建国以来の流血の歴史
建国(天皇家誕生)以来の流血の歴史は、「記紀」や『三国志・魏志倭人伝』などの歴史書が伝える史実(歴史上の事実)で、何度も皇室が危機的状況にありながらも存続して、他国の介入が少なかった皇室の歴史が激動の時代で、流血を圧倒的に広げる結果につながって、流血の歴史を繰り返すべきでなく、互いに分かり合って、後世への教訓にすべき第一歩が大切である。
『三国志・魏志倭人伝』の記す古代天皇家の戦争は、2つの皇位継承権争いで、倭国大乱(わこくたいらん)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱は、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に神話化して、男王(だんおう)の反乱が日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の高天ヶ原(たかまがはら)の来訪から出雲の国譲(くにゆず)り神話まで史実(歴史上の事実)を神話化した。
倭国大乱(わこくたいらん)は、邪馬台国(やまとこく;大和国)が歴史の表舞台に出た出来事で、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に発覚した2代目出雲国王狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、皇后と逆賊が戦死して、中国の歴史書に歴年と記して、一年以上続いた内乱だった。
男王(だんおう)の反乱は、『三国志・魏志倭人伝』に卑弥呼の死後から国中遂定までの記述で、西暦251年(天皇不在の年)から仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)までで、日本武尊(やまとたけのみこと)が出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊させた内乱だった。
『日本書紀』の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟の反乱は、『三国志・魏志倭人伝』が記さない内乱で、『ホツマツタエ』に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の系図や時代が記されず、継母の神功(じんぐう)皇后の息子が戦死して、2020年9月12日に僕がこの戦争に気付くまで、完全に見逃した。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
仁徳天皇の異母兄弟である大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱は、神武(じんむ)天皇時代の長髄彦(ながすねひこ)の反乱に祖先化して、史実(歴史上の事実)を海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話に神話化して、西暦330年代に宮崎県から奈良県に及んだ大戦争だった。
その後の古代天皇家が関係した戦争は、吉備(きび)氏との争乱や仁賢(にんけん)天皇11年8月(西暦498年9月頃;正しくは武烈(ぶれつ)天皇時代)に8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)が起こした内乱などがある。
『ホツマツタエ』と「記紀」の記す古代天皇家の戦争は、初代の崇神(すじん)天皇から14代目の武烈(ぶれつ)天皇までの流血の歴史で、僕以外にひもとける人間がこの世に一人も存在しなくて、全てを判断できるからこそ求められる。
西暦587年の丁未(ていび)の乱(神仏戦争)は、神道派の物部守屋(もののべのもりや)と仏教派の蘇我馬子(そがのうまこ)が争った西暦587年の戦争で、蘇我馬子(そがのうまこ)側に幼少の聖徳太子が関わったことで知られて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の直系子孫である武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の蘇我(そが)氏の戦争で、物部(もののべ)氏の血筋同士の戦争で、物部(もののべ)氏の宗家が滅んだ。
西暦645年の乙巳(いっし)の変は、皇子の天智(てんじ)天皇と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)の親子を殺害した政変で、大化の改新と混同される出来事で、皇室が直(じか)に起こした戦争だった。
西暦672年の壬申(じんしん)の乱は、弘文(こうぶん)天皇と天武(てんむ)天皇の皇位継承権を巡る内乱で、弘文(こうぶん)天皇に反逆した天武(てんむ)天皇が勝利して、日本で反逆者が勝利した数少ない例である。
西暦1180年から1185年の源平合戦は、天皇家の子孫で家臣の源氏と平氏の戦争で、平清盛(たいらのきよもり)の孫の安徳(あんとく)天皇が戦死して、皇室でなく武士が実権を握る3つの幕府のきっかけを作った。
幕末は、黒船来航の西暦1853年から戊辰(ぼしん)戦争の1869年までで、武士から皇室に再び政治の実権を返す戦争で、明治時代に天皇家が再び権力を持った。
継体(けいたい)天皇の即位した西暦507年から幕末までの皇室は、国内だけの内乱を記して、天皇家の歴史が流血の時代を築き上げて、決して忘れてはならない。
日本と外国の戦争は、歴史上判明したのが「記紀」の記す古代朝鮮国家群との戦争で、4世紀以降のことで、倭(わ)の五王時代も多く起こった。
西暦1274年と1281年の元寇(げんこう)は、チンギス・ハンの孫フビライ・ハンの築いた国の元が攻めて来た2度の戦争で、特に2度目に日本へ派遣した海軍が当時の世界最大規模の艦隊だが、2度とも日本側が勝利した。
西暦1592年から1593年と1597年の豊臣秀吉の朝鮮出兵は、休戦と交渉を挟(はさ)んで朝鮮半島の国際戦争が16世紀の世界最大規模の戦争だが、日本の敗北に終わって、朝鮮半島に恨(うら)みの感情を生む原因になった。
明治27年(1894年)から明治28年(1895年)の日清戦争は、明治天皇が陸軍の元帥(げんすい)だが、日清戦争に反対で大臣の起こした戦争との立場を取って、日本が清王朝に勝利した。
明治37年(1904年)から明治38年(1905年)の日露戦争は、明治天皇が国の存続をかけて開戦を決定して、最終的に東郷平八郎が海戦で勝利して終戦した。
1914年から1918年の第一次世界大戦は、日本が連合国(ロシアとフランスとイギリスの側)の方に参戦して、中央同盟国(ドイツとオーストリアとハンガリーの側)と戦争して、史上死亡者数の最も多い戦争の一つで、参戦国や巻き込まれた地域が約50ヶ国だった。
1937年から1945年の日中戦争は、日本と中華民国の戦争で、二次世界大戦(太平洋戦争)のきっかけとなって、昭和天皇が軍隊の元帥だった。
1941年12月12日から1945年8月15日(終戦記念日)までの太平洋戦争は、第二次世界大戦の局面の一つを指して、日本人の軍人230万人と一般人80万人が亡くなって、アジア太平洋諸国で約2千万人以上の死者を出して、あまりに悲惨な流血の上に作られた歴史である。
昭和天皇は、第二次世界大戦の戦争責任で、一身を捨てて国民のために殉(じゅん)ずる覚悟を言われて、マッカーサー元帥を強く感動させたと言われて、東京裁判で昭和天皇が裁かれず、天皇制の継続が決定して、今日(こんにち)に至る。
しかし太平洋戦争で日本は、世界中の嫌(きら)われ者になる覚悟で、戦勝国になるつもりが一切なく、国民も欺(あざむ)いて起こした戦争で、国民の軍人と民間人の命と魂も多く犠牲にして、得た虚(むな)しい戦争の裏側で、そのおかげで太平洋諸国が欧米諸国からの早い独立を勝ち取って、太平洋諸国の固い結束を作り上げる影響を日本から受けて、世界各国が独立するきっかけになった。
日本と外国の戦争は、何度も流血の上に築かれた史実(歴史上の事実)で、僕らの知らない所で多くの流血の歴史があった。
その後の皇室は、政治の実権を失って、国民の象徴としてメディアによく取り上げられて、日本の平和の象徴と言っても良くて、戦後79年が平和だったが、近年の安保法案で戦争を心配する。
安倍首相は、2014年7月1日に集団的自衛権の行使を閣議決定して、安保法案が戦争法案と呼ばれて、第二次世界大戦のような過去に戻るのでないかと心配される。
自民党は、安保法案で戦争して敗戦した時、皇室を断絶させる可能性が絶対にないと誰も保障できなくて、戦争だと何でもまかり通って、皇室を巻き込まないと言い切れるのか?
自民党は、安保法案の本当の怖さを分からず、僕が起こした革命で証明した今世紀に建国2千年を迎える天皇家の史実(歴史上の事実)をどう受け止めて、皇室を存続させるための賢明な判断がいる。
福知山市出身で日本国憲法作成の委員長だった芦田均(ひとし)首相の遺志は、同じ福知山市出身の僕が世界的救盟主の皇室を守って、アインシュタイン博士の後継者的存在でもある僕が核兵器廃絶や戦争放棄を訴えて、人々の役に立ってから死んで逝(い)きたい。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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