新羅(しらぎ)の先祖と王子
古代朝鮮国家の新羅王朝は古代天皇家の先祖と同じ王朝から出た王家の末裔(まつえい)でないかと考えられる。
新羅が古代天皇家と関係する伝承は、新羅の始祖が神武(じんむ)天皇の実兄の稲飯命(いなひのみこと)とするものと新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)が来日した伝承があって、新羅王朝が古代天皇家と先祖を一緒にして外交関係があった可能性を示唆するためである。
新羅の建国は『新羅本紀』に基づくと紀元前57年で、実際の建国が西暦356年と考えられるが、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇39年の天日槍の記述から『ホツマツタエ』成立が西暦356年より前の可能性があって、紀元前57年を建国年と考えるべきだが、古代朝鮮国家群と外交したのが西暦366年以降で、『ホツマツタエ』成立がそれより後年と考えられる。
『ホツマツタエ』成立は4世紀前半以降のことで、編纂(へんさん)にかなりの労力を使ったと考えられるが成立年が不明で、日本神話から景行(けいこう)天皇時代まで記して、神武天皇のことを記すことが西暦330年代即位の仁徳(にんとく)天皇時代以降に『ホツマツタエ』が成立した証拠だからである。
新羅の始祖が神武天皇の実兄の稲飯命とする伝承は、『新選姓氏録』や『但馬国司文書』などに記されて、複数の伝承がある以上放っておけない。
『新選姓氏録』に「是出新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者祖合」と記されて、新羅国王の祖先が稲飯命とされるが、神武天皇は仁徳天皇を祖先化した人物で実在しないため、稲飯命も実在しないが古代天皇家の先祖が新羅王朝の先祖の可能性が残る。
新羅王朝は3氏が王朝交代して、朴氏(紀元前57年から西暦57年)と昔氏(西暦57年から261年)と金氏(西暦261年から935年)に当たって、昔氏の脱解(だっかい;西暦57年から80年在位)の母が倭国の一国の王妃という伝承がある。
倭国の東北一千里にある多婆那国(たばなこく;丹波国か但馬国?)の王妃が妊娠して7年たって大きな卵を産んで、不吉だとして箱に入れて海に流して、やがて辰韓に流れ着いて老婆の手で箱が開けられて、中から一人の男の子が出てきた。
箱が流れ着いた時に鵲(かささぎ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を名字として、箱を開けて生まれ出てきたことから「脱解」を名前として、後に2代目・新羅王の南解次次雄の娘(阿孝夫人)の婿(むこ)になり、さらに後に王位を譲られて昔氏の王朝が始まった。
脱解は新羅語で「太陽」や「日の出」を意味して太陽神と位置付けられて、日本の古代太陽神の天日槍や初代・大物主神(おおものぬしのかみ)や天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)などとして神格化された彦坐王(ひこいますのみこ)を思わせる。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏の伝承によると、丹波(現在の京都府北部)の人の瓠公(ここう)が新羅に向かって脱解王になったと伝える。
そうすると多婆那国は丹波国の可能性が高く、瓠公が彦坐王の一族の可能性が高くなって、新羅王朝が古代天皇家の親戚関係の可能性が高くなる。
古代天皇家の歴史が始まったのは崇神天皇元年(西暦84年)で、それ以前の古代天皇家の先祖がどこにいたか分からないが、面白い仮説を成立させられる。
昔氏の脱解の在位期間が西暦57年から80年で、崇神天皇元年が西暦84年だから古代天皇家の先祖が朝鮮半島にいて、朝鮮半島から大和へと引っ越したとは考えられないか?
倭国の多婆那国からやって来た伝承と新羅国王の祖先が稲飯命とする伝承は、単なる偶然でなく古代天皇家の先祖の足取りを知る手掛かりだとすると、決して簡単に扱うことのできない重要史料である。
『ホツマツタエ』崇神天皇39年(西暦122年)の記述は、崇神天皇39年に初めて来日した天日槍が播磨(はりま;兵庫県西南部)から淡路島の宍粟邑(ししあわむら)に向かった。
その時に大友主(おおともぬし)と長尾市(ながおいち)を播磨に派遣して、天日槍が何者なのか尋ねると、「新羅の王子で名前を天日槍と言い、弟の知古(ちこ)に国を譲り、私は東国仙境の聖(ひじり)の君に服従しようと参りました」と。
使者2人が天日槍のこの返事を崇神天皇に伝えると、「播磨のイテサ邑(むら)でも、淡路島の宍粟邑でも好きな所に居れば良い」とのお言葉があり、すると天日槍は、「もし許されるなら、住む所を求めて各地を巡り見たいと存じます」と請(こ)い願って、崇神天皇がそれをお許しになった。
天日槍はまず宇治川(うじがわ;京都市伏見区南部)に至り、ついで近江(おうみ;滋賀県)の吾名邑(あなむら;滋賀県米原市箕浦付近)に行きその地に住んで、またさらに若狭(わかさ;福井県南部)を巡って但馬(たじま;兵庫県北部)に至ってその地に住み、新羅から連れてきたお伴の陶彦(すえひこ)を狭間谷(はざまたに;滋賀県蒲生郡にある鏡山の麓(ふもと)の鏡谷か?)に残した。
天日槍が持っていた宝物は、八種(やくさ)の神宝(かんだから)と呼ばれて、全て但馬国(兵庫県北部)に納めた。
『日本書紀』と『古事記』の天日槍の記述に多少のアレンジはあるが、根本の部分が完全に変わったわけでなく、『ホツマツタエ』が原型に最も近いと考えられる。
天日槍は彦坐王と考えられて、彦坐王の実弟の崇神天皇が国を譲られて、彦坐王の兄弟が新羅国王の可能性が考えられる。
彦坐王が生まれた年代は『ホツマツタエ』の年代から計算すると、彦坐王の兄弟が新羅国王の可能性は十分にある。
脱解の出身国は多婆那国で丹波(古代の京都府北中部)か但馬(古代の兵庫県北部)か明確に分からないが、彦坐王が平定して統治したのが丹波と但馬でその地に彦坐王の子孫がいたことも考えられて、脱解と彦坐王の時代や記述などが前後すると考えられる。
脱解(西暦57年から80年在位)は彦坐王が丹波平定をした西暦94年より前の人物で、脱解の母が倭国の多婆那国の王妃という伝承が丹波平定以降に作られたと考えられて、脱解の母が後世だろうと日本にいたのが間違いなく正しいから、この伝承が新羅に伝えられたと考えられる。
天日槍は彦坐王と同一人物と考えていたが、天日槍が脱解の息子か孫という可能性も出てきて、僕の考え方が根本的に突き崩される可能性もある。
ただ僕は自分の考え方を天日槍が彦坐王と考えられるのを変えるつもりがなく、何が正しいかを他人の研究に任せたいと思う。
古代天皇家の先祖と新羅王朝が深い関係を持ったのは確かで、それが新羅の先祖と王子の天日槍の伝承につながったと考えられる。
新羅が昔氏の脱解(西暦57年から80年在位)を日本の古代天皇家の先祖か同族として伝承して、脱解が統治した時代から間違いなく新羅が国家として存在した可能性を強めて、新羅と皇室の深いつながりは想像するしかない。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『伊勢神宮の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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