暦法の勘違いと真実


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

現代人(僕以外の人間)は、『ホツマツタエ』と「記紀」などの歴史書の旧暦を西暦年に直して記すが、本当に全ての年月日を修正するのが正しいか分からない。
これは現代人が常識・固定観念・先入観・理屈・伝統に捕らわれて、全ての年月日が旧暦で記された「思い込み」で、もしかしたら西暦年月日がそのまま含まれる可能性がある。
『ホツマツタエ』と「記紀」は、西暦年を把握して旧暦と対比したのが確かと考えられるが、西暦年月日がそのまま含まれてしまった可能性もあると考えられないか?
これは考えすぎと言えば考えすぎかもしれないが、邪馬台国(やまとこく;大和国:古代天皇家)時代が西暦年で記されて、4世紀から倭の五王の時代も歴代天皇時代全てが西暦年で、旧暦に直されていない可能性がないのか?
『日本書紀』は歴代天皇全員の干支(えと)を把握しているから、暦を理解しているが西暦年か旧暦という可能性が絶対にありえないのか?
知らず知らずのうちに常識・固定観念・先入観・理屈・伝統に捕らわれて、旧暦と西暦年の合致に「思い込み」が入り込んでいたら、間違っている可能性がないわけでないだろう。
これは純粋な疑問で、「思い込み」がないと絶対に言えるかの問題である。

シロウトの専門家が生み出した(春秋)2倍暦と4倍暦の間違いは、あまりに恥(は)ずかしい結果である。
『三国志・魏志倭人伝』は、「魏略曰、其俗不知正年四節、但計春耕秋収為年紀」と記して、「史記『魏略』が言うには、その習俗が正しい年と4つの季節を知らなくて、ただ春に耕(たがや)して秋に収穫するのを計算して年の区分とするのみ」と解釈する。
邪馬台国(大和国;古代天皇家)時代に日本国内に暦法はなくて、正しい年と4つの季節を知らないと思い込んで、「記紀」の歴代天皇が100年以上の在位期間もあって、(春秋)2倍暦や4倍暦が生み出された。
(春秋)2倍暦や4倍暦は、一年を『三国志・魏志倭人伝』の記述から2倍や4倍した暦法で、実際に何の根拠もない空想上の妄言(もうげん)にすぎない。
歴代天皇時代は、100年以上の在位期間を数えるのが干支の60年間の増減で説明できて、『ホツマツタエ』の中に暦法があって、邪馬台国時代に国内に暦法が間違いなくあったと考えられる。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕は、常識(当たり前)を根本的に疑ってかかって、現代人より高度な超知識が働いて、古代日本史を簡単に解決できて、その結果がこの指摘である。

『ホツマツタエ』の暦法は、スス暦とアスス暦とキアエ暦で、3つの暦法が使われることから、古代天皇家に高度な知識が存在したと考えられる。
『ホツマツタエ』は、16章で遺伝子レベルか超古代文明レベルの知識を記して、卑弥呼(ヤマトヒメ)の男弟(異母弟)の景行(けいこう)天皇を記すなど、古代天皇家の失われた知識が豊富で、「記紀」以前の国家規模で編纂(へんさん)された最古の歴史書と考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』は、伊都国(福岡県田川郡糸田町)に滞在した使者が暦法を知らない農民を記して、邪馬台国が任命した統治者が暦法を使って、それが『三国志・魏志倭人伝』の記述と考えられる。
『ホツマツタエ』のスス暦は、マサカキ(真榊;まさかき)という植物を神様が6万年で一本が枯れるから、植え継(つ)いで数え続ける神代(かみよ)の暦法で、謎に包(つつ)まれた数え方である。
『ホツマツタエ』のアスス暦は人代(ひとのよ)の暦法で、スス暦が神代の暦法とされて、神武(じんむ)天皇が即位前の15才(数え年)でアスス暦21年として、景行天皇56年(西暦246年;アスス暦843年)を最終年として、インターネット検索すると、微妙に日数がずれる情報と日数が正しくてずれない情報がある。
インターネット検索のどちらが正しいか分からなくて、アスス暦の計算が正しいか専門家にゆだねる。
『ホツマツタエ』のキアエ暦は干支と同じ60年周期で、太陰太陽暦の干支年(かんしねん)と全く同じと考えられて、干支の年の名前と呼び方が違うだけである。
『ホツマツタエ』の3つの暦法は、正しいか不明だが、高度な知識を要したと考えられる。

『ホツマツタエ』は、謎の年月のメ月が存在して、ちゃんと調べなければ分からない。
『ホツマツタエ』は、崇神(すじん)天皇10年9月15日と17日の後、崇神天皇10年メ月初日と22日を記して、『日本書紀』で崇神天皇10年9月27日と間違って記した後、崇神天皇10年10月1日と22日に変更して、謎の年月のメ月を10月とした。
『ホツマツタエ』のメ月は、現代語訳本でメ月を10月として、解釈されている例が多く見られて、正しいと考えるべきだろう。

『古事記』の歴代天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年に使われた干支で、かつて考古学会でも利用されて、歴代天皇の崩年干支が飛び飛びで記して、歴代天皇全員が記したら当てにできるが、当てにならなくて忘れ去られた。
しかし僕は、崩年干支と同じ干支に注目して、『古事記』でなく『日本書紀』を使えないかと考えた。

『日本書紀』の暦法は太歳(たいさい;太陰太陽暦)で、中国の干支年と全く同じで、実在の初代の崇神(すじん)天皇即位年が甲申(きのえさる)の年で、2004年も甲申の年で、2004年11月12日か13日に神武天皇を祭る橿原(かしはら)神宮で、僕が「天皇家誕生1920年目」の記述の絵馬を奉納して、西暦84年が崇神天皇即位年(建国)と知っていた。
西暦84年は、2004年から干支の60年周期を32回さかのぼった同年で、僕の考え方が確かなら間違いなく、天皇家誕生年(建国年)となって、崇神天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)が本当の建国記念日だが、僕に日付を特定する力がない。
崇神天皇元年(西暦84年)の甲申から神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年(西暦329年)の己丑(つちのとうし)までは正しい西暦年で、西暦84年から西暦329年までを僕が大和時代と呼んで、弥生時代中期までを弥生時代として、時代区分することを僕が提唱した。
『日本書紀』歴代天皇全員の即位年を即位年干支法(そくいねんかんしほう)と名付けて、崇神天皇から神功皇后までしか当てにならず、60年間の増減で在位期間をごまかす計算法を指摘できる程度である。

神武天皇と欠史(けっし)八代の9天皇は、僕が色々な方法で指摘して、実在しないと証明した。
垂仁天皇の在位期間の99年間は、60年間を引き算した39年間が正しいと証明した。
成務(せいむ)天皇の在位期間の60年間は、成務天皇が太陽神殺しの逆賊で、出雲王国(物部氏)の傾国(けいこく;国を傾(かたむ)ける)の日本武尊(やまとたけのみこと;日本武(やまとたけ)天皇)と同一人物で、1年未満の架空の在位にされることで証明した。
応神(おうじん)天皇より後の即位年干支法は、全く当てにできなくて、空白の4世紀と5世紀の倭の五王時代が幾ら僕でも、完全な予測となることを証明した。
西暦507年3月に即位した継体(けいたい)天皇からの即位年干支法は、確実に実在した史実の天皇ばかりで、即位年の干支と西暦年を見事に合致できる。

西暦年と対比する元号(年号)は、元々が中国で始まって、朝鮮半島とベトナムも使ったが、現在まで使うのが日本だけである。
日本の元号は、大化元年(西暦645年)から今年(令和2年)まで合計248個の元号があって、西暦年との対比に使われるが、太陰太陽暦なので太陽暦の西暦年月日に修正する必要がある。
令和元年の去年は、元号でなく西暦年だけにすべきとの議論もあったが、日本古来の1300年以上の伝統などが理由で却下された。

『ホツマツタエ』と『日本書紀』の暦法は、古代中国の歴史書と対比できなくするため、歴代天皇時代をずらして違う天皇時代の年数に直したり、同じ天皇時代でも年数を増減してごまかしたり、西暦年と対比して混乱させたりして小賢(こざか)しいが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕をだませなかった。
これらの指摘は、僕のホームページや本に幾らでも記したので、参考にしてもらえるとありがたい。

暦法の勘違いと真実は、もっと多く存在するだろうが、(春秋)2倍暦と4倍暦、『ホツマツタエ』のスス暦とアスス暦とキアエ暦やメ月、『古事記』の崩年干支、『日本書紀』の即位年干支法、日本の元号と西暦年など、シロウトから専門家や僕自身など様々な人間が入り混じって、勘違いや正しさを求めて研究してきた。
しかしどんなに研究し続けても、完全な答えは指し示されるか分からず、いずれ何らかの答えが出るだろう。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編訳者 八幡書店・発行
『ホツマ辞典』
池田満・訳者 ホツマ刊行会・発行
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