聖徳太子の非実在説など

聖徳太子の非実在説や天皇説などは、イエス・キリストなどと同じく、その存在や功績などが疑われて、昔のように歴史教科書に書かず、削除されつつある現状を変えるため、僕が求めようと考えて、ユーチューブのにっぽんぽん:教科書には載っていない歴史解説の『【ゆっくり解説】聖徳太子の謎!』と『【ゆっくり解説】聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』を見て、2024年7月9日の午後6時頃に記して、面倒で飛ばした『日本書紀』の記述が嘘(うそ)を7月20日の午後3時頃に記し終えて、全体をまとめた。
聖徳太子は、旧一万円札の肖像画で、日本人なら誰しもが名前を知るが、一時期に歴史教科書から完全に名前を消す話さえあって、実在しない可能性が高くなって、現代人の常識を根本的に覆(くつがえ)して、なぜそのような理由が生まれたか、十分に僕自身が研究・分析しようと思う。

聖徳太子は、死後に送られた尊称で、聖(せい)なる徳(とく)の太子(たいし)だが、太子(たいし)が皇太子の意味で、皇位継承者の解釈がされて、天皇(皇位継承者)になれなかった悲劇の主人公のように扱われて、本当の所がよく分からない。
聖徳太子は、生まれた時に話をして、十人の言葉を聞き分けて、理解できたと言われて、未来を予言したなど、伝説的な功績を創作したとするが、全部が嘘(うそ)と証明できなくて、実在性の研究・分析や将来的な歴史教科書の聖徳太子に関する書き方などにも影響する。

聖徳太子は、敏達(びだつ)天皇3年1月1日(西暦574年2月7日)に用明(ようめい)天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の次男に生まれて、推古(すいこ)天皇元年4月10日(西暦593年5月15日)に推古(すいこ)天皇の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命されて、推古(すいこ)天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に天然痘(てんねんとう)にかかって、49才で亡くなった。
聖徳太子は、父が用明(ようめい)天皇でも、第2皇子で皇太子になれず、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が産気づく前にウロチョロして、馬小屋の方に行くと、馬小屋の戸がお腹に当たって、陣痛が始まって、何の痛みも苦(くる)しみもなく、簡単に生まれて、名前が厩戸皇子(うまやどのおうじ)や厩戸王(うまやどのみこ)と呼ばれる。
イエス・キリストは、馬小屋で生まれたが、後世にできたイメージで、イエス・キリストが生まれた時代のベツレヘム付近が人と家畜が同居する家屋が多くて、また聖徳太子を厩(うまや)の前で産気づいたのも、『日本書紀』の応神(おうじん)天皇15年8月6日が安康(あんこう)天皇10年8月6日(西暦404年9月上旬頃)で、百済(くだら)系渡来人の阿直岐(あちき)が馬の世話をして、知識人の阿直岐(あちき)から、厩(うまや)が教育の場でないかと考えられる。
救世主のイエス・キリストは、聖人で皇室の救世主の聖徳太子を重ね合わせて、そっくりな出生の話を作ったのが偶然でなく、イスラエルの情報を「記紀」を作った8世紀前半の天皇家が把握して、古代天皇家と中東やヨーロッパなどの関連性を僕が指摘した。

聖徳太子は、12才の時に父の用明(ようめい)天皇が即位して、日本国内に渡来した仏教を定着させて、即位した時に仏教を公認の宗教に制定して、わずか2年で天然痘(てんねんとう)にかかって、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、このチャンスを生かして、物部(もののべ)氏が仏教を排除しようとした。
神道派の物部(もののべ)氏は、仏教派の蘇我(そが)氏と対立して、物部(もののべ)氏が出雲王国の子孫で、出雲大社を祭る家系だから神道を重視して、3代目の景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の養女である弟橘姫(おとたちばなひめ)の曾孫が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、その子孫の蘇我(そが)氏が神道と深く関係せず、渡来した仏教を国教(国の宗教)に押して、対立の図式が生まれて、元々の物部(もののべ)氏と蘇我(そが)氏が同族である。
物部(もののべ)氏は、大物主神(おおものぬしのかみ)や大国主神(おおくにぬしのかみ)など物部(もののべ)氏系の神様を多く輩出して、日本古来の神道を重視して、蘇我(そが)氏が物部(もののべ)氏系の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)だけを意識して、渡来系の氏族を支援して、渡来した仏教も後押ししたと考えられる。
物部守屋(もののべのもりや)は、用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)に起きた丁未(ていび)の乱で戦死して、物部(もののべ)氏の宗家と分家が処罰されて、物部(もののべ)氏が弱体化して、蘇我(そが)氏が勢力を伸ばす「きっかけ」になった。
その後で蘇我馬子(そがのうまこ)は、崇峻(すしゅん)天皇を即位させるが、崇峻(すしゅん)天皇との関係が悪化して暗殺して、蘇我(そが)氏が非常に強大な権力で、それほどの横暴が許されたのが蘇我(そが)氏の女性を天皇の妃にして、母方の外戚になって、天皇家に大きな影響力を待ったからである。

叔母(おば)の推古(すいこ)天皇は、聖徳太子の頭の良さと仏教に対する熱心さなどを買って、摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)に任命して、冠位十二階の制定や17条憲法、遣隋使(けんずいし)の派遣、国史の編纂(へんさん;色々な材料を集めて、整理・加筆などをして書物にまとめること)、法隆寺の建設など、あまりにも伝説的な功績だが、超天才の僕の功績と比べて、不可能でないと僕は思う。
推古(すいこ)天皇を補佐した摂政(せっしょう)の聖徳太子は、古代天皇家の外交と内政を支えて、政治の実権を蘇我馬子(そがのうまこ)が把握して、お飾りの天皇のイメージだが、推古(すいこ)天皇と聖徳太子の実権も強力と考えられる。
推古(すいこ)天皇11年(西暦603年)に制定した冠位十二階は、その人の功績から高い地位を与えて、新しい人材登用の方法で、それまでの世襲制でなく、優秀でも家柄が低いと、高い地位を与えないのが、実力を評価することで、色々な才能を見つけ出して、部下のやる気を育てた。
推古(すいこ)天皇12年(西暦604年)にできた17条憲法は、政治に関係する人たちのために道徳心や心がけを書いて、現在の憲法と違って、人間として政治に関係する方法や心構えを記した。
推古(すいこ)天皇15年(西暦607年)に小野妹子(おののいもこ)を派遣した遣隋使(けんずいし)は、古代中国の随(ずい)王朝と外交を結んだが、『隋書(ずいしょ)』が推古(すいこ)天皇8年(西暦600年)に派遣した遣隋使(けんずいし)が最初で、『日本書紀』の記述が嘘(うそ)の可能性が高くて、正しく把握する必用がある。
聖徳太子は、多くの文物を輸入して、仏教の興隆に力を入れて、法隆寺や四天王寺など多くの寺を建設して、仏教を神道と共に日本国の2大宗教にしようと努力した。
国史の編纂(へんさん)は、聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)が『天皇記』と『国記(こっき)』をまとめて、『天皇記』が皇室の系図や歴代天皇の歴史などを書き記して、『国記(こっき)』が日本国の歴史の特化した歴史書で、『天皇記』も『国記(こっき)』も大化(たいか)の改新(かいしん)の前に消失して、現存してなくて、仏典の注釈や三経義疏(さんりゅうぎしょ)などを記して、『ホツマツタエ』を聖徳太子が完成させた可能性があるが、あくまで僕の想像である。

推古(すいこ)天皇14年(西暦606年)に聖徳太子は、皇居を飛鳥(あすか)から20キロメートル離れた斑鳩(いかるが)に遷都して、強力すぎる蘇我(そが)氏の勢力を抑(おさ)えるためと言われる。
聖徳太子は、推古(すいこ)天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に天然痘(てんねんとう)にかかって、49才で亡くなったが、前日に看病した妻の膳菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が亡くなって、夫婦共に暗殺された説があって、蘇我馬子(そがのうまこ)か聖徳太子の妻の誰かが膳菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)に嫉妬(しっと)して、2人を殺害した可能性を挙げた。

天皇や皇太子は、後世の呼び名で、天武(てんむ)天皇の頃に天皇の呼び名ができて、それ以前が大王(おおきみ)と呼んで、皇太子が大兄(おおえ)と呼んで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)などが実例で、大王(おおきみ;天皇)が亡くなると、複数の大兄(おおえ;皇位継承者)がいて、その中から的確な者を次の大王(おおきみ;天皇)にして、聖徳太子が次の大王(おおきみ;天皇)に決まったと断定できない。

聖徳太子が天皇の候補にならなかった理由は、皇子の中で一人の候補にすぎなくて、蘇我馬子(そがのうまこ)が中継ぎの女性天皇の推古(すいこ)天皇を立てたが、甥(おい)の聖徳太子を摂政(せっしょう)に指名して、蘇我馬子(そがのうまこ)に権力を集中せず、天皇中心の勢力を強めたかったが、聖徳太子以外にも有力な皇位継承者の皇子が複数いて、候補者をしぼれなかったと考えられる。
聖徳太子は、推古(すいこ)天皇の息子の竹田皇子(たけだのみこ)など有力な皇位継承者の皇子が複数いて、天皇の候補者の一人にすぎなくて、推古(すいこ)天皇が長生きで、聖徳太子が先に亡くなったことも大きな理由である。

蘇我馬子(そがのうまこ)が崇峻(すしゅん)天皇を暗殺した後は、皇太子が決まらず、複数の有力な男性皇族がいたため、女性皇族の推古(すいこ)天皇を即位させて、49才で亡くなった聖徳太子より、推古(すいこ)天皇が75才まで生きて、当時が終身天皇制で、生前の皇位継承権の譲位がなくて、即位したら死ぬまで天皇を続けて、そのために聖徳太子が天皇になれなかった。
しかし蘇我馬子(そがのうまこ)は、推古(すいこ)天皇に生前の皇位継承権の譲位を求めた可能性があって、推古(すいこ)天皇が拒否したかもしれないが、あくまで想像であって、推古(すいこ)天皇を先例にして、男性皇太子が成人年齢でない時、未亡人の女性皇族を中継ぎの女性天皇にする実例になって、皇后の権威が高まって、推古(すいこ)天皇が天皇になった理由が蘇我(そが)氏の勢力を追い出したかった可能性がある。

聖徳太子は、天皇になる気がなくて、崇峻(すしゅん)天皇時代が短期間で、短期間の理由が謎(なぞ)で、天皇家の皇位継承権が危機で、次代の皇位継承者の男性皇族が聖徳太子と敏達(びだつ)天皇と広姫(ひろひめ)の息子の押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)と敏達(びだつ)天皇と推古(すいこ)天皇の息子の竹田皇子(たけだのみこ)で、3人共に崇峻(すしゅん)天皇の息子でも弟でもなかった。
皇位継承権の危機の場合は、3人の皇位継承者の男性皇族から推挙するが、ここで政治的な動きをしたのが推古(すいこ)天皇と考えられて、崇峻(すしゅん)天皇の妃の大友小手子(おおとものこてこ)が殯(もがり;死後に貴人を埋葬するまで、遺体を小屋に安置などして、遺族や近親者が小屋にこもった)で、政治的な発言権がなかった。
3人の男性皇族の候補者は、正式な後継者でなく、推古(すいこ)天皇が女帝になって、竹田皇子(たけだのみこ)が女帝の息子となって、次の後継者の資格を得て、甥(おい)の聖徳太子を摂政(せっしょう)にして不思議だが、推古(すいこ)天皇の即位後すぐに息子の竹田皇子(たけだのみこ)が亡くなって、不自然な女帝即位を取り繕(つくろ)って、聖徳太子を摂政(せっしょう)にして、周囲の反対を抑えたのかもしれない。
蘇我馬子(そがのうまこ)は、娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を聖徳太子と結婚させて、山背大兄皇子(やましろおおえのおうじ)を生んで、聖徳太子が天皇になれば、自分の孫が天皇になって、期待して当たり前だが、推古(すいこ)天皇も無視できず、息子の竹田皇子(たけだのみこ)が病弱か何かで、天皇の仕事に耐えられないと予想できて、推古(すいこ)天皇に頼っても、いずれ聖徳太子に皇位が巡ると考えたのだろう。
聖徳太子は、語学の天才で、仏教の造詣(ぞうけい;学識や知識やたしなみ)が日本一で、外交への関心も強いと周囲から認められて、蘇我馬子(そがのうまこ)も期待したが、聖徳太子が天皇にならずに亡くなって、代わりに推古(すいこ)天皇が長寿で、条件がそろったのに聖徳太子が天皇になる気がなくて、推古(すいこ)天皇の娘や養女などの縁談が無駄になって、天皇家の血筋の維持に真剣だったのかもしれない。
しかし聖徳太子は、自分の立場が分わかって、学問に夢中で、朝廷と無関係でいられず、東アジアの情勢も無視できなくて、政治の世界にどっぷり浸(つ)かることも避けたくて、飛鳥(あすか)から一定の距離がある斑鳩(いかるが)に遷都して、仏教が解脱(げだつ;苦しみから解(と)かれて、のがれ出ること)を考え方が基本として、聖徳太子が政治と言う野望の世界から、早く解脱(げだつ)したと言えて、聖徳太子が斑鳩(いかるが)に引っ込んだ理由も納得できる。

『日本書紀』の記述が嘘(うそ)は、聖徳太子の呼び方が皇太子と同じ立場を意味して、皇太子だからいつでも天皇に即位できて、年が若いから天皇にならなかった説が間違いで、この説が『日本書紀』の推古(すいこ)天皇即位の記事が作られた部分が目立って、信頼できないため、天皇の妻の名前と出自を信頼して、推古(すいこ)天皇の即位の記事を信頼せず、推古(すいこ)天皇が敏達(びだつ)天皇の妻とする点で、聖徳太子を考える。
『日本書紀』は、事実を改竄(かいざん)する偽装工作が多くて、『日本書紀』が「生んだ子が皇位継承した」か「皇女である」条件のどちらかを満たすと、皇后と認められて、生んだ子が皇位継承しても、一代限りで皇統を形成しない場合、皇后と記さなくて、自分の子供が天皇にならなくても、子孫が皇統になれば、皇后と記して、記述が曖昧(あいまい)である。
妻に皇女がいない場合は、皇族なら皇后とする場合もあって、また生んだ子が天皇になれば、妻を最初の皇后と記して、死後に妻を皇后にした実例もあって、これらの条件が満たされない場合、妃に関係する記事を書かなくて、『日本書紀』が一定の方針を基礎にして、皇后の記述を書いて、『日本書紀』の最終的な編集で、整備したと考えられる。
つまり『日本書紀』の皇后の記述は、事実の保証がなくて、「記紀」が卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を景行(けいこう)天皇の実妹に偽装工作して、『ホツマツタエ』で皇后のカバイツキヒメの娘がヤマトヒメで、景行(けいこう)天皇の異母姉を改竄(かいざん)して、このような実例が『日本書紀』の信頼性をつぶして、天皇の妻が複数の妻たちの中で、特に重視された地位かも信頼性がない可能性がある。

皇統が何代も受け継がれたのは、欽明(きんめい)天皇と敏達(びだつ)天皇だけで、この2人の生母が皇女なのに対して、他の天皇がそうでなくて、崇神天皇から欽明(きんめい)天皇までの系譜を直系で、敏達(びだつ)天皇以降の系譜を傍系(ぼうけい)と呼んで、色々と考えてみる。
直系を続けるには、ちょくちょく近親婚をして、敏達(びだつ)天皇と推古(すいこ)天皇の時代なら、直系を継ぐのが欽明(きんめい)天皇の長男の敏達(びだつ)天皇と異母妹の推古(すいこ)天皇の間に生まれた竹田皇子(たけだのみこ)になるが、竹田皇子(たけだのみこ)が若くして亡くなった可能性がある。
傍系(ぼうけい)の安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇と用明(ようめい)天皇は、全員の在位期間が短くて、高齢や病弱など在位期間が長くない人物を選んで、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺した理由が在位期間を長引かせる可能性を考えてかもしれない。
傍系(ぼうけい)が即位した場合は、皇位継承者を選ぶために争いが起こりやすくて、直系でないなら、多くの候補者を立てて、推古(すいこ)天皇が18才で、敏達(びだつ)天皇が即位した時に皇后になって、年代が合致しない。
敏達(びだつ)天皇4年(西暦575年)に敏達(びだつ)天皇は、広姫(ひろひめ)を皇后にしたが、年内に広姫(ひろひめ)が亡くなって、翌年に推古(すいこ)天皇を皇后にして、推古(すいこ)天皇が本妻か後妻になって、「記紀」の記述に矛盾がある。
敏達(びだつ)天皇と広姫(ひろひめ)の息子の忍坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのおうじ)は、「記紀」で皇太子となって、妻と男女の子供たちの名前を列記して、天皇に準じる扱いで、広姫(ひろひめ)が皇后で、欽明(きんめい)天皇の皇女が推古(すいこ)天皇なのに対して、広姫(ひろひめ)の父の息長真手王(いきながのまでのきみ)が皇族だが、その系譜が不明である。
つまり皇后の資格は、推古(すいこ)天皇の方が上のはずなのに広姫(ひろひめ)を皇后として、その息子の忍坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのおうじ)が皇太子とされて、広姫(ひろひめ)より推古(すいこ)天皇が下の立場で、忍坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのおうじ)の息子が舒明(じょめい)天皇で、舒明(じょめい)天皇の息子が天智(てんじ)天皇と天武(てんむ)天皇につながって、その系譜を直系とみなして、正統性を主張するためである。
敏達(びだつ)天皇との推古(すいこ)天皇の息子の竹田皇子(たけだのみこ)は、直系の中で、第一候補だが亡くなって、多数の傍系(ぼうけい)の中から、一人を選んで天皇になって、新しい直系を作る必要があって、その状況で聖徳太子が選ばれて、それに関係して、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺した可能性があって、直系の天皇を作るのに聖徳太子を選んで、その結果で推古(すいこ)天皇が即位して、甥(おい)の聖徳太子が皇太子になった可能性がある。
傍系の聖徳太子の皇位継承は、正当化するために皇太子として、実績を積む必要があって、摂政(せっしょう)になった理由も分かって、推古(すいこ)天皇が即位して、聖徳太子が皇太子になって、聖徳太子による新しい直系の家系を作り始めて、それを叔母(おば)の推古(すいこ)天皇が擁護(ようご)して、聖徳太子が後の天皇になる布石だが、天皇の生前譲位(じょうい)ができなくて、推古(すいこ)天皇が長生きして、聖徳太子が天皇に即位せず、早くに亡くなって、直系の家系が作れなかった。
しかし『日本書紀』は、聖徳太子に代わる皇太子や代わりになる候補者の選定が記されず、推古(すいこ)天皇が亡くなった後も、天皇の後継者がすぐに決まらなかったと記して、『日本書記』の信頼性に問題があって、2024年7月21日の午後3時頃に記し終えた。

聖徳太子の非実在説は、別名の厩戸皇子(うまやどのおうじ)が実在して、多くの歴史書が厩戸皇子(うまやどのおうじ)を飛鳥(あすか)時代の政治家と記して、用明(ようめい)天皇の息子としても実在性が高くて、聖徳太子の名前を推古(すいこ)天皇が女性天皇に即位した後に使うって、聖徳太子が歴史上のある瞬間から登場する謎(なぞ)の人物とする。
聖徳太子は、摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)になった後、冠位十二階の制定や17条憲法や国史(国の歴史)の編纂(へんさん;色々な材料を集めて、整理・加筆などをして書物にまとめること)をしたと『日本書紀』が記して、これら全部を書物にすると、かなり多くて不可能と考えられるが、やってみないと証明できない。
用明(ようめい)天皇の息子の厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、冠位十二階の制定や17条憲法の作成に関係した記録がなくて、ある有名な教授が聖徳太子の実在を否定して、歴史学会(歴史書解釈)が激震したほどで、推古(すいこ)天皇時代に厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言う皇族がいたが、当時に皇太子や摂政(せっしょう)の制度がなくて、彼が政治の中心人物でないと考えた。
「記紀」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)は、『日本書紀』で厩戸皇子(うまやどのおうじ)を聖徳太子と言う聖人に祭り上げて、創作して歴史の整合性が取れなくなったと考えられる。
しかし古代天皇家は、崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から始まって、皇太子の任命が当たり前にあって、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の任命も史実(歴史上の事実)で、聖徳太子の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の任命も事実で、聖徳太子の出自や功績も正しい可能性がある。

古代中国の隋(ずい)王朝の歴史書『隋書(ずいしょ)』は、当時の古代日本で、文字や記録を政治の場で一般的に使用せず、当時の政治家が古代中国の思想をほとんど理解できなくて、17条憲法が古代中国の古典を多く引用して、古代中国の政治のあり方や思想を熟知して、文章を記録して、聖徳太子がいかに天才でもあり得ないと考えられる。
しかし遣漢使(けんかんし)は、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、古代天皇家に紙と漢字などを伝えて、思った以上に古い時代から、古代中国の文化を取り入れて、「記紀」でイエス・キリストと聖徳太子を似せたり、日本神話と世界中の神話の関連性を記したり、『日本書紀』で西暦年を使用したり、当時の古代天皇家の外交力を現代人(僕以外の人間)が舐(な)めている。
2世紀末の景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)から古代天皇家は、漢字を使い続けて、干支(えと)の辛亥(かのとい)年7月(西暦471年8月頃)中に記した埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山(古墳出土)鉄剣で、漢字の使用が地方の古代豪族まで浸透して、後世の「記紀」を編纂(へんさん)した古代天皇家が漢字を使えて当然で、『隋書(ずいしょ)』の記録が嘘(うそ)である。

西暦701年の大宝律令(たいほうりつりょう)は、「国司(こくし)」と言う官名を西暦604年にできた17条憲法の12条に記して、西暦604年に作られてない言葉を書けないが、本当に作られてないか、完全に証明してないと考えられる。
『日本書紀』の聖徳太子の圧倒的な活躍は、「記紀」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が聖人に創作したが、あくまで説であって、古代中国の皇帝と対比する天皇像を作るためで、皇室の歴史上にも、仏教や儒教や道教などの中国思想を踏まえた聖人がいて、そんな過去の偉人の活躍で、今の日本があると誇示するためと考えられる。
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、皇太子(皇位継承者)の聖徳太子を位置付けて、自分の血を引く皇太子で、後の聖武(しょうむ)天皇の即位を実現して、将来の藤原氏の地盤固めをする願いのため、聖徳太子を聖人に祭り上げたと考えられる。
しかし聖徳太子の功績は、そもそも存在を賛否両論で、疑わせるために作られて、神武(じんむ)天皇や日本武尊(やまとたけるのみこと)なども、そうやって記して、神武(じんむ)天皇が作られた人物で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が実在したと僕が証明して、僕のように証明できる人間が現われて、聖徳太子の実在を研究・分析してほしい。

聖徳太子の肖像画は、推古(すいこ)天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に亡くなった聖徳太子を「記紀」を編纂(へんさん)した古代天皇家が100年ほど前の人の特徴を伝え聞いたか想像で書いて、嘘(うそ)と多くの歴史研究家が指摘して、聖徳太子と断言できる理由がない。
聖徳太子の肖像画の笏(しゃく)は、威厳を持たすためやちょっとしたメモ帳代わりにした物らしく、手に持つようになったのが奈良時代からで、前の飛鳥(あすか)時代の肖像画に描(えが)くのがおかしくて、非実在説の証拠とするが、その証拠を僕が分析できない。
聖徳太子の肖像画の服と冠は、聖徳太子の時代の7世紀でなく、後世の8世紀の流行とされて、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言う皇族がいて、聖徳太子の功績を創作した非実在説を凡人(僕以外の人間)が支持するが、僕の意見を元にして、分析してほしい。

聖徳太子の天皇説は、古代中国の隋(ずい)王朝の歴史書『隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)』に基づいて、日本の天皇が男性だったとする説で、倭王(わおう;古代の日本王)の多利思比弧(たりしひこ)が足彦(たらしひこ)の呼び名を当てて、男性の天皇なら聖徳太子と考えられて、天皇の代理で政治をする人物がいたと考えられる点である。
そもそも天皇家は、蘇我(そが)氏や物部(もののべ)氏や大伴(おおとも)氏のような軍事的や経済的な基盤を持つ有力氏族の一つなら、早くに抗争でつぶれて、天皇に娘を嫁(とつ)がせる豪族が次々に交代して、天皇の地位が続く理由が天皇家と他の氏族が違う性格を持つためで、また聖徳太子が父方と母方の両方が蘇我(そが)氏系の初めての天皇候補だが、あくまで皇族の面を強調した。
さらに天皇説の理由は、伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の存在で、推古(すいこ)天皇より後の女帝の斉明(さいめい)天皇と持統(じとう)天皇の時代に斎王(さいおう)がいなくて、用明(ようめい)天皇の即位前に酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)を斎王(さいおう)にして、37年間も斎王(さいおう)を務(つと)めて引退して、亡くなったと記して、引退の時期が聖徳太子の亡くなった時と重なって、斎王(さいおう)の引退が天皇の退位した時で、天皇説が成立する。
推古(すいこ)天皇は、朝廷での活動を認めるが、天皇が聖徳太子と見るか、政治が飛鳥(あすか)の皇后の推古(すいこ)天皇がして、対外や軍事の関係を聖徳太子が天皇として担当して、聖徳太子の死後に推古(すいこ)天皇が天皇として、活躍したと言う説である。

聖徳太子の非実在説や天皇説は、聖徳太子の優秀さや偉大さがあるからで、歴史教科書にどう載せるのか、僕の研究・分析の結果を少なからず考慮して、功績や実在性の検証などの参考にしてほしい。

聖徳太子と未来の予知
超古代文明時代のパソコンは、4大文明時代に存在して、人類の急激な発展からさかのぼって、縄文時代からの遺伝子レベルが何百世代にも渡って、現代日本人の特別な遺伝子情報を作り上げて、弥生時代の発生がパソコンの普及による物で、縄文人がサヌカイト(古銅輝石安山岩;讃岐岩)や日本最古の約5千年前に新潟県糸魚川市(の現領域)のヒスイ(翡翠)を作って、超古代文明時代のパソコンが存在して、アンティキティラ島の機械から小型のパソコンサイズと考えられる。
聖徳太子は、黒船などの未来を予言して、未来を見るパソコンで未来を知ったなら、パソコンサイズの考古学的証拠の遺品が残る可能性が低くて、聖徳太子が正確な西暦年月日を記さないのが、知ってしまうとタイムパラドックス(時間の矛盾)が起きる可能性を知ったからと考えられる。
聖徳太子は、未来を見るパソコンで、『ホツマツタエ』16章の精子が骨や脂肪で、卵子が血液や内臓になる圧倒的な遺伝子レベルの超知識や現代レベルの医学の知識などを記して、オーパーツ(未確認の超技術の加工品)やUMA(ユーマ;未確認生物)の実在を証明した可能性があって、生物の突然変異が過去の人間がした遺伝子操作の可能性もあって、2024年9月16日の午前10時頃に求めた。

オーパーツのアンティキティラ島の機械は、制作時期が不明の古代ギリシア時代のパソコンで、天体運航を計算するため作られた手回し式の太陽系儀と考えられて、ギリシア神話の内容が2つ以上日本神話と合致して、聖徳太子のパソコンと共通性を示唆して、古代に一部の有力者がオーパーツを所持したと考えられる。
1513年に書いたピリ・レイスの南極地図は、聖徳太子が生まれる前に作られて、未来の地球の地図をピリ・レイスが複写して、聖徳太子時代のパソコンが当然に普及して、このように未来を見るパソコンが世界中に普及して、ムー大陸もアトランティス大陸も現代人の想像力の産物で、ネットの小説投稿サイト『小説家になろう』などで当たり前に創造して、過去の人間も読んだ娯楽ネットサービスかもしれない。
何億年も前のオーパーツと恐竜や人間の足跡の化石などは、タイムトラベル(時間旅行)などが理論的に可能で、過去の人間が過去や現代や未来にタイムトラベルして、時間の超越が夢物語でなく、これが超古代文明時代のパソコンの存在が全てを説明して、過去や未来から現代に行って、帰還できると証明できない。

聖徳太子の地球儀は、19世紀前半の1820年に発見された南極とジェームズ・チャーチワード が20世紀前半の1931年に記した『失われたムー大陸』が記されて、『小説家になろう』などで知識を得たか、世界中の情報網を駆使(くし)して、書き上げたと考えられる。
聖徳太子は、1300年後頃の2020年代に歴史書の『ホツマツタエ』と『日本書記』と『古事記』が伝わって、古代天皇家の歴史を未来に唯一ひもといた僕を特定して、僕の人生をカンニングして、漢字と平仮名と片仮名とローマ字と西暦年の存在も知って、『ホツマツタエ』を完成させたのか?
1300年後の未来まで残る『ホツマツタエ』と『日本書記』と『古事記』の存在は、聖徳太子が元々未来まで残ると知って、聖徳太子が未来を見て知った平仮名と片仮名を作ったとぼかして、ヨーロッパの暦法の西暦年を取り入れて、あまりに超人的な才能を発揮して、未来を知った上での聖徳太子の偉人伝説の誕生が想像のしすぎか?
世界中の革命児たちは、先祖代々の超古代文明時代のパソコンを秘匿(ひとく)・発見して、圧倒的な知識を得た可能性があって、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや発明王トーマス・エジソンやアルバート・アインシュタイン博士なども、未来を見て独創的な理論のカンニングをした卑怯(ひきょう)な盗人(ぬすっと)かもしれないが、僕が超古代文明時代のパソコンに頼らない独学で、求めた独(ひと)り(アローン;alone:単身で)である。

日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争と倭(わ)の五王は、聖徳太子が未来を知って、作り上げた一大革命で、三種の神器も聖徳太子が作って、日本神話に組み込んで、三種の神器が神話の産物になって、圧倒的な功績の数々が全て聖徳太子と言うたった一人の偉人の功績になって、聖徳太子が超天才の僕と同類のような超人で、基本となる現代の古代天皇家の常識を知ったのかもしれない。
古代の日本語は、48音以上か以下か不明で、聖徳太子が未来を見るパソコンで、現代の48音を勉強して、その時代の言語の母音(ぼおん)と子音(しおん)を統一して、聖徳太子が日本語の48音を始めて作った人物と言う想像も成り立って、超古代文明のパソコンが稀代(きだい)の超天才の聖徳太子の必需品だったと考えられる。

<参考文献>
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://www.youtube.com/watch?v=dRYGVEs4DfY
https://www.youtube.com/watch?v=WkYxUlsF9xl

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