武内宿禰(たけのうちのすくね;たけうちのすくね)
武内宿禰(たけのうちのすくね)は、景行(けいこう)天皇から仁徳(にんとく)天皇までの5人の天皇に仕(つか)えて、2百才から3百才以上の伝説的な大臣だが、凡人(僕以外の人間)が正しく求められない謎(なぞ)の人物で、有力な武家の物部(もののべ)氏の血筋である。
73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏は、2020年1月13日に亡くなって、歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を襲名して、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』を伝承し続けた竹内(たけうち)氏が大きな謎(なぞ)をひもとくヒント(手がかり)である。
宿禰(すくね)は、宿儺(すくね)や足尼(すくね)や足禰(すくね)や少名(すくね)などとも書いて、初期の大和政権で、武官や行政官を示す称号で、主に物部(もののべ)氏や蘇我(そが)氏や秦(はた)氏などの先祖に称号を与えて、8世紀に8色の姓(せい)で制定した姓(かばね;天皇から有力氏族に与(あた)えた、その氏族の位階・体裁(ていさい)・性格を示す称号)の一つになった。
2代目の垂仁(すいにん)天皇と迦具夜姫(かぐやひめ)は、垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に長男の祖別命(みおやわけのみこと)たち男ばかりの3つ子を生んで、長男と三男が吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定将軍で、2人が吉備(きび)氏の先祖でもある。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、花橘(はなたちばな)と結婚して、夫婦で垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)に古代中国の後漢王朝に使者として行って、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国した祖別命(みおやわけのみこと)が亡くなって、景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれた。
実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇の実兄である彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代出雲国王で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の始祖(しそ;一番最初の先祖)で、孫が3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)で、祖別命(みおやわけのみこと)の死後に妻の花橘(はなたちばな)が再婚して、弟橘姫(おとたちばなひめ)が野見宿禰(のみのすくね)の養女になった。
景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の養女の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を九州で生んで、後の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物である。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、後の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、物部(もののべ)氏の名前が分からない女性と結婚して、出雲王家(物部(もののべ)氏)の婿入(むこい)り国王になって、息子の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を生んで、女性の名前が不明な理由が混乱させるためである。
7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)は、日本武尊(やまとたけのみこと)の一人娘の布忍姫(ぬのおしひめ)と結婚して、生年月日不明の宇迦都久怒(うかずくぬ)と景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んだ。
彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の息子の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)は、紀直(きのあたい)の先祖である菟道彦(うじひこ;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の娘の倭影媛(やまとかげひめ;山下影姫:やましたかげひめ);布忍姫(ぬのおしひめ)を祖先化)と結婚して、景行天皇14年11月15日(西暦204年12月中旬頃)に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んだ。
景行天皇14年11月15日(西暦204年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、景行(けいこう)天皇の曾孫で年代があり得なくて、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれが正しくて、景行(けいこう)天皇60年7月1日(西暦250年8月上旬頃)に14才で、東海の平定に派遣する武将の一人に決めて、年齢や年代の計算が正しい。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は『日本書紀』成務(せいむ)天皇3年1月7日に成務(せいむ)天皇と同日生まれと記して、『ホツマツタエ』で成務(せいむ)天皇が景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)生まれと記して、同年生まれがあり得ないから、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの結論になって、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、年齢の計算が正しい。
屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)は、飯入根(いいいりね)と同一人物で、飯入根(いいいりね)の息子が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と2025年7月18日の午前中に求めて、飯入根(いいいりね)の息子か甥(おい)か長年の謎(なぞ)で、景行(けいこう)天皇の曾孫と分かっていても、ちょっとした「きっかけ」で、曾祖母が弟橘姫(おとたちばなひめ)と判明したりして、少しずつ血筋を解明して、非常に長い道程(みちのり)だった。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘の須勢理比売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)は、兄弟の事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を生んだ。
2007年9月に出版した僕の最初の著書『古代日本史への挑戦』は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が西暦191年から250年までの60年間を在位した景行(けいこう)天皇の曾孫で、双璧(そうへき)の軍神(いくさがみ)の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に神格化して、西暦330年代の神武(じんむ)東征が仁徳(にんとく)東征と疑(うた)って、西暦330年代まで生きた武甕雷神(たけみかづちのかみ)に神格化した可能性を求めた。
武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月頃(西暦252年2月頃)に茨城県を平定して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊させて、仁徳(にんとく)東征5年7月頃(西暦333年8月頃)に三重県熊野市の夢に武甕雷神(たけみかづちのかみ)の別名で登場した。
『日本書紀』の武甕槌神(たけみかづちのかみ)と武甕雷神(たけみかづちのかみ)の漢字の違いは、神格化した人物が違う可能性などを匂(にお)わせて、混乱させることを目的にした偽装工作で、両方を超天才の僕が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化したと特定して、超感性が凄(すさ)まじい。
雷神の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、雷神が出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋を神格化して、物部(もののべ)氏の血を引く皇太子の加茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)も雷神で、雷神が勇者を神格化したと考えられる。
塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年4月以降(西暦252年以降)に宮城県を平定して、摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を舟で、日向(ひうが;宮崎県)に送り出して、仁徳(にんとく)東征1年4月18日以降のある日(西暦329年5月中旬頃以降のある日)に登場する。
2007年9月に出版した僕の最初の著書は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化した武甕槌神(たけみかづちのかみ)と塩土老翁(しおつちのおじ)が仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月頃(西暦252年2月頃)から仁徳(にんとく)東征5年7月頃(西暦333年8月頃)まで登場して、僕が歴史研究し始めた当時の直感が凄(すさ)まじいエピソードである。
『ホツマツタエ』でオシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)は、右の臣にタケミカツチ(初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を任命して、仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)に東国平定の将軍として、皇居に帰還して、仲哀(ちゅうあい)天皇4年1月7日(西暦255年2月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇の右大臣に任命して、年代の計算が正しい。
『日本書紀』景行(けいこう)天皇51年1月7日の後の8月4日は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を棟梁之臣(むねはりのまえつきみ;棟木(むねき)と梁(はり)のように重任に堪(こた)える臣(おみ)…右大臣)に任命して、成務(せいむ)天皇3年1月7日と仲哀(ちゅうあい)天皇4年1月7日(西暦255年2月上旬頃)が合致して、成務(せいむ)天皇3年を仲哀(ちゅうあい)天皇に修正して、『日本書紀』が西暦年を使用したと証明した。
98才で左大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、99才で亡くなった摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)の神功(じんぐう)皇后から皇位(天皇の地位)を預(あず)かって、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に皇位(天皇の地位)を渡して、仁徳(にんとく)天皇が5代目天皇に即位して、その後に何歳まで生きたか分からない。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれで、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、神格化した塩土老翁(しおつちのおじ)の老翁(おじ)が高齢なお爺(じい)さんの意味で、実年齢も神格化した神様も老人で、子孫に武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を襲名して、武内宿禰(たけのうちのすくね)が2百才から3百才まで生きた伝承が生まれた理由である。
景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)から子孫で、武烈(ぶれつ)天皇24年12月(西暦499年1月頃)に戦死した8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)は、実在の系図の年代が正しいと僕が証明して、2020年1月13日に亡くなった73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏までの系図も正しいはずで、竹内(たけうち)氏の家系図の信頼性が確かである。
仁徳(にんとく)天皇50年3月5日(正しくは武烈(ぶれつ)天皇8年3月5日;西暦482年4月頃)は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の最後の登場で、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)に当たって、『日本書紀』仁賢(にんけん)天皇11年8月から12月(正しくは武烈(ぶれつ)天皇24年8月から12月;西暦498年9月頃から西暦499年1月頃)の平群真鳥(へぐりのまとり)と対比する意味がある。
『古事記』で大物主大神(おおものぬしのおおかみ;歴代の出雲国王を神格化)の曾孫の建甕槌命(たけみかづちのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、息子が2代目・意富多多泥古(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)で、『ホツマツタエ』を記した6代目オオモノヌシとオオタタネコと考えられる。
6代目・大物主神(おおものぬしのかみ;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)と曾孫の2代目・意富多多泥古(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)は、『ホツマツタエ』の原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』を記して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度の内乱(皇位継承権争い)に対する贖罪(しょくざい)が禊(みそぎ)で、摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に献上したと考えられる。
神櫛皇子(かんぐしのみこ)の祖父の祖別命(みおやわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)に古代中国の後漢王朝に行って、使者が漢字と製紙業を学んで帰国して、摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に本を献上したと考えても不思議でない。
2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に父の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)から、武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を襲名したか分からず、武烈(ぶれつ)天皇24年12月(西暦499年1月頃)に皇位継承権争いで戦死した大臣で、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)が襲名したのを理解して、『日本書紀』を記したと理解する必要がある。
2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)即位の仁徳(にんとく)天皇時代に重用(ちょうよう)されて、『ホツマツタエ』の2代目オオタタネコ(2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)と合致して、ネット検索で武内宿禰(たけのうちのすくね)の別名が武内大田根(たけのうちのおおたね)で、武内宿禰(たけのうちのすくね)と大田田根子(おおたたねこ)の名前が合体したと考えられる。
『ホツマツタエ』の序章は、オオナムチ(初代オオモノヌシ)とコトシロヌシ(2代目オオモノヌシ)とクシミカタマ(6代目オオモノヌシ)などの子孫が2代目ヲヲタタネコで、初代オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目オオモノヌシ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と6代目オオモノヌシ(神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)の子孫が2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)と証明した。
『古事記』で大物主大神(おおものぬしのおおかみ;歴代の出雲国王を神格化)の曾孫の建甕槌命(たけみかづちのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、息子が2代目・意富多多泥古(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)で、武内大田根(たけのうちのおおたね)の人名が正しいと証明した。
仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に磐之姫命(いわのひめのみこと)は、4つ子の履中(りちゅう)天皇と住吉中皇子(すみのえなかのみこ)と反正(はんぜい)天皇と允恭(いんぎょう)天皇を生んだことで皇后にして、6月(7月頃)に産後の病状が悪く亡くなって、2024年4月29日の午後10時半頃に4つ子の皇子と求めた。
仁徳(にんとく)天皇31年1月15日(西暦343年2月中旬頃)に履中(りちゅう)天皇は皇太子にして、仁徳(にんとく)天皇35年6月(西暦347年7月頃)に皇后の磐之姫命(いわのひめのみこと)が筒城宮(つづきのみや)で亡くなって、仁徳(にんとく)天皇37年12月12日(西暦350年1月上旬頃)に奈良山に葬礼して、仁徳(にんとく)天皇38年1月6日(西暦350年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇の異母姉妹の八田皇女(やだのひめみこ)を皇后にした。
仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に磐之姫命(いわのひめのみこと)は、4つ子を生んで皇后にして、6月(7月頃)に皇后の磐之姫命(いわのひめのみこと)が亡くなって、仁徳(にんとく)天皇4年12月12日(西暦338年1月上旬頃)に葬礼して、仁徳(にんとく)天皇5年1月6日(西暦338年2月上旬頃)に八田皇女(やだのひめみこ)を皇后にしたと考えられて、計算したのが上記である。
磐之姫命(いわのひめのみこと)は、2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘で、実在年代が正しくて、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が即位して、息子4人が生まれるまでの年月を計算して、4つ子としか考えられない。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の朝鮮半島の三韓(さんかん)征伐(新羅国(しらぎのくに)と高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)の3国の討伐)は、世間一般が嘘(うそ)と考えて、僕が60年引き算して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)に変換して、出雲王国の崩壊を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明して、僕が西暦320年に三韓(さんかん)征伐した嘘(うそ)の可能性を強調させた。
摂政(せっしょう)60年(西暦320年)は、新羅国(しらぎのくに)を攻撃して、敗戦で地図や戸籍を差し出して、それを見て高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)が参戦しなくて、摂政(せっしょう)62年(西暦322年)の新羅国(しらぎのくに)討伐も事実(現実に起きた出来事)で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の三韓(さんかん)征伐の真実である。
『日本書紀』摂政(せっしょう)62年(西暦322年)は、古代朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)が朝貢せず、その年に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して、新羅国(しらぎのくに)を討伐して、『百済記(くだらき)』の「干支(えと)の壬午(みずのえうま;允恭(いんぎょう)天皇5年:西暦382年)の年に日本が沙至比跪(さしひき)を派遣して、新羅国(しらぎのくに)を討伐した」と訳して、摂政(せっしょう)62年が西暦322年と西暦382年を重複させたと考えられる。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、摂政(せっしょう)62年(西暦322年)に孫の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が40才頃で、その娘の磐之姫命(いわのひめのみこと)が仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に20才頃で、西暦382年に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が100才頃の年齢計算になる。
つまり沙至比跪(さしひき)と葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)は、同一人物と誤認して、僕が摂政(せっしょう)60年(西暦320年)の三韓(さんかん)征伐と摂政(せっしょう)62年(西暦322年)の新羅国(しらぎのくに)討伐が事実(現実に起きた出来事)と求めて、『日本書紀』の訳本の沙至比跪(さちひこ)の発音が間違いで、「さしひき」と正しく発音すべきで、2025年8月9日の午後に三韓(さんかん)征伐が嘘(うそ)の認識を100%修正した。
允恭(いんぎょう)天皇の国風諡号(しごう)は、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)で、西暦412年即位の453年死去で、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』で、5代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前が若子宿禰(わかごのすくね)で、允恭(いんぎょう)天皇との同一人物説があって、年代的に重(かさ)なるのだが、全(まった)くの別人で、具体的にいつ年代が重(かさ)なるか、断言できない。
允恭(いんぎょう)天皇と5代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の同一人物説は、先祖の成務(せいむ)天皇と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の同一人物説が存在したように、先祖と子孫の天皇と武内宿禰(たけのうちのすくね)の同一人物説を作り出して、重(かさ)ね合わせたために混乱して、生まれた可能性が高い。
反正(はんぜい)天皇元年1月3日(西暦373年2月上旬頃)に反正(はんぜい)天皇は、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子で、前日に生まれた7代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)の人名ツクを鳥のミミズクから名付けて、反正(はんぜい)天皇が名付け親で、『日本書紀』から仁徳(にんとく)天皇元年1月2日(西暦313年2月上旬頃)でなく、反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)が平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)の誕生日である。
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)は、7代目・竹内宿禰都久(たけのうちのすくねのつく)と同一人物で、反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)が誕生日で、竹内(たけうち)氏の系図の参考になる。
『日本書紀』の応神(おうじん)天皇3年は、允恭(いんぎょう)天皇15年(西暦392年)で、朝鮮半島の百済国(くだらのくに)の辰斯王(しんしおう)が天皇に失礼をして、そこで紀角宿禰(きのつののすくね)・羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)・石川宿禰(いしかわのすくね)・木莵宿禰(つくのすくね)らを派遣して責めて、百済国(くだらのくに)が辰斯王(しんしおう)を殺して、阿花王(あくえおう)が即位した。
『竹内(たけうち)氏系図』は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子である紀角宿禰(きのつののすくね)を派遣して、遅くに生まれた息子なら、年齢計算が正しいと考えられる。羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)と平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)は、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子で、允恭(いんぎょう)天皇15年(西暦392年)に実在して、年齢計算が正しいと考えられる。
『古事記』に記す武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子の蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)は、石川宿禰(いしかわのすくね)と同一人物で、何代目の武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫から明確に分からず、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』が蘇我(そが)氏の正確な系図を記すと信じるしかない。
『日本書紀』の応神(おうじん)天皇25年は、安康(あんこう)天皇21年(西暦414年)で、百済国(くだらのくに)の木満致(もくまんち)が蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)の息子の蘇我満智宿禰(そがのまちのすくね)と同一人物で、蘇我満智宿禰(そがのまちのすくね)の息子の蘇我韓子(そがのからこ)と孫の蘇我高麗(そがのこま)が渡来系氏族の名前を連想するが、全(まった)く何の根拠もない想像にすぎない。
蘇我馬子(そがのうまこ)などに繋(つな)がる蘇我(そが)氏系図は、そのうち正しいか間違いか、調査・研究を頑張りたいと思う。
『日本書紀』の応神(おうじん)天皇9年4月は、安康(あんこう)天皇5年4月(西暦398年5月頃)で、兄の4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を殺すために異母弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に讒言(ざんげん;事実を曲(ま)げて、嘘(うそ)をついて人を悪く言うこと)して、結果的に探湯(くがたち)と言う神事をして、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が勝って、弟が火傷(やけど)した。
参考文献『正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』の謎』(著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング)は、竹内(たけうち)氏に伝わる探湯(くがたち;熱湯の中に手を入れさせて、火傷の有無で是非を判断する神明審判)と言う神事が魔法みたいだが、決して火傷(やけど)しない方法があるらしくて、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)と弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が決着した方法である。
『日本書紀』の安康(あんこう)天皇3年11月13日は、清寧(せいねい)天皇27年11月13日(西暦456年12月中旬頃)で、平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣として、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連(おおむらじ)とした。
7代目・竹内宿禰都久(たけのうちのすくねのつく)の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)の息子は、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内真鳥(たけうちのまとり)で、この時にすでに8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を襲名したと考えられる。
『日本書紀』の仁賢(にんけん)天皇11年8月は、武烈(ぶれつ)天皇24年8月(西暦498年9月頃)で、大臣の平群鳥臣(へぐりのまとり)が天皇になり替わろうと反乱して、息子の鮪臣(しびのおみ)が奈良山(奈良盆地の北にある丘陵)で殺されて、12月(西暦499年1月頃)に平群真鳥(へぐりのまとり)も殺されて、討伐した大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)を大連(おおむらじ)にして、平群(へぐり)氏と同族の竹内(たけうち)氏が没落した。
8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内真鳥(たけうちのまとり)の息子は、鮪臣(しびのおみ)が竹内志昆(たけうちのしび)だが、9代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)か分からなくて、平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚で、竹内(たけうち)氏が没落して、竹内(たけうち)氏の復権が竹内志昆(たけうちのしび)の曾孫で、13代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群臣神手(へぐりおみのかみて)で、またの名を竹内塩手(たけうちのしおて)が物部守屋(もののべのもりや)を討伐した時である。
平群(へぐり)氏は、本拠地が奈良県生駒郡(いこまぐん)平群町(へぐりちょう)で、歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)として隆盛したが、平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚で、一族の衰退をまねいた。
景行(けいこう)天皇の曾孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、子孫の8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)が天皇になろうと反乱して戦死して、皇室の遠縁だが天皇になれるはずで、皇室の遠縁の継体(けいたい)天皇が即位できる理由で、平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚が『日本書紀』に300年近く武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前を記して、竹内(たけうち)氏が武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前を襲名し続けた証拠と考えられる。
歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)は、国政に深く関わり続けたのが8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)か9代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)頃までで、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚が痛手(いたで)で、故人の73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏までの系図に間違いがないと考えられる。
僕が求めた歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)は、系図などの正当性を認(みと)めさせる大切な作業で、超天才の僕にしかできない神技(かみわざ)で、その重要性を簡単に理解できるか、疑問視する程度の認識力なら、でしゃばってほしいと思わない。
竹内(たけうち)氏や正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』などは、その価値や意味が大きくて、重要性の大切さを深く理解して、特定した僕の功績が評価されて、未来に託(たく)す教本として残して行きたくて、2025年10月11日の午前7時半頃に記し終えた。
<参考文献>
『正統『竹内文書』の謎』
著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『別冊歴史読本K 新視点 古代豪族の研究』
発行・株式会社新人物往来社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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