歴代天皇の在位期間の対比図

    『日本書紀』のずれた歴代天皇の在位期間
              紀元前     紀元前
神武(じんむ)天皇    660年即位  585年死去
綏靖(すいぜい)天皇   581年即位  549年死去
安寧(あんねい)天皇   549年即位  511年死去
懿徳(いとく)天皇    510年即位  477年死去
孝昭(こうしょう)天皇  475年即位  393年死去
孝安(こうあん)天皇   392年即位  291年死去
孝霊(こうれい)天皇   290年即位  215年死去
孝元(こうげん)天皇   214年即位  158年死去         僕が特定した正しい歴代天皇の在位期間
開化(かいか)天皇    158年即位   98年死去                   西暦         西暦
崇神(すじん)天皇     97年即位   30年死去    崇神(すじん)天皇     84年即位      151年死去
              紀元前      西暦
垂仁(すいにん)天皇    29年即位   70年死去    垂仁(すいにん)天皇   152年即位      190年死去
景行(けいこう)天皇    71年即位  130年死去    景行(けいこう)天皇   191年即位      250年死去
政務(せいむ)天皇    131年即位  190年死去    政務(せいむ)天皇    251年だけだが、即位してない
仲哀(ちゅうあい)天皇  192年即位  200年死去    仲哀(ちゅうあい)天皇  252年即位      260年死去
神功(じんぐう)皇后   201年即位  269年死去    神功(じんぐう)皇后   261年任命      329年死去
応神(おうじん)天皇   270年即位  310年死去    応神(おうじん)天皇   261年正月頃生まれ  310年死去
仁徳(にんとく)天皇   313年即位  399年死去    仁徳(にんとく)天皇   334年即位      367年死去
履中(りちゅう)天皇   400年即位  405年死去    履中(りちゅう)天皇   367年即位      372年死去
反正(はんぜい)天皇   406年即位  410年死去    反正(はんぜい)天皇   373年即位      377年死去
允恭(いんぎょう)天皇  412年即位  453年死去    允恭(いんぎょう)天皇  378年即位      394年死去
安康(あんこう)天皇   454年即位  456年死去    安康(あんこう)天皇   395年即位      427年死去
雄略(ゆうりゃく)天皇  457年即位  479年死去    雄略(ゆうりゃく)天皇  427年即位      429年死去
清寧(せいねい)天皇   480年即位  484年死去    清寧(せいねい)天皇   430年即位      457年死去
顕宗(けんそう)天皇   485年即位  487年死去    顕宗(けんそう)天皇   458年即位      471年死去
仁賢(にんけん)天皇   488年即位  497年死去    仁賢(にんけん)天皇   472年即位      474年死去
武烈(ぶれつ)天皇    498年即位  506年死去    武烈(ぶれつ)天皇    475年即位      506年死去


倭(わ)の五王が古代中国の王朝に遣使した年(2024年5月26日に修正)
東晋(とうしん)王朝の西暦413年  安康(あんこう)天皇19年
南朝宋(そう)王朝の421年     安康(あんこう)天皇26年
南朝宋(そう)王朝の西暦425年   安康(あんこう)天皇31年
讃(さん)の弟の珍(ちん)は、南朝宋(そう)王朝に年代不明で2回遣使して、兄弟関係が安康(あんこう)天皇と雄略(ゆうりゃく)天皇が正しい。
南朝宋(そう)王朝の西暦443年   清寧(せいねい)天皇14年
南朝宋(そう)王朝の451年     清寧(せいねい)天皇22年
済(せい)の世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)は、南朝宋(そう)王朝の年代不明に遣使して、清寧(せいねい)天皇の世継ぎの顕宗(けんそう)天皇が正しい。
南朝宋(そう)王朝の462年     顕宗(けんそう)天皇5年
倭王(わおう)の興(こう)は死んで、弟の武(ぶ)が即位したが、叔父(おじ)の顕宗(けんそう)天皇と甥(おい)の武烈(ぶれつ)天皇が正しい。
南朝宋(そう)王朝の478年     武烈(ぶれつ)天皇4年
南朝斉(せい)王朝の479年     武烈(ぶれつ)天皇5年
南朝梁(りょう)王朝の502年    武烈(ぶれつ)天皇28年


『日本書紀』の神武(じんむ)天皇元年は、紀元前660年を建国で計算して、今年が建国2683年で、神武(じんむ)天皇が作られた実在しない人物と僕が証明して、ギネス世界記録の日本の建国2600年以上が嘘(うそ)で、僕が特定した実在の初代の崇神(すじん)天皇元年が西暦84年で、2024年が建国1940年目と確定して、絶対に100%覆(くつがえ)せない。
「記紀」の神武(じんむ)天皇は、『日本書紀』の在位期間を参考にして、以降の歴代天皇の在位期間を求めるが、そもそも神武(じんむ)天皇の在位期間そのものが間違いで、『日本書紀』が正式記録で、嘘(うそ)と思わなくて、「記紀」の内容が本当と嘘(うそ)を混在して、正しく理解しない「記紀」の研究者にも問題があった。

『日本書紀』の神武(じんむ)天皇以降の在位期間は、即位しない政務(せいむ)天皇が日本武(やまとたけ)天皇と同一人物で、60年間の在位期間が60年引き算して、西暦251年(天皇不在の年)だけになって、そもそも皇室の禁忌の太陽神殺しをして、天皇と認める方がおかしくて、僕も同じ理由で、歴代天皇から除外した。

皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)は、宮崎県にいて即位できなくて、死去年が西暦310年で、数え年50才で亡くなって、僕が求めた年表でも310年に49才で亡くなって、大阪府に皇居と天皇陵があるはずがなくて、宮崎市の生目(いきめ)1号墳が誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補である。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、日向(ひうが;宮崎県)に天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神格化して、宮崎県にいたことが証明できて、母の神功(じんぐう)皇后が69年間も政治して、先に亡くなったことで、息子の仁徳(にんとく)天皇が東征(神武(じんむ)東征に祖先化)して、神武(じんむ)天皇が実在の初代の崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化して作られて、実在した初代天皇と錯覚(さっかく)したと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇の即位年は、西暦334年だから、祖母の神功(じんぐう)皇后が亡くなった329年の間の年月(330年から333年)が空白期間で、僕がもみじヶ丘病院に入院中の2023年7月22日の午後5時頃に仁徳(にんとく)東征(神武(じんむ)東征に祖先化)の年代を特定して、古代天皇家の年代を完全に確定した。

兄の安康(あんこう)天皇は、在位期間3年で、弟の雄略(ゆうりゃく)天皇が在位期間23年で、僕が求めた在位期間が逆転などして、安康(あんこう)天皇が33年で、雄略(ゆうりゃく)天皇が3年となって、他の歴代天皇の在位期間も互いに対比図が共通して、多くのヒントがあった。
このような実例は、歴史研究の常識(当たり前)で、凡人(僕以外の人間)が全く気付かないが、超天才の僕だけが求めた奇跡で、段違いの認識力や判断力などが違和感を見分けて、どんどん求めて、根本的に深層の川底に到達して、全てを暴(あば)くのである。

『日本書紀』の神武(じんむ)天皇以降の系図は、倭王(わおう)の讃(さん)が応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇で、倭王(わおう)の珍(ちん)が反正(はんぜい)天皇で、倭王(わおう)の済(せい)が允恭(いんぎょう)天皇で、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)の武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇と勘違いしたが、作り物を僕が見破った。
僕が求めた正しい倭(わ)の五王は、倭王(わおう)の讃(さん)が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)の珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、倭王(わおう)の済(せい)が清寧(せいねい)天皇で、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、倭王(わおう)の武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇で、100%正しいと判明した。
5世紀の倭(わ)の五王は、『日本書紀』が神武(じんむ)天皇以降の歴代天皇を勘違いさせるために作成して、『日本書紀』が正式記録で、嘘(うそ)がないと思い込んだが、しょせん作り物で、僕の自論に勝てなかった。

昔の在位期間の雄略(ゆうりゃく)天皇は、倭王(わおう)の武(ぶ)が2回目に遣使した479年で死去して、502年に遣使した倭王(わおう)の武(ぶ)を別人としたが、同名の倭王(わおう)の武(ぶ)が30年近い在位期間と考えるのが自然で、雄略(ゆうりゃく)天皇の後の4天皇が約30年で、一人7年から8年ほどで、次々に代替わりして、雄略(ゆうりゃく)天皇を倭王(わおう)の武(ぶ)と考えるのに無理がある。
倭王(わおう)の武(ぶ)は、478年と翌年の479年と502年の3回を古代中国の王朝に遣使して、僕の自論から求めて、雄略(ゆうりゃく)天皇が427年即位の429年死去で、武烈(ぶれつ)天皇が475年即位の506年死去で、十分に倭王(わおう)の武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇と考えられて、「記紀」が40年間も干支(えと)の研究をして、簡単に史実・真実・事実を隠せたはずである。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、2番目の倭王(わおう)の珍(ちん)で、武烈(ぶれつ)天皇が最後の倭王(わおう)の武(ぶ)で、『ホツマツタエ』が第三段階で、西暦年を組み込んで、それが「きっかけ」で、「記紀」が倭(わ)の五王をごまかすのに便乗して、ワザと誤解させる仮(かり)の歴史を作ったと考えられる。

僕は『即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)』の章を作成して、仁徳(にんとく)天皇の即位年から武烈(ぶれつ)天皇の崩御(ほうぎょ)年まで決定した根本的な理由を述べて、歴代天皇の在位期間が求められる運命にあった。
これらの証拠は、僕が求めた正しい歴代天皇の年代が間違いなくて、5世紀の倭(わ)の五王が古代中国の王朝に遣使した年とも合致して、完全に歴代天皇の在位期間を西暦年で特定して、100%誰も否定できない証拠になった。
ギネス世界記録の世界最古の国は、実在した崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)の日本の建国(天皇家誕生)で、僕の自論の考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致して、エジプト文明ほど考古学と歴史学を合致した圧倒的な証拠でないが、日本の新しい学問の形作りをした。
しかし僕は、圧倒的な賞賛の影で、統合失調症の自殺願望に苦しんで、自分の体と心を傷つけて、陰(かげ)のある根暗な性格で、決して敬(うやま)われず、褒(ほ)められた人間でなくて、普通の人間でいたくても、古代天皇家の歴史を全て求めて、日本神話の神々を求めた意味で、神様に最も近い人間で、この超頭脳(超感覚)を人々から崇(あが)められる。

これだけの証拠を示した僕は、2023年5月25日の午後5時頃に『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)が正しい暦法と証明して、神武(じんむ)天皇以降の歴代天皇時代を否定して、大革命を起こしたと理解して、6月16日の午前6時頃に対比図を完成して、文章の一部分を追加や修正して、2024月3月21日に修正した。

<参考文献>
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借

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