福知山市と大門の歴史


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

僕の生まれ暮らす京都府福知山市大門(だいもん)の歴史を少し起源と由来などをたどってみようと思う。
福知山市は、最初に歴史に登場したのが崇神(すじん)天皇10年11月頃(西暦93年12月頃)で、『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』や『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』が福知山市大江町の血原(ちはら;千原:せんばら)か蟻道(ありじ;有路)で、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国の女武将の匹女(ひきめ;僕は王妃の可能性を指摘する)が戦死したと記す。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、丹波(たんば)王国平定の総大将で、従軍した息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が崇神(すじん)天皇(彦坐王(ひこいますのみこ)の実弟)に丹波(たんば)平定を報告して、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の人名が国名になったと考えられる。
日本最古の書物『ホツマツタエ』は、丹波(たんば)を「たには」と記して、「たにわ」の呼び方を否定して、僕は「たには」が正しいと信じる。
元伊勢外宮の祭神の豊受大神(とようけおおかみ)は、「あなにえし、おも植えみし、田庭(たにわ;立派に実(みの)った田んぼの庭だ)」と言って、田庭(たにわ)の漢字を当てはめて、丹波(たんば)に変わって、古代から京都府が豊かな土地で、栗や黒豆やマツタケなどが名産である。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)は、場所が判明した最古の元伊勢が京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社で、石の祭壇がある奥宮(おくみや)の真名井(まない)神社で、この時に天橋立(あまのはしだて)が登場して、2022年が遷宮1900年目である。

西暦713年に丹波(たんば;京都府中部)と丹後(たんご;京都府北部)は分かれて、福知山市が天田郡(あまだぐん)に属して、福知山の地名の由来が丹波(たんば)平定の戦国武将の明智光秀(あけちみつひで)が城下町を名付けたと考えられて、近世初頭から幕末まで「福智山」とも書いて、「福知山」と「福智山」のどちらが正しいか分からない。

僕の暮らす下豊富(しもとよとみ)は、上豊富(かみとよとみ)と合わせて、豊富(とよとみ)と言う一地域で、平安時代中期の地名辞典『和名抄(わみょうしょう)』に「豊富庄(とよとみしょう)」と記して、平安時代中期に荘園(しょうえん;天皇家の直轄地)で、南北朝時代に京都市の天龍寺(てんりゅうじ)に寄進された。
日本国の呼び名は、古代に豊葦原国(とよあしはらのくに)と呼んで、下豊富(しもとよとみ)の芦田(あしだ)氏の腹(はら)にいる僕と言霊(ことだま;言葉の魂)に当てはめて、僕にまつわる奇跡の一つの言葉だった。

福知山市最古の神社は3候補で、福知山市今安(いまやす)の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と大江町の元伊勢内宮と大江町蓼原(たでわら)の舟戸(ふなと)神社で、創建時期がはっきり分かるのが天照玉命(あまてるたまのみこと)神社だけである。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝は、成務(せいむ)天皇時代に主祭神を大倉岐命(おおくらきのみこと)が今安(いまやす)に祭って、正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇時代か神功(じんぐう)皇后時代に祭ったと考えられて、西暦250年代から280年代ほどの時期に当たる。
元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏の先祖である大倉岐命(おおくらきのみこと)は、3世紀中頃から後半に実在した人物で、創建の時期と合致する。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の2代目・火明命(ほあかりのみこと)は、正式名を天照国照彦火明天櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりあめのくしたまにぎはやひのみこと)で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と火明命(ほあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)の3神が合体した神名である。
天照神(あまてるかみ)は、女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の前身で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が誕生した時期が7世紀後半から8世紀前半と考えられて、天照神(あまてるかみ)が元々の天皇家の最高神で、福知山市で最も神格の高い神社だった時期があると考えられる。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の創建年代は、3世紀中頃の社殿がない時代で、古代信仰の石などを御神体にして、仏教が伝来して、社殿を建てて祭ったと考えられる。

元伊勢内宮は、元々が男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を祭って、今が女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭るが、『ホツマツタエ』から京都府北部の元伊勢が宮津市と証明して、元伊勢内宮が後世に元伊勢を名乗ったと考えられる。
元伊勢内宮が最古の神社候補なのは、御神体山の日室岳(ひむろだけ;別名を一願(いちがん)さん)があって、奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)と同様で、非常に古い古代信仰の一つと考えられて、『ホツマツタエ』の記述に元伊勢内宮を指摘する者もいる。
レイライン(LeyLine;太陽の道)は、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱して、古代遺跡が直線的に並(なら)ぶように建造された仮説で、その遺跡群が指す直線を言うが、「太陽の道」がレイラインを扱ううちに太陽信仰の直線が存在すると言われるようになった。
富士山と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)は、元伊勢内宮がそのレイライン(太陽の道)上にあって、古代天皇家が富士山の存在を知ったのが静岡県を勢力地にして、神奈川県の平定が西暦251年頃だから、それ以前で間違いない。
出雲王国(物部(もののべ)氏)は、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に建国して、出雲大社がおそらく3世紀後半に創建して、富士山と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上に元伊勢内宮を祭って、古代天皇家が高度な測量と天文学の知識を駆使して、3世紀後半以降に元伊勢内宮ができた可能性もある。
日室岳(ひむろだけ)は、両丹日日新聞(福知山市付近で扱われる新聞)の2003年2月7日号に禁足地(きんそくち;足を踏み入れてはいけない聖域)の山頂に岩座(いわくら;神のよりしろ)と思われる巨岩が立つと記して、1500年以上前の人工的な古代信仰の証拠と考えられるが、多くの人が立ち入る。
元伊勢内宮の本殿から少し離れた場所にある礼拝所は、夏至の日に日室岳(ひむろだけ)の山頂に太陽が沈むように計算して、日室岳(ひむろだけ)を海部(あまべ)氏の先祖が見つけて、もう一つの元伊勢として祭って忘れ去られたと考えられて、福知山市最古の神社の候補とした。
元伊勢内宮は、聖徳太子(しょうとくたいし)の異母弟である麻呂子親王(まろこしんのう)時代の伝承があって、約1400年前から存在したと考えられる。
大江山の鬼退治伝承は、西暦93年から94年の彦坐王(ひこいますのみこ)による丹波(たんば)王国の滅亡、約1400年前の麻呂子親王(まろこしんのう)の鬼退治、平安時代の源頼光(みなもとのよりみつ)の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治の3つで、彦坐王(ひこいますのみこ)の鬼退治が人を鬼とたとえた。
僕は幼い頃に福知山市の近辺の寺社で、黒焦(くろこ)げの御神木を見て、おそらく元伊勢内宮の落雷した龍灯(りゅうとう)の杉だと思う。

舟戸(ふなと)神社は、『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』の丹波(たんば)王国平定で、由良川を下る舟(ふね)を蓼原(たでわら)に祭ったと記して、西暦100年までに祭った可能性があって、創建の時期が福知山市で最古かもしれないが、1965年に国道175号線の改修工事で、社域を冨士(ふじ)神社の社域に遷座された。
『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』は、丹波(たんば)王国の平定で、舞鶴市から兵庫県豊岡市の近くまで舟(ふね)で行ったと記して、舟(ふね)が川と海の違いを伝えて、舟戸(ふなと)神社の伝承が一方的な情報で、福知山市最古の神社と断定するのが不十分で、『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』の成立以前から舟戸(ふなと)神社が存在したと考えられて、明確な創建年代を求められない。
舟戸(ふなと)神社は、丹波(たんば)平定で用いた舟(ふね)を祭って、海で乗った舟(ふね)を祭った可能性も考えられて、決して丹波(たんば)平定の記述が間違いでない。
福知山市最古の神社は、この3候補を僕の自論で定めて、これを読んだ人物が判断してほしい。

福知山市大門(だいもん)の神社は、秋葉(あきば)神社と八柱(やはしら)神社と妙見(みょうけん)神社と毘沙門(びしゃもん)神社の4社があって、最も神格が高いのが秋葉(あきば)神社と考えられるが、八柱(やはしら)神社の本殿の神名が分からない。
大門(だいもん)は、地名の由来が不明で、1306年に「大門(だいもん)村 下司名(房暁法印 御年貢千疋 両所各五百疋)」で初見して、隣の和久寺(わくでら)が平安時代中期の古代地名辞典『和名抄(わみょうしょう)』で「天田郡(あまだぐん)和久郷(わくごう)」で初見して、和久郷(わくごう)の地域の一区分で、大門(だいもん)がいつ頃からか形成したと考えられる。

秋葉(あきば)神社は、静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社が有名で、この神社の祭神が軻遇突智(かぐつち)またの名を火産霊(ほむすび)で、国生みの男性の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が斬殺した息子で火の神様であって、神社本庁の傘下の秋葉(あきば)神社が全国に800社以上あって、秋葉(あきば)神社が火伏(ひぶせ)の神様を祭る。
大門(だいもん)は秋葉(あきば)神社と呼ぶが、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社が秋葉(あきば)と呼ばず、全国的に秋葉(あきば)神社か秋葉(あきは)神社と呼ぶ。
軻遇突智(かぐつち)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に従兄弟の垂仁(すいにん)天皇に皇位継承権争いで反逆した逆賊で、垂仁天皇7年(西暦158年)までに稲城(いなき)で焼死して、狭穂彦王(さほひこのみこ)が古代太陽神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化された。
軻遇突智(かぐつち)の別名の火産霊(ほむすび)は、火の神様を生み出す意味があって、産霊(むすび)が「生み出す」という意味があって、狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫の物部(もののべ)氏だけが火の神様に神格化した。
古代太陽神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化した狭穂彦王(さほひこのみこ)は、秋葉(あきば)神社の軻遇突智(かぐつち)に神格化したなら、大門(だいもん)で一番に神格が高いと考えられるが、軻遇突智(かぐつち)でなく、単に火伏(ひぶせ)の神様を祭るのかもしれなくて、秋葉(あきば)神社の創建時期が不明である。

大門(だいもん)の八柱(やはしら)神社の本殿は、神様が不明で、誰を神格化したのか分からないからどうにもならない。
神殿は本殿造(ほんでんづくり)で、構造や建築様式などからかなり古いようで、創建年代が不明で、申請すれば福知山市の文化財になると言う。
八柱(やはしら)神社の祠(ほこら)は、聖神(ひじりのかみ)や厄除(やくよけ)や天満(てんまん)や八幡(はちまん)や稲荷(いなり)などである。
聖神(ひじりのかみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の孫で、出雲系の神様か不明で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子孫が出雲系か高天原(たかまがはら)系に分かれると考えられて、日本神話を完全解釈できる僕以外に求められない。
厄除(やくよけ)や天満(てんまん)や稲荷(いなり)は、一般的に全国的に祭られて、その由来や意味を日本神話に結び付けたり、仏教に結び付けられたりと色々とある。
厄除(やくよけ)や厄払(やくばら)いは、日本人なら当たり前の考え方で、八柱(やはしら)神社の厄除(やくよけ)の由来が分からない。
八柱(やはしら)神社の天満(てんまん)は、天神(てんじん)でなく、天満宮の菅原道真(すがわらのみちざね)を指して、菅原道真(すがわらのみちざね)が天神(てんじん)と混同されたりするが区別する場合もある。
八幡(はちまん)の総本山は、宇佐(うさ)神宮で、母親の神功(じんぐう)皇后と息子の応神(おうじん)天皇と宗像(むなかた)三神を祭って、全国的に多く祭られる。
稲荷(いなり)は、全国的に祭られて、狐を想像するが眷属(けんぞく)で、日本神話の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が狐と混同されるが、『ホツマツタエ』でウケノミタマ(うかのみたま)を守護するように命じられた3匹の妖狐の伝承に基づく。

妙見(みょうけん)神社は、北極星や天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)を祭るが、明確な由来などがはっきり分からなくて、創建年代が不明である。
毘沙門(びしゃもん)神社は、文明(ぶんめい)12年3月(西暦1480年4月頃)に創建して、天台宗の比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の末社である。
毘沙門(びしゃもん)神社の仏像はその昔、古い毘沙門天(びしゃもんてん)の仏像が京都市で売りに出されたと聞いて、京都市に買いに行って、数人が交代でおんぶして、三日三晩かけて運んで、現在のお堂に安置した言い伝えがあって、毘沙門天(びしゃもんてん)の仏像がお堂に納(おさ)まる。
毘沙門(びしゃもん)神社は、毘沙門天(びしゃもんてん)が仏教の神様だから、天台宗の末社として創建した後、天台宗の高正寺(こうしょうじ)が創建されて、関係するか想像にすぎない。
ちなみに大門(だいもん)の寺は、天台宗の凌雲山(りょううんざん)高正寺(こうしょうじ)で、明応(めいおう)年間(西暦1492年から1501年)に創建したと伝える。

「記紀」や日本神話を完全解釈できる僕は、福知山市や大門(だいもん)の神社の由来などを求めて、世界中の誰にも求められないことが簡単に求められて、日本神話の神々の正体を求められる意味で、神に最も近い人間としての本領発揮で、2023年5月31日に修正した。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『竹内文書・但馬故事記』
吾郷清彦・著者 新国民社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
『ひっぱり壁』
田辺弘・著者 株式会社オカムラ・発行
天照玉命神社の伝承
インターネット

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