太陽信仰と神社


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

日本の太陽信仰は、太陽神を女性の天照大神(あまてらすおおみかみ)とするが、古代に天照大神が男性や蛇体とされて、男性の太陽神のアマテルカミ(天照神)や蛇体の大物主神(おおものぬしのかみ)などを思い浮かべる。
古代の男性や蛇体の太陽神は、僕の歴史研究で色々な古代太陽神を求めて、考え方や神様を証明した人類史上最高の超天才の僕を否定できる者がいなくて、僕の論理的根拠を敗れるなら示せばいい。
インターネット検索で日本の太陽神は、天照大神の他に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)や稚日霊尊(わかひるめのみこと;大中姫(おおなかひめ)を神格化)などが出て来て、太陽神の初代宮司と考えられる彦坐王の子孫が日本武尊と大中姫で、天穂日命と稚日霊尊が2代目・火明命(彦坐王を神格化)の子孫の出雲王国(物部(もののべ)氏)と関わる。
男性の太陽神の天照神と女性の太陽神の天照大神が冠する「天照(あまてる;あまてらす)」の称号は、最高神で太陽神の由緒(ゆいしょ)ある讃(たた)え名で、彦坐王とその子孫の倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)と神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)の3人を神格化したことを僕が証明した。

レイライン(LeyLine;太陽の道)は、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱して、古代遺跡が直線的に並(なら)ぶように建造された仮説で、その遺跡群が指す直線を言うが、「太陽の道」がレイラインを扱ううちに太陽信仰の直線が存在すると言われるようになった。
日本国内のレイラインは、伊勢神宮や三輪山(みわやま)や富士山や出雲大社など多岐に渡って、挙げれば切りがないので少しだけ見ていく。

『ホツマツタエ』は、2代目ホノアカリ(彦坐王を神格化)の長男のニギハヤヒ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が物部氏の祖先神で、次男タケヒテル(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)が海部(あまべ)氏の祖先神で、物部氏が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏に名字(みょうじ)を変えて、海部氏が京都府宮津市の元伊勢籠(かの)神社宮司家で存続して、分家した尾張(おわり)氏が愛知県西部の太陽信仰を生んだ。
「記紀」は海部氏の祖先神の2代目・火明命(彦坐王を神格化)は、息子が武日照命(たけひてるのみこと)でなく、香語山命(かごやまのみこと;丹波道主王を神格化)で、物部氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王を神格化)で、息子の可美真手命(うましまじのみこと;狭穂彦王を神格化)で、京都府北部の太陽信仰が海部氏で、島根県の太陽信仰を物部氏が生み出した。
出雲大社は、天日隅宮(あまのひすみのみや)とも呼ばれて、レイライン上にあって、太陽信仰と深く関係して、祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神の大物主神が古代太陽神である。
千家氏の祖先神の天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊を神格化)は、「記紀」で息子が武日照命とするが、正しく求めると『ホツマツタエ』の大背飯三熊野(おおせいいみくまの;飯入根(いいいりね)を神格化)で、海部氏と物部氏が彦坐王を始祖とする親戚関係で、武日照命の誤伝承が生まれたと考えられる。

崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)は天皇家誕生(日本の建国)で、崇神天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(大和(おおやまと)神社)に遷宮して、翌日の夜にアマテルカミを最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいむら)に遷宮して、これが日本最古の神社の創建である。
奈良県天理市の大和神社は、太陽信仰やレイラインと無関係と思わせるために偽装工作したが、レイライン上の大神(おおみわ)神社と大和神社と石上(いそのかみ)神宮が南北に3社が並んで、大和神社の倭大国魂神が日本全土を土地神とする日本最大の太陽神と考えられて、大神神社と大和神社と石上神宮の3社が物部氏系の神様を祭ることで共通する。
日本最古の神社の大和神社と笠縫邑は、共に古代太陽神を祭って、大和神社がワザと太陽信仰とレイラインに関係ない場所に創建して、最古の元伊勢の笠縫邑が太陽信仰かレイラインと深く関係すると考えられて、奈良県の笠縫邑の候補地を探すヒントになるかもしれない。
大和神社と笠縫邑は、このような小細工をほどこしたが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕がだませなかった。

富士山と出雲大社を結ぶレイラインは、京都府福知山市の元伊勢外宮がそのレイライン上にあって、古代天皇家が富士山の存在を知ったのが西暦254年以降で、古代天皇家が高度な地形と天文学の知識を駆使した。
崇神天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波(たには;京都府北中部)王国の滅亡を彦坐王が崇神天皇に報告して、崇神天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に笠縫邑から第2の元伊勢の京都府宮津市に遷宮して、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祭らせて、元伊勢籠(この)神社の奥宮の真名井(まない)神社に当たる。
1世紀末から2世紀前半頃に出雲が平定されて、初代出雲国王の彦坐王が出雲王国を建国して、出雲王国が古代太陽神のアマテルカミを祭る宮司として彦坐王を必要としたと考えられる。
出雲大社の社伝は、垂仁天皇時代に出雲大社が造営したと伝えて、垂仁天皇に反逆した2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が出雲大社の最初の祭神なら、出雲大社の創建が垂仁天皇時代かもしれない。
出雲大社は、7代目・大物主神(飯入根を神格化)と大国主神(飯入根を神格化)の同一神を祭るが、飯入根の先祖で怨霊の2代目・大物主神(狭穂彦王を神格化)も同一神として祭って、創建が垂仁天皇時代か神功皇后時代の可能性がある。
『ホツマツタエ』日本神話のサホコチタルクニ(山陰地方;島根県を含む)は、当て字すると「狭穂子治足(さほこちた)る国」で、2代目出雲国王の狭穂彦王の子孫(出雲王家;物部氏)が治(おさ)め足(た)りる国と解釈できるか?
出雲王国(物部氏)は、古代天皇家の太陽神を祭る宮司の家柄で、物部氏の直系子孫の千家氏や三輪(みわ)氏など古代太陽神氏族が名を連(つら)ねる。
富士山と出雲大社を結ぶレイライン上にある神魂(かもす)神社は、出雲大社の前身の説があって、出雲大社の創建が狭穂彦王の反乱(倭国大乱)後か出雲王国の崩壊から数十年後と考えられる。

三輪山の祭祀は、垂仁天皇7年10月1日(西暦158年11月上旬頃)で、狭穂彦王を2代目・大物主神に神格化して、三輪山山頂の磐座(いわくら)で神様の依代(よりしろ)として祭って、後世に狭穂彦王の直系子孫の飯入根を7代目・大物主神に神格化して、大神(おおみわ)神社に歴代の大物主神を祭った。
三輪山は、人口造山(ピラミッド)とする説があって、大和三山の天香具山(あまのかぐやま)と畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)が自然のものだが、人為的に計算して作られた可能性もあって、三輪山と大和三山と忌部山(いんべやま)が太陽信仰と深い関係がある。
天香具山は、大和三山の中で最も神聖視された山で、畝傍山と耳成山が死火山で自然界の山である。
三輪山と畝傍山を結ぶ直線が正確な冬至線で、またその直線が大和三山の作る二等辺三角形の中線となって、さらに直線を南西に伸ばすと忌部山を頂点とするもう一つの二等辺三角形ができる。
三輪山と耳成山を結ぶ直線は正確な夏至線となる。大和三山と忌部山の二等辺三角形は、天香具山と耳成山を底辺として、その底辺から三輪山を結ぶとさらに二等辺三角形ができて、その関係を踏(ふ)まえて三輪山と大和三山と忌部山の位置関係を示すと、ピュタゴラスの定理に当てはまる。
このことから三輪山と大和三山と忌部山は、自然にできた山か人為的な人口造山(ピラミッド)か分からず、日本国内に自然の山を加工したピラミッドが存在する事実もある。

垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命が103才(数え年)で斎王を続けられないとして、倭姫命(やまとひめのみこと)に見習わせて2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)として、倭姫命も念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王)になった。
これは女王国(伊勢国)の王女の卑弥呼(倭姫命)で、多くの人が邪馬台国(やまとこく;大和国)の女王の卑弥呼と勘違いして、とっくの昔に邪馬台国論争の答えが出ている。
倭姫命は、垂仁天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)にアマテルカミの御霊(みたま)を現在の伊勢神宮内宮に遷宮した。
あと6年で伊勢神宮内宮の遷宮は1850年目を迎えて、正確な遷宮日を西暦年月日で求めて、伊勢神宮内宮に天皇陛下を始めとする皇族方を迎えて、国家規模の祭りを執(と)り行なうべきだと考える。

岐阜県は早くから太陽信仰が存在して、彦坐王の息子の神大根王(かみおおねのみこ)が美濃(みの;岐阜県南部)の統治者で、西暦150年以前に岐阜県で太陽信仰が開始したと考えられる。
日本各地の太陽信仰やレイラインは、彦坐王を始祖とする古代太陽神氏族が全国各地に散らばって、もたらしたものである可能性が高くて、今後の参考にしてほしい。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

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