神代(しんだい)文字

神代(しんだい)文字は、神代(かみよ)文字とも読んで、漢字以前の時代に日本国内にあった古代文字とされて、神代(しんだい)文字の歴史書や日本各地の岩などに刻まれた彫刻のペトログリフ(岩刻文字)もあって、後世に神代文字とされた物もあって、神代(しんだい)文字が存在したか賛否両論に分かれて、神代(しんだい)文字の存在を巡って議論される。
神代(しんだい)文字は、日本各地の神社でご神体や石碑に記したり、神事に使ったり、神社の符や札やお守りに使ったり、神代(しんだい)文字の文章が奉納されたりして、鎌倉時代の頃から調停の学者が研究して、江戸時代に多くの学者が古代文字の存在を否定して、現代まで存在の否定が主流で、現代の古神道などの研究者たちを中心に少数で存在を支持する。
神代(しんだい)文字の存在は、否定説が主流だが、僕が参考文献『ホツマ辞典』を2004年2月に購入して、『ホツマツタエ』を歴史研究し始めてから、神代(しんだい)文字のホツマ文字だけが存在を証明されて、他の神代(しんだい)文字の存在が証明できないが、国家規模で古代文字の存在が正しいと認めて、あまりに大きな一大事になる。

神代(しんだい)文字の種類は、数十種類あって、僕がホツマ文字だけを証明して、他が全て証明できなくて、古史古伝(こしこでん;「記紀」と異なる書物)と関係が深い神代(しんだい)文字がホツマ文字と天名地沈(あないち)と豊国(とよくに)文字とサンカ文字とカムカタナ文字などで、それらの詳細を記す。

ホツマ文字で記す『秀真伝(ほつまつたえ)』と『三笠文(みかさふみ)』と『太占(ふとまに)』は、以降にカタカナで記して、僕の記述の大半がカタカナである。
『日本書紀』と『古事記』以上の第一級史料の『ホツマツタエ』は、ホツマ文字やヲシテ文字や伊予文字などと呼ぶ神代(しんだい)文字で記して、類似した書物が『ミカサフミ』と『フトマニ』で、『ホツマツタエ』が日本の建国年(天皇家誕生)の西暦84年以降に天皇家で使われた神代(しんだい)文字で、国家規模で正式な古代文字と認められて、圧倒的な一大事である。
神代(しんだい)文字の信憑性(しんぴょうせい)は、『ホツマツタエ』と『ミカサフミ』と『フトマニ』だけを証明して、神代(しんだい)文字のホツマ文字だけを証明して、他の文字の信頼性を実証できなくて、神代(しんだい)文字の信頼性と直結しない。
『ホツマツタエ』は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の生年月日や葬礼日を記して、他にも僕が色々と証明した功績を誰も否定できなくて、日本の建国(天皇家誕生)以降の年月日も「記紀」より正確に記して、「記紀」より信頼性が高くて、僕を超える人間が誰も出現しないと考えられる。
第一級史料の『ホツマツタエ』は、「記紀」の基礎の記述で、「記紀」より古い日本最古の本と証明して、神代(しんだい)文字のホツマ文字の存在を認めさせて、日本国内に古代文字が存在して、世界中の歴史より高度な文化を持った日本を思い浮かばせて、世界中を震撼(しんかん)させる。

『富士宮下文書(ふじみやしたもんじょ)』は、神代(しんだい)文字でなく、漢字と万葉仮名で記して、『ホツマツタエ』と同様に僕が証明した古史古伝(こしこでん;「記紀」と異なる書物)で、藤原氏の祖先神と忌部(いんべ)氏の祖先神の太玉命(ふとだまのみこと)が物部(もののべ)氏の人間を神格化したと証明して、その信頼性を実証した。
『ホツマツタエ』と『富士宮下文書(ふじみやしたもんじょ)』は、古史古伝(こしこでん)の中で、僕が確実に正当な歴史書と証明して、誰にも否定できない完全な証拠で、歴史研究で誰にも理解できるようにして、新しい希望になるように纏(まと)める必要がある。

『ミカサフミ』は、藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)が記して、3世紀後半に景行(けいこう)天皇の皇子の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)がまとめた可能性があるが、後世の藤原氏の先祖が大鹿島(おおかしま)を名乗ってまとめた可能性があって、『ミカサフミ』の日本神話などの記述を分析して、いつ頃に作成したか求める必要があって、「記紀」との関連性が深い。
『フトマニ』は、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の三輪大臣季聰(みわのおおおみのすえとし)がまとめた占(うらな)いと関係が深い128首の和歌集で、いつ頃作られたか求められない。
『ミカサフミ』と『フトマニ』は、『ホツマツタエ』と同じホツマ文字で記すが、違う目的で作れた書物で、この3書の研究が今後の課題で、僕の求めた『ホツマツタエ』が突破口になるだろう。

天名地沈(あないち)は、磨迩字(まにな)や六行成字(むさしもじ)やウマシアシカビ字とも呼んで、神代(しんだい)文字の一種で、今でも宮崎県対馬市の雷(いかずち)神社で使って、薩摩(さつま)藩の書物などに記して、九州で主に使うと考えられて、茨城『竹内文書』にウマシアシカビ字で登場して、弥生時代や古墳時代よりも後世の文字と考えられる。

豊国(とよくに)文字は、豊国(とよのくに;古代の福岡県東部と大分県)で使ったと勘違いしてはならず、大分県などにある古史古伝『上記(うえつふみ)』に使われて、日本各地の古い神社で使われて、大分県国東(くにさき)市に豊国(とよくに)文字の碑文の巨岩があって、全国的に使われる一般的な神代(しんだい)文字と考えられる。
豊国(とよくに)文字は、古体象字と新体象字の2種類があって、両方とも日本語の50音に対応して、平安時代初期に吉備真備(きびのまきび)が作った片仮名の起源の可能性があって、片仮名の起源説に疑問を投げかけるが、現代で片仮名の起源説を一般的に支持されない。

山窩(さんか)文字は、日本国内にいた山窩(さんか)と呼ばれる放浪民が使った神代(しんだい)文字とされて、第二次世界大戦直後に山窩(さんか)が全国に1万人ほどいたとするが、明確な人口の調査がされなくて、あくまで予測で、山窩(さんか)文字が豊国(とよくに)文字から派生したと三角寛(みすみひろし)の作った嘘(うそ)と考えられる。

カムカタナ文字は、1949年から1956年までに楢崎皐月(ならさきさつき)が発見・解読して、成立年代や原本の所在も不明で、古代日本の哲学や科学技術を記して、公的な学術や学会から現在も認められず、解読した文章が正しいかも分からなくて、信頼性がかなりあやしい。

壁画や記号と考えられて、文字でないとする神代(しんだい)文字は、確かな証拠が存在しても、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で認められなくて、北海道異体文字と筑紫(つくし)文字などで、それらの詳細を記す。

北海道異体文字は、アイヌ文字とも呼んで、北海道の洞窟などに記した神代(しんだい)文字で、先住民族アイヌ人か北海道の縄文人が記した古代文字と考えられて、出雲文字と北海道異体文字が外見上の類似性を指摘して、北海道異体文字がメソポタミア文明のシュメール人やアッシリア人と深く関係する可能性も指摘した。
北海道異体文字は、北海道だけで確認された物で、一般的に古代文字と認識して、中国地方の出雲文字やメソポタミア文明との関連性を指摘して、色々な世界中の文字との可能性を指摘して、北海道異体文字が国際的な古代文字の可能性があるが、壁画や記号と考えられて、文字でないとする説もある。

筑紫(つくし)文字は、福岡県うきは市の6世紀後半頃に築造した前方後円墳の重定(しげさだ)古墳の石室に記す神代(しんだい)文字だが、壁画や記号と考えられて、文字でないとする説もあって、茨城『竹内文書』にヤソヨ文字として登場するらしく、古代文字と言い切れない。

紀元前14世紀頃の古代中国の甲骨(こうこつ)文字や甲骨(こうこつ)文字の後の金文(きんぶん)と言う文字など漢字の原型と類似する神代(しんだい)文字は、阿比留草(あひるくさ)文字と琉球古字(りゅうきゅうこじ)などで、それらの詳細を記す。

阿比留草(あひるくさ)文字は、対馬の阿比留(あびる)氏が伝えた神代(しんだい)文字で、阿比留(あびる)氏が西暦813年に対馬の統治氏族となって、阿比留草(あひるくさ)文字をたまたま先祖が不明の阿比留(あびる)氏が使って、幾つかの書体があって、茨城『竹内文書』や『九鬼文書(くかみもんじょ)』に阿比留草(あひるくさ)文字が使われた。
阿比留草(あひるくさ)文字は、伊勢神宮に奉納した神代(しんだい)文字の奉納文で最も多く見られて、日本各地の古い寺社の鹿島(かしま)神宮や出雲大社や法隆寺などにも伝わると記して、各地の神社で奉納分や符やお守りなどに使って、一般的な神代(しんだい)文字で、古代中国の甲骨(こうこつ)文字や金文(きんぶん)に似て、阿比留草(あひるくさ)文字を基本にした文字の説がある。

琉球古字(りゅうきゅうこじ)は、沖縄県で占(うらな)いに使った文字らしく、17種類の文字があって、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を表わして、日本の本土でも似たような文字が見つかるが、詳しくは分からず、古代中国の甲骨文字で十干十二支(じっかんじゅうにし)をできる以前の十二支(じゅうにし)と言う暦(こよみ)を起源とする説がある。

その他の神代(しんだい)文字は、区分のできない物で、阿比留(あひる)文字と阿波(あわ)文字と出雲文字と対馬文字などで、まとめてそれらの詳細を記す。

阿比留(あひる)文字は、対馬の占部(うらべ)氏と阿比留(あびる)氏が伝えたとする神代(しんだい)文字で、江戸時代の平田篤胤(ひらたあつたね)が阿比留(あひる)文字を阿比留草(あひるくさ)文字の草書体とするが、現代で一般的に別の字と考えられて、朝鮮半島で使うハングル語と形が似て、関連性が指摘されたけれど、証明できていない。

阿波(あわ)文字は、徳島県名東(みょうどう)郡佐那河内村(さなごうちそん)の大宮八幡(おおみやはちまん)神社に伝わる神代(しんだい)文字で、阿比留草(あひるくさ)文字や豊国(とよくに)文字に似て、阿比留草(あひるくさ)文字と阿波(あわ)文字を混(ま)ぜて書くこともあって、伊勢神宮に阿波(あわ)文字の奉納文がある。

出雲文字は、出雲大社の辺りの書島(文島;ふみしま)と言う石窟の岩壁に記した神代(しんだい)文字と記して、高知市の川村家に秘伝の巻物があって、その中に出雲文字を記すと言われて、千葉県成田(なりた)市の麻賀多(まかた)神社で、出雲文字で記す縁起があると伝えて、茨城『竹内文書』に出雲文字がトヨノ文字として登場して、物部(もののべ)氏の関係と僕は考える。
出雲文字は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国年の西暦95年以降に使った神代(しんだい)文字で、物部(もののべ)氏の各地への分散と共に伝わって、日本各地に出雲文字の文章が残されて、現代まで出雲文字の存在が伝わったと考えられて、物部(もののべ)氏の関係があくまで僕の想像にすぎない。

対馬文字は、亀卜(きぼく)と言う占(うらな)いから生まれた神代(しんだい)文字とされて、阿比留草(あひるくさ)文字や阿比留(あひる)文字を使う対馬の占部(うらべ)氏と阿比留(あびる)氏が使って、日本語の50音を表わす47音の文字からなって、茨城『竹内文書』にモモノ木文字として登場して、今でも対馬市の雷(いかずち)神社で対馬文字が使われる。

神代(しんだい)文字は、日本独自の古代文字と思われるようだが、世界中に神代文字の痕跡(こんせき)があって、日本から世界中に人々が飛び回って、文明や文字を伝えたのが考えすぎでなく、間違いの無い事実と考えられる。
中国の甲骨(こうこつ)文字は、3千年以上前の殷(いん)の時代に作られて、それがそのまま漢字の基になったと言うが、甲骨(こうこつ)文字が阿比留草(あひるくさ)文字の形と音の両方が対応して、甲骨文字と阿比留草(あひるくさ)文字が同じ起源を持つ説がある。
中国で見つかった謎の文字の「呉城(ごじょう)文字」や「山東省碑文(さんとうしょうひぶん)」や「岐山(ぎざん)文字」は、甲骨(こうこつ)文字より古い文字で、中国の学者が読み解けないが、神代(しんだい)文字で解読できると言う。
紀元前3世紀のマウリヤ朝マガダ国の時代にインドで使われたカローシュティ文字とブラーフミー文字は、阿比留草(あひるくさ)文字と出雲文字から派生した物として、世界中に神代(しんだい)文字で読める古代文字が多く存在して、謎の不思議な関係性があると考えられる。

山口県下関市彦島の杉田(すぎた)丘陵のペトログリフ(岩刻文字)は、シュメール文字と古代バビロニア文字と古代中国の文字などで記されて、それを僕の最初の著書『古代日本史への挑戦』で自己解釈して、上段と下段に分けて読んで、古代天皇家との関係があるのでないかと定義付けて、神代(しんだい)文字を色々と分析した。
神代(しんだい)文字の可能性は、日本だけでなく、世界中に広がって、拡大解釈をせずに原文に忠実に訳して、正しく解釈することが大切で、2024年2月3日の10時半すぎに修正した。

<参考文献>
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『知の探究シリーズ 世界超古代文明の謎』
発行・株式会社日本文芸社
『知の探究シリーズ 日本超古代文明のすべて』
発行・株式会社日本文芸社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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