崇神(すじん)天皇の疑問点

崇神(すじん)・・・崇(あが)める神の天皇は、崇拝(すうはい)する神様で、実在の初代天皇を意味して、生まれつきの神様でも人間でもある現人神(あらひとがみ)の天皇を崇拝(すうはい)する意味などとも受け取れて、崇(あが)める神の国…日本国も意味する。

崇神天皇は皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で10代目の天皇で、実質的な初代の天皇でないかと考えられて、よく取り上げられているようである。
崇神天皇は昭和天皇の在位期間の64年よりも長い68年が疑問で、天皇として初めて伊勢神宮を遷宮したと記されたり、色々と初代天皇でないかとして疑問点が多くある。
専門家は頑張ってひもといてきたようだが無駄で、アインシュタイン博士以上の天才の僕が挙げる根拠のように説得力がなくて、話にならないことを自覚しないといけない。

崇神天皇は歴代天皇で一番長い在位期間で、神武(じんむ)天皇や欠史(けっし)八代の天皇が『日本書紀』で即位年が干支(えと)で記されて、60年を加算していたから同様と考えるかもしれない。
しかし崇神天皇は在位したと考えれる年代の記述が正確で、架空の物語をでっちあげたと考えられず、68年間の在位期間が正しいと考えられる。
それでも実質の初代天皇として在位期間を歴代天皇で最長としたと疑う人がいるかもしれない。
その答えを握るのは『三国志・魏志倭人伝』で、「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱」の記述が「邪馬台国(やまとこく;大和国:古代天皇家)は元々男性を天皇として、建国から72年目の西暦156年(垂仁(すいにん)天皇5年)に皇位継承権争いの狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が起こった」という解釈である。
邪馬台国は建国から七十年から八十年して倭国大乱が発生したと解釈できて、崇神天皇の在位期間が68年あるから息子の垂仁(すいにん)天皇5年まで数えて、建国から72年目に皇位継承権争い(倭国大乱)が起こったと解釈できる。
この根拠を持ってして崇神天皇の在位期間は、正しくて疑う余地がないことを証明できる。

もう一つ崇神天皇の在位期間を証明するのは、伊勢神宮の遷宮が記されていることである。
伊勢神宮の最初の遷宮は、『ホツマツタエ』崇神天皇6年9月17日(西暦89年10月中旬頃)の夜に古代の男性の太陽神である天照神(あまてるかみ)を最初の元伊勢である大和の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)に遷宮して、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して祭った。
『ホツマツタエ』崇神天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に2番目の元伊勢を京都府宮津市に遷宮して、宮津市にある日本三景の天橋立(あまのはしだて)を記して、現在の元伊勢籠(この)神社の奥宮である眞名井(まない)神社が第二の元伊勢と考えられて、それから後に3番目の元伊勢として奈良県宇陀市の篠畑(ささはた)神社に遷宮して、あと2年で京都府宮津市の元伊勢の遷宮から1900年目となる。
『ホツマツタエ』の伊勢神宮の最終遷宮は、垂仁天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に現在の伊勢神宮内宮に遷宮して、あと7年で現在の伊勢神宮内宮の遷宮から1850年目となる。
『ホツマツタエ』の男性の太陽神である天照神(あまてるかみ)は、別名をアマテラスともヲヲンカミとも言って、現在の女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)に語源変化して、古代の男性から現代の女性の太陽神になったと考えられる。
『ホツマツタエ』は、崇神天皇時代に元伊勢が奈良県と京都府宮津市に遷宮されて、垂仁天皇時代の遷宮も正しくて、「記紀」と『倭姫命世紀』に間違いがあるのが確かである。
これによって伊勢神宮の遷宮は、崇神天皇の在位期間を証明する根拠になる。

崇神天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)に天照神を笠縫邑に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと;大和(おおやまと)神社)に祭らせて、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を新しく作って、三種の神器を皇位継承の神宝(かんだから)にしようと考えた。
崇神天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神を山辺里に遷宮して、八重垣剣を奉納して、翌日の夜に天照神を笠縫邑に遷宮して、八咫鏡を奉納して、新しい三種の神器がレプリカ(複製品)だった。
最古の元伊勢の笠縫邑は所在地不明で、奈良県天理市の大和神社が国内最古の神社と分かる。
三種の神器はレプリカ(複製品)を作った記述は、『古語拾遺』の草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八咫鏡を作った記述で裏付けして、八重垣剣と草薙剣が入れ替わったが、現在の三種の神器がレプリカ(複製品)が存在すると伝えて、2種類あったのが史実と考えられる。
2種類の三種の神器は、その後に垂仁天皇時代から仁徳(にんとく)天皇の即位前の古代天皇家時代に4度の皇位継承権争いをもたらして、南北朝時代も北朝と南朝で三種の神器を奪(うば)い合ったと考えられる。
三種の神器はレプリカ(複製品)を作ったことは、何度もの皇位継承権争いをもたらして、いらない政争争いの材料になったと考えられる。

『日本書紀』で神武天皇は架空の初代天皇として「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記して、実在した初代の崇神天皇も「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」の称号を記して、僕が書き直すと「初国知(はつくにし)らす天皇(すめらみこと)」となって、初代天皇の称号を持つことが実在性を高める。
崇神天皇12年(西暦95年)の初代天皇の称号は、崇神天皇10年(西暦93年)の四道(しどう)将軍の派遣で、国土拡大をしたことが大きな理由と考えられる。
四道将軍は崇神天皇の命令で派遣された将軍で、それぞれ4つの地域を平定したとされるが、それぞれの将軍の生まれた時期などの年代が合わなくて実在性があやしい。
京都府北中部の四道将軍の総大将は彦坐王(ひこいますのみこ)で、その息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が随伴して、岡山県の四道将軍が吉備津彦(きびつひこ)、北陸の四道将軍が大彦命(おおびこのみこと)、東海の四道将軍が大彦命の息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)とされる。
彦坐王は崇神天皇の実兄で京都府北中部の平定が史実で、崇神天皇の息子である垂仁天皇の皇子の吉備津彦が祖別命(みおやわけのみこと)、崇神天皇の孫である景行(けいこう)天皇の皇子の大彦命が武虎別皇子(たけこわけのみこ)、武虎別皇子の息子の武渟川別の3人が後世の人物である。
崇神天皇の初代天皇の称号は、京都府北中部の平定の史実だけを讃(たた)えて、天皇家誕生の崇神天皇元年(西暦84年)と崇神天皇11年(西暦94年)を証明する考古学的証拠が「天皇家誕生の時期」の章である。
四道将軍は全員実在の人物を基(もと)にするが、年代を強制的に一つに集約して、無理矢理の物語にしたのが明白で、崇神天皇の初代天皇の称号で前座にしたと考えられる。

崇神天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神天皇は崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、垂仁天皇元年8月11日(西暦152年9月中旬頃)に葬礼されたと記す。
崇神天皇陵は前方後円墳に比定するが、息子の垂仁天皇陵が最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳で、本当の崇神天皇陵が磯城(しき)郡のどこかにある弥生時代後期の大型陵墓と考えられる。
この他に崇神天皇時代は、68年間の在位期間を証明する記述が幾らもあって、実在性の高さを証明していて、このように僕が説明した証拠を疑うとすれば、無知ゆえの愚かさに他ならないと言っておく。
アインシュタイン博士以上の天才の僕にかかれば歴代天皇の疑問点は、あっさりと答えを求めることなど朝飯前である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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