『宋書』の解釈4
これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『宋書』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。
済死、世子興、遣使貢献。世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧堺、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号可、安東将軍倭国王。」
清寧(せいねい)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)で(血縁断絶して)、遠戚の跡継ぎの顕宗(けんそう)天皇が即位して、遣使して貢献した。4代・孝武帝の大明6年(西暦462年;顕宗(けんそう)天皇5年)に天子が言うには、「日本王の世子(せいし;世継ぎの意味)の顕宗(けんそう)天皇は、代々よりすなわち忠実で、海外で統治して、化身を天から授かって国境が安寧で、うやうやしく貢物を収めて、新しく国政の業務を受け継いだ。引き受けて爵位の号を授けべきで、安東将軍・倭国王に任官しろ」と。
倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)と倭王(わおう)の世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)の関係は、清寧(せいねい)天皇と顕宗(けんそう)天皇が血縁断絶していて、世子(せいし)という漢字の意味が世継ぎで、顕宗(けんそう)天皇が清寧(せいねい)天皇の後を継いだことを意味する。
清寧(せいねい)天皇28年1月17日以降の1月中(西暦457年2月頃)に顕宗(けんそう)天皇は、即位しなくて、同母姉(同母妹)の飯豊女王(いいとよのひめみこ)が政治をして、自(みずか)らを忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)と尊称(そんしょう)して、11月(12月頃)に亡くなった。飯豊女王(いいとよのひめみこ)は、顕宗(けんそう)天皇の同母姉(同母妹)で、女性皇族として政治して、年齢不明である。
顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年1月上旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、12代目天皇に即位して、血縁が断絶した説明が付く。
西暦462年(顕宗(けんそう)天皇5年)に顕宗(けんそう)天皇は、天子から安東将軍・倭国王に任命するように命じられた。
顕宗(けんそう)天皇の在位期間は、関連のページで検索してほしくて、僕の自論の在位期間が絶対に誰も否定できない。
<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
戻る