武甕槌神(たけみかづちのかみ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』によるとタケミカツチ(初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は父親をヲバシリ(屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)を神格化)として、別名をカシマカミと言うのが記されていて、武甕槌神を祭る茨城県の鹿島(かしま)神宮の名前である。
武甕槌神として神格化したのが初代・武内宿禰と考えられて、初代・武内宿禰は北陸と東方の諸国のありさまを視察させられて、日高見国(東北地方南部のどのあたりか不明)があることを報告しており、武甕槌神が関東地方に祭られることと平定したことに説明が付く。

武甕槌神は間違いなく物部(もののべ)氏出身の初代・武内宿禰を神格化していて、物部氏の氏神と言っていい存在なのだが、『ホツマツタエ』によるとタケミカツチの娘ヒトリヒメがアマノコヤネの妻である。
『日本書紀』によると興台産霊(こごとむすび)の子の天児屋命(あまのこやねのみこと)と記されて、中臣氏と摂関(せっかん;摂政(せっしょう)と関白(かんぱく)を合わせてそう呼ぶ)藤原氏の祖先神である。
天児屋命の妻は現在だと比売神(ひめのかみ)という名前を伝えるだけだが、『ホツマツタエ』から求めるとヒトリヒメである。
藤原鎌足から勢力を強めた摂関藤原氏にとって武甕槌神が氏神で、経津主神が血筋の深い関係のある神様なのだが、天児屋命と比売神の夫婦を祖先神とあおいで、祭祀氏族としての伝承しか持っていなかった中臣氏と摂関藤原氏が、経津主神と武甕槌神を氏神のように重視した点が引っかかる。
摂関藤原氏が経津主神と武甕槌神を氏神のように重視したのは、古代豪族の物部氏の氏神として権威付けられていたことに対抗したものかもしれない。
今となっては想像するしかないが、経津主神と武甕槌神は物部氏と中臣氏と摂関藤原氏にとって氏神かそのような存在だったのも、長い年月の中で忘れ去られてしまったのかもしれない。

武甕槌神は布都御魂剣を神格化したもので、布都御魂剣で斬った時に出る火花を武甕槌神という具合に考えられたのだろう。
ちなみに『ホツマツタエ』によるとタケミカツチの語意は、武術によって雷もひしぐことができるであって、布都御魂剣と全く関係ないのである。

武甕槌神は日本神話の軍神(いくさがみ)で、『ホツマツタエ』でオシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の右の臣にタケミカツチが任命されて、仲哀天皇の右大臣が初代・武内宿禰と考えられる。
初代・武内宿禰は、若干20代で将来有望なこと、東海平定の功績、古代からの武家である物部氏の出身であることなどから大臣に任命されたと考えられる。
『ホツマツタエ』によるとオシホミミは、都を日高見(ひだかみ)に遷してタケミカツチがお供したと記されて、仲哀天皇時代に東北地方南部までが大和朝廷の勢力下に置かれて、初代・武内宿禰が東北地方まで行っていた根拠である。

『ホツマツタエ』によると崇神(すじん)天皇60年が出雲王国平定で、正しくは西暦260年神無月と考えられて、仲哀天皇9年(西暦260年)に当たる。
『ホツマツタエ』でオオナムチはアマテルカミの右の臣で出雲の国司(くにつかさ)でもあったが、朝廷を尊ばず我が道を行く行為に許されざる数々が積み重なり、詰問(きつもん)の答えも正式解答を出さずじまいで、右の臣の解任のために軍勢が派遣されることになった。
オオナムチの右(カ)の締まり(臣)を断つ(罷免する)という意味でカシマタチと呼ばれて、総大将がタケミカツチで副将がフツヌシであり、後にカシマタチの功績からオシホミミからタケミカツチにカシマカミの称号が与えられた。
『ホツマツタエ』によるとタケミカツチは、カフツチノツルギをオオナムチの宮(今の出雲大社)の前に突き立てて、オオナムチに尋ねたと記されている。
『ホツマツタエ』によるとオオナムチはおとなしく従う選択をしたが、子供の一人のタケミナカタが反抗してタケミカツチに挑むけれど、敗れて逃げ出して現在の長野県の諏訪湖で降伏したと記されている。
タケミナカタは日本武尊を神格化していると考えられて、『日本書紀』の東海平定で日本武尊が長野県に行ったことが記されているのが根拠で、日本武尊が武渟川別と吉備武彦(きびたけひこ)に殺されて、タケミナカタが生きて降伏したことと重ならないが間違いない。
『ホツマツタエ』と「記紀」にしっかり記されている武甕槌神の名前は、出雲の古伝承に記されない謎が後世の課題である。

『日本書紀』によると神武(じんむ)天皇が三重県熊野市から進軍したが、途中で神様が現れて毒気を吐いて皇軍を眠らせた。
熊野に高倉下(たかくらした)という人物がいて、その人の夢で天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)と会話しており、武甕雷神が高倉下に神刀(布都御魂剣;ふつのみたまのつるぎ)を神武天皇に届けよと語った。
翌朝に夢のお告げに従って倉を開けると、倉の底板に逆さに刺さっている神刀があり、それを取って神武天皇のところに届けると、天皇も皇軍も皆が目を覚ました。
この話は神功皇后(天照大神に神格化)が初代・武内宿禰(武甕雷神に神格化)に遺言されて、東征してくる孫を助けてほしいと願われて、初代・武内宿禰が家臣(高倉下)に神刀を仁徳(にんとく)天皇(神武天皇)の元に届けさせたのを神話化・神格化・祖先化したのでないかと考えられる。
武甕槌神の話が仁徳天皇の即位前で途切れることから、仁徳天皇時代まで大臣を務めた初代・武内宿禰こそが武甕槌神に神格化されているという重要な根拠である。
景行天皇60年(西暦250年)に初代・武内宿禰が景行天皇の曾孫であるからせいぜい20歳頃と考えられる時、仁徳天皇の即位が西暦330年代で初代・武内宿禰の年齢が100歳頃でないかと考えられる。
初代・武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇の時代までの大臣とされるが、正しく求めると仲哀天皇時代から大臣になったのであって、仁徳天皇時代まで生きた長寿であり、100歳で亡くなった神功皇后と同じくらいの長生きである。
初代・武内宿禰より後の歴代の武内宿禰は武勲があるか分からず、武甕槌神に神格化されたのが初代・武内宿禰だけとする根拠である。

『日本書紀』に武内宿禰は西暦450年ぐらいまで名前が出てきて、歴代の武内宿禰が受け継がれて現在だと73世の武内宿禰に当たる竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏がおられて、武内宿禰の謎をひもとくきっかけになっている。
武甕槌神は日本神話の軍神で、僕が求めることでその功績や歴史をひもといて、ひそかに歴代の武内宿禰が受け継がれて、近年になって竹内睦泰が正統『竹内文書』を公表して真実味を帯びた。

<参考文献>
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟:著者 株式会社講談社:発行
『古事記(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行


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