天皇家誕生の時期


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

西暦80年頃に大阪府から奈良県に異民族が侵攻したらしく、奈良県を中心とした一大国家を樹立しようとして武力で制圧して、それこそが古代天皇家である。
この武力制圧を証明する考古学的証拠が大阪府にあって、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家の誕生で平定した土地を土地整備した可能性が考えられる。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に実質の初代の崇神天皇が即位した。
問題点として弥生時代後期初頭を西暦100年前後とするが、考古学者によって年代の位置付けがあいまいで誤差が生まれて、僕の直感で年代を定めていて信頼性が少しうすいが、間違っているとは考えていない。
兵庫県淡路市の舟木遺跡と五斗長垣内遺跡は弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産をした根拠になると考えられて、舟木遺跡が弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
古代天皇家誕生の時の勢力は大阪府から奈良県だから、淡路島が古代天皇家誕生の時にすでに勢力地だった可能性が十分にあって、弥生時代後期初頭から始まることに説明がつく。

崇神天皇10年7月24日(西暦93年8月下旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があり、「国民を統治するため神のお告げのままに祭り、ようやく都の汚(けが)れが落ちたが、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国の荒ぶる者たちに、天皇家の教えで平定されていない。丹波王国に使者を派遣して、天皇家の道理を教えよ」と。
崇神天皇の詔は丹波王国に勅使(ちょくし)を送ったのかもしれず、西暦94年に丹波が古代大和朝廷の支配下に入った。
崇神天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)を丹波王国の平定の総大将として、その息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を従軍の武将として派遣した。
丹波国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺して、崇神天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波王国滅亡を将軍の彦坐王が崇神天皇に報告した。
丹波道主王は丹波平定の時に生まれていなくて、崇神天皇39年(西暦122年)に第2の元伊勢の京都府宮津市に遷宮した時に幼少で、その後で女子5人を授かって、垂仁天皇26年(西暦177年)にも名前が出てくると考えられる。
つまり丹波道主王は丹波を冠するから記されるだけで、もっと後世に生まれた可能性がある。

この丹波王国滅亡を証明する考古学的証拠が京都府北部から兵庫県北部にかけてあって、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家の丹波平定で土地整備をした可能性が考えられる。
弥生時代の鉄製品出土数を都道府県別で見てみると、1990年代から約20年のうちに京都府が4位に急上昇して、特に京都府北部の弥生時代後期に集中している。
このことから京都府北部の弥生時代後期に異文化が流入した可能性が考えられて、丹波王国を滅亡させた古代大和朝廷の統治下に入って、鉄製品の増加を試行錯誤したのでないか?

丹波国王の玖賀耳之御笠の討伐伝承は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』で丹波道主王を総大将として、『古事記』や他の書物で彦坐王を総大将として、彦坐王を総大将とするのが正解と考えられる。
彦坐王を総大将とする伝承は、『丹後風土記残缺』と『但馬国司文書』と『但馬世継記』が詳しく、福井県南部から京都府北部そして兵庫県北部まで至り、水軍も繰り出す激戦が細かく記される。

天皇家の誕生は日本の建国で、古代天皇家が現在の皇室と血筋がつながるか証明できないが、明確な建国の年代が西暦84年なのが間違いない。
この時期の考古学的証拠は、間違いなく正しいことが証明されている。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『丹後文化圏』
坪倉利正・編集 丹後古代文化研究会・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
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