『宋書』の解釈5
これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『宋書』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。
興死、弟武立。自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王。
顕宗(けんそう)天皇は崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、実兄の仁賢(にんけん)天皇の息子・武烈(ぶれつ)天皇が即位した。(武烈(ぶれつ)天皇は)使持節都督倭・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅(から)・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)7国諸軍事、安東大将軍・倭国王を自称した。
倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)の弟は、倭王(わおう)の武(ぶ)と書かれて、安康(あんこう)天皇の実弟の雄略(ゆうりゃく)天皇が定説で正しいと勘違いして、「弟」を顕宗(けんそう)天皇の「甥(おい)」の武烈(ぶれつ)天皇と書かれなかったことが勘違いの原因である。
年代不明で武烈(ぶれつ)天皇は、称号を自称しただけで、天子から任官されなかった。
順帝昇明二年、遣使上表曰、「…密自假開府義同三司、其余威假授以勧忠節。」詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王。
8代・順帝の昇明2年(西暦478年;武烈(ぶれつ)天皇4年)に(武烈(ぶれつ)天皇が)遣使して上表文を申し上げて言うには、「…人知れず自ら開府義同三司の官位を仮に与えて、その他の皆に仮に授けて、もって忠義礼節を勧奨する」と。天子が言われて、武烈天皇を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事、安東大将軍・倭王に任官した。
西暦478年(武烈(ぶれつ)天皇4年)に武烈(ぶれつ)天皇は、任官されるように申し出て、天子がそれに答えて任官して、最後に遣使した遣宋使(けんそうし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
昇明2年(西暦478年)は、『日本書紀』の雄略(ゆうりゃく)天皇の在位期間が合致するように偽装工作して、雄略(ゆうりゃく)天皇が倭王(わおう)の武(ぶ)と勘違いするように仕向けたが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕はだませなかった。
武烈(ぶれつ)天皇5年(西暦479年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝斉(せい)王朝の建元元年(西暦479年)に倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)として、初めて遣使して、遣斉使(けんせいし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
武烈(ぶれつ)天皇28年(西暦502年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝梁(りょう)王朝の天監元年(西暦502年)に倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)として、初めて遣使して、遣梁使(けんりょうし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
南朝の3王朝に遣使した倭王(わおう)の武(ぶ)は、32年間を在位した武烈(ぶれつ)天皇に間違いなくて、別人の定説を信じた学会(考古学会と歴史学会)の馬鹿さ加減にあきれる。
武烈(ぶれつ)天皇の在位期間は、関連のページで検索してほしくて、僕の自論の在位期間が絶対に誰も否定できない。
<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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