仁徳(にんとく)天皇陵は本物か?


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

仁徳天皇陵は『日本書紀』に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬礼されたと記して、大山(だいせん)古墳や大仙(だいせん)古墳や大仙陵(だいせんりょう)古墳などと呼ぶ日本最大の前方後円墳を宮内庁指定の仁徳天皇陵とする。
僕は普段から大仙古墳の名称を使って、仁徳天皇陵でないことが論理的根拠から明白で、正しいことを理解できるのが世界唯一の僕だけである。
大仙古墳は世界最大の面積の墓でギネス記録でなく、中国の始皇帝陵とエジプトのクフ王のピラミッド(本物でない根拠が幾らもある)より大きく、誰を葬るのか大きな関心事である。

仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月に神功(じんぐう)皇后は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の仲哀天皇の父である日本武(やまとたけ)天皇が戦死させて出雲王国が崩壊して、邪馬台国(やまとこく;大和国)と出雲王国の2朝廷並列時代を終わらせた。
日本武天皇と仲哀天皇で2種類の三種の神器が存在したか不明だが、出雲王国から三種の神器を奪還して、神功皇后は2度と三種の神器を巡る内乱を起こさないように計画した。
仲哀天皇と神功皇后の息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;在位しない応神(おうじん)天皇)は、仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に京都府与謝郡伊根町の宇良(うら;浦島)神社の地で生まれたと考えられる。
生まれたばかりの誉田別尊は、乳母やお供の家臣を連れて三種の神器と共に日向(ひうが;古代の宮崎県)に向かって、日向で暮らして仁徳天皇などの子供をもうけて、誉田別尊陵が宮崎市の生目(いきめ)1号墳と考えられる。
仁徳天皇は摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に亡くなった祖母の神功皇后の遺言で、神功皇后より先に亡くなった父の誉田別尊に代わって、日向から大和(古代の奈良県)に行って、西暦330年代に即位した実在の5代目の天皇が史実である。
これらの史実を神話化や祖先化した物語は、出雲の国譲り神話と天孫降臨神話を始めとする日向神話と神武(じんむ)天皇の誕生から東征(神武東征;正しくは仁徳東征)などに当たる。
神武東征の長髄彦(ながすねひこ)の反乱は、仁徳天皇の異母兄弟である大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱(皇位継承権争い)である。
日本神話の物語は、僕が大和時代と名付けた西暦84年の建国(天皇家誕生)から神功皇后の亡くなった西暦329年までと、大山守皇子の反乱を神話化した海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)までの神話が全てである。
日本神話を完全解釈できる僕は、世界でただ一人の神話を実話と証明できる超天才で、古代日本史研究で唯一の希望で、僕の求めた物語を誰も否定できない。
仁徳天皇は西暦330年代に即位した4世紀前半の天皇で、その史実を否定できるはずもなく、これが大仙古墳を仁徳天皇陵でないと実証している。

大仙古墳は5世紀前半から中頃の古墳と推定されて、周囲の発掘調査可能な古墳から年代を割り出しただけで、宮内庁指定陵だから発掘調査ができなくてあくまで推定である。
仁徳天皇を倭の五王の倭王「讃」とする根拠は、全くの架空の推論で否定材料が多すぎて、それが僕の超天才としての実力である。
仁徳天皇の皇居と天皇陵は、大阪府にあると記して根拠がなく、4世紀前半に実在の天皇だから仁徳天皇陵が奈良県の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群などの中に存在すると考えられる。
大仙古墳の埋葬者の天皇は、本当の倭王「讃」の安康(あんこう)天皇から倭王「興」の顕宗(けんそう)天皇の辺りに当てはめる僕の自論が正しいと考えられる。
仁徳天皇の実在は、僕のホームページで「古代天皇家の年表」や「倭の五王」の章を始めとして、僕の2冊の著書などを参考にして証明している。
この程度のことも分からない古代日本史は、まさに僕に負(お)んぶに抱(だ)っこされて恥ずかしい状況だが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕に勝てるはずもなくて仕方ない。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『別冊歴史読本52第82巻21号 図説天皇陵』
株式会社新人物往来社・発行
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