太陽信仰と神社

太陽信仰は、未開社会や古代社会の宗教で、太陽を全知全能の神様としたり、太陽に子供が恵まれる能力があると信じたりして、崇拝(すうはい)の対象とした信仰で、世界中の神話や習慣に見られるが、古代日本が古代天皇家の祖先神として、太陽神を祭ったのが間違いなくて、天皇家の宗教である神道の基本の考え方である。
ネット検索で日本の太陽神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の他に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)や稚日霊尊(わかひるめのみこと;大中姫(おおなかひめ)を神格化)などが出て来て、古代天皇家の歴史を完全解釈できる僕にしか正しく求められなくて、太陽神か違うか論理的に説明できる。
天穂日命(あめのほひのみこと)や稚日霊尊(わかひるめのみこと)は、100%太陽神でなくて、2代目・火明命(ほあかりのみこと)が男性の古代太陽神で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)と同一神で、合体した神名の天照国輝彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を持つ。
太陽神の初代宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)は、直系子孫を全て和珥(わに)氏で統一して、僕の自論が海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏を和珥(わに)氏と呼んで、和珥(わに)氏が尾張(おわり)氏や竹内(たけうち)氏や千家(せんげ)氏や阿部(あべ)氏や葛城(かつらぎ)氏や蘇我(そが)氏など有力氏族の分家が非常に多くて、彦坐王(ひこいますのみこ)を多くの古代太陽神に神格化した。
物部(もののべ)氏の子孫は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の竹内(たけうち)氏や蘇我(そが)氏、武渟川別(たけぬなかわわけ)の子孫の阿部(あべ)氏、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子孫の葛城(かつらぎ)氏などで、海部(あまべ)氏の子孫が尾張(おわり)氏など、有力な古代豪族が目白押(めじろお)しである。

日本の太陽神は、「記紀」の女性の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)だが、『ホツマツタエ』で男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を記して、彦坐王(ひこいますのみこ)と直系子孫で、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后の3人だけが太陽神に神格化した。
日本の古代太陽神は、蛇神や男性で、『ホツマツタエ』の天照神(あまてるかみ)が別名をアマテラスやヲヲンカミで、天照大神(あまてらすおおみかみ)の語源の可能性があるが、『ホツマツタエ』が6世紀から7世紀にできて、それを完全に信用できない可能性も生まれて、詳細な『ホツマツタエ』と「記紀」の分析・研究が必要である。
「天照(あまてる;あまてらす)」の称号は、男性の天照神(あまてるかみ)と女性の天照大神(あまてらすおおみかみ)が冠する最高神と太陽神の由緒(ゆいしょ)ある称号で、彦坐王(ひこいますのみこ)と直系子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)との神功(じんぐう)皇后の3人だけが許された神名で、太陽神の神格化が非常に重要な意味・価値を持つ。

レイライン(LeyLine;太陽の道)は、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱して、古代遺跡が直線的に並ぶように建造された仮説で、その遺跡群が指す直線を言うが、「太陽の道」がレイラインを扱ううちに太陽信仰の直線が存在すると言われて、富士山と出雲大社のレイラインなどが存在する。

崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に遷宮して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日17日の夜に天照神(あまてるかみ)を元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)に遷宮して、八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して、二種の神器がレプリカ(複製品)である。
奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は、日本最古の神社で、その翌日に最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)が奈良県の所在地不明に祭られて、崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)を祭って、笠縫邑(かさぬいのむら)が三輪山(みわやま)の近くに祭る理由にならない。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、奈良県で即位して、奈良県のどこで即位したと『ホツマツタエ』も『日本書記』も記さず、皇居が所在地不明の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)で、崇神(すじん)天皇陵の最有力候補が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、祖先化した神武(じんむ)天皇が奈良県橿原(かしはら)市で即位した。
以上の記述は、奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原(かしはら)市や天理市や宇陀市の一部)の周辺に笠縫邑(かさぬいのむら)があった可能性を高めて、笠縫邑(かさぬいのむら)の所在地を断定しない理由でもある。

『ホツマツタエ』は、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が倭大籠御魂神(やまとををこのみたまかみ)や倭神(やまとのかみ)や倭大国神(やまとおおくにのかみ)などの名前で記して、これらの名前が合体して倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)になったと考えられて、蛇体で男性の古代太陽神である。
垂仁(すいにん)天皇9年9月16日(西暦160年10月中旬頃)に皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)は、倭大国神(やまとおおくにかみ)から垂(しで;紙で作った飾り)をもらう夢を見て妊娠して、3年後の垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に3つ子を生んで、長子が倭姫命(やまとひめのみこと)で、女王と勘違いした卑弥呼(ひみこ)である。
この倭大国神(やまとおおくにかみ)は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の父の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられて、妊娠3年間が伊弉冉尊(いざなみのみこと;樺井月姫(かばいつきひめ)を神格化)が太陽神の天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を8年間も身籠もった神話と合致する。

崇神(すじん)天皇6年9月17日(西暦89年10月中旬頃)の夜に天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)に遷宮して、この時代に彦坐王(ひこいますのみこ)を太陽神に神格化したか不明で、日本神話の成立が『三国志・魏志倭人伝』を読んだ4世紀後半から5世紀中と考えられて、神話の成立と神格化が両立したと考えにくい。
崇神(すじん)天皇時代の古代太陽神は、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと証明できないが、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社と奈良県桜井市の三輪山(みわやま)の太陽信仰がかなり古くて、日本の建国(天皇家誕生)頃の初代天皇が太陽信仰を重視した証明である。

崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の正式な斎主(さいしゅ;神事をする人)になって、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を祭ったと考えられて、社殿を大神(おおみわ)神社と言う。
初代から7代目の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の出雲国王を神格化)は、彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする物部(もののべ)氏の出雲国王を神格化して、大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)の神で、物部(もののべ)氏を束(たば)ねる氏長(うじおさ)の歴代出雲国王を神格化して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の頂点に立つ存在である。

奈良県桜井市の三輪山(みわやま)は、山全体が禁足地(きんそくち;足を踏み入れない神聖な場所)で、垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳と景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳を含む大和(おおやまと)古墳群、景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に当たる纏向(まきむく)遺跡が近くにあって、非常に重要な古代天皇家の誕生を証明する考古学的証拠である。
三輪山(みわやま)の山頂の奥津磐座(おきついわくら)は、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を神様の依代(よりしろ)として祭って、『ホツマツタエ』で倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と同一神と記す。
三輪山(みわやま)の中腹の中津磐座(なかついわくら)は、初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と飯入根(いいいりね)を神格化)を祭って、麓(ふもと)の辺津磐座(へついわくら)が少彦名命(すくなひこなのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)を祭って、彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とするためである。

三輪山(みわやま)は、人工造山(環太平洋型ピラミッド)の説があって、大和三山の天香具山(あまのかぐやま)と畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)も人為的に加工した可能性があって、三輪山と大和三山と忌部山(いんべやま)が太陽信仰と深い関係して、天香具山(あまのかぐやま)が天香語山命(あまのかごやまのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)と深く関係する。
環太平洋型ピラミッドは、石を積み上げたエジプトや中米のピラミッドと違って、山の土を削(けず)って四角錘(しかくすい)に成形した物で、インドネシアや中南米にも見られて、条件が人工の山でも自然の山でも良くて、山を四角錘(しかくすい)に成形して、山頂部が平坦で、祭り場になって、山頂まで参道があって、山の周辺にも祭り場があって、祭り場が山と一体になることで、日本の御神体山を当てはめる。
天香具山(あまのかぐやま)は、大和三山の中で最も神聖視された山で、畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)が死火山で自然界の山だが、三輪山(みわやま)と畝傍山(うねびやま)を結ぶ直線が正確な冬至線で、またその直線が大和三山の作る二等辺三角形の中線となって、さらに直線を南西に伸ばすと忌部山(いんべやま)を頂点とするもう一つの二等辺三角形ができて、三輪山(みわやま)と耳成山(みみなしやま)を結ぶ直線が正確な夏至線となる。
大和三山と忌部山(いんべやま)の二等辺三角形は、天香具山(あまのかぐやま)と耳成山(みみなしやま)を底辺として、その底辺から三輪山(みわやま)を結ぶとさらに二等辺三角形ができて、その関係を踏(ふ)まえて、三輪山(みわやま)と大和三山と忌部山(いんべやま)の位置関係を示すと、ピュタゴラスの定理に当てはまる。
このことから三輪山(みわやま)と大和三山と忌部山(いんべやま)は、自然の山か人為的な人工造山(ピラミッド)か分からなくて、日本国内に自然の山を加工した人工造山(ピラミッド)が存在する事実もある。

奈良県天理市の大和(おおやまと)神社と所在地不明の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)と奈良県桜井市の三輪山(みわやま)は、日本の建国(天皇家誕生)後すぐに祭られた太陽信仰と考えられて、古代天皇家の太陽神への執着が深くて、切っても切れない重要な神事で、神道と太陽神の関係性が考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明できる。
大和(おおやまと)神社と笠縫邑(かさぬいのむら)と三輪山(みわやま)は、崇神(すじん)天皇時代の初めに祭って、伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮内宮を遷宮して、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)が大物主神(おおものぬしのかみ)の妻で、伊勢神宮と三輪山(みわやま)が同じ太陽信仰と証明できる。

崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国の滅亡を叔父(おじ)の崇神(すじん)天皇に報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が直系子孫を京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏とする。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に第2の元伊勢は、京都府宮津市の真名井(まない)神社に崇神(すじん)天皇の娘で、初代の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が遷宮して、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、場所が判明した最古の元伊勢で、2022年が遷宮1900年目だった。
元伊勢籠(この)神社の奥宮の真名井(まない)神社は、石の祭壇の古代信仰で、元伊勢籠(この)神社が古代太陽神の天照国輝彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭って、豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)も共に祭る。
豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、伊勢神宮外宮の祭神で、天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と同一神だが、彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇が実兄弟の別人で、2人共に皇室の直系先祖で、始祖(始まりの先祖)でもある。
『ホツマツタエ』で5代目タカミムスビのトヨケ(豊受;とようけ:彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、日高見(ひだかみ:東北地方南部のどこか)を統治して、晩年に孫で男性の太陽神の天照神(あまてるかみ)から頼まれて、山陰道(島根県を含む)の統治を依頼されて、老体を押して、日高見(ひだかみ)から京都府宮津市に移って、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏で共通した。
始祖で実兄弟の彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇は、実在した初代の太陽神の宮司と初代天皇で、古代天皇家や出雲王国(物部(もののべ)氏)の始まりの血筋と系図で、明確に判明した最初の人物で、由緒(ゆいしょ)正しい理由を持って、証明された非常に重要な人物2人である。
元伊勢籠(この)神社は、古代太陽神氏族の海部(あまべ)氏が祭って、日本最古の系図の海部(あまべ)氏系図を伝えて、神宝の邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の銅鏡で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)と合致した。

崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、崇神(すじん)天皇12年9月16日(西暦95年10月中旬頃)に実弟の崇神(すじん)天皇へ出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を報告して、出雲(島根県東部)の太陽信仰の始まりである。
『ホツマツタエ』日本神話のサホコチタルクニ(山陰地方;島根県を含む)は、当て字すると「狭穂子治足(さほこちた)る国」で、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫(出雲王家;物部(もののべ)氏)が治(おさ)め足(た)りる国と解釈できて、ホコが三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)を指して、天沼矛(あめのぬぼこ)や天逆矛(あめのさかほこ)と同じ物である。
出雲王家(物部(もののべ)氏)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)から7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)まで続いて、義父の日本武(やまとたけ)天皇の一人娘である布忍姫(ぬのおしひめ)と結婚して、初代の出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の国主)の濡渟(うかずくぬ)をもうけて、その直系子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏である。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、海部(あまべ)氏の先祖で、異母弟の狭穂彦王(さほひこのみこ)が物部(もののべ)氏の先祖で、海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏が共通の先祖を持つ古代太陽神氏族の和珥(わに)氏と証明して、彦坐王(ひこいますのみこ)が複数の古代太陽神に神格化して、日本神話の重要な位置を占(し)める。

崇神(すじん)天皇54年(西暦137年)の吉備(きび;岡山県と広島県東部)の名方浜宮(なかたはまのみや)は、岡山県の元伊勢だが、吉備(きび)の平定が垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)で、理論的にあり得なくて、紀伊(きい;和歌山県)の名方浜宮(なかたはまのみや)の間違いと100%証明した。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に吉備(きび)の平定は、垂仁(すいにん)天皇の3つ子の息子で、長男の祖別命(みおやわけのみこと)と三男の胆武別命(いたけわけのみこと)が武将で、この2人が吉備(きび)氏の先祖で、皇室の太陽神の子孫だから、吉備(きび)氏が太陽神と関係する。

垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)に遷宮した伊久良河宮(いくらがわのみや)天神(てんじん)神社は、岐阜県瑞穂市の元伊勢で、岐阜県の統治者が崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(ややさいりひこのみこと)と彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)である。
近江(あふみ;滋賀県)の八坂振色根姫(やさかふりいろねひめ)は、長男の八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)を生んで、諱(いみな)が大十杵(おおきね)で、十市(といち)に詣(もう)でた時に長女の十市瓊入姫命(といちにいりひめのみこと)を生んだ。
八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)の娘の八坂高依姫(やさかたかよりひめ)は、景行(けいこう)天皇2年2月15日(西暦192年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇と結婚して、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)が遅くに生まれたと考えられて、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)と十市瓊入姫命(といちにいりひめのみこと)の実兄妹の資料がなくて、十分にあり得る考え方である。
『ホツマツタエ』で沫蕩尊(あわなぎのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、根(ね)の国(岐阜県西部)を平定して、崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)と甥(おい;彦坐王(ひこいますのみこ)の息子)の神大根王(かみおおねのみこ)に岐阜県西部を統治させて、2世紀前半に平定したと考えられる。
根(ね)の国は、岐阜県だけでなく、長野県なども指すが、崇神(すじん)天皇時代に美濃(みの;岐阜県西部)を平定して、飛騨(ひだ;岐阜県東部)と信濃(しなの;長野県)の平定が西暦254年頃である。
岐阜県の太陽信仰は、美濃国造(みのくにみやつこ;岐阜県南部の統治者)の神大根王(かみおおねのみこ)が2世紀中頃に開始して、岐阜県瑞穂市の元伊勢の伊久良河宮(いくらがわのみや)天神(てんじん)神社、西暦254年に飛騨(ひだ;岐阜県東部)を平定して、岐阜県高山市に天岩戸(あまのいわと)がある位山(くらいやま)を祭るなど、明確な太陽信仰を証明した。
仁徳(にんとく)天皇32年(西暦365年)は、飛騨国(ひだのくに;岐阜県北部)にシャム双生児(結合性双生児)の両面宿儺(りょうめんすくな)がいて、仁徳(にんとく)東征(神武(じんむ)東征)で尽力したが、謀反(むほん)を起こして、海部(あまべ)氏の難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)が討伐した。
シャム双生児(結合性双生児)は、百万人に一人ほどの割合で生まれて、生まれながらにしてつながった一卵性双生児で、両面宿儺(りょうめんすくな)に体が一つで顔が二つあって、それぞれ手足があった身体障害者で、神大根王(かみおおねのみこ)の子孫か分からくて、資料が少なすぎる。

垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)の尾張国(おわりのくに;愛知県西部)の中嶋宮(なかじまのみや)は、西暦161年に愛知県東部が古代天皇家の統治下にあったと証明する可能性が高くて、元伊勢の中嶋宮(なかじまのみや)ができた年代を100%否定する。
愛知県東部に元伊勢は、100%存在しなくて、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫である海部(あまべ)氏の尾綱根命(おづなねのみこと)が仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の国主)に任命されて、尾綱根命(おづなねのみこと)が海部(あまべ)氏から分家した尾張(おわり)氏の始祖である。
尾綱根命(おづなねのみこと)の叔母(おば)の宮簀媛(みやずひめ)は、海部(あまべ)氏の出身で、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)と結婚して、武田王(たけだのみこ)と佐伯王(さえきのみこ)の息子2人を生んで、宮簀媛(みやずひめ)が愛知県名古屋市の熱田(あつた)神宮ができた時の初代の宮司を務(つと)めた。
熱田(あつた)神宮の祭神の熱田大神(あつたのおおかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、宮簀媛(みやずひめ)の夫の日本武尊(やまとたけのみこと)本人で、日本武尊(やまとたけのみこと)が仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に戦死して、宮簀媛(みやずひめ)の一族の尾張(おわり)氏が中心になって、熱田(あつた)神宮を創建したと考えられる。
神功(じんぐう)皇后は、摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を変更して、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)で宮崎県から奈良県に東征して、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)以降に熱田(あつた)神宮に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納した。
尾張国(おわりのくに;愛知県西部)の太陽信仰は、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に尾綱根命(おづなねのみこと)が海部(あまべ)氏から分家した尾張(おわり)氏になって、尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の国主)に任命された以降で、熱田(あつた)神宮も太陽信仰と深く関係すると証明した。

垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に崇神(すじん)天皇の娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、102才で斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)を続けらなくて、垂仁(すいにん)天皇の娘の倭姫命(やまとひめのみこと)を2代目の大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王(さいおう)にした。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を現在の伊勢神宮内宮に遷宮して、翌日17日に男神(だんしん)の豊受大神(とようけおおかみ)を伊勢神宮外宮に遷宮して、3年後の2027年に伊勢神宮の遷宮から1850年目を迎える。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、女王と勘違いする卑弥呼(ひみこ)で、父方の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化して、一生独身だから子孫がいなくて、男系男子天皇の理由が消えて、皇位継承問題に大きく影響する。

富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)は、出雲大社が天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼ぶ太陽信仰を証明して、島根県の太陽信仰が出雲大社を主に注目して、そのレイライン上に京都府福知山市の元伊勢内宮や滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山(いぶきやま)や島根県松江の神魂(かもす)神社などがあって、重要な太陽信仰を証明する。
富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイラインは、富士山を測量して、出雲大社と一直線の線を結んで、富士山の存在を知る前にレイラインができる天文学的確率が難しくて、古代天皇家が高度な地形と天文学の知識を駆使して、僕の自論の年代特定を100%否定できるわけがない。
古代天皇家が富士山を確認したのは、景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)以前で、遠江(とおとうみ;静岡県西部)まで統治下に置いて、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に駿河(するが;静岡県中部)を含めた東国の統治者を任命して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇が戦死して、西暦260年以降に出雲大社を創建した。
出雲大社は、崇神(すじん)天皇60年に出雲を平定して、息子の垂仁(すいにん)天皇時代に創建した社伝があって、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、仲哀(ちゅうあい)天皇の正妻の神功(じんぐう)皇后時代(西暦261年から329年)に出雲大社を創建したと考えられる。
出雲大社は、初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の義父の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を祭って、僕の特定した出雲神話が間違いなく正しい。
島根県松江大庭町の神魂(かもす)神社は、3世紀末から4世紀前半頃の神功(じんぐう)皇后に創建した出雲大社の元宮(もとみや)で、西暦708年から716年までに島根県出雲市大社町杵築の出雲大社に遷宮して、藤原氏が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏を弱体化するためと考えられる。
出雲王国(物部(もののべ)氏)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫で、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が義父の日本武(やまとたけ)天皇の一人娘である布忍姫(ぬのおしひめ)と結婚して、初代の出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の国主)の濡渟(うかずくぬ)をもうけて、その直系子孫が古代太陽神氏族の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏である。
千家(せんげ)氏は、祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)などから、太陽信仰の日(火;ひ)を受け継いで、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏の祖先神である2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と同一神で、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏に属する証拠で、日本神話が100%完全に正しいと証明された。

滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山(いぶきやま)は、伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)が西暦251年(天皇不在の年)に異母兄弟の日本武(やまとたけ)天皇を出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命させて、息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)の軍勢が出雲の国譲(くにゆず)り神話で、日本武(やまとたけ)天皇を殺害した。
伊吹山(いぶきやま)は、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、日本神話の伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の神名から山を命名した可能性があって、太陽信仰と深く関係する。

京都府福知山市大江町の元伊勢内宮は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を本殿に祭って、祠(ほこら)に蛇体の古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)も祭って、御神体山の日室岳(ひむろだけ;別名を一願(いちがん)さん)が奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)と同様の古代信仰と考えられる。
日室岳(ひむろだけ)は、禁足地(立ち入り禁止の聖域)の山頂に岩座(いわくら;神のよりしろ)があって、1500年以上前の人工的な古代信仰の証拠と考えられて、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、夏至(げし)の日に日室岳(ひむろだけ)の山頂に太陽が沈んで、重要な太陽信仰である。
京都府福知山市今安(いまやす)の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭って、海部(あまべ)氏出身の大倉岐命(おおくらきのみこと)が西暦250年代から280年代頃に創建して、3世紀後半から末頃に福知山市大江町に元伊勢内宮を創建した可能性が考えられる。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化する以前の古い神社と証明して、超天才の僕が凄(すご)い神技(かみわざ)と教えた。
元伊勢内宮の創建時期は、3世紀後半から末頃より古く遡(さかのぼ)れず、大倉岐命(おおくらきのみこと)以前の海部(あまべ)氏の人物が創建したと考えられなくて、海部(あまべ)氏が創建したもう一つの元伊勢だが、4世紀以降にできた可能性もあって、『ホツマツタエ』が京都府北部の最古の元伊勢が崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)に遷宮した宮津の元伊勢と証明した。

僕の実力は、この程度を求めて当然で、21年半以上の歴史研究の成果が超レベルで、凡人(僕以外の人間)が知らない神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)で、誰も絶対に100%勝てない超知識で、2024年7月30日の午後7時半頃に修正し終えた。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『知の探究シリーズ 日本超古代文明のすべて』
著者・多数 発行・株式会社日本文芸社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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