千家(せんげ)氏の系図
「物部(もののべ)氏の系図」や「大国主神(おおくにぬしのかみ)の系図」や「大物主神(おおものぬしのかみ)の系図」などと対比する必要がある。千家(せんげ)氏は、初代と2代目と3代目と6代目と7代目の出雲国王の血筋を引いて、4代目と5代目の出雲国王が別の血筋になって、僕の自論の血筋に間違いない。
『ホツマツタエ』のホヒは、日本神話の天穂日命(あめのほひのみこと)で、日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化して、その息子のオオセイイミクマノが日本神話の大背飯三熊野(おおせいいみくまの)で、日本武(やまとたけのみこと)尊の婿(むこ)養子で7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化して、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の祖先神で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の子孫である。
『ホツマツタエ』のオオセイイミクマノの子孫は、フリネの弟がイイリネで、その弟がウマシカラヒサで、イイリネの息子がウカツクヌで、その息子がノミノスクネである。
『日本書紀』の大背飯三熊之大人(おおせいいみくまのうし)は、武日照命(たけひてるのみこと)と同一神で、その子孫の出雲振根(いずもふりね;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の弟が飯入根(いいいりね)で、その弟が甘美韓日狭(うましからひさ)で、飯入根(いいいりね)の息子が盧濡渟(うかずくぬ)で、その息子が野見宿禰(のみのすくね)だが、野見宿禰(のみのすくね)が先祖である。
盧は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
『日本書紀』の野見宿禰(のみのすくね)は、垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)から垂仁天皇32年(西暦183年)に登場して、先祖が間違いで、子孫の盧濡渟(うかずくぬ)が崇神(すじん)天皇60年でなく、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月に登場する。
天穂日命(あめのほひのみこと)は、初代の出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の統治者)で、盧濡渟(うかずくぬ)が12代目の出雲国造(いずもくにみやつこ)とするが、神功(じんぐう)皇后時代に盧濡渟(うかずくぬ)が初代の出雲国造(いずもくにみやつこ)に任命された。
僕が求めた系図は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の子孫が天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)が入れ替わって、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と同一神である。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の娘の須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、武日照命(たけひてるのみこと;飯入根(いいいりね)を神格化)と大背飯三熊野(おおせいいみくまの;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚したことにもなって、息子の盧濡渟(うかずくぬ)が生まれた。
飯入根(いいいりね)の弟の甘美韓日狭(うましからひさ)は、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と「うまし」の名前が共通して、漢字が違うが「うまし」が出雲王国(物部(もののべ)氏)に関係する名前である。
物部(もののべ)氏は、甘美(可美;うまし)や色(醜;しこ)や熊野の名前が共通して、直系子孫を火の神様や雷神や水神や海神や槌の神様などに神格化して、特徴を僕だけが気付いた。
盧濡渟(うかずくぬ)の息子は、野見宿禰(のみのすくね)が間違いで、甘美韓日狭(うましからひさ)の息子が野見宿禰(のみのすくね)とする系図もあって、野見宿禰(のみのすくね)の子孫が盧濡渟(うかずくぬ)で間違いない。
盧濡渟(うかずくぬ)の息子の襲髄(そつね)は、野見宿禰(のみのすくね)と同一人物でなく別人で、その息子の来日田維穂(きひたいほ)が『古事記』の垂仁(すいにん)天皇時代の岐比佐都美(きひさつみ)と同一人物でなく別人で、その息子の三島足奴(みしまのすくね;三島宿禰)が「記紀」に登場しない。
三島足奴(みしまのすくね)の息子の意宇足奴(おうのすくね;淤宇宿禰)は、『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇時代の応神天皇(おうじん)41年(西暦370年)に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ;仁徳天皇の兄弟)と登場するが、履中(りちゅう)天皇4年(西暦370年)が正しい年代である。
盧濡渟(うかずくぬ)と曾曾孫の意宇足奴(おうのすくね;淤宇宿禰)は、年代的に考えて血縁関係が正しくて、千家(せんげ)氏の実在した系図が正しいと考えられる。
意宇足奴(おうのすくね)の息子の出雲宮向(いずものみやむき)は、「記紀」に登場しなくて、反正(はんぜい)天皇4年(409年)か允恭(いんぎょう)天皇元年(412年)に出雲の名字(みょうじ)を与えられて、安康(あんこう)天皇15年(409年)か安康(あんこう)天皇18年(西暦412年)が正しい年代である。
出雲宮向(いずものみやむき)の7世代後の出雲果安(いずものはたやす)は、元正(げんしょう)天皇の霊亀(れいき)2年(西暦716年)に『出雲国造神賀詞(いずもくにみやつこかんよごと)』を奏上して、出雲宮向(いずものみやむき)から出雲果安(いずものはたやす)まで約300年で、系図が正しいと考えられる。
出雲果安(いずものはたやす)の子孫の出雲清孝(いずもきよのり)は、生まれ年が不明で西暦1343年死去で、実弟の千家孝宗(せんげのりむね)が生没年不明で、西暦1343年から1371年まで出雲大社の神職で、千家(せんげ)氏の名字を名乗って、その実弟の北島貞孝(きたじまさだのり)が西暦1343年からいつまでか不明だが出雲大社の神職で、北島(きたじま)氏の名字を名乗った。
西暦1343年に出雲国造(いずもくにみやつこ)は、分裂して千家(せんげ)氏と北島(きたじま)氏に分家して、幕末まで(せんげ)氏と北島(きたじま)が出雲大社の職務を平等に分担して、明治時代から現代まで千家(せんげ)氏が出雲大社宮司を務(つと)める。
火継式(ひつぎしき)は、正式名称を神火相続式(おひつぎしき)と言って、「火(ひ;霊)」を受け継いで、言霊(ことだま;言葉の霊魂)で「日(ひ;陽)」にも通じて、千家(せんげ)氏の出雲大社宮司が亡くなって、代替わりした時にする行事で、火(ひ)の神様(日(ひ)の神;太陽神)の物部(もののべ)氏を直系子孫の千家(せんげ)氏が受け継ぐ意味である。
出雲大社宮司は、亡くなると新しい宮司が喪(も)に服(ふく)す間もなく、すぐに出雲大社の斎館(いつきやかた)に籠(こ)もって、潔斎(けっさい)した後、燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)を持って、熊野大社の鑽火殿(せんかでん)で、燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)で、鑽(ひ)り出されて、起きた火の神火(おひ)で、調理した食事を神前に供(そな)えて、同時に宮司も食べる。
その後は、神魂(かもす)神社に行って、饗宴(きょうえん)を受けてから、出雲大社に戻って、奉告(ほうこく)の儀式をして、火継式(ひつぎしき)が終了する。火継式(ひつぎしき)で鑽(ひ)り出した神火(おひ)は、その後に国造館(くにみやつこやかた)の斎火殿(さいかでん)で保存して、宮司が在任中にこの火で調理した物を食べるが、宮司以外の家族でも、この料理を口にすることを許さないと言われる。
火継式(ひつぎしき)の火(ひ)は霊(ひ)で、その火で調理した料理を食べて、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)以降の歴代出雲大社宮司の霊魂を自らの中に取り込むとされて、先祖代々の祖先神を受け継ぐのである。
初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、太陽神の要素を失ったが、火の神様の物部(もののべ)氏を受け継ぐ直系子孫の千家(せんげ)氏が出雲大社を祭って、先祖代々の血筋や特徴などを僕が特定して、全部の意味・価値が判明して、これからの子孫に伝える奇跡である。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の直系子孫の千家(せんげ)氏は、アインシュタイン博士以上の超天才の僕しか求められなくて、2020年5月にこの系図を作成して、2024年6月11日に修正した。
<参考文献>
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『出雲神話の謎を解く』
澤田洋太郎・著者 株式会社新泉社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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