大国主神(おおくにぬしのかみ)の系図


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

大国主神の系図は出雲王国から現在の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏へと続いているものに僕の私見を加えたものである。
千家氏が天照大神(あまてらすおおみかみ)の息子の天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を先祖とする天皇家の親戚関係とされることが明らかな疑問だった。
天照大神として神格化されるのが倭姫命(やまとひめのみこと)だが子供がいないため系図がつながらず、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)として神格化される景行天皇と入れ替わり、その息子で皇太子の日本武尊を神格化した素戔嗚尊が別に天穂日命としても神格化されたと考えられる。
天穂日命の息子で現在の千家氏系図につながるのは、武日照命(たけひてるのみこと)でまたの名を武夷鳥命(たけひなとりのみこと)とされる。
しかし『ホツマツタエ』にホヒの子オオセイイミクマノと記されていて、子孫の千家氏系図に続くことから大背飯三熊之大人(おおそびみくまののうし)が大背飯三熊野(おおせいいみくまの;飯入根(いいいりね)を神格化)と書くべきで、熊野樟日命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころにみこと)を神格化)と大背飯三熊野が親戚関係で、熊野の漢字が共通する。
は「木へん」に豫の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
『ホツマツタエ』によると2代目ホノアカリの次男タケテルが別名をタケヒテルで、彦坐王(ひこいますのみこ)と子供の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化したと考えられて、これが海部(あまべ)氏の祖先神である。
『日本書紀』は天照大神の息子の天穂日命さらにその息子の武日照命へと系図がつながると記すのが間違いで、現在の千家氏系図でホヒの子オオセイイミクマノと混同してしまったと考えられる。
これは古代太陽神(彦坐王を神格化)から海部氏と出雲王家の物部(もののべ)氏が出ていることに端を発して、親戚関係の海部氏と物部氏が『日本書紀』崇神(すじん)天皇60年の出雲王国崩壊の記述で混乱したからだと考えられる。

大国主神(飯入根を神格化)の正妻である須勢理比売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)の子が事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)である。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
『古事記』に記される大国主神の妻で事代主神の母親とされる神屋楯比売(かむやたてひめ)は、須勢理比売として神格化された布忍姫と同一人物である。
日本武尊が皇太子で孫が濡渟と考えられて、出雲王国崩壊の時に濡渟が大人で、古代天皇家の血筋にあって殺されず、出雲国造(いずもくにみやつこ)に任命されたのだと考えられる。

『ホツマツタエ』によればスサノヲとクシイナダヒメの息子の初代オオモノヌシが別名をオオナムチで、その息子の2代目オオモノヌシが別名をオオクニヌシやコトシロヌシなどと呼ばれて、その子孫が7代目までオオモノヌシを受け継いだとされるが、系図や婚姻関係などが具体的すぎて疑問点である。
その疑問点の解決法は『ホツマツタエ』の系図を細かく分析することで、初代オオモノヌシとオオナムチが完全な別神でないかと疑うことで、僕の見解だと先祖と子孫を神格化して同一視したと考えている。

丹波道主王のタケヒテルと狭穂彦王(さほひこのみこ)の2代目オオモノヌシは異母兄弟で、海部氏と物部氏が近縁氏族として関係が深いことも同じ古代太陽神氏族として説明できる。
タケヒテルは海部氏の祖先神だが、近縁氏族の物部氏の神様とされたのが偶然でないと考えられる。
タケヒテルと武日照命の一致は必然で、出雲王国が崇神天皇時代から仲哀(ちゅうあい)天皇時代まで容認された理由が、出雲王族が皇族だったとすると納得できて、古代太陽神氏族の物部氏を簡単に滅ぼせず、また皇太子の日本武尊が亡命して婚姻関係を結んだことも説明が付く。
オオナムチとして神格化されたのが飯入根で、その息子のコトシロヌシとして神格化されたのが濡渟に当たり、初代オオモノヌシと2代目オオモノヌシとして神格化されていないと考えられて、これが初代オオモノヌシと2代目オオモノヌシをオオナムチとコトシロヌシと別神とする理由である。

大国主神は縁結びの神様とされるのが多くの女神と結婚して子供が多くいたからだが、千家氏に伝わる系図に飯入根の子が濡渟しか記されておらず、天皇家の血筋にある一人だけを故意に記したということである。
簡単に言えば7代目出雲国王の飯入根の子供が多くいたけれど、天皇家の直系以外に記す気がなかったのである。
『三国志・魏志倭人伝』に「其俗、国大人皆四五婦、下戸或二三婦」と記されて、その風習で国の大人は皆4人か5人の婦人がいて、下戸も2人か3人の婦人がいると解釈できる。
『三国志・魏志倭人伝』に記されたのが帯方郡からの使者が滞在した伊都国(いとこく)…北九州のことを指す記述で、邪馬台国統治下の農民たちが一夫多妻制だったと考えるべきで、明治天皇までの皇室も一夫多妻制だったが、出雲王国も一夫多妻制だったと考えるべきだろう。
大国主神が一夫多妻制だったのは、初代オオモノヌシから7代目オオモノヌシまでが大国主神と同一神とする考え方にあって、初代オオモノヌシから7代目オオモノヌシまでの妻も大国主神(飯入根を神格化)の妻にまとめた可能性があり、『ホツマツタエ』を完全解釈しない限り分からないだろう。

『ホツマツタエ』によると崇神天皇60年7月14日に崇神天皇がタケヒテルの神宝が出雲にあるのを見たいと言われて、兄フリネが弟イイリネを殺したと記してあるが、正しくは西暦260年神無月だと考えられる。
『日本書紀』の崇神天皇60年7月14日の記述によると、天皇が出雲大神宮に納めてある武日照命の神宝を見たいと言われて、飯入根が息子の濡渟と弟の甘美韓日狭に天皇の所に神宝を持たせて行った。
それを知った出雲振根が弟の飯入根を殺したが、濡渟と甘美韓日狭がその様子を天皇に報告して、吉備彦(きびひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)に命じて出雲振根を殺した。
出雲振根の正体は飯入根の義理の父である日本武尊で、日本武尊が反乱を起こして日本武(やまとたけ)天皇として強行即位してから、出雲王国に亡命して飯入根にかくまわれていたことが状況的にうまく説明できる。

仲哀天皇9年(西暦260年)神無月に神功皇后が出雲王国に対して宣戦布告して侵攻して、出雲国王の飯入根が全面降伏して三種の神器などの宝物を息子の濡渟らに持たせて神功皇后の元に投降させて、そのことに怒った日本武尊が飯入根を殺して、神功皇后が吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別に命じて日本武尊を殺させたことで出雲王国が崩壊した。
7代目出雲国王の飯入根が死んだが、息子の濡渟が出雲を統治する出雲国造に任命されて、その子孫が出雲大社宮司家の千家氏として現在まで受け継がれたと考えられる。
大国主神は千家氏の直系先祖の飯入根に当たり、息子の事代主神が天皇家の血筋にある濡渟だと考えられて、その意味が非常に大きく重要である。

出雲王国は物部王国と言い換えられて、『ホツマツタエ』や「記紀」で存在を消されたように見えるが、多少なりとも求められる証拠を残して、それを解明したのがアインシュタイン博士以上の天才の僕だった。
出雲王国は狭穂彦王の反乱と日本武尊の反乱で、2度の皇位継承権争いの内乱を起こした責任から王国が崩壊して、出雲王家の血筋が物部氏宗家の物部守屋(もののべのもりや)の系譜に続いて、また出雲大社宮司家の千家氏へも続いた。
古代天皇家と親戚関係の物部氏は、その存在を隠すために多くの偽装工作がほどこされたが、分かる人間からすればバレバレであって、いつの日かひもとかれることを願って作られていた。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『古代出雲』
門脇禎二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲大社と千家氏の秘密』
中見利夫・著者 株式会社宝島社・発行
『新訂魏志倭人伝他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・著者 株式会社岩波書店・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行

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