暦法の勘違いと真実
『ホツマツタエ』の暦法は、スス暦とアスス暦とキアエ暦の3つで、旧暦(太陰太陽暦)と西暦年(太陽暦)を使う日本人と全く違う感覚で、現代人(僕以外の人間)が『ホツマツタエ』の暦法を勘違いしたりして、古代日本人の感覚が分からなくて、誤解した可能性がある。
僕と現代人(僕以外の人間)は、『ホツマツタエ』と「記紀」などを独自に解釈して、年数を2倍や4倍に増減したりして、歴代天皇時代の年数が100年を超える理由などを探して、歴史研究を進化させて来て、超天才の僕でもまだ未解明で、少しずつ正しい可能性を導き出して、少し判明した答えを示す。
『三国志・魏志倭人伝』は、「魏略曰、其俗不知正年四節、但計春耕秋収為年紀」と記して、「史記『魏略』が言うには、その習俗が正しい年と4つの季節を知らなくて、ただ春に耕(たがや)して、秋に収穫するのを計算して、年の区分とするのみ」と解釈して、日本国内に暦法がないと古代中国人が理解したと読み取れる。
しかし『ホツマツタエ』は、3つの暦法を使って、崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)までの年号を読み取れて、日本国内に暦法がないと考えられず、『三国志・魏志倭人伝』を記す古代中国人が把握できなかった可能性がある。
魏王朝の使者は、伊都国((いとこく;福岡県田川郡糸田町の辺り)に滞在して、暦法を知らない農民と邪馬台国(大和国;やまとこく)が任命した統治者を記して、邪馬台国(大和国;やまとこく)の古代天皇家が暦法を知っていた可能性があって、組織の末端(北九州の統治者など)に暦法を知らせず、邪馬台国(大和国;やまとこく)が重要な情報(暦法など)を秘密にして、組織の結束力を強化して、古代天皇家が優位に立つように情報統制した可能性が考えられる。
専門家(歴史学会)が生み出した(春秋)2倍暦と4倍暦は、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の日本国内に暦法がなくて、正しい年と4つの季節を知らなくて、一年を『三国志・魏志倭人伝』の記述から2倍や4倍した暦法を使って、何の根拠もない空想上の産物である。
100年以上の歴代天皇時代は、在位期間を干支(えと)の60年間を足し算引き算して、100年を超えたりしたと説明できて、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)以降の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代に太陰太陽暦を使って、『ホツマツタエ』の日本神話と暦法の使用を僕が完全解釈して、これを絶対に否定できない。
『ホツマツタエ』のオモイカネ(思兼;物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、古代中国の後漢王朝の遣使(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づく僕の造語)で、太陰太陽暦を学習して、アマテルカミ(天照神;景行(けいこう)天皇を神格化)の初代の左大臣で、初代のヒヨミノミヤ(日読みの宮;暦(こよみ)作りの担当役)にもなって、帰還後の景行(けいこう)天皇時代の初めに4代目出雲国王になったと考えられる。
オモイカネ(思兼;物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、ヒヨミノミヤ(日読みの宮;暦(こよみ)作りの担当役)をムラクモ(天牟羅雲命;あめのむらくものみこと;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)が継いで、次にオモイカネの息子のタチカラヲ(手力雄;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)が継いで、物部十市根(もののべのといちね)以降に太陰太陽暦を使う長官が左大臣を務(つと)めたと考えられる。
物部十市根(もののべのといちね)は、垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の皇女の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、息子の物部夏花(もののべのなつはな)をもうけて、垂仁(すいにん)天皇29年から39年(西暦180年から190年)に古代中国の後漢王朝に行って、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に遣漢使(けんかんし)が帰国した。
物部十市根(もののべのといちね)は、古代中国の後漢王朝で、太陰太陽暦を学習して、古代天皇家に持ち帰る役目で、帰国後に左大臣の4代目出雲国王になって、景行(けいこう)天皇を補佐(ほさ)して、稲作や野菜などを育てる太陰太陽暦を重宝(ちょうほう)して、普及(ふきゅう)させたと考えられる。
『ホツマツタエ』は、3つの暦法を使って、16章で遺伝子レベルや超古代文明レベルの医学知識などを記して、卑弥呼(ひみこ;ヤマトヒメ)の男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇も記して、失われた超知識たちが「記紀」以上の第一級史料と考えられて、僕を含めた全人類が想像できない超知識(超感覚)が存在した。
『ホツマツタエ』のスス暦は、神様の時代(神代;かみよ)の暦法で、真榊(まさかき)と言う植物を神様が6万年で一本が枯れるから、何度も植(う)え替えて、数え続ける暦法で、謎に包(つつ)まれた数え方で、どうしてこの暦法を生み出したのか、誰かが答えを求めることを願う。
『ホツマツタエ』のアスス暦は、実在した天皇時代の暦法で、神武(じんむ)天皇即位前の15才(数え年)をアスス暦21年で、景行(けいこう)天皇56年(西暦246年;アスス暦843年)を最終年で、ネット検索して微妙に日数がずれたり、日数が正しくてずれない真逆の情報があって、歴代天皇時代を正しく把握した僕の自論と現代人(僕以外の人間)が誤解した歴代天皇時代に当てはめるためと考えられて、これからの研究・分析が正確に証明するだろう。
『ホツマツタエ』のアスス暦は、西洋の西暦年(太陽暦)と対比した暦法で、西暦年(太陽暦)を使用した僕の自論を誰も否定できなくて、神武(じんむ)天皇時代を参考に作ったと嘘(うそ)をついて、『ホツマツタエ』の作成が神武(じんむ)天皇をユダヤ人と錯覚(さっかく)させて、日ユ同祖論(日本人とユダヤ人が共通の祖先とする学説)などを作ったと考えられる。
『ホツマツタエ』のキアエ暦は、太陰太陽暦の60年周期の干支年(かんしねん)と全く同じ暦法で、干支(えと)と呼び方が違うだけと考えられて、『ホツマツタエ』が完成した6世紀から7世紀に干支(えと)を使って、何の不思議もないと結論付けて、僕がアスス暦を少し解明した。
『ホツマツタエ』孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)は、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)が正しくて、西の国々が争いを始めて、沈(ち)の口(くち;山陰道の入り口)と播磨(はりま;兵庫県西南部)と斐伊川(ひいかわ;島根県を流れる川)に忌部主(いんべぬし)を総大将で、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を副将に派遣した。
また兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)を吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)に、弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)を吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)に派遣して、争いのわけを聞いて、天皇の教えを説(と)いて従わせて、これが吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定で、吉備下路(きびしもぢ)が広島県東部かもしれない。
福井県敦賀(つるが)市の去来紗別宮(いささわけのみや;気比(けひ)神宮)は、彦狭島命(ひこさしまのみこと)を派遣して、越国(こしのくに;北陸)を平定して、完全な事実だが、西暦250年代の出来事である。
『ホツマツタエ』の吉備(きび)の平定は、垂仁(すいにん)天皇を祖先化した孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)で、480年が西暦180年と合致して、『ホツマツタエ』の西暦年の使用を証明した。
紀年法は、特定の年を紀元と定めて、それからたし算した経過年数で年代を表示して、紀元が理論上どの年でもかまわなくて、通常が政治的に定められて、日本で西暦年を使う前が神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)から始まる神武(じんむ)紀元や皇紀と呼んで、干支(えと)を使った干支紀年法(かんしきねんほう)などもある。
西暦年は、6世紀前半の西暦525年に神学者ディオニシウスがイエス・キリストの生誕年の翌年を西暦1年とした紀年法で、イエス・キリストの本当の生誕年が紀元前4年以前と考えられて、当時のヨーロッパで、ディオクレティアヌス紀元の紀年法が西暦284年8月29日を紀元として使われた。
西暦年は、その後も長く受け入れられず、西暦731年にベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』を西暦年で記して、だんだん普及して、10世紀頃に一部の国で使われ始めて、西ヨーロッパで一般化したのが15世紀以降で、世界中で最も使う暦法になったのがヨーロッパ各地の世界進出や植民地拡大で、非キリスト教国でも一般化した。
しかし古代天皇家は、ディオクレティアヌス紀元の紀年法でなく、西暦年の100年分割した紀年法を使って、西暦年が西暦731年以降に普及したが、『日本書紀』を献上した西暦720年以前に『ホツマツタエ』が採用して、絶対に覆(くつがえ)せない論理的根拠である。
『日本書紀』欽明(きんめい)天皇14年6月(西暦553年7月頃)は、古代朝鮮国家の百済(くだら)から暦博士(こよみはかせ)を賜(たまわ)ったと記すが、『ホツマツタエ』の暦法がスス暦とアスス暦とキアエ暦の3つで、日本神話から歴代天皇時代まで、詳細な日付を記して、古代天皇家で独自の暦法があったのが間違いなくて、正しく理解する必要がある。
『ホツマツタエ』孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)は、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)で、孝元(こうげん)天皇11年(アスス暦514年)が景行(けいこう)天皇14年3月15日(西暦204年4月中旬頃)で、孝元(こうげん)天皇13年(アスス暦516年)1月3日が景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)と対比した。
垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)は、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)の禁止、孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)が垂仁(すいにん)29年(西暦180年)で、祖別命(みおやわけのみこと)が吉備(きび;岡山県と広島県東部)を平定して、西暦181年が田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の派遣で、全て祖別命(みおやわけのみこと)に関わる年代である。
西暦188年は、田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が古代中国の魏王朝に宝物を下賜(かし)された年と考えられて、垂仁(すいにん)天皇3年が崩御年から3年を逆算して西暦188年で、垂仁(すいにん)天皇88年が西暦188年と合致したり、『ホツマツタエ』が西暦年を使ったのが間違いない。
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇時代の西暦188年は、『日本書紀』の僕が完全解釈した西暦188年とも合致して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が西暦年を使った事実を証明して、100%誰も反論できない。
孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)11年(アスス暦514年)3月15日に欝色謎命(うつしこめのみこと;高田媛(たかだひめ)を祖先化)は、娘の迹迹姫命(ととひめのみこと)を生んで、父の孝元(こうげん)天皇と共に行って、綜麻杵(へそきね;野見宿禰(のみのすくね)を祖先化)が大和の生簀(いけす)で、御饗(みあえ)を供進した。
綜麻杵(へそきね)の娘(養女)の伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)は、膳(かしわで)の御食(みけ)を進めて、孝元(こうげん)天皇が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を気に入って、妾(めかけ)の内侍后(うちめきさき)にして、弟橘姫(おとたちばなひめ)が数え年14才で、実年齢が13才である。
高田媛(たかだひめ)の娘の迹迹姫命(ととひめのみこと)は、本名(ほんみょう)が迹迹姫命(やまとととひめのみこと)と考えられて、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)と別人で、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)がワザと作られた人名と考えられる。
孝元(こうげん)天皇13年(アスス暦516年)1月3日は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)が生んだ息子の名前が忍信(おしまこと)で、諱(いみな;本名)が彦太(ひこふと)で、僕がクセで彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と呼ぶ。
景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に弟橘姫(おとたちばなひめ)は生まれて、孝元(こうげん)天皇11年3月15日に伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)が13才で、孝元(こうげん)天皇13年1月3日に伊香色謎命(いかがしこめのみこと)が息子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を祖先化)を生んだと計算して、旧暦とアスス暦の計算が合わない。
景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)に弟橘姫(おとたちばなひめ)は生まれて、景行(けいこう)天皇14年3月15日(西暦204年4月中旬頃)に弟橘姫(おとたちばなひめ)が13才で、景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んだなら、弟橘姫(おとたちばなひめ)に関する年数が正しくなって、アスス暦と西暦年が対応した。
景行(けいこう)天皇14年3月15日(西暦204年4月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、妾(めかけ)の高田媛(たかだひめ)と娘の迹迹姫命(ととひめのみこと)と一緒にいて、弟橘姫(おとたちばなひめ)を妾(めかけ)に迎えた。
景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が双子の可能性があって、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が大分県直入(なおいり)郡で生まれた可能性があるが、双子としたり、別々に生んだと記したり一貫(いっかん)しない。
僕が求めた年月や年齢は、間違いなく正しくて、アスス暦と西暦年の対比が完璧で、『ホツマツタエ』を3段階でまとめたのが2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)以降の竹内(たけうち)氏が編集に関わるなら、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』に痕跡(こんせき)があると考えられて、これを2024年1月17日の午後2時頃に記した。
『ホツマツタエ』孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)元年メ月(10月)12日は、開化(かいか)天皇が数え年51才で、弟橘姫(おとたちばなひめ)の数え年21才と合致させて、景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)に弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれて、景行(けいこう)天皇21年10月12日(西暦211年12月中旬頃)に弟橘姫(おとたちばなひめ)が数え年21才で、実年齢20才を示す。
孝元(こうげん)天皇元年を景行(けいこう)天皇21年とした時の開化(かいか)天皇7年1月12日は、景行(けいこう)天皇27年1月12日(西暦217年2月中旬頃)に父の孝元(こうげん)天皇の内侍后(うちめきさき;皇后より下の妃の位)である伊香色謎(いきしこめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)を開化(かいか)天皇が召(め)して皇后に迎(むか)えた時、孝元(こうげん)天皇と伊香色謎(いきしこめ)の長男の大御気主(おおみけぬし;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を祖先化)がそれを諫(いさ)め申し上げた。
これは、『ホツマツタエ』が旧暦年と西暦年を合致させた証拠で、孝元(こうげん)天皇元年を景行(けいこう)天皇21年とした時に開化(かいか)天皇7年1月12日を景行(けいこう)天皇27年1月12日にして、開化(かいか)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の数え年と合致させるなど、超天才の僕にしか解明できなかった。
景行(けいこう)天皇27年1月12日(西暦217年2月中旬頃)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、日本武尊(やまとたけのみこと)との不倫が発覚したのを報告した日で、『ホツマツタエ』の西暦年の使用が確実で、『古代天皇家の年表』の章などでも証明した。
『ホツマツタエ』は、アスス暦を西暦年に直した年数が正しくて、西暦年が3年間ずれたりして、『日本書紀』の歴代天皇時代の年数と合致するか調べて、『ホツマツタエ』の年数に注意して、年代特定する必要があって、超天才の僕が暦法の基礎を特定して、後世の教本を作った。
崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)までは、『日本書紀』の即位年干支法(そくいねんかんしほう)などが正しくて、『ホツマツタエ』のアスス暦などと対比して、超天才の僕が作成した年表などを参考にして、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の基本を研究・分析して、後世に託(たく)したいと思う。
『ホツマツタエ』のメ月は、『日本書紀』の旧暦の10月に当てはまって、なぜ10月をメ月と記すのか解釈できなくて、研究しても良いかもしれない。
『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年の干支(えと)で、歴代天皇の西暦年の特定方法で、何十年か前の専門家(考古学会と歴史学会)が利用したが、歴代天皇の崩年干支(ほうねんかんし)を飛び飛びで記して、当てにならなくて忘れ去られた。
2003年7月頃に僕は、『日本書紀』の歴代天皇全員の即位年が干支(えと)で記すと気付いて、即位年干支法(そくいねんかんしほう)と名付けて、2023年5月25日の午後5時頃に『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)が正しいと求めて、西暦84年から507年までの歴代天皇時代の西暦年月が完全に判明した。
仁徳(にんとく)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇までの(ほうねんかんし)は、間違いなく崩御(ほうぎょ)年が正しくて、他の干支(えと)も旧暦年と西暦年の修正で、年数がずれるのも計算して、『古事記』の干支(えと)が正しくて、「記紀」が40年間研究した理由で、僕の22年半以上の研究成果である。
『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱(あんしょう;頭の中の記憶を口で伝えること)して、太安万侶(おおのやすまろ)が4ヶ月で書き写(うつ)して、2人だけで作ったのが嘘(うそ)で、『日本書紀』と共に国家規模でまとめて、『日本書紀』と『古事記』の干支(えと)の関係から、第三者が『古事記』の作成に参加したと証明した。
西暦年と対比する元号(年号)は、元々が中国で始まって、朝鮮半島とベトナムも使ったが、現在まで使うのが日本だけで、日本の元号が大化元年(西暦645年)から現代(令和)まで合計248個の元号があって、元号でなく西暦年だけにする議論もあるが、日本古来の1300年以上の伝統を守りたい。
『ホツマツタエ』と「記紀」の暦法は、現代人(僕以外の人間)と僕自身も勘違いして混乱したが、僕がアスス暦と崩年干支(ほうねんかんし)などを特定して、大きな「きっかけ」で前進して、これからの歴史研究で、現代人(僕以外の人間)が僕を踏み台にして、新しい考え方をどんどん生み出す多様性に期待して、2025年6月6日の午前9時頃に修正した。
<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編訳者 八幡書店・発行
『ホツマ辞典』
池田満・訳者 ホツマ刊行会・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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