応神(おうじん)天皇の疑問点
応神(おうじん)・・・応(こた)える神の天皇は、即位しない皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を指して、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)で、母の神功(じんぐう)皇后に応(こた)える(答える)意味と考えられる。
応神天皇は、『日本書紀』で母の神功(じんぐう)皇后が摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)で69年間すごして、その後で天皇になったと記し
て、その在位が年齢的にあやしいものと考えられる。
応神天皇は色々と疑問点が多く、最初の実在の天皇と考えられたり不明な点があって、実在したかも疑問が残る。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕にかかれば応神天皇の疑問点は、簡単にひもとけて誰もが納得できる解答を示せる。
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)に神功皇后は、対馬の鰐浦(わにうら)から船で出発して、新羅(しらぎ;古代朝鮮国家)を討伐して、同じく古代朝鮮国家の高句麗(こうくり)と百済(くだら)も従(したが)わせたとして、これを三韓征伐と言う。
仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に朝鮮半島から戻った神功皇后は、九州の宇瀰(うみ;福岡県粕屋郡宇美町)で、誉田別尊(ほむだわけのみこと;在位しない応神天皇)を生んだと記す。
九州から朝鮮半島に往復の3ヶ月で一国を平定して、他の2国も従えて帰還するのが不可能で、期間が短すぎて三韓征伐は嘘としか考えられない。
神功皇后は、京都府北部から船出して、仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)にいる義父の日本武(やまとたけ)天皇を殺して、三種の神器を取り戻して、三韓征伐が正しく求めると出雲王国の平定になる。
誉田別尊の出生地は、「うみ」と名付けられた古代地名から、島根県出雲市平田の地名が『出雲国風土記』楯縫郡で「宇美・宇美社」と記して、ここが誉田別尊の出生地の候補と考えられる。
もう一つの出生地の候補は、京都府与謝郡伊根町の宇良(うら;浦島太郎を祭る神社)神社で、「うみ」に発音の近い「うら」であること、浦島太郎のモデルが誉田別尊だろうこと、船で帰って生んだなどの理由が考えられるためである。
しかし誉田別尊の出生地は、一体どこか答えを求めるのに十分な史料がなくて、この2つの候補地以外に思い浮かばず、これ以上の追及をしない。
7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこと)を神格化)の娘の栲幡千千姫(たくはたちちひめ;神功皇后を神格化)と忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀天皇を神格化)の息子が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊を神格化)である。
『日本書紀』で瓊瓊杵尊の正式名称に天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)があって、天津彦根命(あまつひこねのみこと;武虎別皇子を神格化)の孫の瓊瓊杵尊を意味する。
火瓊瓊杵根尊(ほのににぎねのみこと)の名前は、誉田別尊が火の神様に神格化される物部(もののべ)氏の直系子孫を意味して、祖父の武虎別皇子が物部氏の出身の武将で、その娘が母の神功皇后である。
火瓊瓊杵根尊(誉田別尊を神格化)と息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)は、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)に初めて火の神様の血筋(物部氏)が入った証拠で、それ以前の皇祖神に火の神様が存在ない。
誉田別尊の異母兄の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟は、異母弟の皇子に皇位継承権を奪(うば)われる可能性を考えて、神功皇后に対して謀反(むほん)を起こしたが殺されて、神功皇后が三種の神器の扱いを変えるきっかけになった。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
摂政3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2歳弱の誉田別尊を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器で2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣を持たせて、誉田別尊と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
天照大神(神功皇后を神格化)の命令で、忍穂耳尊(仲哀天皇を神格化)と栲幡千千姫(神功皇后を神格化)が結婚して生まれた息子の瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)が三種の神器を持って宮崎県に行って、これが天孫降臨神話である。
誉田別尊は、福岡県粕屋郡宇美町で生まれたのが嘘で、大分県の宇佐八幡宮の祭神とされて、全国的に八幡宮の神様とされて、日向(ひうが;宮崎県)神話の瓊瓊杵尊に神格化して、九州に深く関わる。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社は、祭神の火火出見尊が海神(わたつみ)の宮に行く時、塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の作った籠船(かごふね)に乗った伝承がある。
また元伊勢籠神社の別の伝承には、火火出見尊が雪の中で籠船(かご)に乗って現れたとも伝えている。
京都府与謝郡伊根町の浦島太郎と京都府宮津市の元伊勢籠神社は距離が近く、火火出見尊(仁徳天皇を神格化)の父の瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)が立太子した時に大臣の初代・武内宿禰の作った船に乗って、日向に向かって天孫降臨したと考えられる。
しかし誉田別尊は、大和で立太子したはずで、大阪府の港から宮崎県に船出して、瓊瓊杵尊の船出を京都府北部の海岸に置き換えて、瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)と息子の火火出見尊(仁徳天皇を神格化)の伝承がごっちゃになったと考えられる。
日向(宮崎県)神話の神々は、高天原(たかまがはら;奈良県)の忍穂耳尊(仲哀天皇を神格化)の息子で、初めて宮崎県に降臨した瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)、その息子の火火出見尊(仁徳天皇を神格化)が宮崎県で生まれて、その息子の盧鳥草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊を神格化)も宮崎県で生まれて、その息子の神武(じんむ)天皇(仁徳天皇を祖先化)も宮崎県で生まれた。
盧は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
鳥は辞書に出てこない「へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
日向(宮崎県)神話の神々に神格化した誉田別尊と仁徳天皇は、九州の出身の妃が多くて、宮崎県を故郷とするのだから当然である。
応神天皇元年(西暦390年)から応神天皇41年(西暦430年)まで古代朝鮮国家群との外交を記す理由は、応神天皇を倭の五王の一人と勘違いさせるためで、母の神功皇后の偽った歴史を補佐する役目などもある。
しかし元々は在位しない応神天皇時代を偽装工作しても、正しい歴史を求められる僕からすると見苦しいことで、『日本書紀』の史実を汚(けが)し続けないでほしい。
神功皇后も応神天皇も『日本書紀』は、ありもしない歴史を何重にも作り上げて、歴代天皇の実在性を隠したように同じことをしている。
どんなに巧妙に隠しても、アインシュタイン博士以上の超天才の僕をだますことは本当にできない。
在位期間69年間の母の神功皇后よりも先に息子の誉田別尊が亡くなって、宮崎県で誉田別尊が亡くなって、亡くなった西暦年月が不明と考えられる。
応神天皇の在位期間の記述は、誉田別尊の亡くなった西暦年月と全く無関係で、神功皇后まで生まれと死去の年月がはっきり分かって、それ以降があいまいになる。
応神天皇陵の名前は、『日本書紀』に記されてなくて、『古事記』に惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)と記す。
応神天皇陵は国内で2番目に大きい古墳で、5世紀初頭の築造と考えられる前方後円墳で、誉田山(こんだやま;誉田御廟山:こんだごびょうやま)古墳と呼ばれて、所在地の大阪府羽曳野市誉田(こんだ)の地名が誉田別尊の人名に由来すると考えられて、誉田別尊陵が奈良県や大阪府に存在するはずがない。
宮崎市にある箸墓(はしはか)古墳(景行天皇陵)の相似形の前方後円墳である生目(いきめ)1号墳は、3世紀後半頃から4世紀前半頃の前方後円墳と考えられて、誉田別尊陵の有力候補である。
皇太子の誉田別尊(在位しない応神天皇)は、日本神話にその面影(おもかげ)を見ることができて、「記紀」の応神天皇時代の記述があまり当てにならないと考えられる。
誉田別尊の記述は、アインシュタイン博士以上の超天才の僕なら簡単に求められて、てこずるはずもない単純な問題である。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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