「記紀」の記述の真意


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『日本書紀』は、神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の違い、即位年干支法(そくいねんかんしほう)、年代・内容の変更・改変、祖先化・子孫化・神格化された系図など、様々な偽装工作がほどこされて、正しい歴史を求められないように計算して作成された。
それは『古事記』も同様で、『日本書紀』より偽装工作の数が減るが、色々な偽装工作がほどこされて、正しい歴史を求められないように作られた。
「記紀」の正しい歴史を求められるのは、世界でただ一人の偽装工作などを指摘できる僕だけで、現代人(僕以外の人間)が全て無能で、絶対に正解へたどり着けないと100%断言できる。
「記紀」を完全解釈できる僕は、世界中で最も正しい古代天皇家の正史を再現して、西暦84年の崇神(すじん)天皇の即位から西暦507年1月上旬頃の武烈(ぶれつ)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)まで詳細に歴史を求めて、これだけの芸当をできる現代人が確実に存在しない。
日本神話の神々の領域…神域を求められる意味で、「最も神様に近い人間」の僕は、世界でただ一人の神々の祝福を受けた天上の才覚を持つ。
そんな僕が現代人と全く違う知識は、誰にも理解できない未知の思考能力を駆使して、神の如(ごと)き偉大な「ひらめき」を生み出し続けて、誰もたどり着けない神域や聖域を荒らされるはずがない。

僕の求めた「記紀」の記述の真意は、崇神天皇時代の2代目・大物主神の祟(たた)りが崇神天皇の息子の垂仁(すいにん)天皇時代を繰り上げたもので、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ;2代目・大物主神に神格化)の皇位継承権争い(戦乱)を2代目・大物主神の祟りによる疫病の蔓延(まんえん)に記述変更したと簡単に求められる。
疫病の蔓延は、「記紀」の記述の古代天皇家時代にも存在したと考えられるが、倭国大乱(狭穂彦王の反乱)を疫病に記述変更したのが僕なら100%確実に証明できる。
現代人は「記紀」の記述をそのまま信じて、僕が「記紀」の表裏一体を全て見透(みす)かして、裏(うら)の裏までとことん追求して、チェックメイトに追い込む思考能力の絶大さを想像できるはずもない。

西暦220年に滅亡した後漢王朝は、『後漢書』に邪馬台国(やまとこく;大和国)の敵対国の拘奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)を記して、女王国(伊勢国)から海路で千里も離れていて、南九州に存在することを証明した。
景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に初めて天皇家が九州全土を平定して、後漢王朝の滅亡までに南九州の熊襲王国を統治下に置いたと実証した。
『日本書紀』は景行天皇27年(西暦217年)に熊襲王国が再度反乱したと記すが、『三国志・魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく;熊襲王国)が西暦247年に反乱したことを隠すために年代変更して、「記紀」でこのような年代変更の記述が日中の歴史書を合致させないため、当たり前にほどこされたと考えるまでもない常識である。
仲哀(ちゅうあい)天皇8年(西暦259年)にも熊襲王国の討伐が記されるが、景行天皇57年12月(西暦248年1月頃)に熊襲王国が滅亡して、仲哀天皇8年(西暦259年)が出雲王国(物部(もののべ)氏)との戦争が正しくて、出雲王国に勝てずに帰還した。
『後漢書』の拘奴国と『三国志・魏志倭人伝』の狗奴国は、漢字が違うが全く同じ邪馬台国の敵対国で、熊襲王国なのが間違いなく、現代人にどこまで理解できるのか疑問である。
日中の歴史書「記紀」と『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』などを正しく現代語訳して、古代の天皇家と中国の王朝の歴史を把握できる僕は、現代人程度の低能と違って、神様の如き考え方の持ち主で、比較するまでもない偉大な超天才で、誰もこの世で僕に勝てない事実・真実である。

仲哀天皇9年(西暦260年)の神功(じんぐう)皇后の三韓征伐は、新羅(しらぎ)と高句麗(こうくり)と百済(くだら)の朝鮮半島の3ヶ国を従属させたと記すが、西暦260年神無月に出雲王国を崩壊させて、出雲王国と古代朝鮮国家3ヶ国を入れ替えて記して、邪馬台国(大和国)の神功皇后が義父の出雲王国(物部氏)の日本武(やまとたけ)天皇を殺害させて、出雲王国の領土を邪馬台国の領土に統一したのが正しい歴史である。
世界中に古代日本史研究で僕に及ぶ者などいなくて、世界でただ一人の正しいことを知る天上の超天才の僕は、天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)の道を歩むたった一人の孤独な超天才である。
僕のことを全て理解できる人間は、この世に一人も存在しなくて、僕が自分の道を切り開くしかない。

<参考文献>
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行

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