大伴(おおとも)氏の系図


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

大伴氏の系図は間違っていて、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)から天押日命(あめのおしひのみこと)まで日本神話の神様で、天押日命が別名を天忍日命(あめのおしひのみこと)と書いて、その息子の天押人命(あめのおしひとのみこと)が別名を天忍人命(あめのおしひとのみこと)と書くと考えられて、天押日命か天押人命のどちらかが正しく求めると、天忍男命(あめのおしおのみこと)に当たると考えられる。
『先代旧事本紀』の尾張(おわり)氏系図から求めて、天忍男命の息子の瀛津世襲(おきつよそ)が実在の人物で、その直系子孫が大伴武日(おおとものたけひ)で、系図に記す武日命(たけひのみこと)に当たる。
瀛津世襲は実在した初代・崇神天皇の伯父(おじ)で西暦84年頃の人物で、『ホツマツタエ』にアメオシヲの孫のオキツヨソと直系子孫のオオトモタケヒと記されて、大伴武日が景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)に出てくる武将である。
瀛津世襲は、崇神天皇の実兄である彦坐王の伯父でもあって、彦坐王を神格化した古代太陽神の2代目・火明命(ほあかりのみこと)の子孫とするが、大伴氏が彦坐王を始祖とする古代太陽神氏族に含まない。
道臣命(みちのおみのみこと)は神武(じんむ)天皇時代の人物で、その子孫の誰が瀛津世襲に当たるか分からない。
系図の建持(たけもつ)は、『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)として記されて、大伴武日の息子である。

系図の室屋(むろや)は、大伴武以連の子とされるが間違いで、大伴氏系図で建持と室屋の間に2から3代の人物を記す系図も間違いで、年代的に考えて6から8世代くらい隔(へだ)たると考えられる。
『日本書紀』允恭(いんぎょう)天皇11年3月4日(西暦423年4月上旬頃)に大伴室屋連(おおとものむろやのむらじ)で初見して、『日本書紀』清寧(せいねい)天皇2年2月(西暦481年3月頃)で大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)が最後に記されたと考えられる。
系図の金村(かねむら)は、大伴室屋の息子か大伴室屋の息子の談(かたり)が父か分からず、大伴氏系図が大きく間違っていると考えられる。
『日本書紀』仁賢(にんけん)天皇11年8月(西暦498年9月頃)に大伴金村連(おおとものかねむらのむらじ)で初見して、『日本書紀』欽明(きんめい)天皇元年9月5日(西暦540年10月上旬頃)に大伴大連金村(おおとものおおむらじのかねむら)が失脚(しっきゃく)させられて、大伴氏が衰退していった。

参考にした大伴氏の系図は、室屋の弟か息子が談となって、室屋の息子か孫が金村となって、混乱が多く見られる。
国宝『海部(あまべ)氏系図』や『先代旧事本紀』の尾張氏系図のように間違いの少ない系図もあって、古代日本史を語る時に系図の混乱を避(さ)ける必要がある。
そのために僕はできるだけ多くの古代豪族の系譜を分析して、後世に正しく伝える必要があると考えられる。

<参考文献>
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新視点 古代豪族の研究』
株式会社新人物往来・発行
『推理◎邪馬台国と日本神話の謎 古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎』
安本美典・著者 勉誠出版梶E発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行

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