:おかのみなと:福岡県の遠賀川(おんががわ)河口付近)に寄った。

『日本書紀』神武(じんむ)東征2年(干支(えと)の乙卯(きのとう;紀元前666年)3月6日(4月上旬頃)は、干支(えと)が完全な間違いで、仁徳(にんとく)東征2年3月6日(西暦330年4月上旬頃)に安芸(あき)の国(広島県西部)の埃宮(ちのみや;広島県安芸(あき)郡府中町(ふちゅうちょう)に到着して、3年間で船団や食料などを準備した。

『ホツマツタエ』神武(じんむ)東征5年2月(紀元前663年3月頃)と『日本書紀』神武(じんむ)東征5年(干支(えと)の戊午(つちのえうま;紀元前663年)2月11日(3月中旬頃)は間違いで、仁徳(にんとく)東征5年2月11日(西暦333年3月中旬頃)が正しくて、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の船が早浪の立つ瑞岬(みづみさき)を通って、そこを浪速(なみはや)の港(難波津;なにわづ)に着いた。

『日本書紀』神武(じんむ)東征5年3月10日(紀元前663年4月上旬頃)は、仁徳(にんとく)東征5年3月10日(西暦333年4月上旬頃)が正しくて、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)一行がその港より船を降りて陸地を進んで山を越えて川をたどり、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍が河内草香(かうちくさか;大阪府東大阪市草下町)の天上諸(あうえもろ)の館に立ち寄り軍備を整えた。

『日本書紀』神武(じんむ)東征5年4月9日(紀元前663年5月上旬頃)は、仁徳(にんとく)東征5年4月9日(西暦333年5月上旬頃)が正しくて、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)は、そこから竜田(奈良県北葛城郡王寺町竜田)に向かうと、道が狭くきちんと並んで行けないほどで、生駒山(いこまやま;大阪府と奈良県の境にある生駒山地の主峰)を越えた。
すると長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)は、軍を起こして出現して、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍に向かい、「わが国を奪おうとするのか」と孔舎衛坂(くさえざか;大阪府枚岡市日下町の山麓地帯から草香山を越える坂道か?)にて戦いを挑んできた。
その合戦で五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)は運悪く肘(ひじ)を射られて、進軍をはばまれたが神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が会議をして気勢を上げた。

『日本書紀』神武(じんむ)東征5年5月8日(紀元前663年6月上旬頃)は、仁徳(にんとく)東征5年5月8日(西暦333年6月上旬頃)が正しくて、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍は、八尾(やお;大阪府八尾市)へ退(しりぞ)いて、敵が攻めてこなかったので、船にて茅渟(ちぬ;大阪府東部)の山城(大阪府泉南市樽井)に至ると、そこで五瀬命が亡くなり、紀伊(きい)国の竃山(かまやま;和歌山市の竃山神社)に五瀬命を埋葬した。

五瀬命は、菟道稚郎子皇子を祖先化したと考えられて、五瀬命を葬った和歌山市の竃山神社が菟道稚郎子皇子を葬礼した神社と考えられる。
『日本書紀』に大山守皇子の反乱の後に菟道稚郎子皇子が自殺して、莵道山上(うじのやまのうえ)に葬礼されたと記して、京都府宇治市の丸山古墳に当たるとするが、竃山神社が本当の菟道稚郎子皇子の墓と考えられる。

『日本書紀』神武(じんむ)東征5年6月23日(紀元前663年7月下旬頃)は、仁徳(にんとく)東征5年6月23日(西暦333年7月下旬頃)が正しくて、熊野の名草(なぐさ;和歌山市の名草山付近)に進むと、その地の戸畔(とべ)という者が神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍の行く手を拒むのでそれを討ち、佐野(和歌山県新宮市佐野)へ進み、熊野村(和歌山県新宮市の近辺)へ向かった。
磐盾山(いわたてやま;新宮市の神倉神社境内である神倉山か?)を越え、海上に出て沖を行くと、旋風を受けて船が漂流して、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の兄の稲飯命(いないいのみこと)が泣いて海に身投げして、亡くなって鋤持(さひも)ちの海神(うみのかみ)として祭られて、すると御毛入命(みけいりのみこと)も逆波の海を恨み、稲飯命の後を追って入水(じゅすい)して神となった。

神武(じんむ)天皇の実兄は、稲飯命(いないいのみこと)と御毛入命(みけいりのみこと)も死んで、稲飯命(いないいのみこと;額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)を祖先化)と三毛入野命(みけいりののみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)が明らかに共通する。
稲飯命(いないいのみこと)は、古代朝鮮国家の新羅王族の先祖として、明らかに死んでなくて、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)を祖先化して、御毛入命(みけいりのみこと)が大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化したと考えられる。
稲飯命(いないいのみこと;額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)を祖先化)は、和歌山県の海戦で敗北して、仁徳(にんとく)天皇の軍の捕虜(ほりょ)になったと考えられる。

仁徳天皇の船旅は、大阪府で大山守皇子(おおやまもりのみこ)の抵抗を受けて、三重県まで船で東征した物語である。

布都御魂剣と八咫の烏
仁徳(にんとく)東征5年7月頃(西暦333年8月頃)に神武天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)のひきいる軍は、その後陸地を行き、つつがなく荒坂(あらさか;三重県熊野市二木島町の荒坂)まで進み、そこで動物霊をあやつる丹敷戸(にしきど)が軍を拒んで妖気を吐(は)きかけ、神武天皇の軍がその毒気に当てられ、皆が疲れ伏し眠ってしまった。
すると高倉下(たかくらした;中臣(なかとみ)氏の近縁氏族)は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)の語り合う夢を見た。

仁徳天皇らの軍は三重県に上陸して三重県熊野市二木島町の荒坂まで行くと、大山守皇子(おおやまもりのみこ)の味方の丹敷戸に何らかの方法で邪魔されたと考えられる。
高倉下は中臣氏の直系先祖の天種子(あまのたねこ)と親戚関係で、神功(じんぐう)皇后と大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)に仕える忠実な家臣だと考えられる。
高倉下は天香語山命(あめのかごやまのみこと)かその息子と考えられるが間違いで、『ホツマツタエ』の天種子の親戚関係が正しい。

高倉下の夢で、天照神(神功皇后を神格化)が武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)に命じて、「国が騒がしいので平定してこい」と言われると、武甕槌神が答えて、「私が行かなくても、国平(くにむ)けの剣(つるぎ)を降ろせば大丈夫です」とおっしゃり、天照神が、「もっともだ」と言われた。
さらに夢の中で武甕槌神が高倉下に言われて、「武甕槌神の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が倉に置いてある。これを神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に奉(たてまつ)れ」と、そして高倉下が「ははっ!」と答えた。
高倉下は夢から覚めて倉を開けてみると、不思議なことに倉の底板に布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が立っており、これを神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に進めると、神武天皇が妖気の眠りから覚めて、諸臣も皆が眠りから覚めることができた。

死に際の神功皇后は、大臣の初代・武内宿禰に天皇になる孫を助けよと遺言(ゆいごん)して、初代・武内宿禰が高倉下に布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を仁徳天皇の助けとするために届けよと命じて、仁徳(にんとく)東征5年7月頃(西暦333年8月頃)に大臣の初代・武内宿禰から神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を授かった高倉下が仁徳天皇の元に届けて進軍のきっかけとして、諸臣も活気付いて丹敷戸を討伐したと考えられる。

参考文献『BooksEsoterica第22号 天皇の本 日本の霊的根源と封印の秘史を探る』(発行・株式会社学習研究社)で奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮の禁足地から明治7年に発掘された大刀があり、それを布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)として石上神宮に祭るが、一般へ公開されないと言う。
『先代旧事本紀』に布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)の別名として布都主神魂刀(ふつぬしのかみのみたまのかたな)と記されて、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の持つ神刀だと考えられる。
しかし『ホツマツタエ』に「武甕槌神の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」と書かれて、武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)の持つ神刀とも考えられて、結局の所は経津主神と武甕槌神の持つ神刀と考えられる。
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が国平けの剣と表現される理由は、経津主神(武渟川別を神格化)と武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)が持つ神刀とされるからで、武渟川別と初代・武内宿禰の二人が東日本と出雲王国の平定に大きく貢献した時の刀で、双璧の軍神が国を平定した神刀とするためと考えられる。

仁徳(にんとく)東征5年7月頃(西暦333年8月頃)に神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍は、再び前進をはじめたが山道がとてもけわしく、やがて道もなくなってどことも分からない野原で沈んだ気持ちのまま休むことになり、するとその夜に神武天皇が夢で男性の太陽神アマテルカミからお告げを受け、「八咫(やた)の烏(からす)を導きとせよ」そして目が覚めると、そこに八咫の烏と名乗る者が現れた。

八咫烏(やたがらす)の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)は、孫が賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;履中(りちゅう)天皇を神格化)で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神皇産霊尊(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の子孫で、血筋が間違いなく正しいと考えられる。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)の詳細な説明は、『祖先化した系図』の章に任(まか)せて、説明を省(はぶ)かせてもらいたい。

布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と八咫(やた)の烏(からす)は、?霊(ふつのみたま)が物部(もに縁(ゆかり)の神刀で、八咫(やた)の烏(からす)が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)で、仁徳(にんとく)東征を助力した。

兄猾と弟猾と兄磯城と弟磯城
祖先神アマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神格化)が切り開いてくれた飛鳥路を神武天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の軍は進み、道臣(みちおみ)に神武天皇の軍を導かせて峰を越えた。
『日本書紀』神武(じんむ)東征5年8月2日(紀元前663年9月上旬頃)は、仁徳(にんとく)東征5年8月2日(西暦333年9月上旬頃)が正しくて、神武天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が宇陀(うだ)の穿村(うがちむら;奈良県宇陀市莵田野宇賀志(うたのうかし)に着いて、そこで神武天皇が猾(うかし)の兄弟を呼び寄せたが、弟猾(おとうがし)だけが来て兄猾(えうがし)が来なかった。
弟猾が告げて言うには、「兄猾は神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍にそむき、御饗(みあえ)を口実に仕掛けを使って、神武天皇をおとしいれようと謀(はか)っています」ということで、兄猾を捜(さが)し続けた道臣が敵意のあることを確かめると叫んで、「お前の作った屋に入れ」と剣と弓で攻め立てて、神武天皇をおとしいれようとした罪を逃れようがなく、兄猾がとうとう自分が作った仕掛けにかかって死んだ。

弟猾は、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の臣をもてなして、吉野尾の上の井光(いひかり)や磐別神(いわわけがみ)らも神武天皇の軍を出て迎えて、『日本書紀』神武(じんむ)東征5年9月5日(紀元前663年10月上旬頃)が間違いで、仁徳(にんとく)東征5年9月5日(西暦333年10月上旬頃)が正しくて、高倉山(たかくらやま;奈良県の宇陀市の高倉山か東吉野町の高見山)のふもとで、兄磯城(えしき)の軍勢が神武天皇のひきいる軍の要所を攻め寄って、行く手をはばんだ。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は、天神に祈り、その夜の夢に天神が告げて、「天神地祇(ちぎ)を祭れよ。天香久山(あまのかぐやま;奈良県橿原市にある天香久山)の土を葉盤(ひらで;数枚の柏の葉を細い竹釘で差し止め、盤のようにした器)に盛り胙(ひもろげ)として供えよ」と言われた。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は神の教えのままに従おうと思っていた所、弟猾がやって来て、「磯城梟帥(しぎたける)や葛城(かだき)アカシもみな行く手を拒んでいる。神武天皇のことを考えますに、天香久山の土を葉盤に盛り胙として供え、天神地祇を祭った後に敵を討ってはいかがかと存じます」と言われた。

弟猾は仁徳天皇の家臣をもてなして、他の者たちも仁徳天皇の軍を出て迎え、高倉山のふもとで兄磯城という大山守皇子(おおやまもりのみこ)の味方が仁徳天皇の軍を攻めて行く手をはばんだと考えられる。

磯城梟帥は兄磯城と同一人物でないかと考えられて、天香久山の土を取りに行った話が創作と考えられる。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は弟猾の進言が自分の見た夢と全く同じであると不思議に思われて、「椎根津彦(しいねつひこ;海部(あまべ)氏の誰か)は蓑と笠を付け、弟猾は箕(み)を持って翁(おじ)と姥(うば)の姿をして、天香久山の峰の土を持ち帰れ。夢のお告げによってその土をもって、わが御世の行く先を占うものとする。つつしんで取って参れ」と命令されて、ところが道という道は敵で満ちていた。
椎根津彦(海部氏の誰か)は祈って言って、「アマテルカミ(神功皇后を神格化)の子孫である神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が国を平定なされるのだから神の助けを得て必ずや道も開けて、天香久山に至ることができるだろう」と祈り終わってただちに敵のただ中を進み行くと、二人の奇妙な風態を見て敵も笑い出し、あやしむこともなく避けて通れて、ゆえに天香久山の土を取りつつがなく帰ることができた。

神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は、弟猾の進言が自分の見た夢と全く同じであると不思議に思われて、「椎根津彦(しいねつひこ;吾子籠:あごこ)は蓑と笠を付け、弟猾は箕(み)を持って翁(おじ)と姥(うば)の姿をして、天香久山の峰の土を持ち帰れ。夢のお告げによってその土をもって、わが御世の行く先を占うものとする。つつしんで取って参れ」と命令されて、ところが道という道は敵で満ちていた。
椎根津彦(吾子籠;あごこ)は祈って言って、「アマテルカミ(神功皇后を神格化)の子孫である神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が国を平定なされるのだから神の助けを得て必ずや道も開けて、天香久山に至ることができるだろう」と祈り終わってただちに敵のただ中を進み行くと、二人の奇妙な風態を見て敵も笑い出し、あやしむこともなく避けて通れて、ゆえに天香久山の土を取りつつがなく帰ることができた。

仁徳天皇は、弟猾の進言で椎根津彦(吾子籠;あごこ)と弟猾に天香久山まで偵察を命じて、変装して偵察したが、実話かどうか分からない。
椎根津彦(吾子籠;あごこ)は、神功皇后の孫の仁徳天皇が国を平定されるのだから神の助けを得て必ず道も開けて、天香久山に至ることができると祈り終わってただちに敵のただ中を進み行き、椎根津彦と弟猾の奇妙な老人の格好を見ても敵が疑問を持たず、あやしまれず天香久山に着いたと考えられるが、作り話かもしれない。

神武天皇(仁徳天皇を祖先化)も喜ばれて巌瓮(いつへ;祭事に用いた壺で、神酒を入れる神聖な容器)を作り丹宇(にう)川の宇陀(吉野川上流)に、真名井(まない)原に坐(ま)すトヨケ(豊受大神;とようけのおおかみ)とアマテルカミ(天照神)の分霊(わけみたま)を遷(うつ)して、道臣をしてその二神を祭らせた。
また神皇産霊尊(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の孫である天目一箇神(あまめひとつのかみ;誰を神格化したか不明)の曾孫の天田根(あたね)をして、別雷山(わけいかずちやま;貴船山)の祖先神の盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を3日間祭らせた。

仁徳天皇も喜ばれて巌瓮を作り、奈良県の吉野川上流にトヨケとアマテルカミの分霊を遷して、道臣にその2神を祭らせた。仁徳天皇の先祖の男神トヨケ(おそらく丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)とアマテルカミ(神功皇后を神格化)の2神を道臣に祭らせたと考えられて、現在の吉野川上流に豊受大神と天照大神(あまてらすおおみかみ;神功皇后を神格化)を祭る神社があるかよく分からない。景行天皇の孫である誰かの曾孫の天田根(西暦330年代に生きたと考えられる)は、仁徳天皇の父の誉田別尊を3日間祭ったと考えられるが、貴船山か吉野川上流に祭ったのかよく分からない。
6代目タカミムスビ(景行天皇を神格化)の息子が7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)で、その弟の息子の天目一箇神は、武虎別皇子の甥で誰を神格化したのか分からない。

『日本書紀』神武(じんむ)東征5年10月1日(紀元前663年11月上旬頃)は間違いで、仁徳(にんとく)東征5年10月1日(西暦333年11月上旬頃)が正しくて、敵を討たんと国見岡(くにみがおか;奈良市の国見山(くにみやま)に軍を起こした。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は、歌を詠(よ)まれて、この和歌を神武天皇の軍が声をそろえて歌うと、敵がそれを聞きつけて総大将の饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)に告げた。
饒速日命(初代・武内宿禰を神格化)はしばらくその和歌の真意を考えて我を振り返り、「私に素戔嗚尊(すさのおのみこと)のように流浪の人になるのはご免だ」と荒々しく叫び、また一言「あれは天意に叶(かな)った神軍だ」と言って兵をしりぞき、すると神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍の兵士たちが笑みをたたえた。

初代・武内宿禰は仁徳天皇と大山守皇子の敵対を静観して、大山守皇子が流浪の人になるのはご免だと考えて、仁徳天皇が天意に叶った軍だと考えた。

『ホツマツタエ』神武(じんむ)東征5年11月の弓張月(ゆみはりづき)の日は、『日本書紀』神武(じんむ)東征5年11月7日(紀元前663年12月上旬頃)だが間違いで、仁徳(にんとく)東征5年11月7日(西暦333年12月上旬頃)が正しくて、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が先に高倉山(たかくらやま;奈良県の宇陀市の高倉山か東吉野町の高見山)に行った。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は、行く手をはばんだ磯城彦(しぎひこ)に使者を派遣して、参上するように命じたが、兄がそれに応じず次に八咫(やた)の烏(からす;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)が使者に飛んだ。
「アマテルカミ(神功(じんぐう)皇后を神格化)の子孫の神武天皇(かむやまといわれびこのみこと;仁徳天皇を祖先化)がお前をお呼びになっている。いざ参れ、いざ参れ」と言って、兄磯城がそれを聞いて、「忌み嫌う神が来たので、嫌(いや)な気持ちになったと思ったら、今度は敵の烏が参ったか」と言って弓を引くと、八咫の烏(やた)の烏(からす;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)が逃げ出して、弟磯城(おとしき)の家に行った。

奈良県宇陀郡大宇陀町守道の高倉山で行く手をはばんだ磯城兄弟に使者を派遣して参上するように命じたが、兄磯城がそれに応じず次に八咫(やた)の烏(からす;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)が使者になった。
「仁徳天皇がお前をお呼びだから、いざ参れ」と言うと、兄磯城がそれを聞いて、「忌み嫌う仁徳天皇が来たので嫌な気持ちになり、今度は敵の使者が参ったか」と言って弓を引くと、八咫(やた)の烏(からす;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)が逃げ出して弟磯城の家に行ったと考えられる。
兄磯城は大山守皇子の味方で、弟磯城が仁徳天皇の味方だと考えられて、八咫(やた)の烏(からす)が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)と考えられる。

そこで八咫(やた)の烏(からす;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)は弟磯城に、「神武天皇(仁徳天皇を祖先化)がお前をお呼びであるぞ。いざ参上、いざ参上」と言うと、弟磯城がそれをおびえて色を変えて、「神から疎んじられることを我は恐れる。よろしく伝えてくれ」と言って烏に御食(みけ)を葉に盛って勧(すす)めて、弟磯城が烏に従って御前に至り、「我が兄は君にそむきました」と言うと、神武天皇がその旨(むね)を諸臣と会議した。
皆は「弟磯城にさとさせて、もしそれによっても兄磯城が来ぬ場合は、討つのもよろしゅうございます」と考えを述べて、そこで神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が高倉下(たかくらした)と弟磯城を派遣して、教えさとしたが一向に聞き入れず、そこで兄磯城を討伐する命令が出された。
道臣(みちおみ;誰か不明)は忍坂(おしさか;奈良県桜井市忍坂)から攻め、珍彦(うづひこ)が女坂(奈良県宇陀市大宇陀区上宮奥付近か?)から攻めると、兄磯城が黒坂(墨坂;すみさか:奈良県宇陀市榛原区の西にある墨坂か?)に逃げ、それを両者がはさみ討ち兄磯城の軍勢をことごとく斬った。

そこで八咫(やた)の烏(からす;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)は、弟磯城に仁徳天皇の元に参上させて、弟磯城が「我が兄は君にそむきました」と言うと、仁徳天皇がそのことを諸臣と会議した。
高倉下は、中臣(なかとみ)氏の直系先祖の天種子(あまのたねこ)と親戚関係にある。
道臣は奈良県桜井市忍坂から攻めて、海部氏の誰かが女坂から攻めると、兄磯城が黒坂に逃げてそれを両者がはさみ討ち兄磯城の軍勢をことごとく斬った。
兄猾と弟猾は東征の終盤に現れた兄弟で、兄猾が仁徳天皇に従わず弟猾が従ったと考えられて、兄磯城と弟磯城が兄猾と弟猾と同じで、兄が仁徳天皇に反抗して弟が仁徳天皇に従順である図式である。

兄猾と弟猾と兄磯城と弟磯城の物語は、兄弟の運命が仁徳天皇の東征で崩れたと考えられる。

饒速日命と長髄彦
『日本書紀』神武(じんむ)東征5年12月4日(紀元前662年1月上旬頃)は間違いで、仁徳(にんとく)東征5年12月4日(西暦334年1月上旬頃)が正しくて、長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)の兵が現われた。
激しい戦いに神武天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の軍は、苦戦をしいられて、時にたちまち氷雨(ひさめ)が降り出して、金色の鵜(う)が飛び来て神武天皇の弓弭(ゆはず)に止まり、不思議な金色の鵜が照り輝いた。

『日本書紀』神武(じんむ)東征5年12月4日と氷雨が降り出した記述は、季節が冬と証明して、金鵜(きんう)がよく八咫烏(やたがらす)と同一視するが、別の鳥か同じか分からない。

長髄彦(大山守皇子を祖先化)は戦いを止めて神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に言って、「昔にアマテルカミ(天照神)の孫の初代ホノアカリが岩船に乗って天降って来られた。飛鳥(あすか)に宮を定め、その養子として饒速日命(にぎはやひのみこと)が世継ぎとなられた。饒速日命は我が妹の御炊屋(みかしや)を妃として、可美真手命(うましまちのみこと)を生んだ。我が君は饒速日命一人である。神はアマテルカミの十種(とくさ)の神宝(かんだから)を授かっている。この饒速日命をさし置いて、神の孫と偽って我らの国を奪おうとするのか。これいかに」と。

大山守皇子(おおやまもりのみこ)の話は矛盾して、アマテルカミ(神功(じんぐう)皇后を神格化)の子である初代ホノアカリ(品夜和気命(ほむやわけのみこと)を神格化)の先祖の2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が岩船で降臨して、その子の饒速日命(にぎはやひのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が出雲王国の世継ぎとなった。
饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、長髄彦(ながすねひこ;誰を神格化したか不明)の妹の御炊屋姫(みかしやひめ;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を神格化)と結婚して、宇摩志麻治命(うましまじのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を生んで、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の十種(とくさ)の神宝(かんだから)を授かった。
品夜和気命(ほむやわけのみこと)は、『古事記』に記される人名で、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功皇后の第一子で、仁徳天皇の伯父(おじ)に当たるが、実在した人物でなければ初代ホノアカリに神格化された人物がいないことになる。
饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の孫である長髄彦(ながすねひこ;誰を神格化したか不明)の妹の御炊屋姫(みかしやひめ;誰を神格化したか不明)と結婚して、『ホツマツタエ』の系図から求めた。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は、先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)と子孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の3人を神格化して、僕にしか求められない自論である。

時に神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が答えて、「お前、長髄彦(大山守皇子を祖先化)が真の統治者だというなら、璽(しるし)があるはずである。それを示せ」と長髄彦が靫(ゆき)より羽羽矢(ははや)を取り、天に向かってそれを示すと、羽羽矢に神璽(かんをして;ホツマ文字)が記されて、また神武天皇も歩靫(かちゆき)より羽羽矢を取り出すと、そこにも神璽が記されていて、それを家臣に命じて長髄彦に示させた。

天皇家の象徴である羽羽矢が2つ存在してホツマ文字が記されて、仁徳天皇と大山守皇子の双方が持っており、互いに正統な皇位継承者だと考えられる。古代天皇家でホツマ文字が使われて、『ホツマツタエ』の存在から神代(しんだい)文字が漢字以前の確実な古代文字で、伊勢神宮内宮の神宮文庫資料の神代文字などが本物と考えられる。
参考文献『日本超古代文明のすべて』(発行・株式会社日本文芸社)で世界中に神代文字があって、日本独自の古代文字でないことになる。

戦いは一向に進まず、守りを固めるばかりで、しかし先の戦いや今の様子などから、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が真の心を持ったお方だとさとった饒速日命(初代・武内宿禰を神格化)が、部下の長髄彦(大山守皇子を祖先化)が生まれつき、天と地の区別もつかない頑固な性格なのを仕方なく思い、その場で斬り捨てて軍勢をひきいて服従の意を示した。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)はもとより饒速日命(初代・武内宿禰を神格化)の忠義心を確かなものだと知っていたので、親しく君臣の契(ちぎ)りを交(か)わした。

仁徳天皇が即位することを望んだのが大臣の初代・武内宿禰で、初代・武内宿禰は孫で武将の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を仁徳天皇に味方させたと考えられる。
仁徳天皇が天皇にふさわしいお方だとさとった大臣の初代・武内宿禰は、大山守皇子が父の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を皇太子にしたのを恨(うら)んで、葛城襲津彦の謀略で大山守皇子を殺して、初代・武内宿禰が軍勢をひきいて服従の意を示した。
仁徳天皇は大臣の初代・武内宿禰の忠義心を確かなものだと知り、親(した)しく天皇と家臣の関係を築いた。

饒速日命と長髄彦は、仁徳天皇の東征で最も重要な物語で、仁徳天皇の異母兄弟の大山守皇子との皇位継承権争いと考えられて、『日本書紀』の仁徳天皇時代の記述を研究すれば求められる。

仁徳天皇の即位
神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月下旬頃)に神功皇后が亡くなり、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が政治を代行しながら、皇位継承権を持つ者が大和で即位するために待った。
東征して来ても皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、天皇として即位せず亡くなって、異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を皇位継承権争いで殺して、異母兄弟の5代目・仁徳(にんとく)天皇が即位して、仁徳(にんとく)東征(神武(じんむ)東征)した。

女系(母系)の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)を神格化)の孫の5代目・仁徳(にんとく)天皇は、その直系子孫で血筋が途絶(とだ)えた14代目・武烈(ぶれつ)天皇まで女系男子天皇が続いて、日本神話が完成した4世紀後半から5世紀中に女系男子天皇の考え方が生まれたと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇より後の皇室は、女系男子天皇がずっと続いて継承したと考えられて、女系女子天皇つまり愛子様とその子孫も女系天皇で認められる可能性を生み出した。

仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、5代目天皇に即位して、天皇陵を含む大和(おおやまと)古墳群と景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡を放棄して、放棄した4世紀前半の年代と合致して、『日本書紀』で3年間皇位が空白で、祖母の神功(じんぐう)皇后の死去の329年から5年後に即位して合致する。
仁徳(にんとく)天皇は、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が98才で補佐して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を武甕雷神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)と塩土老翁(しおつちのおじ)の3神に神格化して、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と神武(じんむ)東征に登場した。
仁徳(にんとく)天皇の東征は、異母兄弟の4人が皇位継承権争いして、神武(じんむ)東征や海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話に祖先化・神話化して、現代人(僕以外の人間)に絶対に求められないが、状況証拠を残しすぎて、逆に僕に特定させた。
考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)は、仁徳(にんとく)天皇の東征と即位を証明して、僕にしか求められない神技(かみわざ)だった。

誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の崩年干支(ほうねんかんし)は、甲午(きのえうま)年9月9日(西暦334年10月上旬頃)だが、祖母の神功(じんぐう)皇后が西暦329年に亡くなって、皇位の3年間が空白で、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に即位して、計算が正しいと考えられる。

初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれで、仁徳(にんとく)天皇元年1月4日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、息子の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が約70才で、孫の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が約40才で、曾孫の磐之姫命(いわのひめのみこと)が約20才で、磐之姫命(いわのひめのみこと)が仁徳(にんとく)天皇の皇后で、これが年齢的に自然である。

『古事記』またある時に仁徳(にんとく)天皇は、宴会を開こうとして、日売島(ひめしま;大阪市西淀川区姫島の地名があって、古代に牧草地の島があった)に行った時に島で雁(かり)が卵を産んで、そこで仁徳(にんとく)天皇が初代・建内宿禰(たけのうちのすくね)を呼んで、歌で雁(かり)が卵を産んだ様子を仁徳(にんとく)天皇が歌を詠(よ)んで尋(たず)ねた。

たまきはる 内(うち)の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世(よ)の長人(ながびと) そらみつ 大和(やまと)の国(くに)に 雁卵生(かりこむ)と聞(き)くや
(霊魂(命)尽(つ)きるまで初代・建内宿禰(たけのうちのすくね)よ、お前こそはこの世の長寿だ。大和の国(奈良県)で雁(かり)が卵を生むことを聞いたことがあるか?)

そこで初代・建内宿禰(たけのうちのすくね)は和歌で答えた。

高光(たかひか)る 日(ひ)の御子(みこ) うべしこそ 問(と)ひたまへ まこそに 問(と)ひたまへ 吾(あれ)こそは 世(よ)の長人(ながびと) そらみつ 大和(やまと)の国(くに)に 雁卵生(かりこむ)と いまだ聞(き)かず
(日の神(太陽神)の御子(みこ)よ、よくぞ尋(たず)ねられた。真(まこと)によくぞ尋(たず)ねられた。私こそは、この世の長寿だが、大和の国(奈良県)で雁(かり)が卵を生んだことをまだ聞いたことがない。)

初代・建内宿禰(たけのうちのすくね)は、こう申し上げて、琴をいただいて、それに合わせて歌って言う。

汝(な)が御子(みこ)や 終(つい)に知(し)らむと 雁(かり)は卵生(こむ)らし
(日(太陽神)の御子(みこ)のあなた様は、いつまでも末永(すえなが)く国を統治する印(しるし)として、雁(かり)が卵を生んだのでしょう。)

この歌は、寿歌(ほきうた;言寿(ことほぎ)の歌の意味)の片歌(かたうた;577の3句19音の歌)である。

『古事記』の和歌は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の長寿を歌って、歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)を指す物でない。

仁徳(にんとく)天皇の即位と関係する考古学(遺跡・遺物)は、歴史学(歴史書解釈)と合致して、絶対に否定できない。
垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳と景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳がある大和(おおやまと)古墳群は4世紀前半に放棄されたのが間違いなく、仁徳(にんとく)天皇の即位と時期的に重なる。
景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に間違いない纏向(まきむく)遺跡も大和古墳群と同じ4世紀前半に放棄されたのが間違いなく、仁徳(にんとく)天皇の即位と時期的に重なることを単なる偶然で片付けられるか?
この考古学的証拠から予測されることは、歴代天皇が亡くなって神功皇后が天皇の代行で国政執行したが、新しく即位した仁徳(にんとく)天皇が歴代天皇の皇居や皇族たちの陵墓の放棄をしたと考えられる。
世界最大の面積の墓は仁徳天皇陵の大仙(だいせん)古墳だが、大仙古墳が5世紀前半から中頃の築造と考えられて、4世紀前半頃に実在した仁徳(にんとく)天皇の墓でなく、「記紀」の記述を完全解釈できない現代人の誤解で、世界でただ一人僕だけが正しく求められる。

仁徳(にんとく)天皇の即位は、歴代天皇時代の皇居や陵墓などの考古学的証拠がこれからも出てくる可能性が高い。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
『日本超古代文明のすべて』
発行・株式会社日本文芸社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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