大物主神(おおものぬしのかみ)
大物主神(おおものぬしのかみ)は、大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)の神で、物部(もののべ)氏を束(たば)ねる氏長(うじおさ)の歴代出雲国王を神格化して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の頂点に立つ存在である。
大国主神(おおくにぬしのかみ)と大物主神(おおものぬしのかみ)は、大きな国や物部(もののべ)氏の主(あるじ)を意味して、歴代の出雲国王を神格化して、出雲王国(物部(もののべ)氏)が古代日本史で、非常に大きな意味を持つ。
蛇体の大物主神(おおものぬしのかみ)は、出雲大社の御神体が蛇とする伝承、出雲大社が海蛇の龍蛇神(りゅうじゃしん)を祭って、出雲神話の八岐大蛇(やまたのおろち)が伊勢神宮の横の五十鈴川(いすずがわ)を神格化した滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視して、天照大神(あまてらすおおみかみ)が蛇神と伝えて、蛇神の古代太陽神が共通する。
蛇体の太陽神は、日本の2大神社の伊勢神宮と出雲大社で共通して、古来の日本が蛇神を竜神として、太陽神と竜神が同一神で、日本人になじみ深い存在で、竜神が水神や海神とされて、彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする和珥(わに)氏(物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏など)を水神や海神に神格化して、和珥(わに)氏が古代太陽神氏族なのも説明できる。
彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫全部を僕は、古代太陽神氏
族の和珥(わに)氏と定義付けて、古代太陽神氏族が水軍と深く関係する氏族もいて、竜神や蛇神も水神や海神として祭って、天照大神(あまてらすおおみかみ)と水との深い関係も証明した。
『ホツマツタエ』のオオモノヌシは、剣臣(つるぎとみ;右大臣)の役職で、鏡臣(かがみとみ;左大臣)より右大臣が下で、西暦251年に7代目オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)の剣臣(つるぎとみ)を解任して、オシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の鏡臣(かがみとみ;左大臣)がフツヌシ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と剣臣(つるぎとみ;右大臣)がタケミカツチ(初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が任命された。
鏡臣(かがみとみ)のフツヌシ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、羽(はね)の臣(おみ;左大臣)のフトタマ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と同一神で、左大臣のフツヌシより右大臣のタケミカツチ(初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が下位だが、母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)の時代にタケミカツチが頂点の役職の左大臣になったと考えられて、『ホツマツタエ』に太政大臣(だじょうだいじん)がない。
『ホツマツタエ』で天神(あまかみ;天皇)に仕(つか)える役職は、おそらく左大臣と右大臣が頂点で、左大臣の鏡臣(かがみとみ)や羽(はね)の臣(おみ;左大臣)と右大臣の鏡臣(かがみとみ)など幾つか別名があるが、同じ意味である。
剣臣(つるぎとみ;右大臣)のオオモノヌシの役職は、モノノベ(物部)と言う第一線で国民を指導する立場の者を統率して、モノノベ(物部)が今で言う警察権を持って、国民の夫婦を一組とすると、3200組の家族に一人のモノノベ(物部)を配置して、モノノベ(物部)が人々に善悪や法律を教える立場で、罪を犯(おか)す物を捕まえて、軽犯罪なら自分で処罰したりして、罪が重いと国主のクニツコ(国造;くにみやつこ)に報告して、判断を任(まか)せた。
警察権を持つ役職のモノノベ(物部)は、別名をモノベ(物部)やモノブ(物部)と呼んで、総数が800人とも3000人とも記して、出雲王家の物部(もののべ)氏がモノノベ(物部)の役職をまとめて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の子孫が『ホツマツタエ』でモノヘ(物部)氏やモノベ(物部)氏と呼ばれて、役職名と氏族名が入れ替わった可能性がある。
出雲王家(物部(もののべ)氏)は、最初に宮中(皇居)の警護が役目と考えられて、その後に武家の物部(もののべ)氏の軍事力を重視されて、発言力を強くして、頭角(とうかく)を現して、「記紀」で物部(もののべ)氏の先祖を隠して、当時の最高権力者の藤原不比等(ふじわらのふひと)が子孫の藤原氏を隆盛させる理由になった。
『日本書紀』の大物主神(おおものぬしのかみ)は、凡人(僕以外の人間)が一人だけと考えるが、『ホツマツタエ』に初代から7代目までオオモノヌシが登場して、7人の出雲国王を神格化したと証明して、これが超天才の僕の実力が半端でなく、神様の生(なま)の意識を感じる僕の神技(かみわざ)である。
大物主神(おおものぬしのかみ)の名前の意味は、大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)の神で、物部(もののべ)氏の初代の彦坐王(ひこいますのみこ)から5代目の物部夏花(もののべのなつはな)、6代目の物部(もののべ)氏の養子である彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と物部(もののべ)氏の妻(誰か不明)の息子である7代目の飯入根(いいいりね)までの物部(もののべ)氏の7人を神格化した神様である。
饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、物部(もののべ)氏の祖先神で、『ホツマツタエ』の7人の大物主神(おおものぬしのかみ)や2人の大国主神(おおくにぬしのかみ)を求めるヒントで、求めるのが僕にとっての大仕事だった。
『ホツマツタエ』の物部(もののべ)氏の系図は、2代目ホノアカリの息子がニギハヤヒで、その息子がモノベウマシマチで、その息子がモノベトチネで、その息子がモノベナツハナで、その息子がヒコユキで、その息子がイツモシコで、その息子がイツシココロで、子孫にトイチネがいるが、先祖モノベトチネと子孫トイチネが同一人物である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子の饒速日命(にぎはやひのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、息子が可美真手命(うましまじのみこと;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)だが、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子の可美真手命(うましまじのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と重なって、完全に混乱した。
可美真手命(うましまじのみこと;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)の息子の物部十市根(もののべのといちね)は、息子が物部夏花(もののべのなつはな)で、その従兄弟の彦湯支命(ひこゆきのみこと)が神櫛皇子(かんぐしのみこ)で、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物である。
彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)の息子の出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)は、飯入根(いいいりね)が本名(ほんみょう)で、その息子が出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)である。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)生まれで、崇神(すじん)天皇12年3月11日(95年4月中旬頃)に49才で初代出雲国王になって、出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を実弟の崇神(すじん)天皇に伝えて、130年頃の85才か、135年頃の90才頃に娘の狭穂姫(さほひめ)が生まれて、その頃に亡くなったと考えられる。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、春日建国勝戸女(かすがのたけくにかつとめ)と結婚して、娘の沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)が生まれて、娘とも結婚して、沙本毘古王(さほひこのみこ)と袁邪本王(おざほのみこ)と沙本毘売命(さほひめのみこと)と室毘古王(むろひこのみこ)が生まれて、沙本毘売命(さほひめのみこと)が崇神(すじん)天皇47年(西暦130年)から52年頃(西暦135年)の生まれと考えられる。
娘の狭穂姫(さほひめ)は、垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)に皇后になって、15才から20才ぐらいと考えられる。
初代・オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、別名をオオナムチ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、初代・オオクニヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)でもある。
初代・大国主神(おおくにぬしのかみ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、大きな国(奈良県と大阪府と京都府と兵庫県と鳥取県と島根県)を平定した功績を指す。
大己貴神(おおなむちのかみ)は、大きな名の貴(とうと)い神で、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ)や初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の神名を意味する。
初代オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、初代出雲国王で、国民が飢餓しないように食料を備蓄して国を豊かにして、弥生時代後期の高床式倉庫に米を保存したことに合致すると考えられる。
初代オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)は、7代目出雲国王で、スサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)をかばって、謀反(むほん)の恐れがあって、古代大和朝廷の使者を殺して、その立場を追われた。
その後で初代オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)は、出雲を去って新天地の津軽(つがる;青森県)に行くが、正しく求めると飯入根(いいいりね)の子孫が出雲を去って、東北地方に行ったと考えられる。
狭穂彦王(さほひこのみこ)は、2代目出雲国王で、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に皇位継承権争いを起こして、垂仁(すいにん)天皇7年前半(158年前半)に戦死して、この頃に40才から35才くらいの年齢と考えられて、息子の野見宿禰(のみのすくね)が垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に妻をもらって、成人年齢だから年齢が予測できた。
2代目オオモノヌシ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、別名のコトシロヌシが2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)と初代の出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の国主)の盧濡渟(うかずくぬ)で、オオクニヌシの別名が狭穂彦王(さほひこのみこ)と盧濡渟(うかずくぬ)を指す。
盧は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
事代主神(ことしろぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、父の初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)に代わって後を継いで、出雲国王(事)を代わる神名の意味である。
古代太陽神氏族の2代目オオモノヌシ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)から「日の輪分け身(ひのわわけみ;太陽を種(たね)として御霊(みたま;霊魂)をいただいた天照神(あまてるかみ)と同じ生まれ合い)」とまで称賛されて、死んだ後も世の中を守るために奈良県桜井市の三輪山(みわやま)に葬礼した。
祟(たた)り神(怨霊;おんりょう:怨(うら)み祟(たた)る霊魂)の大物主神(おおものぬしのかみ)は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)と出雲の国譲(くにゆず)り神話の飯入根(いいいりね)を指して、先祖の狭穂彦王(さほひこのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)が戦死して、奈良県桜井市の三輪山(みわやま)に怨霊(おんりょう)として葬礼して、物部(もののべ)氏が邪馬台国(大和国;やまとこく)と深く関係する。
初代から7代目のオオモノヌシ(7人の出雲国王を神格化)は、武家の物部(もののべ)氏の頭領(とうりょう)で、古代天皇家の軍事をまとめて、その役割が古代天皇家の守護神と考えられる。
野見宿禰(のみのすくね)は、垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に日本最古のスポーツの相撲(すもう)をして、勝利して妻を迎えて、妻の名前が分からず、2代目出雲国王で父の狭穂彦王(さほひこのみこ)の後を継いで、すぐに3代目出雲国王になって、成人年齢の15才以上と考えられる。
『ホツマツタエ』でイイリネの子であるウカツクヌの子のノミノスクネは、狭穂彦王(さほひこのみこ)の子の野見宿禰(のみのすくね)が正しくて、巧妙に偽装工作しても、僕を騙(だま)せなかった。
野見宿禰(のみのすくね)の養子の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)として、5人の子供を生んで、義父の野見宿禰(のみのすくね)が死んで、落ち込んだ時に日本武尊(やまとたけのみこと)と不倫して、出雲で日本武尊(やまとたけのみこと)との間に7人の息子を生んで、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の原因になった。
『ホツマツタエ』で2代目ホノアカリ(火明;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子のニギハヤヒ(饒速日;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、初代ホノアカリ(火明;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)の養子のタクラマロ(多倉麿;狭穂彦王を神格化)と同一神で、タクラマロの子がウマシマチ(可美真手;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)で、野見宿禰(のみのすくね)の子孫が仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)である。
3代目オオモノヌシの野見宿禰(のみのすくね)は、物部可美真手命(もののべのうましまじのみこと)の名から、物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)が与えられたか不明で、ニニキネ(誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)に仕えて、高い功績を上げたが、イサナキ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)の間違いである。
3代目オオモノヌシの野見宿禰(のみのすくね)は、医学に明るくて、色々な薬草をうまく使って、人々の人気が高くて、ヨロギ(万木)ミホヒコ(三穂彦)の神名で呼ばれて、薬草の達人だった。
3代目オオモノヌシの野見宿禰(のみのすくね)は、4代目オオモノヌシのカンタチ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)など子供が多くいて、子守神(こもりがみ)と呼ばれて、物部(もののべ)氏の子孫が急激に増えた世代である。
3代目オオモノヌシでなく、子孫の7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、一人で諸国を巡って、灌漑(かんがい)事業を尽力して、ヒタカミ(日高見;ひだかみ:東北地方南部のどこか)から南下して、コシクニ(越国;福井県東部から新潟県)まで行って、佐渡ヶ島(さどがしま)にも渡って、新田開発や灌漑(かんがい)工事をして、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が平定した土地である。
7代目オオモノヌシは、2代目の綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)から大三輪(おおみわ)氏の名字(みょうじ)をもらって、正しく求めると3代目オオモノヌシの野見宿禰(のみのすくね)が垂仁(すいにん)天皇から大三輪(おおみわ)氏の名字(みょうじ)をもらった大田田根子(おおたたねこ)と同一人物かもしれない。
物部十市根(もののべのといちね)は、垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に父の野見宿禰(のみのすくね)がもらった名前がわからない妻との間に生まれたと考えられて、年齢が推測できる。
『ホツマツタエ』のモノベウマシマチの子のモノベトチネは、子孫のトイチネと別人でなく、同一人物と考えられて、『ホツマツタエ』の物部(もののべ)氏系図の偽装工作と考えられる。
4代目オオモノヌシのカンタチ(神立;物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、3代目オオモノヌシの野見宿禰(のみのすくね)の長男で、景行(けいこう)天皇12年(西暦202年)からツクシ(筑紫;九州)へのヲシカ(勅使;ちょくし:主君の命令を伝えるために天皇が派遣する使者)に任命されて、息子の物部夏花(もののべのなつはな)と共に九州平定の武将と考えられる。
4代目オオモノヌシの物部十市根(もののべのといちね)は、妻のフトミミ(垂仁(すいにん)天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)を神格化)と滋賀県の野洲川(やすがわ)の河口付近に住んで、息子の5代目オオモノヌシのフキネ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)を生んで、滋賀県野洲(やす)市の兵主(ひょうず)大社に物部十市根(もののべのといちね)の義妹の弟橘姫(おとたちばなひめ)がいた可能性がある。
物部夏花(もののべのなつはな)は、物部十市根(もののべのといちね)と大中姫(おおなかひめ)の息子で、垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に両親が結婚して、景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に九州の平定で登場して、20才頃と考えられて、後に5代目出雲国王になったと考えられる。
5代目オオモノヌシのフキネ(葺根;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)は、「記紀」の天之葺根神(あめのふきねのかみ)と天冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と同一神で、妻が刺国若比売(さしくにわかひめ;誰を神格化したか不明)で、夫婦の間に2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が生まれて、完全な間違いである。
『ホツマツタエ』でモノベトチネの子のモノベナツハナは、物部十市根(もののべのといちね)の子の物部夏花(もののべのなつはな)と合致して、『ホツマツタエ』の物部(もののべ)氏系図の偽装工作が打ち破られた。
5代目オオモノヌシのフキネ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)は、景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)以降に九州を平定した武将で、九州と縁が深くて、住吉神(すみよしかみ)のカナサキ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)の子孫である同じ物部(もののべ)氏のトヨツミヒコ(誰を神格化したか不明)と協力して、人々を豊かに導いた。
物部夏花(もののべのなつはな)は、子供ができなくて、先祖の初代オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の霊から指導されて、叔父(おじ)のヤエコトシロヌシ(弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の息子(従兄弟の)6代目オオモノヌシ(神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)を養子にして、出雲国王にふさわしい武勇の息子がいなくて、子供がいた可能性がある。
物部夏花(もののべのなつはな)は、養子にした6代目オオモノヌシの神櫛皇子(かんぐしのみこ)をアオカキトノ(青垣殿;奈良県桜井市の神坐日向(みわにますひむかい)神社)に住まわせて、神櫛皇子(かんぐしのみこ)に先祖伝来のムラクモノツルギ(草薙剣;くさなぎのつるぎ)を譲(ゆず)って、物部(もののべ)氏の神剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)の可能性がある。
後に物部夏花(もののべのなつはな)は、赴任(ふにん)先の九州で亡くなって、九州の平定から奈良県に帰還する景行(けいこう)天皇19年(西暦209年)までに戦死した可能性があって、遺体を滋賀県野洲(やす)市に葬礼して、古墳時代初頭の滋賀県野洲(やす)市付近の古墳埋葬者と考えられる。
6代目オオモノヌシのクシミカタマ(櫛甕玉)は、3代目の景行(けいこう)天皇と野見宿禰(のみのすくね)の養女である弟橘姫(おとたちばなひめ)の長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)で、景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)生まれで、後の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物である。
『ホツマツタエ』の3代目オオモノヌシから5代目オオモノヌシは、モノベウマシマチの子のモノベトチネとその子のモノベナツハナで、モノベ(物部(もののべ)氏)の名字(みょうじ)を冠して、6代目オオモノヌシ(神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)が養子だから、物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)でなくて、6代目オオモノヌシの息子の7代目オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)が物部(もののべ)氏の血筋である。
景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)が出雲王家(物部(もののべ)氏)の婿(むこ)養子で、物部(もののべ)氏の妻の名前が不明で、系図を特定させない偽装工作で、神櫛皇子(かんぐしのみこ)と名前が不明の妻の息子が飯入根(いいいりね)である。
6代目オオモノヌシは、『ホツマツタエ』でモノベナツハナの子のヒコユキに当たるが、現代の物部(もののべ)氏系図が可美真手命(うましまじのみこと)の子の彦湯支命(ひこゆきのみこと)で、養子の系図が元々の間違った伝承になって、混乱した原因と考えられる。
『ホツマツタエ』の序文は、2代目の大田田根子(おおたたねこ)の系図を記して、オオナムチとコトシロヌシとクシミカタマの子孫とされて、初代オオモノヌシと2代目オオモノヌシと6代目オオモノヌシの子孫で、彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫で、神櫛皇子(かんぐしのみこ)の子孫でもあるのが2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、説明を省(はぶ)く。
クシミカタマは、諱(いみな)が鰐彦(わにひこ)で、鰐船(わにふね)の上で生まれて、諱(いみな)を命名したが作り話と考えられて、父のヤエコトシロヌシ(景行(けいこう)天皇を神格化)が忙(いそが)しい中、旅行中に妻のタマクシヒメ(弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)が出産して、景行(けいこう)天皇の九州平定の旅路で、出産して事実を神話化した。
神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、5代目オオモノヌシ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)の養子で、6代目オオモノヌシ(彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を神格化)を継いで、ツクシヲシカ(九州勅命(ちょくめい;天皇の命令)執政官)に任命された。
6代目オオモノヌシ(彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を神格化)は、養母(5代目オオモノヌシ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)の妻)のサシクニワカメ(刺国若比売;さしくにわかひめ:誰を神格化したか不明)の願いを聞いて、九州統治のツクシヲシカの役目を辞任して、年老いた養母の元で暮らして、5代目オオモノヌシとサシクニワカメの夫婦が共に福岡県朝倉郡夜須町(やすまち)で亡くなった。
6代目オオモノヌシ(彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)のツクシヲシカの辞任は、ウガヤフキアハセズ(誉田別尊;即位しない応神(おうじん)天皇)が宮崎県に行って、宮崎県を統治するためで、6代目オオモノヌシが多賀(たが;滋賀県の多賀(たが)大社)で、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)の兄(異母兄弟)の五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)が統治するのを補佐した。
神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)生まれで、『ホツマツタエ』28章まで記したが、西暦330年代のホホデミ(仁徳(にんとく)天皇を神格化)とアメタネコ(誰を神格化したか不明)を記せなくて、『ホツマツタエ』の制作過程を改竄(かいざん)したと証明できた。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)の献上は、第一段階の摂政(せっしょう)46年(西暦306年)の献上が正しいはずで、第二段階の日本神話の作成が西暦366年以降から5世紀中で、第三段階が6世紀から7世紀中に『ホツマツタエ』を完成させたと考えられて、8世紀前半の720年に同時に献上した「記紀」の基礎になったと考えられる。
飯入根(いいいりね)は、神櫛皇子(かんぐしのみこ)と名前が分からない物部(もののべ)氏の妻との息子で、おそらく景行(けいこう)天皇30年代(西暦220年代)の生まれで、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と同一人物か不明で、7代目出雲国王になって、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月中旬(西暦260年11月中旬頃)に義父の日本武(やまとたけ)天皇に暗殺された。
7代目オオモノヌシのアタツクシネ(阿多津櫛根;飯入根(いいいりね)を神格化)は、クシミカタマ(櫛甕玉;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)とミラヒメ(美良姫)の息子で、諱(いみな)をタタヒコ(田田彦)である。
アタツクシネ(飯入根(いいいりね)を神格化)は、神武(じんむ)天皇時代に皇太子決定で、7代目オオモノヌシに任命されて、景行(けいこう)天皇20年代(西暦210年代)に皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が父・景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の弟橘姫(おとたちばなひめ)と不倫して、20年から30年ほど出雲に隠居した。
景行(けいこう)天皇58年2月1日(248年3月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、南九州の熊襲(くまそ)王国の討伐を報告して、その功績で再び皇太子の座に戻って、弟橘姫(おとたちばなひめ)を皇太子妃と認めて、この時に飯入根(いいいりね)が7代目出雲国王になった可能性がある。
2代目の綏靖(すいぜい)天皇は、7代目オオモノヌシのアタツクシネに大三輪(おおみわ)氏の姓(かばね;名字:みょうじ)を与えて、実在の2代目の垂仁(すいにん)天皇が皇后の狭穂姫(さほひめ)の実兄で、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)に大三輪(おおみわ)氏の名字(みょうじ)を与えたと考えられる。
アタツクシネの(飯入根(いいいりね)を神格化)の子孫(同母か異母の兄弟)のオオミケヌシ(屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)を祖先化)は、開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)に諌言(かんげん;諌(いさ)めること)したが、認められなくて隠棲(いんせい)して、息子の初代オオタタネコが祖先神オオモノヌシの祭主になって、実話を忠実に再現できる。
アタツクシネの子孫である大三輪(おおみわ)氏の三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)は、持統(じとう)天皇に諌言(かんげん;諌(いさ)めること)して、中納言(ちゅうなごん)を辞任して、先祖と同じ行動を取った。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、葦原醜男(あしはらしこお)の別名が出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)を連想させて、醜(しこ)と色(しこ)の呼び名が物部(もののべ)氏の特徴で、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)が同一神である。
『ホツマツタエ』でイツモシコの子のイツシココロは、現代の物部氏(もののべ)系図の出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)と出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)の兄弟が完全な間違いで、飯入根(いいいりね)の子の出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)が出石の県主(あがたぬし)と考えられる。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と八上比売(やがみひめ;誰を神格化したか不明)は、息子の木俣神(きまたのかみ;出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)を神格化)を生んで、飯入根(いいいりね)の息子が盧濡渟(うかずくぬ)と出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)の2人が判明した。
ヤマトトトヒモモソヒメ(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と結婚した蛇神のオオモノヌシは、何代目オオモノヌシと記さないが、倭姫命(やまとひめのみこと)を殺害した西暦251年(天皇不在の年)の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を指す。
7代目・オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)は、別名を2代目・オオクニヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)で、息子のコトシロヌシ(盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)が出雲の跡継ぎで、タケヒテル(盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)が出雲大社を祭ったと考えられる。
7代目オオモノヌシは、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)の可能性もあるが、出雲王国の崩壊時に息子の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と戦って、おそらく違うと考えたいが、現実が残酷かもしれない。
盧濡渟(うかずくぬ)は、景行(けいこう)天皇50年(西暦240年頃)頃の生まれで、出雲の国譲(くにゆず)り神話の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(260年11月頃)に大人で、宮崎県で亡くなったと考えられる。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、正妻の須勢理比売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)との間に事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)を生んだのを隠して、神屋楯比売(かむやたてひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)が息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)を生んだとして、真実を隠し通した。
太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹の三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)は、事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)と結婚して、武渟川別(たけぬなかわわけ)の妹が虚空津比売命(そらつひめのみこと)だけで、虚空津比売命(そらつひめのみこと)を三穂津姫(みほつひめ)に神格化したと証明できない。
興台産霊(こごとむすび;誰を神格化したか不明)の妻は、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹の浅加姫(あさかひめ;誰を神格化したか不明)で、浅加姫(あさかひめ)と三穂津姫(みほつひめ)が別の女性を神格化して、証明できない決定的な理由である。
父オオクニヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)の名代(みょうだい)は、コトシロヌシ(盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)の職名を与えられて、父オオクニヌシに謀反(むほん)の嫌疑がある時、父を諌(いさ)めても聞き入れられず、公職から身を引いて、美保(みほ;島根県松江市美保関町)に隠棲(いんせい)して、盧濡渟(うかずくぬ)が出雲の国譲(くにゆず)りで、美保に避難したと考えられる。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、最後の出雲国王の飯入根(いいいりね)に代わって後を継いで、初代の出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の国主)の盧濡渟(うかずくぬ)が出雲大社の初代宮司とも考えられて、統治(事)を代わる神名の意味である。
コトシロヌシ(盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、奈良県の初代ホノアカリ(誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)に仕(つか)えて、諌(いさ)めても聞き入れられず、後に宮崎県でその弟のニニキネ(誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)にも仕(つか)えて成功に導いて、ニニキネがミクサタカラ(三種の神器)を受け継いで、盧濡渟(うかずくぬ)が島根県から宮崎県に行ったと考えられる。
後にコトシロヌシ(盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、三種の神器の逆矛(さかほこ)を持って、三輪山(みわやま)の山中の洞(ほこら)に入って亡くなって、宮崎県の高千穂峰(たかちほみね)の山頂に天逆鉾(あめのさかほこ)を刺して、宮崎県で亡くなったのが事実と考えられる。
物部(もののべ)氏の系図は、『ホツマツタエ』と「記紀」で、先祖と子孫を滅茶苦茶のバラバラに記して、根本的に求め直す作業が僕の直感(超感覚)しかなくて、史実・真実・事実を求めるために苦労したが、ようやく再現できて、2024年11月4日の午前10時半頃に修正した。
<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『別冊歴史読本12 新視点 古代豪族の研究』
発行・株式会社新人物往来社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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