武内宿禰(たけのうちのすくね)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

武内宿禰は景行(けいこう)天皇から仁徳(にんとく)天皇までの5人の天皇に仕えた3百歳を超す長寿の伝説的な大臣とされるが、正しく求めると『日本書紀』に西暦450年頃まで武内宿禰が記されている。
しかしその実態は正統『竹内文書』によって求められて、先祖代々に渡って直系の子孫に武内宿禰の名前を襲名してきた一族がいて、現在だと73世の武内宿禰の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏がおられる。
3百歳を超す長寿の伝説的な大臣というのは、即位年干支と同様に60年を引き算していけば良いだけで、もしかしたら初代・武内宿禰が百歳以上の高齢だったかもしれない。
しかし初代・武内宿禰の息子が2代目・武内宿禰で、孫が3代目・武内宿禰を襲名していることから考えると、初代・武内宿禰が百歳以上の高齢だった可能性は低くなる。
僕は記述の上で初代・武内宿禰が百歳以上の高齢だったことを前提として本を記しているが、正統『竹内文書』に初代・武内宿禰が仁徳天皇時代に亡くなった伝承があるなら百歳頃まで生きた根拠になる。
初代・武内宿禰が百歳以上だったという根拠は、軍神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)として神格化される功績を残した武将が初代・武内宿禰だけと考えられて、神武(じんむ)天皇(仁徳天皇を祖先化)時代に武甕雷神(たけみかづちのかみ)という同一神として出てくることにある。
また初代・武内宿禰は塩土老翁(しおつちのおじ)にも神格化されていると考えられて、老翁という漢字が非常に高齢であることを思わせる。

初代・武内宿禰は景行天皇と物部(もののべ)氏の妃の曾孫で、西暦250年頃に20歳ほどで景行天皇60年(西暦250年)に中部地方から東北地方南部まで平定する武将に選ばれて、仲哀(ちゅうあい)天皇時代に右大臣になって以降ずっと大臣の地位にあったと考えられる。
『ホツマツタエ』でオシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の右の臣にタケミカツチが任命されて、仲哀天皇の右大臣が初代・武内宿禰だったと考えられて、出雲の国譲り神話でもタケミカツチが活躍している。
歴史上で最も活躍した武内宿禰は初代・武内宿禰で、彼がなぜ直系子孫に歴代の武内宿禰を襲名させて歴史の表舞台に出るように仕向けたか謎である。

摂政(せっしょう)62年(西暦382年)に新羅(しらぎ)が朝貢せず、その年に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して新羅を討伐した。
『百済記』に「干支の壬午(みずのえうま;西暦382年)の年に日本は沙至比跪(さちひこ)を派遣して新羅を討伐した」と記してある。
沙至比跪を葛城襲津彦と勘違いさせていて、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が西暦330年代に百歳頃で、孫の葛城襲津彦が40歳くらいと考えられて、この血縁関係と年齢にほとんど間違いがなく、西暦380年代に葛城襲津彦が生きていたら90歳くらいになる。
つまり沙至比跪と葛城襲津彦は全くの別人で、『日本書紀』の編者がよく似た人名を勘違いするように仕向けたのである。
允恭(いんぎょう)天皇の国風諡号(しごう)は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)で、5代目・武内宿禰の名前が若子宿禰(わかごのすくね)で允恭天皇との同一人物説があって年代的に生きた時代が重なるようだが、名前の酷似も年代の合致も偶然の産物で、正統『竹内文書』の伝承を信じるわけにはいかない。

応神(おうじん)天皇3年(西暦392年)に百済(くだら)の辰斯王(しんしおう)が天皇に失礼をして、そこで紀角宿禰(きのつののすくね)・羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)・石川宿禰(いしかわのすくね)・木莵宿禰(つくのすくね)らを派遣して責めて、百済国が辰斯王を殺して、阿花王(あくえおう)が即位した。
『古事記』を調べると紀角宿禰と羽田矢代宿禰と石川宿禰と木莵宿禰の4人共が武内宿禰の息子とされるが、初代・武内宿禰が西暦330年代に百歳頃でその子供ならば、この年代に生きているわけがなく記述の間違いで、他の人間を派遣しているのが正しい。
初代・武内宿禰の息子が木角宿禰(きのつののすくね)だからこの人物は確実に年代が違う。
4代目・武内宿禰の息子で7代目・竹内宿禰都久(たけのうちのすくねのつく)と波多矢代(はたのやしろ)が兄弟で、木莵宿禰と羽田矢代宿禰に当たって、この時代の人物の可能性が高い。
『古事記』に武内宿禰の息子として蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)が記されていて、石川宿禰に当たって歴代武内宿禰の子孫から出た傍系氏族であるため正統『竹内文書』に蘇我(そが)氏が記されていないと考えられて、この時代の人物の可能性が高い。
蘇我氏は渡来氏族で蘇我石川宿禰の子の蘇我満智宿禰(そがのまちのすくね)が木満致(もくまんち)と同一人物として、蘇我満智宿禰の子の蘇我韓子(そがのからこ)と孫の蘇我高麗(そがのこま)が渡来系氏族の名前を受け継いだのが単なる憶測にすぎなくて間違いで、この程度の認識力が歴史学者の現状である。
蘇我馬子(そがのうまこ)などの本拠地から2代目・武内宿禰の子の葛城襲津彦の本拠地に近いと判断して、葛城(かつらぎ)氏の直系子孫と考えるのは単なる憶測にすぎなくて、現代日本人レベルの認識力などこの程度である。

応神天皇9年4月(西暦398年5月頃)に4代目・武内宿禰を筑紫(九州)に派遣して人民を観察させた時、4代目・武内宿禰の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に4代目・武内宿禰が天下を取ろうとしていると讒言(ざんげん)を申し上げた。
色々あって4代目・武内宿禰と甘美内宿禰は、探湯(くがたち;神に祈り誓(ちか)って手を熱湯に入れて、ただれた者を邪(よこしま)とする)を行なって4代目・武内宿禰が勝って、甘美内宿禰を殺そうとしたが天皇が許された。
甘美内宿禰は4代目・武内宿禰の弟と記されていて、兄の4代目・武内宿禰の讒言を言ったことから殺されそうになったとされるが、年代的に考えて4代目・武内宿禰から6代目・武内宿禰くらいが当てはまると考えられる。
竹内氏に伝わる探湯という神事があり、魔法みたいな話だが決して火傷(やけど)しない方法があるらしい。

安康(あんこう)天皇3年11月13日(西暦456年12月中旬頃)に平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣として、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連(おおむらじ)とした。
平群臣真鳥は8代目・武内宿禰の竹内真鳥(たけうちのまとり)に当たって、この時代に8代目・武内宿禰を襲名していたと考えられる。

仁賢(にんけん)天皇11年8月(西暦498年9月頃)に大臣の平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)がもっぱら国政をほしいままにして、天皇になろうと欲して政争の結果として息子・鮪臣(しびのおみ)が奈良山で殺されて、11月11日(12月上旬頃)に自分も殺されてその科(とが)が一族に及んで、竹内氏が衰退することになった。
平群真鳥臣は8代目・武内宿禰の竹内真鳥に当たって、その息子の竹内志昆(たけうちのしび)が鮪臣に当たるが、竹内志昆が9代目・武内宿禰に当たるか参考文献に記されていなくて分からない。
竹内真鳥によって失脚した竹内(たけうち)氏が復権したのは、竹内真鳥の曾曾孫・竹内塩手(たけうちのしおて)が13代目・武内宿禰として物部守屋(もののべのもりや)を討伐した時である。
歴代の武内宿禰が国政に深く関わり続けたのが8代目・武内宿禰か9代目・武内宿禰までと考えられる。
歴代の武内宿禰の系図である竹内氏系図を調べると、現在の73世・武内宿禰の竹内睦泰氏までの系図に間違いがないと考えられる。

歴代の武内宿禰とその子孫を『日本書紀』の歴代天皇時代から実在年を求めて記して、正統『竹内文書』の正当性を判断するために少しだけ記したが、僕以外に4世紀から5世紀の空白年代を把握することなど不可能であり、実在の人物がいつ頃生きたか求められなければならない。
歴代の武内宿禰が歴史の表舞台から姿を消した後に代々に渡って武内宿禰を襲名した竹内氏は、いつか古代天皇家の歴史の史実・真実・事実をひもとかれる日が来るまで歴史を陰から支えて、僕が歴代の武内宿禰に光を当てる時がやって来た。
竹内氏の努力は決して無駄でなく、竹内睦泰氏が正統『竹内文書』を一部でも公表したのが僕の登場を予感してのことだったのかもしれない。
武内宿禰という伝説的な人物が形成された裏には、歴代の武内宿禰の努力や活躍があって作り上げられて、直系子孫が決して忘れないように古代の伝承を守り続ける必死さがあった。
僕はいつか73世の武内宿禰の竹内睦泰氏に会って、正統『竹内文書』の伝承の正しさを証明したいと考えている。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『正統『竹内文書』の謎』
竹内睦泰・著者 株式会社学研パブリッシング・発行
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