大田田根子(おおたたねこ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

大田田根子を一人の人物と考えるが、僕は『ホツマツタエ』から初代と2代目の大田田根子が存在したと考えて、大物主神(おおものぬしのかみ)を祭った大田田根子と『ホツマツタエ』を編纂(へんさん)した大田田根子の二人に分かれると考えられる。

初代の大田田根子は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に反乱を起こした2代目オオモノヌシ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の子で、3代目オオモノヌシ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)が初代の大田田根子だと考えられる。
『ホツマツタエ』で2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子のニギハヤヒ(狭穂彦王を神格化)は、初代ホノアカリの養子のタクラマロ(狭穂彦王を神格化)につながって、タクラマロの子がモノベウマシマチで物部(もののべ)氏の祖先神の可美真手命(うましまじのみこと)と同一神と考えられる。
『ホツマツタエ』によると出雲王国のイイリネの子であるウカツクヌの子のノミノスクネと系図が続くけれど、野見宿禰は垂仁天皇7年(西暦158年)と垂仁天皇32年(西暦183年)の人物で出雲王家の出身とすると、垂仁天皇7年頃(西暦158年頃)に亡くなった狭穂彦王の子と考えるべきで、濡渟(うかずくぬ)が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)の人物になって系図が成立しない。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
『ホツマツタエ』でウカツクヌの子のノミノスクネとする系図は偽装工作として巧妙に偽装工作したものだと考えられる。
崇神(すじん)天皇時代に出雲王国の記述があるのは、崇神天皇の実兄の彦坐王が初代の出雲国王だからで、2代目の出雲国王がその子の狭穂彦王で、3代目の出雲国王がその子の野見宿禰となって、その子孫の物部氏が出雲国王を受け継ぐ。
初代の大田田根子で3代目の出雲国王の野見宿禰は、父の狭穂彦王を神格化した2代目オオモノヌシを垂仁天皇7年(西暦158年)に奈良県桜井市の三輪山(みわやま)に祭祀した。

2代目の大田田根子は、初代の大田田根子である野見宿禰の子孫で、部氏の出身の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子である2代目・武内宿禰で、それが『ホツマツタエ』の編者とされる2代目・大田田根子と考えられる。
しかし初代・武内宿禰は西暦330年代に百歳頃で、古代朝鮮国家群と外交が始まったのが西暦366年で、『ホツマツタエ』の編者が3代目・武内宿禰の以降で、それが2代目・大田田根子の可能性もある。
『ホツマツタエ』の前半の編者が6代目オオモノヌシのクシミカタマとされて、後半の編者がオオタタネコとされて、6代目の出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を6代目オオモノヌシに神格化して、大田田根子が2代目・武内宿禰かそれ以降の武内宿禰と考えられて、出雲王家の子孫が『ホツマツタエ』を編纂したと考えられる。
初代・武内宿禰は2代目・大田田根子の父で『古事記』の系図に基づいて、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の曾孫が建甕槌命(たけみかづちのみこと)で、その子が意富多多泥古(おおたたねこ)と記す。
建甕槌命は『日本書紀』の武甕槌神(たけみかづちのかみ)と同一神と考えられて、初代・武内宿禰を神格化したのが間違いなく、2代目の大田田根子が初代・武内宿禰の子孫の武内宿禰に間違いない。
『ホツマツタエ』は景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)に献上したと記すが、神武(じんむ)天皇時代まで記して仁徳(にんとく)天皇時代(西暦330年代以降)まで記して、正しい歴史が僕しか把握できない。

2人の大田田根子は物部氏出身の人物で重要な意味を持ち、それぞれ異なる役目を持っていた。
初代・武内宿禰の直系子孫とされる73代目の武内宿禰の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏は、先祖代々に渡って歴代の武内宿禰が正統『竹内文書』を伝えて、『ホツマツタエ』の編者も歴代の武内宿禰と考えられて、正統『竹内文書』の中に『ホツマツタエ』の痕跡(こんせき)がある可能性が考えられる。
2人の大田田根子と同じように摂関(せっかん;摂政と関白)藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)や日本神話の神様の猿田彦(さるたひこ)なども二人の人物を一人の人物として神格化して、それらの人物にまつわる伝承を僕以外に求められない。
僕のようにアインシュタイン博士以上の天才の感性など簡単に身に付けられず、現代人だと絶対にたどり着けない奇跡の領域で、僕が様々な回答を導き出すしか手段がないのが現状である。

<参考文献>
『古事記(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行

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