滝祭神(たきまつりのかみ)

伊勢神宮内宮は、横を流れる五十鈴川(いすずがわ)の手洗い場があって、そのすぐ脇(わき)に石が安置されて、それを滝祭神(たきまつりのかみ)と呼ぶ。
元々の滝祭神(たきまつりのかみ)は、伊勢神宮内宮の横を流れる五十鈴川(いすずがわ)を神格化した蛇神で、古代の太陽神でもあって、それが否定できない事実である。

平安時代初期に伊勢神宮から朝廷に差し出した『皇太神宮儀式帳』は、滝祭(たきまつり)神社や滝祭社(たきまつりのやしろ)が「大神宮の川辺にあり、御殿なし」と記して、『坂十仏参詣記』が滝祭神(たきまつりのかみ)が「神体は水底に御座あり、すなわち竜宮である」と記して、滝祭神(たきまつりのかみ)が五十鈴川(いすずがわ)の流れを御神体とする社殿を持たない古代信仰の神様で、蛇神(竜神)と考えられる。
僕の暮らす京都府福知山市大江町の元伊勢内宮は、天龍(てんりゅう)・八岐龍(やまたのりゅう)神社と言う祠(ほこら)があって、八岐大蛇(やまたのおろち)を龍と呼んで、日本で竜が蛇を指して、滝祭神(たきまつりのかみ)も蛇神で、すなわち竜神とも考えられる。
日本の蛇神(竜神)は、大物主神(おおものぬしのかみ)と滝祭神(たきまつりのかみ)と八岐大蛇(やまたのおろち)などで、3神とも古代太陽神で、滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視したのが八岐大蛇(やまたのおろち)である。

景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は娘で、13才の五百野皇女(いものひめみこ)を3代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)にして、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)に九州平定の報告と祝いをして、倭姫命(やまとひめのみこと)が喜んで、年を取って斎王(さいおう)に役不足で、八十物部(やそもののべ;兵士)と十二司(そふつかさ)を五百野皇女(いものひめみこ)に引き渡して仕(つか)えさせた。
五百野皇女(いものひめみこ)は、3代目の斎王(さいおう)になって、多気(たけ;三重県度会郡大紀町)の滝原宮(たきはらのみや)の宮居で慎(つつし)み仕(つか)えて、倭姫命(やまとひめのみこと)が宇治機殿(うぢはたどの)の磯宮(いそのみや;伊勢市の磯(いそ)神社)に隠居(いんきょ)して、静かに余生をすごして、天照神(あまてるかみ)を日々祭って、長く神のご威光も滞(とどこお)らずに照り輝いた。

卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう)を隠居(いんきょ)しても、後述からその威光がすごくて、実力の健在を示して、3代目の伊勢神宮の斎王を五百野皇女(いものひめみこ)に譲(ゆず)って、滝原宮(たきはらぐう)で祭った。
滝原宮(たきはらぐう)は、伊勢神宮の別宮(べつぐう)で、遥宮(とおのみや)と呼ばれて、内宮と外宮に次(つ)いで、3番目の実力を持つ神社で、その神様が正式に天照大神(あまてらすおおみかみ)だが、実際の古い言い伝えが水戸神(みなとがみ)で、水戸神(みなとがみ)が雨水を司(つかさど)る川の神様で、正体が滝祭神(たきまつりのかみ)と考えられる。
滝原宮(たきはらぐう)の「滝(たき)」と滝祭神(たきまつりのかみ)の「滝(たき)」は、共通するのが偶然でなく、必然と考えるべきで、伊勢神宮内宮が滝祭神(たきまつりのかみ)を大変丁寧に祭って、滝祭神(たきまつりのかみ)が天照大神(あまてらすおおみかみ)と同格ぐらいで、古代太陽神だから当然である。
滝祭神(たきまつりのかみ)は、社殿を持たない古代信仰から、『ホツマツタエ』の成立より大昔から存在して、非常に大切に祭られ続けて、伊勢神宮内宮に祭る由緒(ゆいしょ)正しい古代太陽神と考えられる。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『アマテラスの誕生』
筑紫申真・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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