『宋書』の解釈4


これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『宋書』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

済死、世子興、遣使貢献。世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧堺、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号可、安東将軍倭国王。」

清寧(せいねい)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)で(血縁断絶して)、遠戚の跡継ぎの顕宗(けんそう)天皇が即位して、遣使して貢献した。4代・孝武帝の大明6年(西暦462年)に天子が言うには、「日本王の世子(世継ぎか皇太子の意味)の顕宗天皇は、代々よりすなわち忠実で、海外で統治して、化身を天から授かって国境が安寧で、うやうやしく貢物を収めて、新しく国政の業務を受け継いだ。引き受けて爵位の号を授けべきで、安東将軍・倭国王に任官しろ」と。

倭王「済」と倭王の世子「興」の関係は、清寧天皇と顕宗天皇が血縁断絶していて、世子という漢字の意味が世継ぎか皇太子か分からず、血縁断絶しているから世継ぎか、顕宗天皇が皇太子として国政代理だからか不明である。
顕宗天皇の即位前に同母姉妹の飯豊青皇女(いいとよのあおのひめみこ)が国政を見て、顕宗天皇が皇太子としてすごした時期があると考えられて、顕宗天皇が世子「興」と表現される理由について明確な答えを示せない。
顕宗天皇は天子から安東将軍・倭国王に任命するように命じられた。

世子「興」の解釈は難解で明確な答えを僕でも示せず、決して誰にも示すことができないと考えられる。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行

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