成務(せいむ)天皇の疑問点

成務天皇は、「記紀」に記されるが存在感が薄(うす)くて、在位期間のわりに記述が少ないことが原因である。
成務天皇は、疑問点が多いことが目立つが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕からしてみれば、あまりに簡単に答えが求められる。

景行(けいこう)天皇元年4月(西暦191年5月頃)に内侍(うちめ;皇后より下の妃の位)である吉備津彦(きびつひこ)の娘の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)が身ごもって生まれるはずだったが、景行天皇元年12月15日(西暦192年1月中旬頃)に双子の皇子を生んで、弟を小碓尊(おうすのみこと)と名付けて、後の日本武尊に当たって、翌年の景行天皇2年5月(西暦193年6月頃)に播磨稲日大郎姫を皇后にしたと記す。
インターネット検索で『ホツマツタエ』の解釈文を見ると、景行天皇2年12月15日が日本武尊の出生と記すが、『ホツマツタエ』の前後の文脈から考えて間違いと考えられる。
吉備津彦は景行天皇の異母兄弟の祖別命(みおやわけのみこと)だが、その娘の播磨稲日大郎姫が架空の人物…作られた存在で、日本武尊の出生が間違いと考えられる。
『ホツマツタエ』景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)が成務(せいむ)天皇を生んで、諱(いみな)を高義(たかよし)で、名を莵道仁(うちひと)で、幼名を武内麿(たけうちまろ)と記す。
諱は「忌み名」とも「真名(まな)」とも呼ばれて、本当なら本名(ほんみょう)を口にすることをはばかれて、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける風習があって、諱が人の本名を指すようになってから、諱に対して普通に人を呼ぶ時に使う名前を字(あざな)と言って、ほとんどの日本人が字を使う。
『ホツマツタエ』は、八坂高依媛という名前を記して、「記紀」が八坂入媛(やさかたかいりひめ)と記すが、『ホツマツタエ』の呼び名が正しいと考えられる。
幼名の武内麿は、もっと後に生まれる初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;「たけうちのすくね」とも言う)と重なり、そう呼んだのが本当に正しいかあやしい。
八坂高依媛は、成務天皇を生んだのが莵道麿(うぢまろ)の館で、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)がいたと記すが、屋主忍男武雄心命が景行天皇の孫なのであり得ず、屋主忍男武雄心命の息子が初代・武内宿禰で、八坂高依媛が紀伊国(きいのくに;和歌山県)を訪れて、成務天皇を出産したのも嘘だろう。
八坂高依媛は紀伊国(和歌山県)で成務天皇を生んだのが嘘で、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡(景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)で生まれたと考えられる。
日本武尊の母親は、実在の皇后の八坂高依媛で、成務天皇と日本武尊が同一が同人物で、日本武尊が景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)生まれと考えられる。

景行天皇元年(西暦190年)は干支(えと)の辛未(かのとひつじ)で、成務天皇元年(西暦250年)も同じ干支の辛未で、景行天皇と成務天皇が在位期間が同じ60年間で、あまりに不自然である。
『日本書紀』成務天皇元年は成務天皇の即位で、成務天皇2年が父の景行天皇の葬礼で、成務天皇3年が初代・武内宿禰の大臣の任命で、成務天皇4年が国郡(くにこおり)や県邑(あがたむら)に統治者を立てる計画で、成務天皇5年が統治者の任命である。
成務天皇48年は、甥(おい)の仲哀(ちゅうあい)天皇を皇太子に任命である。
成務天皇60年は、成務天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)で、『日本書紀』の成務天皇時代の記述がたったこれだけで、実在性があまりの希薄で、在位していなかったと考える方が自然である。
成務天皇2年の景行天皇の葬礼は、仲哀天皇元年11月10日(西暦252年12月中旬頃)の景行天皇陵(箸墓(はしはか)古墳)の葬礼が史実である。
成務天皇3年の初代・武内宿禰の大臣任命は、仲哀天皇3年1月7日(西暦253年2月上旬頃)までに中部地方から東北地方南部までを統治下に置いて、初代・武内宿禰が奈良県に帰還した根拠にならないから意味がない。
成務天皇4年の国郡や県邑に統治者を立てる計画は、仲哀天皇3年2月1日(西暦254年3月上旬頃)までに中部地方から東北地方南部までを統治下に置いたから立てられた計画である。
成務天皇5年の統治者の任命は、仲哀天皇4年9月(西暦255年10月頃)に中部地方から東北地方南部まで国造(くにみやつこ)を任命して、これを証明する考古学的証拠がある。
福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、3世紀後半の前方後円墳と考えられて、石背(いわせ)国造か阿尺(あさか)国造が古墳埋葬者と考えられて、千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳は、3世紀後半の前方後円墳と考えられて、菊麻(きくま)国造か上海上(かみうなかみ)国造が古墳埋葬者と考えられて、考古学(考古学的証拠)と歴史学(歴史書解釈)が完全に合致する。
成務天皇48年の仲哀天皇の皇太子任命は、正しく求めると景行天皇48年3月1日(西暦238年4月上旬頃)で、仲哀天皇が皇位継承者になったと考えられて、皇太子で父の日本武尊以外に、異母弟の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)も皇位継承者である。
このように『日本書紀』の成務天皇時代は、完全に否定されて在位したのが嘘だとばれて、僕以外に求められるわけがない。

成務天皇は、『日本書紀』に稚足彦尊(わかたりひこのみこと)と記して、日本武尊が別名を小碓尊とも記して、同天皇時代に2人の皇子に「尊(みこと)」が使われた例外がないと考えられる。
『日本書紀』の日本神話の最初に「命(みこと)」より「尊(みこと)」の方が高位と記して、神名なら歴代の天皇や皇后や重要人物を神格化して末名に「尊」を記して、人名が国政執行…政治した人物だけに限られると考えられる。
成務天皇は、天皇だから政治をして当たり前で、日本武尊が「記紀」以外の他書で天皇と記すから、政治をしたのが確かで、成務天皇との同一人物説が強くなる。
景行天皇が足彦(たりひこ)で、息子の日本武尊が稚足彦(わかたりひこ)で、孫の仲哀天皇が足仲彦(たりなかひこ)で、祖父と子と孫までの3世代で足(たり)の字が使われて、「足(たり)」王朝と呼ぶ学者もいるが、全ての人物は景行天皇と成務天皇と仲哀天皇が親子関係にないと考えて、「足」王朝が成立しないと思い込む。
成務天皇と日本武尊は同一人物なら、祖父と子と孫までの「足」王朝が成立して、歴代天皇の国風諡号(しごう)に共通性がある場合を証明する。
『古事記』に成務天皇の妃は、穂積(ほづみ)氏の建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘・弟財郎女(おとたからのいらつめ)で、息子の和訶奴気王(わかぬけのみこ)を生んだと記す。
『日本書紀』に日本武尊の妃は、穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘・弟橘姫(おとたちばなひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を子孫化)で、息子の稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだと記されて、『ホツマツタエ』に弟橘姫の実父が田道間守(たじまもり)で押山(おしやま)が義理の父親に当たると記す。
総合すると弟橘姫は、実父が田道間守(祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)で、義理の父親が野見宿禰(のみのすくね)と考えられて、建忍山垂根と忍山宿禰が共通の穂積氏の出身で、日本武尊を架空の人物としたのが成務天皇で、弟橘姫を架空の人物としたのが弟財郎女で、稚武彦王を架空の人物としたのが和訶奴気王になって、要するに実在の人物と架空の人物が同一人物になる。
日本武尊は、『ホツマツタエ』や「記紀」などで特別待遇の皇子で、『常陸国風土記』で「倭武(やまとたけ)天皇」と記して、『阿波国風土記』で「倭健天皇命(やまとたけのすめらみこと)」と記して、天皇にならずに不遇の死を遂げたが、他書で天皇と記すのが明らかにおかしい。
成務天皇は、在位期間が60年間でありながら、在位10年足らずの記述しか目立たず、むしろ在位しなかったと考えるのが自然で、日本武尊と同一人物なら、架空の天皇としても説明しやすい。

景行天皇60年10月2日(西暦250年11月中旬頃)に東海を日本武尊が総大将で、北陸を日本武尊の異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を平定に向かって、11月7日(12月中旬頃)に景行天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
景行天皇は亡くなって、皇太子の日本武尊が東海の平定で不在で、日本武尊の2人の息子が仲哀天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)で、皇位継承者だったので日本武尊の不在に皇位継承権争いをしたと考えられる。
皇位継承権争いで蘆髪蒲見王は戦死して、景行天皇46年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に日本武尊は、二種の神器か三種の神器を強奪して、強行即位して日本武(やまとたけ)天皇になった。
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武尊を祖先化;男王)は、甥(おい)の崇神(すじん)天皇に対する逆賊で、日本武尊が息子の仲哀天皇に対する逆賊なのを祖先化してごまかして、どんなにうまく細工(さいく)しても系図をごまかせなかった。
崇神天皇10年9月15日(西暦251年10月中旬頃)に北陸の平定から戻った大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子を祖先化)は、自分の異母兄弟や甥たち(皇位継承権争いをする者たち)のことを止めるために帰還した。
崇神天皇10年9月17日(西暦251年10月中旬頃)から末日(10月下旬頃)までに倭迹迹日百襲姫命(倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化;卑弥呼)は亡くなって、武埴安彦命(日本武尊を祖先化)の反乱が終了した。
日本武尊は、古代太陽神を祭る伯母(おば)の倭姫命(卑弥呼)を殺して、古代天皇家で禁忌の太陽神殺しと呼べる行為で、皇族の全てを敵に回して日本武天皇(男王)になって、出雲王国に亡命して、成務天皇と同一人物以外に考えられない。
『三国志・魏志倭人伝』は、卑弥呼が死んで、男王が即位して国中が認めなくて、互(たが)いに戦って千人余(あま)りが死んだと記して、日本武天皇(男王)を指すのが確かである。

仲哀天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に出雲王国の攻撃中に仲哀天皇が崩御して、おそらく日本武天皇の軍勢が仲哀天皇を戦死させて、仲哀天皇の正妻の神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)が義父の日本武天皇を恨(うら)んだと考えられる。
仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に神功皇后は、出雲王国に攻撃を再開して、これを神話化したのが出雲の国譲り神話である。
この時に出雲に邪馬台国(大和国)と出雲王国の主要人物がそろって神格化して、日本神話の神々が出雲に集中して、それが全国で神無月と呼んで、出雲が神有月(かみありづき)と呼ばれる理由である。
日本武天皇は、婿(むこ)養子で最後の出雲国王の飯入根(いいいりね)が三種の神器を始めとする神宝を神功皇后に返して、それに怒って飯入根を殺した。
神功皇后は、それを知って吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)に命じて、日本武天皇を殺したことで戦争が終結して、日本武天皇が享年(きょうねん)64才で、出雲王国が崩壊した。
成務天皇は、出雲との関係が全く記さないが、日本武尊が出雲と関係ありすぎで、この程度の特定など簡単すぎた。

成務天皇陵は、狭城楯列陵(さきたたなみのみささぎ)と記されて、佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の前方後円墳に比定するが、成務天皇が在位しないから成務天皇陵が存在するはずがない。
日本武尊陵は、奈良県か島根県のどちらにあるか分からず、日本武尊が亡くなったのが出雲王国の崩壊での戦死で、白鳥陵(しらとりのみささぎ)に比定するのが全て間違いで、奈良県なら年代的に大和(おおやまと)古墳群の中にあると考えられる。

成務天皇は、実在性が日本武尊との二重性で混乱させて、架空の天皇と実在の謎の皇子を作り上げて、真実を隠そうと躍起になったが、僕がひもとくことを願ってあちこちに証拠を残した。
真実を求めたのは僕だけで、専門家をはるかにしのぐ僕の超頭脳だけが答えを導き出して、この史実をひもといた。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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