弟橘姫(おとたちばなひめ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

日本武尊(やまとたけのみこと)の正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、実父(じっぷ)の田道間守(たじまもり)が景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に亡くなった主君の垂仁(すいにん)天皇を想(おも)って亡くなって、花橘(はなたちばな)が身ごもって、4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に生んだ子が弟橘姫(おとたちばなひめ)である。
後に母の花橘(はなたちばな)は、娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)を連れて、実父(じっぷ)の田道間守(たじまもり)によく似た穂積(ほづみ)氏(物部(もののべ)氏と同族)の押山(おしやま)の妻子になって、つまり押山(おしやま)が義父である。
田道間守(たじまもり)は、垂仁(すいにん)天皇の皇子の祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化・子孫化して、常世(とこよ)の国に香久橘(かぐたちばな)の果実を探しに行って、正しく求めると西暦188年(垂仁(すいにん)天皇37年)の後漢王朝の使者(遣隋使や遣唐使に習(なら)って遣漢使(けんかんし)と表現する)で、古代天皇家で初めての古代中国への使者だった。
日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んで、次に稲入別王(いないりわけのみこ)を生んで、次に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を生んで、次に武蚕養王(たけこかいのみこ)を生んで、次に息長田別王(いきながたわけのみこ)を生んで、次に五十目彦王(いそめひこのみこ)を生んで、次に伊賀彦王(いがひこのみこ)を生んで、男ばかりの7人兄弟である。
『ホツマツタエ』の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、「記紀」の弟橘姫(おとたちばなひめ)以上の情報量で、様々なことを教えてくれた。

田道間守(たじまもり)に祖先化した祖別命(みおやわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇の皇子の本名(ほんみょう)で、孝霊(こうれい)天皇の皇子の吉備津彦(きびつひこ)に祖先化して、西暦150年代頃から180年までに吉備(きび;岡山県と広島県東部)王国を平定して、古代豪族の吉備(きび)氏の氏祖で、西暦188年(垂仁(すいにん)天皇37年)の遣漢使(けんかんし)でもある。
祖別命(みおやわけのみこと)の娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、孝元(こうげん)天皇の妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)に祖先化して、6代目出雲国王で息子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をもうけて、その孫が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、孝元(こうげん)天皇の息子である開化(かいか)天皇の皇后になって、つまり不倫である。
孝元(こうげん)天皇の妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の一人が弟橘姫(おとたちばなひめ)で、孝元(こうげん)天皇の息子である開化(かいか)天皇の皇后が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で、日本武尊(やまとたけのみこと)の正妻(皇后に近い扱い)である。
物部(もののべ)氏の女性で、姪(めい)の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、叔母(おば)の欝色謎命(うつしこめのみこと)も物部(もののべ)氏の女性で、叔母(おば)の高田媛(たかだひめ)が兄を野見宿禰(のみのすくね)で、その養子が弟橘姫(おとたちばなひめ)で、叔母(おば)と姪(めい)が合致する。
叔母(おば)の欝色謎命(うつしこめのみこと)と姪(めい)の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、名前が互いに「色(しこ)」が共通して、出雲王家(物部(もののべ)氏)の根拠と考えられる。
祖別命(みおやわけのみこと)の娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、穂積(ほづみ)氏(物部(もののべ)氏と同族)の押山(おしやま)の義娘(ぎじょう)で、物部(もののべ)氏の野見宿禰(のみのすくね)の義娘(ぎじょう)が特定されて、正しい血筋が求められた。

孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)と息子の開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妻である伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)は、息子の日本武尊(やまとたけのみこと)が父から寝取った不倫で、皇位継承権問題に大きく関係したと考えられる。
景行(けいこう)天皇は、石上社(いそのかみのやしろ)の五十杵(いそきね)の娘・五河姫(いかわひめ)を娶(めと)って、神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の2皇子を生んだ。
石上社(いそのかみのやしろ)は、物部(もののべ)氏と深い関係の石上(いそのかみ)神宮で、五河姫(いかわひめ)が弟橘姫(おとたちばなひめ)と同一人物で、息子の2皇子のどちらかを6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)に祖先化したが、どちらか全く根拠がないと考えられる。

成務(せいむ)天皇の皇后の弟財郎女(おとたからのいらつめ)は、父が穂積(ほづみ)氏の建押山垂根(たけおしやまたりね)で、息子が和訶奴気王(わかぬけのみこ)で、日本武尊(やまとたけのみこと)の妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が義父を穂積(ほづみ)氏の押山(おしやま)で、息子が稚武彦王(わかたけひこのみこ)で、明らかに共通して同一人物である。
成務(せいむ)天皇と日本武尊(やまとたけのみこと)は同一人物で、日本武尊(やまとたけのみこと)の母の播磨稲日大郎姫(はりまいなひのおいらつめ)が作られた人物で、成務(せいむ)天皇の母の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)が実在系譜で、日本武尊(やまとたけのみこと)の実母が八坂高依媛(やさかたかよりひめ)と考えられる。
景行天皇の皇后ともう一人の妃の姉妹は、姉の播磨稲日大郎姫(はりまいなひのおいらつめ)が息子の日本武尊(やまとたけのみこと)を生んで、妹が伊那毘能若郎女(いなひのわかいらつめ)で、父が吉備津彦(きびつひこ)で、祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化して、僕の違和感が作られた系図と結論付けた。

『ホツマツタエ』で天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)は、姉の益姫持子(ますひめもちこ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)が天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を生んで、妹の小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)が3姉妹の宗像(むなかた)三神(誰を神格化したか不明)を生んで、3姉妹がそれぞれ結婚して、実在系譜に3姉妹の名前がない。
播磨稲日大郎姫(はりまいなひのおいらつめ)と伊那毘能若郎女(いなひのわかいらつめ)の姉妹は、益姫持子(ますひめもちこ)と小益姫早子(こますひめはやこ)の姉妹に神格化して、景行(けいこう)天皇の皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)ともう一人の妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が他人だが、同母姉妹に神格化・祖先化した。
これから考えて弟橘姫(おとたちばなひめ)は、景行(けいこう)天皇との間に2皇子と3姉妹をもうけて、2皇子のどちらかが6代目出雲国王で、3姉妹を宗像(むなかた)三神に神格化して、景行(けいこう)天皇の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)との間に7皇子をもうけたと考えられて、明らかな不倫関係である。
弟橘姫(おとたちばなひめ)は、義父を3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の養子で、景行(けいこう)天皇との息子が6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、その妻が物部(もののべ)氏で、孫が7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)で、出雲王国の重要人物である。

大碓命(おおうすのみこと)は、父から神大根王(かみおおねのみこ)の娘2人を寝取って、姉の兄遠子(えとおこ)が押黒之兄日子王(おしくろのえひこのみこ)を生んで、美濃(みの;岐阜県)の宇沼須和気(うねすわけ)の先祖で、妹の弟遠子(おととおこ)が押黒弟日子王(おしくろのおとひこのみこ)を生んで、牟宜都君(むげつのきみ)の先祖で、景行(けいこう)天皇が息子を恨(うら)んだ。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)は、別名の八瓜入日子王(やうりいりひこのみこ)が八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)と名前が似て、共通するように生み出したと考えられる。
大碓命(おおうすのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)は、弟遠子(おととおこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)との間に押黒弟日子王(おしくろのおとひこのみこ;7人の息子の誰か)をもうけて、景行(けいこう)天皇の妻2姉妹が息子の大碓命(おおうすのみこと)の妻2姉妹と合致すると考えられる。

弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の不倫、孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)と息子の開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妻である伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)の不倫など複数の証拠がある。
つまり日本武尊(やまとたけのみこと)は、天皇と皇太子の立場を異母兄弟の成務(せいむ)天皇で、弟橘姫(おとたちばなひめ)との不倫を同母兄弟の大碓命(おおうすのみこと)や神格化した素戔嗚尊(すさのおのみこと)などに押し付けて、逆賊を祖先化した武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)などになすり付けて、汚(けが)れのない清廉潔白の人物の仮面を作り上げた。

『ホツマツタエ』で素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治神話は、戦いの中で奇稲田姫(くしいなだひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)を救って、八岐大蛇(やまたのおろち)が小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の怨念(おんねん)である。
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の皇位継承権争いは、妃の吾田媛(あたひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おおさか)付近)で戦死した。
日本武尊(やまとたけのみこと)の東海平定は、戦いの中で東京湾に入水(じゅすい)自殺した妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を想(おも)って、碓井(うすい)の坂(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町の境界の碓氷(うすい)峠)で吾妻(あづま;我が妻の意味)の歌を三度詠(よ)んで嘆(なげ)いて、これが東(あずま)の国(東国;とうごく)の由来だと言う。
日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子で皇位継承者の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、記述が宇治川だけ出てきて、戦死した場所が不明で近畿地方として、母の弟橘姫(おとたちばなひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おおさか)付近)で戦死して、母子共に日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱(皇位継承権争い)で戦死した。
これは日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の反乱(皇位継承権争い)を求めて、僕が歴史研究した成果である。

日本武尊(やまとたけのみこと)の皇位継承権争いは、大坂(奈良県香芝市逢坂(おおさか)付近)で妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が戦死して、息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が近畿地方で戦死して、妻子が戦死して戦況が不利で、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、出雲から大和に向かって、吾妻(あづま;我が妻)の歌を詠(よ)んで、東(あずま)の国(東国;とうごく)が創作で、「記紀」が嘘をついた。

『ホツマツタエ』の日本神話は、白仁(しらひと)と胡久美(こくみ)の反乱を記して、古代天皇家の正史(正しい歴史)の分析をする。

天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)は、細矛千足国(さほこちたるのくに;山陰)に行って、政事の道を定めて、国を統治して、後に6代目・高皇産霊(たかみむすび;景行(けいこう)天皇を神格化)の弟の神狭日(かんさひ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を神格化)を益人(ますひと;国主)に任命して、下の弟の兵主(つわものぬし)と胡久美(こくみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)に補佐を任(まか)せた。

天照神(あまてるかみ)は、古代刑法の機(はた)の道を定めて、祥(さ;善行)と禍(が;悪行)の刊罰の体系を制定した時、細矛千足国(さほこちたるのくに)より益人(ますひと)の神狭日(かんさひ)の補佐をする兵主(つわものぬし)が伊雑宮(いざわのみや)の南殿の香久宮(かぐのみや)に使者を派遣した。
その文面は、「以前に根国(ねのくに;北陸)の益人(ますひと)の椋杵(くらきね;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)が民の挿し美女(さしみめ;花橘(はなたちばな)を神格化)を妻にして、椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)が生まれた。
椋杵(くらきね)は、挿し美女(さしみめ)をたいそう寵愛(ちょうあい)して、挿し美女(さしみめ)の兄の胡久美(こくみ)を我が子のように思って、細矛千足国(さほこちたるのくに)の益人(ますひと)に推挙したが、胡久美(こくみ)がその政務を怠(おこた)って、今ご存じのように副(そ)えの位に格下げした。
根国(ねのくに)の椋杵(くらきね)は、死んだ時に代わりに白仁(しらひと;景行(けいこう)天皇を神格化)を根国(ねのくに)の益人(ますひと)にして、ご息女の椋子姫(くらこひめ)を娶(めと)らせた。
ところが白仁(しらひと)は、椋子姫(くらこひめ)が椋杵(くらきね)の遺骸を立山(たてやま)に納(おさ)めた後、母の挿し美女(さしみめ)と妻の椋子姫(くらこひめ)を捨てて、津の胡久美(こくみ)の元に送って、そこで胡久美(こくみ)が妹の挿し美女(さしみめ)と子の椋子姫(くらこひめ)を犯(おか)した。
しかるに神狭日(かんさひ)は、これを少しも正さないので、臣がこれを告げて、その処分を依頼する。」

これを受けて朝廷は、清雄鹿(さをしか;勅使)を派遣して、神狭日(かんさひ)と胡久美(こくみ)ならびに挿し美女(さしみめ)と椋子姫(くらこひめ)の親子を高天原(たかまのはら)に呼び出して、金析(かなさき;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)が母子を犯(おか)した件を質問した。
胡久美(こくみ)は答えて、「挿し美女(さしみめ)は真(まこと)の妻である。椋杵(くらきね)の離縁状もある。」と憶(おく)さずに言って、また金析(かなさき)が質問して、「お前はどのような身分か。」と言うと、胡久美(こくみ)が「民である」と答えた。
それを聞いて金析(かなさき)は、大声で叫びながら、「お前は獣に劣(おと)る罪人で、妹の挿し美女(さしみめ)を椋杵(くらきね)にささげる縁で、細矛千足国(さほこちたるのくに)の益人(ますひと)になれて、その恩恵を受けた椋杵(くらきね)と挿し美女(さしみめ)がお前の主君と母である。
お前の罪悪の量を計(はか)れば、主君の恩を忘れた罪百暗(ももくら)、母の恩を忘れた罪二十(そふ)暗、母を犯(おか)した罪百暗、離縁状の偽造の罪百暗、椋子姫(くらこひめ)を犯(おか)し蔑(さげす)んだ罪五十暗、全てで三百七十暗である。
瓊矛法(とほこのり)である天の巡りの三百六十度を基準にして、九十度以上であれば処(ところ)払い、百八十度以上であれば流浪(さすら)、二百七十度以上であれば交(まじ)わりを去り、三百六十度を越せば死刑である。
お前の罪は、天の巡りの三百六十度を越える三百七十(なそ)暗で、したがって死刑を言い渡す。」と言って、胡久美(こくみ)を獄舎(つつが)に入れた。

次に根国(ねのくに)の益人(ますひと)の白仁(しらひと)は、高天原(たかまのはら)に呼び出して、6代目・高皇産霊(たかみむすび)が質問して、「母の挿し美女(さしみめ)を捨てて、妻の椋子姫(くらこひめ)までも捨てたのがなぜか。」
白仁(しらひと)は答えて、「私は捨てていない。母が自分で家を捨て出て行ったのだ。妻の椋子姫(くらこひめ)も自分から進んでそうした。」
6代目・高皇産霊(たかみむすび)は、もう一度同じことを聞くと、「私は代々椋杵(くらきね)に仕(つか)えた臣で養子にされた。また私は、胡久美(こくみ)の妹で民の挿し美女(さしみめ)を妃にお進めした。御君(おんきみ)の恵みをどうして忘れるか。」となにくわぬ顔で言い流した。
すると6代目・高皇産霊(たかみむすび)は怒って、「貴様は偽りを申して、我らを惑わそうとしたのが明白で、私が真相をすでに知っている。
知人の挿し美女(さしみめ)は、それ以上に力を貸してくれて、椋杵(くらきね)に取りなして、根国(ねのくに)の益人(ますひと)に推挙して、その上で養子として椋子姫(くらこひめ)と結ばせたにも関わらず、横恋慕して姫が嫌がると、それを隠すために宮津に流して、さらに民の目を盗んで、糧(かて)をかすめ取った。
貴様らの罪状は、君と母の恵みを忘れた罪二百暗、母と子を捨てた罪百暗、挿し美女(さしみめ)に横恋慕して君の恩を踏みつけた罪百五十暗、民の糧(かて)を横領した罪百六十暗、計四百十中暗で、いかにこの罪を逃れられようか」白仁(しらひと)は、恐れをなして返答できず、獄舎(つつが)に入れた。

その後に天照神(あまてるかみ)は、諸神と審議して、「6代目・高皇産霊(たかみむすび)を根国(ねのくに)の国神として、伊弉諾(いざなぎ;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の従兄弟で、私にとって6代目・高皇産霊(たかみむすび)と妻の白山姫(しらやまひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)が伯父(おじ)と伯母(おば)で、政事(まつりごと)も長く治まるだろう。」と勅(みことのり)を下(くだ)した。
6代目・高皇産霊(たかみむすび)と白山姫(しらやまひめ)は、天照神(あまてるかみ)の勅(みことのり)で、根国(ねのくに)を統治して、この2神を白山神(しらやまかみ)と讃(たた)えた。
一方で北(ね)の局(つぼね)の典侍(すけ)で、大蛇(おろち)の化身の益姫持子(ますひめもちこ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)は、内(うち)つ宮(みや;皇后)に昇格した瀬織津姫(せおりつひめ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)を妬(ねた)み憎むあまり、内(うち)つ宮(みや)を亡き者にせんと虎視眈々(こしたんたん)と隙(すき)をうかがって、白仁(しらひと)と胡久美(こくみ)を配下に置こうと考えた。
益姫持子(ますひめもちこ)は、椋子姫(くらこひめ)を神狭日(かんさひ)の息子の天押日(あめのおしひ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚させて、益姫持子(ますひめもちこ)の兄として立て、父の神狭日(かんさひ)の政事を継がせて、細矛千足国(さほこちたるのくに)の益人(ますひと)にした。
この祝事に乗じて白仁(しらひと)と胡久美(こくみ)らは、恩赦で祥(さ;善行)を得て、罪を半減して、死刑を逃れた白仁(しらひと)と胡久美(こくみ)が流人(さすら)の身になって、簸川(ひかわ)辺を流浪(さすら)ていると、細矛千足国(さほこちたるのくに)の益人(ますひと)になった天押日(あめのおしひ)が白仁(しらひと)と胡久美(こくみ)を我が臣に召(め)しかかえた。
素戔嗚(そさのお;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、この益人(ますひと)交代時の細矛千足国(さほこちたるのくに)を整備して、真名井原(まないのはら)の豊受(とよけ;豊受大神:とようけおおかみ)を祭る朝日の宮に参拝した。

6代目・高皇産霊(たかみむすび;景行(けいこう)天皇を神格化)の弟の神狭日(かんさひ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を神格化)と兵主(つわものぬし;誰を神格化したか不明)は、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)で、どちらを神格化したか分からなくて、2022年9月5日に特定した。
椋杵(くらきね;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、娘の椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)を白仁(しらひと;景行(けいこう)天皇を神格化)と結婚させて、父の椋杵(くらきね)が亡くなって、椋子姫(くらこひめ)が落ち込んで、義理の息子の胡久美(こくみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と不倫した。
弟橘姫(おとたちばなひめ)の実父の祖別命(みおやわけのみこと)は、生まれる前に亡くなって、義父の野見宿禰(のみのすくね)が母の花橘(はなたちばな)を妃にして、父親同然の義父が亡くなって、弟橘姫(おとたちばなひめ)が落ち込んで、義理の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)と不倫した。
神狭日(かんさひ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を神格化)は、母の椋子姫(くらこひめ)の不倫を正さず、神狭日(かんさひ)の同母兄弟の兵主(つわものぬし)が父の6代目・高皇産霊(たかみむすび;景行(けいこう)天皇を神格化)に報告した。
神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の兄弟は、実母の弟橘姫(おとたちばなひめ)と異母兄弟の日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫を知って、兄弟のどちらかが6代目出雲国王で母を正さず、兄弟のどちらかが父の景行(けいこう)天皇に不倫を報告した。
妾(めかけ)の小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の皇后の瀬織津姫(せおりつひめ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)を妬(ねた)み憎んで、皇后を亡き者にせんと企(たくら)んで、白仁(しらひと;景行(けいこう)天皇を神格化)の息子の胡久美(こくみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と不倫した。
景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を妬(ねた)み憎んで、皇后を亡き者にせんと企(たくら)んで、景行(けいこう)天皇の息子(義理の息子)の日本武尊(やまとたけのみこと)と不倫した。
白仁(しらひと;景行(けいこう)天皇を神格化)は、妻の椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の不倫を知って、離婚して京都府宮津市に流刑としたが、椋子姫(くらこひめ)が出雲に帰国した。
景行(けいこう)天皇は、弟橘姫(おとたちばなひめの不倫を知って、離婚して京都府宮津市に流刑としたが、弟橘姫(おとたちばなひめ)が故郷の出雲王国に帰国した。
小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の孫の天押日(あめのおしひ;飯入根(いいいりね)を神格化)を夫(日本武尊)の娘(布忍姫;ぬのおしひめ)と結婚させて、父の神狭日(かんさひ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を神格化)の6代目出雲国王を継がせて、細矛千足国(さほこちたるのくに;山陰)の益人(ますひと;7代目出雲国王)にした。
弟橘姫(おとたちばなひめ)は、景行(けいこう)天皇との孫の飯入根(いいいりね)を今の夫である日本武尊(やまとたけのみこと)の娘の布忍姫(ぬのおしひめ)と結婚させて、息子の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)から孫の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)に交代させた。
この交代に乗じて胡久美(こくみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、皇位継承権争いに負けて、胡久美(こくみ)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の亡命者(流人)となって、細矛千足国(さほこちたるのくに;山陰)の益人(ますひと;7代目出雲国王)になった天押日(あめのおしひ;飯入根(いいいりね)を神格化)が胡久美(こくみ)を助けた。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、西暦251年(天皇不在の年)の皇位継承権争いに敗北して、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、義理の息子で7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)にかくまわれた。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、この益人(ますひと;出雲国王)交代時の細矛千足国(さほこちたるのくに;山陰)を整備して、真名井原(まないのはら;京都府北中部)の豊受大神(とようけおおかみ)を参拝した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と出雲にいて、この出雲国王の交代時に出雲王国を整備して、皇位継承権争いに敗北して、京都府北部の海岸から出雲王国に亡命した。

『ホツマツタエ』の日本神話は、小益姫早子(こますひめはやこ)をひもといて、弟橘姫(おとたちばなひめ)の物語のヒントにする。

天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は入れ替わって、椋杵(くらきね)の実子で、姉の益姫持子(ますひめもちこ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)が妾(めかけ)で、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を生んだ。
月読尊(つくよみのみこと)の妾(めかけ)で、妹の小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、長女が瀛津島姫竹子(おきつしまひめたけこ)で、次女が江之島姫湍子(えのしまひめたきこ)で、三女が市杵島姫田奈子(いちきしまひめたなこ)を生んで、「記紀」で素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘なのが不倫したからである。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を生んで、どちらかが6代目出雲国王で、細矛千足国(さほこちたるのくに;山陰)の益人(ますひと;国主)の神狭日(かんさひ)と兵主(つわものぬし)の兄弟に神格化して、どちらか決定的な根拠がない。
6代目・高皇産霊(たかみむすび;景行(けいこう)天皇を神格化)の弟(息子)は、神狭日(かんさひ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を神格化)と兵主(つわものぬし;誰を神格化したか不明)で、弟橘姫(おとたちばなひめ)との息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)のどちらかを神格化した。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)、3姉妹の宗像(むなかた)3神も生んだが、3姉妹の実名が分からなくて、最低でも5人兄妹である。
益姫持子(ますひめもちこ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)は、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の正妻の瀬織津姫(せおりつひめ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)を妬(ねた)み憎んで、虎視眈々(こしたんたん)と隙(すき)を狙って、皇后(正妻)の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を妾(めかけ)の弟橘姫(おとたちばなひめ)が憎んだのが正しい。
おそらく弟橘姫(おとたちばなひめ)は、皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)が自分より多くの子供を生んで、それを妬(ねた)み憎んだと考えられる。

素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、しばしば益姫持子(ますひめもちこ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の姉妹の元に外泊して、とうとう小益姫早子(こますひめはやこ)と蜜情を交(か)わした。
そんな時に月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は、姉妹に休みを取らせて、京都府宮津市に流刑して、弟橘姫(おとたちばなひめ)がそのまま出雲王国に帰国した。
弟橘姫(おとたちばなひめ)と不倫した日本武尊(やまとたけのみこと)は、後を追って出雲王国に滞在して、弟橘姫(おとたちばなひめ)と7人の息子をもうけて、皇太子でありながら大和を長期不在とした。
天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を大和にもらい受けて、小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の娘の宗像(むなかた)3神を出雲王国に連れて行ったが、早子(はやこ)の娘3姉妹を育児放棄して、弟橘姫(おとたちばなひめ)の叔母(おば)の豊姫紋子(とよひめあやこ;高田媛(たかだひめ)を神格化)が3姉妹を育てた。
益姫持子(ますひめもちこ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の姉妹は、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と瀬織津姫(せおりつひめ;八坂高依媛(やさかたかよりひめ)を神格化)への怨念(おんねん)を爆発させて、持子(もちこ)が九頭大蛇(こがしらのおろち)で、早子(はやこ)が八岐大蛇(やまたのおろち)になった。
しかし景行(けいこう)天皇と八坂高依媛(やさかたかよりひめ)の夫婦が亡くなって、日本武尊(やまとたけのみこと)の正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を天皇にしたいと考えて、異母兄弟の仲哀(ちゅうあい)天皇に対する怨念(おんねん)が正しいと考えられる。

弟橘姫(おとたちばなひめ)は、優秀な実父(じっぷ)と義父を持って、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)だが、義理の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)と不倫して、故郷の出雲王国(物部(もののべ)氏)の武将として息子たちを輩出して、出雲王国の傾国(けいこく;国を傾(かたむ)ける)の美女である。
妾(めかけ)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、景行(けいこう)天皇に不倫がバレて、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)の正妻になって、弟橘姫(おとたちばなひめ)の故郷の出雲に逃げて、二十年から三十年ほど滞在して、7人の息子をもうけて、景行天皇57年(西暦247年)までに日本武尊(やまとたけのみこと)が大和に戻った。
弟橘姫(おとたちばなひめ)は、神格化した女神と祖先化・子孫化した女性たちを求めて、その背景の歴史が悲劇だが、史実(歴史上の事実)を後世に伝える必要があって、小益姫早子(こますひめはやこ)を2022年10月15日に求めた。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼編・著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
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