二皇子の反乱
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、彦人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ)を生んで、その娘の大中媛(おおなかひめ)が仲哀(ちゅうあい)天皇と結婚して、鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟を生んだ。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
仲哀(ちゅうあい)天皇の子供は、神功(じんぐう)皇后の生んだ誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)と皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)、大中媛(おおなかひめ)の生んだ鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の4人兄弟である。
2020年9月16日に僕は、『ホツマツタエ』に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の系図が記されず、『日本書紀』が仲哀(ちゅうあい)天皇の息子2人の内乱を記して、摂政(せっしょう)元年(西暦261年)の2皇子の皇位継承権争いを特定して、三種の神器が間違いなく2種類あったと確信した。
2皇子の皇位継承権争いの特定は、僕の注意が『ホツマツタエ』に集中して、『日本書紀』に十分な意識が向かず、決して怠(なま)けたわけでないが、僕の明らかな油断で、求めるまで時間がかかった。
最初の反乱は、2代目出雲国王の狭穂彦(さほひこ)天皇の反乱で、2度目の反乱が日本武(やまとたけ)天皇の反乱で、3度目の反乱が鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟の反乱で、この反乱が『三国志・魏志倭人伝』に記されず、ここまでが邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の戦争で、4度目の反乱が大山守皇子(おおやまもりのみこと)の反乱で、4つとも皇位継承権争いである。
皇位継承物の三種の神器は、邪馬台国(やまとこく;大和国)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇の2種類に分かれて、出雲王国の崩壊で三種の神器が戻って来て、すでに成人した鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟が神功(じんぐう)皇后から三種の神器を強奪するために皇位継承権争いを起こした。
『日本書紀』で出雲王国(物部(もののべ)氏)を討伐した翌年2月(西暦261年3月頃)に神功(じんぐう)皇后は、群卿百寮を率(ひき)いて、出雲から京都府宮津市由良(ゆら)に移(うつ)って、仲哀(ちゅうあい)天皇の遺骸を納(おさ)めて海路を渡った。
その時に鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は、父の仲哀(ちゅうあい)天皇が亡くなって、神功(じんぐう)皇后が出雲王国を討伐して、異母弟の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が生まれたと聞いて、密(ひそ)かに謀反(むほん)を企(くわだ)てた。
鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟は、神功(じんぐう)皇后に息子の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)と誉田別尊(ほむだわけのみこと)がいて、群臣が皆で従って、きっと協議して異母弟の幼(おさな)い王を立てて、成人した自分たちがなぜ幼少の弟に従わねばならないと反発して、神功(じんぐう)皇后が出雲王国から取り戻したものと加えて、2種類の三種の神器を強奪する計画を立てた。
そこで偽(いつわ)って父の仲哀(ちゅうあい)天皇の陵(みささぎ;墓)を作る真似(まね)をして、播磨(はりま;兵庫県南西部)に行って山陵を明石(あかし)に立てることにして、船団を作って淡路島に渡して、その島の石を運んだ。
人毎(ひとごと)に武器を取らせて神功(じんぐう)皇后を待って、犬上(いぬがみ)氏の先祖の倉見別(くらみわけ)と吉師(きし)氏の先祖の五十狭茅宿禰(いそさちのすくね)は、共に鹿坂王(かごさかのみこ)に味方して、そこで将軍として東国の兵を起こさせた。
鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は、共に菟餓野(とがの;兎我野:大阪市北区の町)に出て、神意をうかがう占(うらな)いをして、「もしこのことが成功するなら、きっと良い獲物(えもの)が捕(と)れるだろう」と言って、二人の皇子が仮(かり)の桟敷(さじき;見物(けんぶつ)などのために道路や川に面して作る仮設の席)におられた。
すると赤い猪(いのしし)が急に飛び出して来て、桟敷(さじき)に上って鹿坂王(かごさかのみこ)を喰(く)い殺して、兵士たちが皆おじけづいた。
忍熊王(おしくまのみこ)は、倉見別(くらみわけ)に語って、「これは大変なことで、ここでは敵を待てない」と、軍を率いて退却して、住吉(すみよし;大阪市住吉区)にたむろした。
新羅(しらぎ)を討伐した神功(じんぐう)皇后は、山口県の豊浦宮(とようらのみや;「とゆらのみや」とも言う)に移って、鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が謀反(むほん)を企(くわだ)てたと記すが、出雲王国を討伐して京都府宮津市由良(ゆら)に移ったのが正しいと考えられる。
鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟が作ろうとした父の仲哀(ちゅうあい)天皇陵は、兵庫県明石(あかし)市に築造しようとしたが、本当の仲哀(ちゅうあい)天皇陵が大和(おおやまと)古墳群にあると考えられる。
鹿坂王(かごさかのみこ)を喰い殺した赤い猪は、神功(じんぐう)皇后の放った先兵(せんぺい)だったと考えられる。
神功(じんぐう)皇后は、忍熊王(おしくまのみこ)が軍を率いて待ちかまえていると聞いて、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じて、皇子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を抱いて、迂回(うかい)して南海へ出て、紀伊水門(きのみなと;和歌山市)に泊(と)まらせた。
神功(じんぐう)皇后の船は、まっすぐに難波(なにわ;大阪市)へ向かったが、船が海中でぐるぐる回って進まず、そこで武庫(むこ;兵庫県武庫郡)の港に帰って占った。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が教えて、「我が荒魂(あらみたま)を神功(じんぐう)皇后の近くに置くのが良くない。広田国(ひろたのくに;大阪市の廣田(ひろた)神社)に置くが良い」と言って、山背根子(やましろねこ)の娘の葉山媛(はやまひめ)に祭らせた。
また和歌昼女(わかひるめ;天照大神(あまてらすおおみかみ)の妹)が教えて、「自分は活田長狭国(いくたのながおのくに;神戸市の生田(いくた)神社)に居(い)たい」と言って、そこで海上五十狭茅(うなかみのいそさち)に祭らせた。
また事代主神(ことしろぬしのかみ)が教えて、「自分を長田国(ながたのくに;東大阪市の長田(ながた)神社)に祀(まつ)るように」と言って、葉山媛(はやまひめ)の妹の長媛(ながひめ)に祭らせた。
表筒男(うわづつのお)・中筒男(なかづつのお)・底筒男(そこづつのお)の3神が教えて、「我が和魂(にぎみたま)を大津の停名倉(ぬなくら)の長狭(ながお;神戸市の住吉(すみよし)神社)に居(お)さめるべきである。そうすれば往来する船を見守ることができる」と言って、そこで神の教えのまま鎮座して、それで平穏(へいおん)に海を渡ることができた。
女神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)とすべき所を『日本書紀』の通りに記して、和歌昼女(わかひるめ)がアマテルカミの姉妹神で、兵庫県南部と大阪府と和歌山県にかけて、神功(じんぐう)皇后と息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が動き回ったと記す。
4つの神社の記述は、摂政(せっしょう)元年(西暦261年)まで神社の歴史をさかのぼると考えられる。
忍熊王(おしくまのみこ)は、軍を率いて退(しりぞ)いて、宇治(うじ;京都府宇治市)に陣を取って、神功(じんぐう)皇后が紀伊国(きいのくに;和歌山県と三重県南部)においでになって、息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)と日高(ひだか;和歌山県日高郡)でお会いになった。
この時ちょうど夜のような暗さとなって何日も経(た)って、時の人は「常夜行(とこやみい)く」と言ったそうで、神功(じんぐう)皇后が紀(き)氏の先祖の豊耳(とよみみ)に問(と)われて、「この変事(かわりごと)は何のせいだろう」と。
一人の翁(おきな)は、「聞く所では、このような変事を阿豆那比(あずなひ)の罪(つみ)と言うそうです」と言って、「どういうわけか」と問われると答えて、「2つの社(やしろ)の祝者(はふり;神に仕(つか)える人のことで、禰宜(ねぎ)の次の位(くらい)に当たる)を一緒に葬(ほうむ)っているからでしょうか?」と言う。
そこで村人に問うと、ある人が言うのに、「小竹(しの)の祝(はふり)と天野(あまの)の祝(はふり)は、仲の良い友人だった。小竹の祝(はふり)が病(やまい)になり死ぬと、天野の祝(はふり)が激(はげ)しく泣いて、『私は彼が生きている時、仲の良い友達だった。どうして死後、穴を同じくすることが避(さ)けられようか』と言って、屍(しかばね)のそばに自(みずか)ら伏(ふ)して死んだ。そこで合葬したが、思うにこれだろうか?」と。
墓(はか)を開いてみると本当で、棺(ひつぎ)を改めてそれで別々の所へ埋めて、すると日の光が輝(かがや)いて、昼と夜の区別ができた。
2月の一ヶ月の間にずいぶんと動き回ったが、実際にこれだけの地域を動き回れたと考えられない。
和歌山県の2人の祝(はふり)が合葬したのは、2人が仲の良い友人だったのでなく、同性愛者だったのかもしれないが、おそらく作り話だろう。
3月5日(西暦261年4月上旬頃)に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と和珥(わに)氏の先祖の武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の兵を率いて忍熊王(おしくまのみこ)を討(う)つため、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)たちが精兵を選んで、山城(京都府南部)方面に進出して、宇治に至(いた)って川の北にたむろした。
忍熊王(おしくまのみこ)は、陣営を出て戦おうとして、その時に熊之凝(くまのこり)と言う者がいて、忍熊王(おしくまのみこ)の軍の先鋒(せんぽう)となって、味方の兵を激励(げきれい)しようと、声高(こえたか)らかに歌を詠(よ)んだ。
彼方(をちかた)を 荒松原(あららまつばら) 松原(まつばら)に 渡(わた)り行(ゆ)きて 槻弓(つくゆみ)に 鳴(な)りやを令(た)ぐ副(へ) 貴人(うまひと)は 貴人共(うまひとどち)や 従兄弟(いとこ)はも 従兄弟共(いとこどち) 率(い)ざ遇(あ)わな 我(われ)は たまきはる(枕詞;まくらことば) 内朝臣(うちのあそ)が 腹内(はらぬち)は 砂有(いさごあ)れや いざ遇(あ)わな 我(われ)は
(彼方(かなた)の疎林(そりん)の松原に進んで行って、槻弓に鏑矢(かぶらや)をつがえて、貴人は貴人同士、親友は親友同士、さあ戦おう、我々は。武内朝臣(たけのうちのあそみ;初代・武内宿禰;たけのうちのすくね)の腹の中には、小石が詰(つ)まってるはずがない。さあ戦おう、我々は。)
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、3軍に命令して、全部の髪を結(ゆ)い上げさせて、そして号令して、「それぞれ控(ひか)えの弓弦(ゆみづる)を髪に隠して、また木刀を帯(お)びよ」と言った。
神功(じんぐう)皇后の命令を告(つ)げて、忍熊王(おしくまのみこ)をあざむいて言って、「私は天下を貪(むさぼ)らず、ただ若き王(みこ;息子)を抱いて、君(夫の仲哀(ちゅうあい)天皇)に従うだけです。どうして戦うことがありましょうか。どうか共に弦(つる)を絶(た)って武器を捨(す)て、和睦(わぼく)しましょう。君主は皇位について、安(やす)らかに万(よろず)の政(まつりごと)をなされば良いのです」と言った。
そして軍中に命令して、全ての弓の弦を切って、刀を解(と)いて河に投げ入れて、忍熊王(おしくまのみこ)は、その偽りの言葉を信じて、全軍に命令して武器を解いて、河に投げ入れて弦を切らせた。
すると初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、3軍に命令して、控えの弦を取り出して張(は)って、真刀(しんとう)を佩(は)かせて、河を渡って進んで、忍熊王(おしくまのみこ)があざむかれたと知って、倉見別(くらみわけ)と五十狭茅宿禰(いそさちのすくね)に言って、「自分はだまされた。今控えの武器がない。戦うこともできない」と兵を率いて逃げた。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、精兵を出して居って、近江(おうみ;滋賀県)の逢坂(おうさか;大津市の逢坂山)で追いついて破って、それでそこを名付けて逢坂(おうさか)と言う。
なお逃げた兵は、狭々浪(ささなみ;滋賀県滋賀郡)の栗林(くるす;滋賀県犬上郡多賀町栗栖)に至って多く斬(き)って、血が流れて栗林(くるす)にあふれて、このことを嫌(いや)がって今に至るまで、栗林(滋賀県犬上郡多賀町栗栖)の菓(このみ)を御所(皇居)に奉(たてまつ)らない。
忍熊王(おしくまのみこ)は、逃げて隠れる所もなく、五十狭茅宿禰(いそさちのすくね)を呼んで歌を詠んだ。
率(い)ざ吾君(あぎ) 五十狭茅宿禰(いそさちのすくね) たまきはる(枕詞) 内朝臣(うちのあそ)が 頭槌(くぶつち)の 痛手不負(いたでおはず)ば 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづ)きせ爲(な)
(さあ我が君、五十狭茅宿禰(いそさちのすくね)よ。初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の手痛(ていた)い攻撃を身(み)に受けずに、鳰鳥(におどり)のように水に潜(もぐ)って死のう)
共に瀬田(せた;大津市瀬田)の渡りに沈(しず)んで死んで、その時に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は歌って言った。
近江海(あふみのみ) 瀬田(せた)の渡(わた)りに 潜(かづ)く鳥(とり) 目(め)にし不見(みえね)ば 憤(いきどほ)ろしも
(近江の海の瀬田の渡りで、水に潜る鳥が見当(みあ)たらなくなったので、不安だなあ)
ところで、その屍(しかばね)を探(さが)したけれども見つからず、何日か経(た)ってから、宇治河(うじがわ)で見つかって、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)がまた歌を詠んで言った。
近江海(あふみのみ) 瀬田(せた)の渡(わた)りに 潜(かづ)く鳥(とり) 田(た)な上過(かみす)ぎて 宇治(うぢ)に捕(と)らへつ
(近江の海の瀬田の渡りで、水に潜った鳥は田上を過ぎて、下流の宇治で捕らえられた)
和珥(わに)氏の先祖の武振熊(たけふるくま)は、海部(あまべ)氏の先祖の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)に当たって、西暦350年代くらいの人物と考えられて、建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)の先祖の大倉岐命(おおくらきのみこと)辺りが代わりの人物で、和珥(わに)氏と海部(あまべ)氏が同一氏族と考えられる。
滋賀県犬上郡多賀町栗栖(くるす)の菓子(かし)は、流血で嫌悪して皇居に献上しなかったと考えられる。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の軍勢(ぐんぜい)は、忍熊王(おしくまのみこ)を罠(わな)にかけて見事に殺して、忍熊王(おしくまのみこ)が滋賀県から流されて、京都府宇治市で水死体が見つかったと考えられる。
二皇子の反乱は、『三国志・魏志倭人伝』に記さない皇位継承権争いで、僕以外に求められない。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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