武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、軍神(戦神;いくさがみ)や武神などと呼ばれて、関東地方から東北地方南部と中国地方を平定した神様で、物部(もののべ)氏と藤原氏の氏神で、2神を同一神とする解釈がある。
経津主神(ふつぬしのかみ)は、『日本書紀』に登場して、『古事記』に記されず、斎主神(伊波比主神;いわいぬしのかみ)とも呼ばれて、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に普都大神(ふつのおおかみ)と記す。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、『日本書紀』で武甕雷神(たけみかづちのかみ)や武甕雷男神(たけみかづちのおのかみ)とも記して、『古事記』で建御雷神(たけみかづちのかみ)や建御雷男神(たけみかづちのおのかみ)や建布都神(たけふつのかみ)や豊布都神(とよふつのかみ)と記して、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に香島天之大神(かしまあめのおおかみ)と記す。
経津主神(ふつぬしのかみ)は、茨城県の香取(かとり)神宮に祭られて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が千葉県の鹿島(かしま)神宮に祭られて、両方の神宮が20キロメートルほど離れる程度で、互いに深く関わる。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、関東地方から東北地方南部の平定と出雲の国譲(くにゆず)り神話に出てきて、経津主神(ふつぬしのかみ)も同じ地域に出てくるが、古代天皇家の人物で、この地域に行った人物が武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神話化したのが間違いない。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)を説明するには、塩土老翁(しおつちのおじ)と神武(じんむ)天皇時代の武甕槌神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)も求めて、細かく解説しなければならない。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)と塩土老翁(しおつちのおじ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神話化して、場所と時代などから判断して間違いなく正しくて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が雷神で、塩土老翁(しおつちのおじ)が知恵を授けるサポートをした神様である。
孝元(こうげん)天皇と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、息子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をもうけて、母が分からず屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)をもうけて、紀(き)氏の莵道麿(うぢまろ)の娘である山下影媛(やましたかげひめ)と結婚して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)をもうけて、その直系子孫に73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏がいる。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、息子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をもうけて、母が分からず屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)をもうけて、山下影媛(やましたかげひめ)と結婚して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)をもうけて、誰を祖先化したか一目瞭然である。
弟橘姫(おとたちばなひめ)は、田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と花橘(はなたちばな)が両親で、祖別命(みおやわけのみこと)が娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれる前に亡くなって、花橘(はなたちばな)を穂積(ほづみ)氏の押山(おしやま)に嫁(とつ)がせて、弟橘姫(おとたちばなひめ)の義父が物部(もののべ)氏と同一氏族の穂積(ほづみ)氏で、義父が野見宿禰(のみのすくね)と考えられる。
彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の孫だが、物部(もののべ)氏の血筋でなく、入り婿(むこ)の6代目出雲国王で、物部(もののべ)氏の女性と7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)をもうけて、飯入根(いいいりね)が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の父か、伯父(叔父;おじ)か分からず、僕でも求められない。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の直系子孫の竹内(たけうち)氏は、古代天皇家の秘史を多く受け継いで、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』に纏(まと)めた。
『日本書紀』で経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、茨木県日立市で星の神の天津甕星(あまつみかほし)を討伐した。
塩土老翁(しおつちのおじ)は、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を東北地方南部まで道案内した。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)に行って、東北地方南部にいる塩土老翁(しおつちのおじ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)に神格化して、武渟川別(たけぬなかわわけ)が経津主神(ふつぬしのかみ)に神格化した。
これで東北地方南部と関東地方は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と塩土老翁(しおつちのおじ)と経津主神(ふつぬしのかみ)の説明が付く。
出雲の国譲(くにゆず)り神話で武甕槌神(たけみかづちのかみ)は活躍して、経津主神(ふつぬしのかみ)に神格化した武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が同時期の人物で、間違いなく武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね))の結論になる。
武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋で、2つの故郷の内乱で引き裂かれて、多くの仲間も巻き込んで、辛(つら)い肉親同士の内乱(皇位継承権争い)だった。
『ホツマツタエ』でオシホミミの右の臣にタケミカツチが任命されて、仲哀(ちゅうあい)天皇の右大臣が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、出雲討伐の将軍と考えられる。
火火出見尊(ほほでみのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)は雪の中で、塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の作った籠船(かごふね)に乗って、海神(わたつみ;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)の元(もと)に行った。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、誉田別尊(ほむだわけのみこと)を生んで、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が京都府宮津市から誉田別尊(ほむだわけのみこと)を船で宮崎県に行かせて、その息子の仁徳(にんとく)天皇が宮崎県で生まれたと神話を解釈する。
しかし本当は、摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に2歳弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を奈良県で立太子(りったいし;皇太子になること)して、大阪府の港から大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が船で宮崎県に行かせて、日向(ひうが;宮崎県)が天皇家の故郷とする本当の理由である。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の伝承は、雪の中で塩土老翁(しおつちのおじ)が火火出見尊(ほほでみのみこと)を宮崎県に籠船(かごふね)で見送って、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が生まれたと考えられる京都府与謝(よさ)郡伊根(いね)町の宇良(うら;浦島)神社に基づいて、京都府北部と大阪府が入れ替わったと考えられる。
塩土老翁(しおつちのおじ)は、宮崎県の神武(じんむ)天皇に奈良県の饒速日命(にぎはやひのみこと)を排除しようと持ち掛けた。
西暦330年代に塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、宮崎県の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)に奈良県の饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)から統治権を委譲されるように持ち掛けた。
神武(じんむ)東征で神武(じんむ)天皇は、三重県熊野市で動物霊を操(あやつ)る丹敷戸(にしきど)に軍を眠らされて、高倉下(たかくらした)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)の夢を見て、神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を神武(じんむ)天皇の元に持って行って、神武(じんむ)天皇の軍が目覚めた。
西暦330年代に神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の東征は、三重県熊野市で武甕雷神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の家臣の高倉下(たかくらした)から、神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を受け取った。
神武(じんむ)東征で神武(じんむ)天皇は、奈良県で饒速日命(にぎはやひのみこと)が大山守皇子(おおやまもりのみこ)を殺して、統治権を委譲した。
神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)は、大臣の饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)に従わない異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を殺して、饒速日命(にぎはやひのみこと)が朝廷の統治権を委譲した。
塩土老翁(しおつちのおじ)と武甕雷神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)は、全(すべ)て大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱(皇位継承権争い)で説明できる。
武甕雷神(たけみかづちのかみ)は、全(すべ)て初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化したなら、西暦250年から330年代まで生きて、100才近くまで生きたと考えられる。
『ホツマツタエ』でタケミカツチは、娘ヒメ(ヒメノカミ)が藤原氏の祖先神のアマノコヤネと結婚して、物部(もののべ)氏と藤原氏の氏神で、両氏族の出身を求めるヒントである。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、景行(けいこう)天皇の曾孫(皇族)で、母方が物部(もののべ)氏の血筋で、仲哀(ちゅうあい)天皇の右大臣で、それ以降も大臣で、多くの子孫がいて、武勇も多い忠臣と考えられる。
<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『総図解よくわかる日本の神社』
著者・渋谷申博 発行・株式会社新人物往来社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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