『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』

『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』は、全10巻で形成して、天地開闢(てんちかいびゃく)神話から推古(すいこ)天皇までの歴史を記して、平安時代初期頃に成立した歴史書で、現在が偽書(ぎしょ;「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」に反する書物)とするが、平安中期以降長く「記紀」に並(なら)ぶ歴史書と評価して、一部の神道関係者が神典として重宝して、後代の人物の創作でなく、内容に平安時代以前の物があると評価したり、今も研究対象と評価する学者もいる。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』は、5巻の『天孫本紀(てんそんほんき)』に物部(もののべ)氏と尾張(おわり)氏の系図を細かく記して、全体的に物部(もののべ)氏に関係した記述が多くて、著者が誰か分からないが、物部(もののべ)氏の出身の可能性を指摘する。

「記紀」は、本当と嘘(うそ)を記して、『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』も本当と嘘(うそ)を記して、僕の自論である『日本書紀』の神名や人名の末名の「尊(みこと)」と「命(みこと)」の書き違いもあって、間違いなく西暦720年に献上した『日本書紀』より後世に成立したと証明して、平安時代初期頃に成立した歴史書と考えて間違いなくて、著者が『日本書紀』に精通したと考えられる。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の蘇我馬子(そがのうまこ)の序文は、「推古(すいこ)天皇の勅(みことのり;天皇の言葉)を奉(ほう)じて、聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)が西暦620年に編纂(へんさん)にとりかかって、622年に完成した」と記すが、平安時代初期頃に成立で、西暦720年に献上した『日本書紀』の特徴などから、奈良時代以降の書物と証明された。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』は、聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)が西暦620年に編纂(へんさん)を命じて、後世の物部(もののべ)氏の血筋がまとめ上げて、成立したから物部(もののべ)氏に関係した記述が多いと考えられる。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の本文は、内容の多くが「記紀」や『古語拾遺(こごしゅうい)』(西暦807年成立)を元にすることから、それ以降の書物と考えて間違いなくて、成立の時期で嘘(うそ)をついた事実が判明した。

3巻の『天神本紀(てんじんほんき)』は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話を記して、日本最古の神話で、饒速日尊(にぎはやひのみこと;日子坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の大阪府平定の神話化、西暦334年の饒速日尊(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)による神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)即位の神話化の2つが統一されて、1つの神話と勘違いした。
『先代旧事本紀』は、物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと)を記して、物部(もののべ)氏の始祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)と直系子孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の3人を饒速日尊(にぎはやひのみこと)に神格化して、それぞれに神格化された理由もあるが、細かい理由を他の章に任(まか)せる。

5巻の『天孫本紀(てんそんほんき)』は、古代豪族の物部(もののべ)氏と尾張(おわり)氏の系図を記して、物部(もののべ)氏の系図が宗家(本家)の系図を正しく求めると、4世代から5世代ほどの断絶を証明できて、『物部氏(もののべ)の系図』の章に細かく記す。
尾張(おわり)氏の系図は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社にある日本最古の系図の国宝『海部(あまべ)氏系図』と共通して、海部(あまべ)氏の大倉岐命(おおくらきのみこと)と尾張(おわり)氏の大倉岐命(おおくらきのみこと)が分家して、尾張(おわり)氏の系図の分析がめんどくさいため、他人に任(まか)せる。
『天孫本紀(てんそんほんき)』の山無媛(やまなしひめ)は、物部多遅麻(もののべのたじま)と安媛(やすひめ)の娘で、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の母親で、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)と同一人物と考えられる。
和珥(わに)氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は、母が分からなくて、皇太子の莵道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と矢田皇女(やだひめのみこ)と雌鳥皇女(めとりひめのみこ)を生んだ。
つまり物部多遅麻(もののべのたじま)は、日触使主(ひふれのおみ)で、妻が安媛(やすひめ)で、娘の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)が山無媛(やまなしひめ)で、和珥(わに)氏が物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏と共通氏族で、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)と山無媛(やまなしひめ)が同一人物でもおかしくない。

10巻の『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、成務(せいむ)天皇5年9月の国造(くにみやつこ;国主)任命が正しく求めると、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)で、東北地方南部から中部地方の古墳埋葬者を特定できると考えられて、『東日本の古墳埋葬者』の章で紹介して、東北地方と関東地方の最古である前方後円墳の埋葬者を記す。

東北地方の最古の前方後円墳は、福島県河沼(かわぬま)郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造と考えられる。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「石背国造(いわせくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、故(ゆえ)に連許侶命(たけころのみこと)の功(子)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記されて、石背(いわせ)が福島県岩瀬郡(いわせぐん)辺りを指す。
天津彦根(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子の連許呂命(たけころのみこと)は、3世紀中頃の人物で、その息子が建彌依米命(たけみよりまいのみこと)で、仲哀(ちゅうあい)天皇4年9月(西暦255年10月頃)に国造(くにみやつこ;国主)を任命した。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「阿尺国造(あさかくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)と同祖の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の十世孫の比止彌命(ひとねのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記されて、阿尺(あさか)が福島県郡山市一帯を指して、どちらかが古墳埋葬者と考えられる。
阿岐国造(あきくにみやつこ)と阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)は、神様の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の子孫で、安芸国造(あきくにみやつこ;広島県西部)の統治者が正しくて、この国造(くにみやつこ;国主)が安芸国造(あきくにみやつこ)の親戚で、阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)が書き間違いである。

関東地方の最古の前方後円墳は、千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳で、3世紀後半の築造である。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「菊麻国造(きくまくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、无耶志国造(むさしくにみやつこ)の祖である兄多比命(あにたひのみこと)の兒(子)の大鹿国直(おおかくにのあたい)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、菊麻(きくま)が千葉県市原市菊麻(きくま)の地を指す。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、天穂日命(あめのほひのみこと)の八世孫の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、上海上(かみうなかみ)が千葉県市原市の南部辺りを指して、どちらかが古墳埋葬者と考えられる。
『古事記』で菊麻国造(きくまくにみやつこ)と上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)は、天菩比命(あめのほひのみこと)の子である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子孫とされて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の直系系譜で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の親戚関係に当たって、神門(ごうど)の3古墳が物部(もののべ)氏の埋葬者と考えられる。

東北地方の最古の前方後円墳は、3世紀末から4世紀初頭の築造と考えられる杵ヶ森(きねがもり)古墳で、古墳埋葬者が石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとねのみこと)で、関東地方の最古の前方後円墳が3世紀後半の築造の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳で、古墳埋葬者が菊麻国造(きくまくにみやつこ)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の一族で、100%間違いないと考えられる。

『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』は、偽書(ぎしょ;「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」に反する書物)でなく、正当な判断のできる超天才の僕が証明して、2025年3月1日の午後9時10分頃に修正した。

<参考文献>
『先代旧事本紀 訓註』
著者・大野七三 発行・批評社
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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