垂仁(すいにん)天皇の疑問点
垂仁天皇の在位期間は99年と伝説的で、非常に簡単な考え方で打破できるが、現代人(僕以外の人間)がアインシュタイン博士以上の超天才の僕に勝てるはずがない。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕は、その桁外(けたはず)れた思考能力で垂仁天皇を否定することもあるが、凡人レベルの考え方で打破できる部分もある。
垂仁天皇の実在を証明できる僕は、現代人程度の思考力をはるかに超越した超天才で、その僕が論理的根拠を色々と示す。
垂仁天皇の在位期間の99年は、歴代天皇の在位期間が100年を超えるのと同じで、干支(えと)の60年周期を使用して足し算しただけで、実際の在位期間が39年なのが正しい。
『日本書紀』は、歴代天皇の即位年が干支で記して、僕が即位年干支法と名付けて、西暦年と対比する大切な暦法で、60年の足し算と引き算で在位期間をごまかせる。
この方法は、誰でも気付ける簡単な計算式だが、現代人の誰も気付かなかった単純な発想だった。
『ホツマツタエ』垂仁天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)に夫の垂仁天皇を殺してほしいと告(つ)げた。
狭穂彦王は垂仁天皇の従兄弟に当たる最古の皇族で、この時すでに二種の神器を手に入れて、垂仁天皇から皇位継承権を奪取する計画を立てていたと考えられて、古代に三種の神器が2種類あったと求めたのが今年9月16日である。
『ホツマツタエ』垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁天皇は、皇后の狭穂姫の告白で、狭穂彦王の反乱(倭国大乱)を知って、邪馬台国(やまとこく;大和国:古代天皇家)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の最初の戦争である。
古代中国の歴史で初めて天皇家(邪馬台国)が知られたのは倭国大乱で、垂仁天皇の従兄弟で2代目出雲国王の狭穂彦王が起こした皇位継承権争いで、垂仁天皇7年(西暦158年)までに終戦したが、中国の歴史書(『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』)から一年以上の戦争と解釈できる。
崇神天皇5年から8年の大物主神(おおものぬしのかみ)と祟(たた)りと三輪山(みわやま)の祭祀は、垂仁天皇5年から8年(西暦156年から159年)の狭穂彦王(2代目・大物主神に神格化)の反乱の後処理と狭穂彦王の神格化(三輪山に祭祀)に変換された。
垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の皇位継承権争い(倭国大乱)は、『ホツマツタエ』で2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が天皇になろうと謀反(むほん)して、狭穂彦王が二種の神器で強行即位して、狭穂彦(さほひこ)天皇になって、大和国(邪馬台国)の即位の法律に介入したと考えられる。
狭穂彦王は、直接に天皇家の即位の法律に介入できたか、大和まで侵攻して法律を変えさせたか分からないが、出雲から大和まで攻めたのが確かで、三重県熊野市で戦死した理由が分かった。
三重県熊野市で稲城(いなき)の炎上で狭穂彦天皇と実妹で皇后の狭穂姫が焼死した。
狭穂彦天皇と狭穂姫の兄妹は、物部氏の出身で火の神様に神格化して、狭穂彦天皇が火の神様の軻遇突智(かぐつち)で、狭穂姫が国生みの女神で、軻遇突智を生んで火傷(やけど)した伊弉冉尊(いざなみのみこと)に神格化して、伊奘冉尊と軻遇突智の墓である三重県熊野市有馬の花の窟(いわや)神社に葬礼したと考えられる。
倭国大乱は「倭の邪馬台国の大乱」で、日本全土の寒冷期の戦争など色々な説があるが、僕が求めた答え以外に正しいのがない。
『倭姫命世紀』で吉備(きび;岡山県と広島県東部)の元伊勢の名方浜宮(なかたはまのみや)は、崇神(すじん)天皇54年(西暦137年)に祭ったと記すが、吉備が平定されず祭れるはずがなくて、名方浜宮の比定地が全て嘘である。
吉備の平定は、孝霊(こうれい)天皇(垂仁天皇を祖先化)の皇子2人がして、吉備王国が邪馬台国や出雲王国と無関係で、吉備王国が天皇家の敵対国家だったと考えられる。
垂仁天皇は、崇神天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に生まれて、皇子2人が成人して吉備を平定したが、吉備を平定した年代が記されず、西暦150代から垂仁天皇29年(西暦180年)までに吉備王国を平定したと考えられる。
垂仁天皇の皇子2人は、元伊勢の名方浜宮ができた時、成人年齢どころか生まれてもいないかもしれず、元伊勢の名方浜宮の存在そのものが嘘と考えられる。
吉備の平定は、垂仁天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)の殉死(じゅんし;主人を葬った後に従者を生き埋めにすること)者の禁止、垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)の埴輪(はにわ)作りの記述から、吉備王国の平定時期が遅くなると考えられる。
これに関しては、「埴輪」と「吉備氏の系図」などの章を参考に見てほしい。
垂仁天皇は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で、皇后3人が伊弉冉尊で、異母姉の倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)で、異母弟の景行天皇が月読尊(つくよみのみこと)に神格化した。
伊弉諾尊と伊弉冉尊の夫婦が子供を生んだ神話と男性の伊弉諾尊の片親が子供を生んだ神話が存在するのは、稲城で焼死した皇后の狭穂姫を伊弉冉尊に神格化して、後の皇后2人が子供の出生の鍵(かぎ)を握(にぎ)るために神話が作られた。
女王国(伊勢国)の王女の卑弥呼(倭姫命)は、邪馬台国(大和国)を実質的に統治するのが卑弥呼の男弟(異母弟)の景行天皇で、卑弥呼が男弟を補佐して、卑弥呼と男弟の補佐を現代人が逆だと勘違いする。
女性の太陽神の天照大神は、伊勢神宮で太陽神を祭る倭姫命(卑弥呼)で、男性の月の神様である異母弟(男弟)の月読尊(景行天皇)が、天照大神(倭姫命;卑弥呼)の影の月読尊(景行天皇;男弟)で、光(天照大神)と影(月読尊)に当たる。
垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に倭姫命(卑弥呼)が出生した。
垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命(卑弥呼)を伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)に任命して、これが卑弥呼(倭姫命)共立で、女王が勘違いで王女であって、現代人(僕以外の人間)が女王と信じたい幻想にすぎない。
卑弥呼の誕生日と共立した日は、古史古伝(「記紀」に反する書物)『ホツマツタエ』が西暦年月日で特定できる日付を記して、世界でただ一人の僕にしか求められなかった。
垂仁天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、現在の伊勢神宮内宮への最終遷宮で、後7年で伊勢神宮内宮の最終遷宮から1850年を迎える計算になる。
垂仁天皇時代は、伊勢神宮内宮の最終遷宮と御神体山の三輪山の祭祀と石上(いそのかみ)神宮の創建など、重要な神社の始まりの時代と考えられる。
僕の求めた神社が正しいかは、これからの歴史書解釈と考古学的証拠の合致などに関わる。
垂仁天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)に後漢王朝に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)が遣使(遣漢使;遣隋使と遣唐使に習(なら)った僕の造語)して、宝物を下賜された。
奈良県天理市の東大寺山古墳からの出土品が国宝に指定されて、「中平?年五月丙午(ひのえうま)、造作支刀、百練清剛、上応星宿、下辟不詳」の銘文がある(東大寺山)鉄刀が見つかって、後漢王朝の霊帝の中平年間(西暦184年〜189年)で、中平5年(西暦188年)に当たると考えられて、僕の知る限り邪馬台国(大和国)唯一の国宝である。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神鏡は、邊津鏡(へつかがみ)が前漢王朝時代の内行花文昭明鏡(約2050年前)で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢王朝時代の内行花文長宜子孫八葉鏡(約1950年前)で、古代中国の銅鏡で神社の神宝としている。
後漢王朝が西暦160年代に製造したと考えられる画文帯環状乳神獣鏡は出土数が少ないが、遣漢使の下賜品と考えられる。
東大寺山鉄刀と邊津鏡と息津鏡と画文帯環状乳神獣鏡は、後漢王朝遣使(遣漢使)で判明した下賜品である。
垂仁天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、享年(きょうねん)78才で、8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪を立て、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁天皇陵)に葬礼した。
僕は最古の前方後円墳の纏向石塚古墳(垂仁天皇陵)からが古墳時代で、考古学的証拠から間違いなく垂仁天皇陵と100%証明できる。
垂仁天皇時代は、邪馬台国論争の証拠が多くて、考古学的証拠も歴史書解釈も充実して、僕以外に証明できない神技である。
僕の求めた答えは、間違いだと言えるものなら、100%証明してみせることである。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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