建国以来の流血の歴史


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建国以来の流血の歴史は、「記紀」などの歴史書が伝える史実で、西暦84年に建国してから1937年目の今年まで繰り返され続けた歴史の上に築かれて、何度も皇室が危機的状況にありながらも存続した。
他国に介入されることの少なかった皇室の歴史は、世界中の文明の広まりと共に幕末や太平洋戦争で外国を巻き込んで、流血を世界的に広げる結果につながった。
流血の歴史は繰り返すべきでなく、互いに分かり合って何としても未来に平和を築くための第一歩が大切である。

『三国志・魏志倭人伝』の記す古代天皇家の戦争は、倭国大乱(2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)と男王の反乱(皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱)である。
倭国大乱(狭穂彦王の反乱)は、黄泉国(よみのくに)下り神話に神話化して、男王の反乱(日本武尊の反乱)が素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊を神格化)の高天ヶ原(たかまがはら)の来訪から出雲の国譲り神話まで神話化した。
『日本書紀』に隠れた鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟の反乱は、『ホツマツタエ』に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の系図や時代が記されず、僕が見逃(みのが)してしまった。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
神武(じんむ)天皇時代の長髄彦(ながすねひこ)の反乱(大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱)は、日本神話の海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話に神話化した。
『ホツマツタエ』と「記紀」の記す皇位継承権争いは、初代の崇神(すじん)天皇の実兄で、最古の皇族の彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする出雲王家の2度の内乱(倭国大乱と男王の反乱)、邪馬台国(やまとこく;大和国)の記述にない鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟の反乱、皇位継承権を持つ皇子の大山守皇子の反乱と合わせて4つである。

倭国大乱(狭穂彦王の反乱)は、邪馬台国(やまとこく;大和国)の名前が歴史の表舞台に出た直接の出来事で、垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に発覚した出雲王国の裏切りで、中国の歴史書に歴年と記されて一年以上続いた内乱だった。
男王の反乱(日本武尊の反乱)は、『三国志・魏志倭人伝』に卑弥呼の死後から国中遂定までの記述で、西暦251年(天皇不在の年)から仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月までで、日本武尊が出雲王国を崩壊させた内乱だった。
鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟の反乱は、『三国志・魏志倭人伝』に記されない内乱で、摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月)に始まって、10月2日(11月上旬頃)までに終戦した。
長髄彦の反乱(海幸彦と山幸彦の神話;大山守皇子の反乱)は中国の歴史書に記されない邪馬台国の後の戦争で、父親の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が決めた皇位継承権を持った仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の大山守皇子が仁徳天皇に対して起こした内乱で、西暦330年代に宮崎県から奈良県に及んだ大戦争だった。

その後の古代天皇家が関わった戦争は、吉備(きび)氏との争乱や仁賢(にんけん)天皇11年8月(西暦498年9月頃;正しくは武烈(ぶれつ)天皇時代)に8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)が起こした内乱などがある。
『ホツマツタエ』と「記紀」の記す古代天皇家の戦争は、初代の崇神天皇から14代目の武烈天皇までの崇神天皇の血筋である古代天皇家の流血の歴史で、僕以外に正史をひもとける人間がこの世に一人も存在しなくて、何が正しいか間違いか分かるからこそ求められる。

西暦507年に即位した15代目の継体(けいたい)天皇から116代目の今上(きんじょう)天皇(現在の天皇陛下)までは、直系の血筋が百一代に渡って続いたと伝えて明確な根拠がないが、今年まで数えて合計1513年に及ぶ歴史が刻まれた事実である。
神仏戦争は神道派の物部守屋(もののべのもりや)と仏教派の蘇我馬子(そがのうまこ)が争った西暦587年の戦争で、蘇我馬子の方に厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれた聖徳太子が関わったことなどで知られて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の直系子孫である武内宿禰の子孫の蘇我(そが)氏の戦争で物部氏宗家が滅んだ。
乙巳(いっし)の変は西暦645年に皇子の天智(てんじ)天皇と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)の親子を殺害した政変で、大化の改新と混同される出来事で皇室が直(じか)に起こした戦争だった。
壬申(じんしん)の乱は弘文(こうぶん)天皇と天武(てんむ)天皇の皇位継承権を巡る西暦672年の内乱で、弘文天皇に反逆した天武天皇が勝利した数少ない例である。
源平合戦は西暦1180年から1185年にあった天皇家の子孫で臣下になった源氏と平氏の戦争で、平清盛(たいらのきよもり)の孫の安徳(あんとく)天皇を戦死させて、皇室でなく武士が実権を握るきっかけを作った。
幕末は黒船来航の西暦1853年から戊辰(ぼしん)戦争の1869年までを指して、武士から皇室に再び政治の実権を返す戦争だった。
継体天皇から幕末までの皇室は、国内だけの内乱を記すが、天皇家の流血の歴史が時代を築いて来た。

日本と外国の戦争は、歴史上判明したのが「記紀」の記す古代朝鮮国家群との戦争で、4世紀以降のことである。
元寇(げんこう;西暦1274年と1281年)はチンギス・ハンの孫フビライ・ハンの築いた国の元が攻めて来た2度の戦争で、特に2度目に日本へ派遣した海軍が当時の世界最大規模の艦隊だが、2度とも日本側が勝利した。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(西暦1592年から1593年と1597年)は2度で、休戦と交渉を挟(はさ)んで朝鮮半島の国際戦争が16世紀の世界最大規模の戦争だが、日本の敗北に終わって、朝鮮半島に恨(うら)みの感情を生む原因になった。
日清戦争は、明治27年(1894年)から明治28年(1895年)に起こって、明治天皇が陸軍の元帥(げんすい)だったが、日清戦争に反対で大臣の起こした戦争との立場を取って、日本が清王朝に勝利した。
日露戦争は、明治37年(1904年)から明治38年(1905年)に起こって、明治天皇が国の存続をかけて開戦を決定して、最終的に東郷平八郎が海戦で勝利して終戦した。
第一次世界大戦(1914年から1918年)は、日本が連合国(ロシアとフランスとイギリスの側)の方に参戦して、中央同盟国(ドイツとオーストリアとハンガリーの側)と戦争して、史上死亡者数の最も多い戦争の一つで、参戦国や巻き込まれた地域が約50ヶ国だった。
日中戦争は、1937年から1945年までの日本と中華民国の戦争で、二次世界大戦(太平洋戦争)のきっかけとなって、昭和天皇が軍隊の元帥だった。
太平洋戦争は1941年12月12日から1945年8月15日(終戦記念日)までで第二次世界大戦の局面の一つを指して、日本人の軍人230万人と一般人80万人が亡くなって、アジア太平洋諸国で約2千万人以上の死者を出して、あまりに悲惨な流血の上に作られた歴史である。
昭和天皇は第二次世界大戦の戦争責任で、一身を捨てて国民のために殉(じゅん)ずる覚悟(かくご)を言われて、マッカーサー元帥を強く感動させたと言われて、東京裁判で昭和天皇が裁(さば)かれず、天皇制の継続が決定して今日(こんにち)に至(いた)る。
日本と外国の戦争は、何度も流血の上に築かれた史実で、僕らの知らない所で多くの流血の歴史があった。

その後の皇室は政治の実権を失って国民の象徴としてメディアによく取り上げられて、日本の平和の象徴と言ってもよく戦後75年が平和だった。
しかし安倍首相は、2014年7月1日に集団的自衛権の行使を閣議決定して、安保法案が戦争法案と呼ばれて、第二次世界大戦のような過去に戻るのでないかと心配される。
安倍政権や自民党は、安保法案で戦争して敗戦した時、皇室を断絶させる可能性が絶対にないと誰も保障できないことを分からず、戦争だと何でもまかり通って皇室を巻き込まないと言えるのか?
安倍政権や自民党は、安保法案の本当の怖さを分からず、僕が起こした革命で証明した今年で建国1937年が後63年したら2千年を迎える天皇家の史実をどう受け止めて、皇室を存続させるなら安保法案の廃止と政権交代の責任が当たり前である。
福知山市出身で日本国憲法作成の委員長だった芦田均首相の遺志を受け継いで、同じ福知山市出身の僕が現在の政治だけでなく、人類規模での大革命を起こす時が来て、世界的救世主の本領発揮となるのかもしれない。
世界中の人々が平和を求める時、僕はアインシュタイン博士の後継者的存在として核兵器廃絶や戦争放棄の先兵として戦って、人々の役に立ってから死んで逝(い)きたい。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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