「純粋意識」を取り出す
哲学者フッサールは「思い込み」の中から「純粋意識」を取り出して、「思い込み」を排除すると言うが、簡単に言うとどういうことだろうか?
この図は参考文献に記してあるのをそのまま書き出したもので、25個の箱が「思い込み」である時、24個の箱が普通の意識で、黒い箱が「純粋意識」である。
この「純粋意識」は、哲学者フッサールの言う重要なもので、しっかりと理解しないといけない正体である。
この図の説明は、よく分からないため、僕が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の北九州4ヶ国を定説から自論を導き出したもので説明する。
北九州4ヶ国の定説は、「思い込み」で成立して、ヒントにできる部分が参考文献のどこにもなかった。
『三国志・魏志倭人伝』に記す第2国の伊都(いと)国に注目して、平安時代初期の古代地名辞典『和名抄』から福岡県内に2つの「いと」という地名を見つけた。
一つが定説の筑前国の怡土郡(いとぐん)こと福岡県糸島郡(いとしまぐん)で、もう一つが僕の自論の豊前国田河郡の位登郷(いとごう)こと福岡県田川郡糸田町(いとだちょう)である。
僕の求めた結論は、参考文献にヒントが一つもなく、それを分かりやすく説明すると次の図のようになる。
僕が作成した図は、哲学者フッサールの考え方を応用したもので、僕の自己経験から作り上げた。
定説は「思い込み」だけで作り上げられてヒントが一つもなく、仕方なく自分で反論したものから「仮の意識」を作り上げて、そこから「純粋意識」の答えを取り出した。
普通ならば「思い込み」を排除して、「純粋意識」を取り出すのだが、僕の場合だとその「思い込み」の中に一つも答えがなく、自分で「仮の意識」を形成して、その中から「純粋意識」を取り出して、まさしく哲学者フッサールの考え方の応用と言えるだろう。
「思い込み」は、本来大きな固まりのような大まかな認識で、その内部に「純粋意識」を内在する。
哲学者フッサールの考え方に基づくと、普通でも純粋でも意識することは、多くが「思い込み」を含んで成立して、雑多な部分が多いほど無駄な情報が増える。
「思い込み」の中から「純粋意識」を取り出す行為は、意識や理解をしないと身に付かないのが私見である。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『この一冊で「哲学」がわかる!』
著者・白取春彦 発行・株式会社三笠書房
インターネットの不明サイトから少々拝借
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