大物主神(おおものぬしのかみ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

大物主神は奈良県桜井市の三輪山(みわやま)の祭神で、歴代の出雲国王を神格化していて、蛇体の男性の古代太陽神である。
歴代の大物主神の系図は2012年1月に僕が求めて、アインシュタイン博士以上の天才の僕以外に求められないことを証明した。
下記に歴代の大物主神の系図を示す。

『日本書紀』だと大物主神が一人を神格化しているように考えられるが、『ホツマツタエ』では初代オオモノヌシから7代目オオモノヌシまで登場するので誰を神格化しているのか求めたいと思う。
『ホツマツタエ』によるとオオモノヌシは右の臣(つるぎとみ;右大臣)としての役職で、モノベ(物部;もののべ)と言う第一線で国民を指導する立場で今の警察権を持つ者たちを統治する仕事をして、古代豪族の武家である物部氏が代々受け継いだと考えられる。
ヤマトトトヒモモソヒメと結婚した蛇神の大物主神は、何代目オオモノヌシと記されていないことから初代から7代目まで差す可能性が高く、蛇体が滝祭神(たきまつりのかみ)と滝祭神を怪物視した八岐大蛇(やまたのおろち)と同じ蛇の姿をした古代太陽神と考えられる。
蛇神の大物主神が古代太陽神と考えられる理由は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神体が蛇とか天照大神を男性と伝える文献にあって、日本だと蛇が竜とされるから竜神が太陽神に当たる。
ファイナルファンタジーやドラゴンクエストなどのゲームなどでよく竜神が出てくるが、竜神が太陽神に当たるのは必然だったとしか考えられない。

初代オオモノヌシは彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化していて、別名オオナムチが子孫の飯入根(いいいりね)を神格化している。
初代オオモノヌシは古代太陽神として神格化されている彦坐王で、天皇家誕生の大和平定から丹波王国平定まで武力行使したと考えられて、国民が飢餓しないように食料を備蓄して国を豊かにしていた。
オオナムチは出雲国王の飯入根(いいいりね)で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)をかばって謀反(むほん)の恐れがあって、古代大和朝廷の使者を殺したことからその立場を追われた。
その後で初代オオモノヌシは出雲を去って、新天地の津軽(つがる;現在の青森県)に行ったとされるが、正しく求めると彦坐王が丹波(たには;古代の京都府北中部)を去って新天地の出雲に行ったと考えられるが、飯入根の子孫が出雲を去って新天地に行った可能性もある。

2代目オオモノヌシは狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化していて、別名コトシロヌシが飯入根の子のウカツクヌを神格化している。
2代目オオモノヌシは古代太陽神として神格化されている狭穂彦王で、古代の男性の太陽神アマテルカミ(天照神)から「ヒノワワケミ(太陽をタネとしてミタマをいただいたアマテルカミと同じ生まれ合い)」とまで称賛されて、死んだ後も世を守ろうと三輪山に葬られた。
大物主神は崇神(すじん)天皇時代に祟(たた)りをもたらしたとされるが、正しく求めると垂仁(すいにん)天皇時代に皇位継承権の反乱を起こした狭穂彦王を神格化したとしか考えられなくて、2代目オオモノヌシが死んだ後に三輪山に葬られたのが何よりの根拠である。
狭穂彦王は2代目オオモノヌシとして右の臣(右大臣)の地位にあるから反乱を起こした時に協力者が多く、この内乱で国民の半分が死んで1年以上続いた理由だと考えられる。
2代目オオモノヌシはアマテルカミと同じ生まれ合いとまで称賛されていて、それが大物主神を古代太陽神と考えられる根拠であり、また狭穂彦王を神格化して三輪山に仮葬した理由だと考えられる。
初代オオモノヌシの彦坐王と2代目オオモノヌシの狭穂彦王は、古代豪族の武家である物部氏の直系先祖として古代大和朝廷の軍事部門の基礎を築いて、その役割が大きく古代天皇家の守護神の大物主神としての存在が大きいと考えられる。

コトシロヌシは出雲の統治者として神格化されているウカツクヌで、父オオナムチの名代(みょうだい)にとコトシロヌシの職名を与えられて、オオナムチに謀反の嫌疑がある時に父を諌(いさ)めたが聞き入れられず、公職から身を引いて美保(みほ;島根県松江市美保関町)に隠棲(いんせい)したとあるが、飯入根が子のウカツクヌを戦争に巻き込まないように美保に避難させたのでないかと考えられる。
コトシロヌシのウカツクヌは、初代ホノアカリ(品夜和気命(ほむやわけのみこと)を神格化)に仕えて諌(いさ)めたが聞き入れられず、後にその弟ニニキネ(誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)にも仕えて成功に導いて、ニニキネがミクサタカラ(三種の神器)を受け継いだとされるが、ウカツクヌが出雲の統治者だった時に大和の品夜和気命に仕え、後に日向(ひうが;宮崎県)の誉田別尊に仕えたと考えられる。
後にコトシロヌシは、三種の神器サカホコを持って三輪山の山中の洞に入って亡くなったとあるが、ウカツクヌが誉田別尊のいた宮崎市で亡くなったのでないかと考えられる。

3代目オオモノヌシはウカツクヌの子の野見宿禰(のみのすくね)を神格化していて、正しく求めると野見宿禰が狭穂彦王の子となり、神様の可美真手命(うましまじのみこと)と同一人物の可能性が高いと考えられる。
『ホツマツタエ』によると出雲王室のイイリネの子であるウカツクヌの子のノミノスクネと系図が続くけれど、野見宿禰は出雲王族の出身で垂仁天皇7年(西暦158年)に登場して狭穂彦王の子と考えるべきである。
『ホツマツタエ』でウカツクヌの子のノミノスクネとする系図は偽装工作として巧妙に細工したものだと考えられる。
『ホツマツタエ』で2代目ホノアカリ(彦坐王を神格化)の子のニギハヤヒ(狭穂彦王を神格化)は、初代ホノアカリの養子のタクラマロ(狭穂彦王を神格化)につながって、タクラマロの子がモノベウマシマチで可美真手命と同一人物と考えられる。
3代目オオモノヌシで狭穂彦王の子の野見宿禰は、ニニキネ(誉田別尊を神格化)に仕えたとするがイサナキ(垂仁天皇を神格化)の間違いで、医学に明るくて色々な薬草を使っていて、一人で諸国を巡って灌漑(かんがい)事業をして尽力して、物部十市根(もののべのといちね)など子供が多くいた。
7代目オオモノヌシは架空の2代目である綏靖(すいぜい)天皇から大三輪(おおみわ)氏の名字(みょうじ)をもらったとされるが、正しく求めると狭穂彦王を神格化した怨霊(おんりょう)の2代目オオモノヌシを祭った3代目オオモノヌシの野見宿禰を差して、実質の2代目の垂仁天皇から大三輪氏の名字をもらったオオタタネコと同一人物と考えられる。

4代目オオモノヌシは野見宿禰の子の物部十市根(もののべのといちね)を神格化していて、『ホツマツタエ』によるとモノベウマシマチの子のモノベトチネと同一人物と考えられて、モノベトチネと子孫のトイチネが別人でなく同一人物となり、『ホツマツタエ』の物部氏系図の偽装工作だと考えられる。
4代目オオモノヌシの物部十市根は、垂仁天皇87年が正しく求めると垂仁天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に垂仁天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)と結婚していて、九州の勅使(ちょくし)となっていてこの頃に熊襲(くまそ)王国の存在を報告して、それが『後漢書』に記された拘奴国(くぬこく)かもしれないが、おそらく間違いだと考えられる。

5代目オオモノヌシは物部十市根の子の物部夏花(もののべのなつはな)を神格化していて、『ホツマツタエ』によるとモノベトチネの子のモノベナツハナと同一人物と考えられる。
5代目オオモノヌシの物部夏花は、景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)の九州の平定で名前が出てきて、子供ができなくて先祖の初代オオモノヌシの霊から指導されて、叔父(おじ)のヤエコトシロヌシの息子(従兄弟)6代目オオモノヌシに後を継がせて、赴任先の九州で亡くなった。
5代目オオモノヌシ(物部夏花を神格化)は、子供がいるが出雲国王にふさわしい武勇に秀(ひい)でた息子がいなくて、叔母(おば)のヤエコトシロヌシ(弟橘姫を神格化)の息子である彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を6代目オオモノヌシ(6代目出雲国王)にした。
3代目オオモノヌシから5代目オオモノヌシまでは、『ホツマツタエ』でモノベウマシマチの子のモノベトチネとその子のモノベナツハナとモノベ(物部氏)の名字を冠しているが、6代目オオモノヌシからモノベの名字を冠していないのが物部夏花の従兄弟を神格化しているからだと考えられる。

6代目オオモノヌシは物部夏花の従兄弟の彦湯支命を神格化して、『ホツマツタエ』でモノベナツハナの子のヒコユキとされるが、現代の物部氏系図だと可美真手命の子が彦湯支命とされて、系図伝承の過程で完全な混乱があったと考えられる。
『ホツマツタエ』の序文に2代目の大田田根子(おおたたねこ)の系図が記されて、オオナムチとコトシロヌシとクシミカタマの子孫とされて、初代オオモノヌシと2代目オオモノヌシと6代目オオモノヌシを差す。
つまり初代オオモノヌシの彦坐王の子である2代目オオモノヌシが狭穂彦王で、子孫のヤエコトシロヌシが景行天皇を差すことがあり得ず、その妃の弟橘姫(おとたちばなひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)に祖先化)で、6代目オオモノヌシがその子の彦太忍信命と考えられる。
弟橘姫は田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と花橘(はなたちばな)を両親で、田道間守が娘の弟橘姫が生まれる前に亡くなって、花橘を穂積(ほづみ)氏の押山(おしやま)に嫁(とつ)がせて、弟橘姫の義父が物部氏と同一氏族の穂積氏と考えられて、物部氏の女性の中に養子が存在すると考えられる。
伊香色謎命は物部氏の女性だが養子と考えられて、息子の彦太忍信命が出雲王国の婿(むこ)入り養子で、物部氏の女性(誰か不明)と結婚して息子の飯入根が生まれたと考えられるが、妻の名前を記さなかった理由がワザと出雲王国の系譜を求めさせないためである。
6代目オオモノヌシの彦太忍信命は、九州の勅命(ちょくめい)執政官に任命されて、その後に養母の頼みで九州の勅命執政官を辞任して養母の元で暮らして、後にタガ(滋賀県犬上郡多賀町)の統治者の補佐に就(つ)いて、彦太忍信命の赴任先を神話化したと考えられる。

7代目オオモノヌシは彦太忍信命の子の出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)を神格化していて、『ホツマツタエ』によるとヒコユキの子のイヅモシコと同一人物で、出雲国王の飯入根に当たると考えられる。
7代目オオモノヌシが屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)の可能性もあるが、出雲王国の崩壊時に息子の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と戦って、おそらく違うと考えたいが、現実が残酷かもしれない。
イヅモシコのイヅモとは出雲のことで、物部氏と出雲王国が無関係でないと考えられる。
飯入根を神格化した大国主神は、葦原醜男(あしはらしこお)の別名があって出雲醜大臣命を連想させて、大国主神と7代目オオモノヌシが同一神だと考えられる。
『ホツマツタエ』によるとイヅモシコの子のイヅシココロと記されていて、現代の物部氏系図の出雲醜大臣命と兄弟の出石心大臣命が完全な間違いで、飯入根の子の出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)が出石の県主になったと考えられる。
7代目オオモノヌシの飯入根は、大国主神として出雲国王の地位を守って、7代目オオモノヌシとして古代太陽神にも神格化されているが、大国主神に全く太陽神の要素がなく古代太陽神としての影がうすいと考えられる。

大物主神は大国主神と同一神なのが間違いないが、初代オオモノヌシから7代目オオモノヌシまで物部氏の人間を神格化していて、系図が難しくてまだまだ研究のしがいがある。
参考文献『ホツマ辞典』に書かれている歴代オオモノヌシをできる限り解釈して、これもひとえに僕のアインシュタイン博士以上の超頭脳のなせる技である。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
インターネット

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