天皇家誕生の時期


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、34才で即位の大礼をして、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を除いた二種の神器を授(さず)けられて、民に天皇の御飾り(みかざ)りを拝(おが)ませて、これが初代天皇の即位である。
崇神(すじん)天皇の即位した場所は、奈良県磯城(しき)郡と考えられて、崇神(すじん)天皇陵の最有力候補があって、崇神(すじん)天皇を祖先化した神武(じんむ)天皇の皇居もあった奈良県橿原(かしはら)市を含む。

大阪府は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、天皇家誕生で平定した土地を整備したと考えられる。
参考文献『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』で、兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産した根拠と考えられる。
舟木(ふなき)遺跡は、弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
古代天皇家の勢力は、大阪府から奈良県辺りで、淡路島が天皇家誕生時にすでに統治下の可能性が高くて、弥生時代後期初頭から始まることに説明できて、奈良県の考古学的証拠を知らないが、奈良県周辺の弥生時代後期の考古学的証拠が多くあると考えられる。

崇神(すじん)天皇10年7月24日(西暦93年8月下旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「国民を統治するため神のお告げのままに祭り、ようやく都の汚(けが)れが落ちたが、丹波(たんば)王国の荒ぶる者たちに、天皇家の教えで平定されていない。丹波王国に使者を派遣して、天皇家の道理を教えよ」と。
崇神天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)を丹波(たんば)王国の平定の総大将で、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を従軍の武将として派遣した。
丹波(たんば)国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は殺して、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波(たんば)王国の滅亡を丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が崇神(すじん)天皇に報告して、丹波(たんば)王国との戦争が京都府北部から兵庫県北部をまたいで、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)が大江山の3つの鬼退治で、最古の伝承である。

この丹波(たんば)王国の滅亡は、証明する考古学的証拠が京都府北部から兵庫県北部に存在して、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家の丹波平定で土地整備をしたと考えられる。
弥生時代の鉄製品出土数は、都道府県別で見たら、1990年代から約20年のうちに京都府が4位に急上昇して、特に京都府北部の弥生時代後期に集中して、弥生時代後期の京都府北部に古代天皇家の異文化が流入して、鉄製品の増加を試行錯誤して、弥生時代が稲作で隆盛して、鉄と米が権力の象徴と考えられる。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に崇神(すじん)天皇へ出雲王国の建国を報告して、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「天皇になってから天神地祇(てんじんちぎ)を祭った。ようやく荒々しい出雲の者たちも統治して、国民は今その暮らしを楽しんでいる。成人と未成年の法的区別を明らかにして、国民を公用に使うこともやめて、宮中への貢物(みつぎもの)も差し止めて、国民を益々にぎわせようと思う。穀物の病(やまい)もない泰平な世を讃(たた)えて、世の混乱が治まり初めて国を泰平に治めた意味で、初国治(はつくにし)らす御間城(みまき)の世と呼ぶ」と。
『日本書紀』崇神(すじん)天皇12年9月16日(西暦95年10月中旬頃)は、初めて人民の戸口を調べて、課役を仰(おお)せ付けて、これが男の弓弭調(やはずのみつぎ)と女の手末調(たなすえのみつぎ)で、これで天神地祇(てんじんちぎ)が共になごやかで、風雨も時を得て、百殻も良く実って、家々に人や物が充足して、天下が平穏になった。
『ホツマツタエ』大己貴大神(おおなむちおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲を名付けて、『玉牆(たまかき)の内(うち)つ国(くに)(美しい垣(かき)のような山に囲(かこ)まれた国)』と言われて、垣(かき)が出雲八重垣(いずもやえがき)につながると考えられて、玉牆(たまかき)の内(うち)つ国(くに)が日本国の呼び名と勘違いする。
『日本書紀』の崇神(すじん)天皇17年7月1日(西暦100年8月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「船が天下の大切なもので、今の海辺の民に船がないため献上品を運ぶのに苦しんで、そこで諸国に命じて船を造らせよ」と言って、10月(11月頃)に初めて船舶(せんぱく)を作って、船舶(せんぱく)が大型の船を差して、出雲に向かう船と解釈すべきである。

出雲の隆盛は、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)からで、荒神谷(こうじんだに)遺跡で出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造とされて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)の物なのが間違いなくて、出雲の青銅器文化の終わりが弥生時代後期初頭である。
荒神谷(こうじんだに)遺跡と加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域は、全国の古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いなくて、彦坐王(ひこいますのみこ)が埋葬したと考えられる。
弥生時代中期の出雲では、四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて、物部(もののべ)氏を葬礼したと考えられる。
鳥取県鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡と米子(よなご)市と西伯(さいはく)郡大山町にまたがると妻木晩田(むきばんだ)遺跡などは、弥生時代後期の鉄器が大量に出土して、鳥取県が鉄器生産の産地で、出雲王国の建国を証明する。
出雲で青銅器は、弥生時代後期初頭に作られなくなって、島根県の鉄器が弥生時代後期から古墳時代前期に大量出土して、古代天皇家が鉄器生産をした。
弥生時代後期から山陰地方は、独自の土器のスタイルが作られて、以後に変化しながらも古墳時代前期まで、同じ流れを組む土器が作られた。
弥生時代後期から島根県出土の朝鮮半島の土器は、朝鮮半島に最も近い九州北部を除いて、日本中に例がないほど集中して出土する。
出雲王国は、弥生時代後期初頭から始まって、鳥取県と島根県で鉄器が大量出土して、弥生時代が稲作で隆盛して、鉄と米が権力の象徴と考えられる。

天皇家誕生の時期の考古学的証拠は、近畿地方と山陰地方に稲作と鉄器文化が広がって、米と鉄が権力の象徴と考えられて、天皇家の統治下を証明した。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『丹後文化圏』
坪倉利正・編集 丹後古代文化研究会・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『CGでよみがえる出雲王国』
株式会社宝島社・発行
インターネット

戻る