弥生・古墳時代の鉄器文化
世界初の鉄器生産は、どこか不明で、ヒッタイト(トルコ辺り)が4千年から3千8百年前で、中国が3千4百年から3千百年前で、青銅器が主流で、鉄器がとても貴重で、この頃の日本が縄文時代後期後半だった。
中国やメソポタミアやエジプトなどの世界中の文明は、石器から青銅器そして鉄器と代替わりしたが、日本が例外の一つで、縄文時代の石器が弥生時代に鉄器と青銅器が代替わりで、同時に使い始めて、青銅器が実用の道具でなく、銅鏡や銅鐸(どうたく)のような宝物や祭具で、鉄器が木工用の工具や農具や武器など実用的な物に使われて、青銅器が鉄器よりすごく脆(もろ)かった。
弥生時代の最初は、中国や朝鮮から鉄器を少し輸入して、道具の主力が石器だったが、弥生時代後期に石器がほとんど消えて、石器から青銅器文化にならなくて、鉄器時代に移(うつ)り変わる途中だった。
石器のサヌカイトや黒曜石の薄い刃は、鉄器の刃物よりも鋭(するど)い刃も作れるが、鉄器の耐久性に勝てなくて、石器が使えなくなると捨てて、鉄器が鋳造(ちゅうぞう)し直して使える利点がある。
日本で鉄鉱石や砂鉄から鉄を生産したのは、前者が弥生時代後期にほとんど石器が消えて、鉄器が生産して普及して、後者が古墳時代に鉄器の鍛冶炉(かじろ)や鉄クズが見つかって、この2説が対立して意見が分かれた。
本来の製鉄は、鉄鉱石や砂鉄を製鉄炉で還元することから始まって、斧(おの)や刀など鉄製品ができ上がるまでの全工程を指すが、ここで言う製鉄が鉄鉱石や砂鉄と言う鉄の原料を還元する工程のことで、鉄製品ができるまでの工程が大きく製錬と精錬と鍛冶(かじ)と鉄器制作の4つで、ここで扱う製鉄が製錬のことである。
製錬は、熱エネルギーなどを利用して、鉱石やその他の原料から有用金属を取り出す過程のことで、精錬が電気分解や化学処理で、金属の純度を高めることで、鍛冶(かじ)が日本刀などを作るために鉄(金属)を熱して鍛(きた)えながら成形することで、鉄製品を作る工程の説明である。
製鉄技術は、鉄鉱石を還元精錬(せいれん)して、炭素含有量が3.5〜4%の銑鉄(せんてつ)を作る技術で、古墳時代の5世紀後半に国内で製鉄が始まったと考えられて、6世紀前半の島根県邑智(おおち)郡邑南(おおなん)町の今佐屋山(いまさややま)遺跡などで、製鉄が確認された。
日本最古級の鍛冶(かじ)遺跡は、福岡県春日(かすが)市の赤井手(あかいで)遺跡で、弥生時代中期中頃(紀元前1世紀頃)で、製鉄がされなくて、鉄素材を加工して、鉄器を製作して、銅鐸(どうたく)の鋳造(ちゅうぞう)の後に鍛冶(かじ)が伝わって、天皇家誕生の前の時代である。
中国や朝鮮の製鉄は、間接製鋼法と呼んで、鉄鉱石を加熱や溶融して、溶けた鉄鉱石を撹拌(かくはん)して、銑鉄(せんてつ)を生産してから鋼(はがね)を作るのが主流で、吉備(きび;岡山県と広島県東部)の製鉄が鉄鉱石を使った。
しかし島根県や鳥取県は、鉄鉱石が少なくて、砂鉄から鉄を作る日本刀の蹈鞴(たたら)製鉄の直接製鋼法を独自に生み出して、鉄鉱石や砂鉄を比較的低い温度で加熱して、溶融せず直接に海綿状の鉄塊(てっかい)にする方法で、日本独自の蹈鞴(たたら)が出雲で誕生したと考えられるが、蹈鞴(たたら)がどのように生まれたか謎である。
神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;磐之媛命(いわのひめのみこと)を祖先化)は、仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に4つ子の息子を生んだことで皇后になって、6月(7月頃)に産後の病状が悪くて亡くなって、4世紀前半に蹈鞴(たたら)製鉄が存在したと考えられて、磐之媛命(いわのひめのみこと)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の系譜である。
富雄丸山(とみおまるやま)古墳の蛇行剣とだ龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)は、4世紀後半に日本国内で、製鉄技術が確立して、西暦335年の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;磐之媛命(いわのひめのみこと)を祖先化)の人名が、出雲の物部(もののべ)氏が4世紀前半に蹈鞴(たたら)製鉄を完成させたと考えられる。
だは難しい漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにして、ネット検索で調べてほしい。
出雲の物部(もののべ)氏は、古墳時代前期の4世紀前半に蹈鞴(たたら)製鉄と製鉄技術を確立して、弥生時代後期の淡路島と京都府と鳥取県と島根県の鉄器文化が製鉄の始まりを思わせて、『ホツマツタエ』と「記紀」にヒントがあると考えられて、2024年5月1日に記した。
日本列島の鉄の歴史は、紀元前4世紀に古代中国の北東部で作られた鋳造(ちゅうぞう)鉄器の使用から始まって、紀元前3世紀に九州北部で、鉄の素材で弥生時代に独自の鉄器を作って、4世紀に不純物を多く含む鉄塊(てっかい)の純度を高める精錬をして、6世紀後半に遅くとも製鉄が始まった。
鉄器の使用から製鉄の開始までは、千年かかるのが長すぎて、紀元前1世紀末頃に朝鮮半島南部でも製鉄が始まって、弥生時代後期に日本でも製鉄が始まった説があるが、先述した最古の製鉄炉が6世紀後半で、最古の精錬滓(せいれんさい;製錬でできる鉄滓:てっさい)が5世紀末までしかさかのぼれず、古墳時代中期から後期に日本の製鉄が始まった結論になる。
日本最古級の鉄器は、紀元前4から3世紀(弥生時代前期)の福岡県糸島市の曲田(まがりた)遺跡で出土した板状鉄斧で、中国から鉄器文化が九州に伝わって、その後で弥生時代前期末に北九州で、中国や朝鮮から輸入した鉄器で、国産があったか不明で、弥生時代中期(紀元前1世紀から1世紀)の九州でほぼ全ての用具が鉄器になった。
鉄器の普及は、地域差が大きくて、全国的に見ると古墳時代初頭(3世紀)に鉄器への転換がほぼ終わった。
京都府京丹後市の弥生時代中期の奈具岡(なぐおか)遺跡は、日本最古の水晶玉工房跡と確認して、水晶を加工するための鉄器が九州と別ルートで、古代の中国や朝鮮から輸入したのが確実で、丹波(たんば;古代の京都府北中部)国王の陸耳ノ御笠(くがみみのみかさ)が戦死した西暦94年に奈具岡(なぐおか)遺跡が衰退したと考えられる。
奈具岡(なぐおか)遺跡は、九州から鉄器文化が伝えられたのでなく、丹後(たんば)王国が独自に古代の中国や朝鮮と外交して、鉄器文化を仕入れた可能性があって、京都府京丹後市久美浜(くみはま)町の函石浜(はこいしはま)遺跡で、中国の新(しん)王朝(西暦8年から23年)の貨泉(かせん)と言う貨幣が出土するなどで、『後漢書』の漢王朝と外交した30数ヶ国の一国と考えられる。
日本の建国(天皇家誕生)は西暦84年で、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に当たって、近畿地方から出雲王国(物部(もののべ)氏)まで鉄器文化が誕生して、古代天皇家の鉄器生産が普及したと考えられる。『魏志韓伝弁辰条』は、おそらく九州で、鉄器が市場(いちば)で売買したと記して、鉄器が普及したことが分かる。
兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産をした根拠になると考えられて、舟木(ふなき)遺跡が弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
滋賀県彦根市の弥生時代後期末から古墳時代初期の稲部(いなべ)遺跡は、鉄器生産した遺跡で、弥生時代後期に近畿地方を中心として、鉄器生産遺跡がまだまだ出土する可能性が高く、古代天皇家の実在を高める。
古墳時代に入って鉄器生産は、近畿地方で当たり前になって、九州より近畿地方の方が鉄の生産量が逆転して、古代天皇家の鉄器文化の隆盛を証明した。
弥生時代後期から終末期は、島根県と鳥取県と兵庫県と京都府などで、鉄剣や鉄刀の副葬品の普及が彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖とする出雲王国(物部(もののべ)氏)や京都府北部の統治者の海部(あまべ)氏が鉄製品を普及させたと考えられて、古代天皇家の統治下にあった。鉄剣や鉄刀の副葬品は、物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏などの統治者が鉄器を個人で保有して、墓(はか)の埋葬品として使ったことを意味して、弥生時代後期の鉄器の普及が古代天皇家の勢力下だったことを意味した。
中国地方の四隅突出型墳丘墓や京都府北部の大風呂南墳丘墓などは、物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏などの墓(はか)と考えられて、弥生時代後期から古墳時代にかけて、鉄器の普及がめざましくて、今後の考古学に期待する。
京都府の弥生時代後期は、大量の鉄器が出土して、弥生時代中期の奈具岡(なぐおか)遺跡から鉄器文化を継承したか、古代天皇家が独自の鉄器生産をしたか不明で、海部(あまべ)氏の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)たちが製鉄技術を教えたと考えられる。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、丹波(たんば;古代の京都府北中部)平定を崇神(すじん)天皇に報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に崇神(すじん)天皇に出雲王国の建国を報告したと考えられて、丹波(たんば)から出雲までの鉄器文化が証明できる。
鳥取県鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡と米子(よなご)市と西伯(さいはく)郡大山町にまたがると妻木晩田(むきばんだ)遺跡などは、弥生時代後期の鉄器が大量に出土して、鳥取県が鉄器生産の産地で、出雲王国の建国を証明する。
島根県の鉄器は、弥生時代後期から古墳時代前期に大量出土して、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)以前の出雲王国の建国が間違いなくて、古代天皇家が鉄器生産を伝えたと考えられる。
纏向(まきむく)遺跡は、古墳時代の3世紀末から4世紀前半の鍛冶(かじ)遺跡が5ヶ所で見つかって、鍛冶炉(かじろ)が見つかってないが、鉄器が出土して、弥生時代後期から近畿地方で鉄器が見つかって、2世紀末から3世紀前半に三輪山(みわやま)周辺で、銅鐸(どうたく)が大量に破壊されて、古代天皇家が何らかの儀式を行なった証拠である。
弥生時代の鎧は木製で、鉄製になったのが古墳時代で、九州から東北地方南部まで出土して、前方後円墳などと共に古代天皇家の勢力下と証明して、鉄製の鎧を2023年5月14日に求めた。
富雄丸山(とみおまるやま)古墳は、奈良市の4世紀後半に築造した全長109メートルの国内最大の円墳で、2023年1月25日に国内最古で全長2.37メートルの曲がりくねったような蛇行剣と言う鉄剣が出土して、同時に長さ64センチメートルの過去に見つかってない盾形の銅鏡のだ龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)も出土して、鉄器の普及と大きさから考えて、どちらも国産の可能性が高く、鉄器の国産説に影響する。
4世紀後半は、富雄丸山(とみおまるやま)古墳の2例から鉄器の国産が確実と考えられて、製鉄技術の確立が2例の分析結果で判明する可能性もあって、今後に期待したい。
参考文献『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』の神生み神話の一書(第6)は、軻遇突智(かぐつち)から闇罔象(くらみつは)までの神名の意味を調べると、腰に下(さ)げた長い剣に関連して、日本刀の鉄鉱石からの作り方とそっくりになって、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の神名を調べた10数年前に気付いた。
弥生時代後期初頭(西暦100年頃)は、天皇家誕生と出雲王国の建国が重なって、鉄器文化の普及が間違いない考古学的証拠で、古墳時代まで鉄器文化が継承されて、古代天皇家の鉄器時代の完全な物証である。
<参考文献>
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
発行・株式会社洋泉社
『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』
編者・藤尾慎一郎:松木武彦 発行・株式会社吉川弘文館
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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