物部(もののべ)氏と祟(たた)り神

祟り神というと『もののけ姫』を思い浮かべる人が多いと思うが、祟り神は日本古来の祟って怨(うら)む霊魂の怨霊(おんりょう)のことで、石上(いそのかみ)神宮や物部氏に深い関わりがあって、神道の「鎮魂(みたましずめ)」の考え方に基づく。
「みたましずめ」は体から離れようとする霊魂を離れさせないことで、怨霊が「みたましずめ」の力が弱まって体から霊魂が離れて動き回る状態で、その霊魂を祭ることで怨霊にならないようにする。
最古の皇族である彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)に続く物部氏は、古代太陽神で最高神の大物主神(おおものぬしのかみ)を祖先神として、「鎮魂祭(みたましずめのまつり)」で鎮魂したり、魂返(たまがえ)しの秘法で迷っている罪人の霊魂を祭りあげたり、死者の魂を葬礼する埴輪(はにわ)を作る土師(はじ)氏を出したりと霊魂に深い関わりのある一族である。
物部氏は今でこそ古代の武家の物部守屋(もののべのもりや)をもって宗家が途絶えたことで知られるが、アインシュタイン博士以上の天才の僕が古代物部氏の出雲王家の血筋を完全復活させて、出雲王家のたどった秘史も完全に再現してしまって、まさに自他共に認める超天才である。
その僕が物部氏と祟り神の関係を求めてみようと思うが、怨霊として神格化した日本神話の神々は物部氏の子孫が中心で、海部(あまべ)氏の子孫も含まれて全て彦坐王の子孫に当たる結論になる。

古代天皇家で最初の内乱である狭穂彦王の反乱(倭国大乱)で戦死した狭穂彦王と狭穂姫(さほひめ)の兄妹は、狭穂彦王が2代目の大物主神と軻遇突智(かぐつち)と火雷(ほのいかずち)に神格化されて、狭穂姫が伊弉冉尊(いざなみのみこと)に神格化されて共に怨霊と考えられる。
狭穂彦王は物部氏の先祖で、狭穂姫が物部氏の出身だから怨霊とされることに納得がいく。

古代天皇家で2度目の内乱である日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱(男王の反乱)で戦死した日本武尊と飯入根(いいいりね)と少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)は、あまりにも多くの怨霊として神格化されていて正しく把握する必要がある。
日本武尊は別天神(ことあまつがみ)の可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天穂日命(あめのほひのみこと)に神格化されている。
飯入根は7代目の大物主神と大国主神(おおくにぬしのかみ)と大背飯三熊野(おおせいいみくまの)に神格化されている。
大背飯三熊野の熊野は『ホツマツタエ』から「隈(くま)の」の意味だと分かって、汚穢隈(おえくま;汚(けが)れ)を祓(はら)うという意味に解釈することができる。
少彦男心命は少彦名命(すくなひこなのみこと)と熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)と天稚彦(あめわかひこ)として神格化されている。
天照大神(あまてらすおおみかみ)として神格化された倭姫命(やまとひめのみこと)は日本武尊に殺されて怨霊と考えても良いかもしれない。
日本武尊は父方の祖母が海部氏の出身で、飯入根と少彦男心命が物部氏の血筋だから間違いなく怨霊として神格化されていて、倭姫命が物部氏と海部氏の血筋でないが彦坐王の子孫と考えられる。

古代天皇家で3度目の内乱である大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱は、戦死した大山守皇子が火酢芹命(ほすせりのみこと)として神格化されて、大山守皇子が日本武尊と神功(じんぐう)皇后の子孫で海部氏と物部氏の子孫に当たる。
古代天皇家で3度の皇位継承権争いで戦死した人物は、全て彦坐王の子孫を怨霊として神格化しているのが間違いないと考えられる。
物部氏と祟り神(怨霊)の関係は「熊野」を冠する神社や出雲大社や大神(おおみわ)神社など重要な神社が関係することが多くて、彦坐王の子孫の物部氏と祟り神の関係が切っても切れない重要な存在である。
「記紀」や『ホツマツタエ』の日本神話を完全解釈できる僕からすれば、怨霊として神格化されている人物を求めることなどたやすく、その具体的な物語まで再現できる奇跡の天才である。

<参考文献>
インターネットの不明サイトから少々拝借

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