仲哀(ちゅうあい)天皇の疑問点


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

仲哀天皇は実在の5代目の天皇に数えられて、天皇自らが日本各地を巡って、熊襲(くまそ)王国(南九州)や新羅国(しらぎのくに;古代朝鮮国家の一つ)などを討伐しようとしたと記される。
しかし仲哀天皇は皇居を飛び出して国政をないがしろにしたと考えられず、むしろそれらが創作の可能性がないだろうか?
アインシュタイン博士以上の天才の僕には答えが分かって、何が正しいか間違いか求めてみようと思う。

仲哀天皇は皇族に認められない天皇だった日本武尊(やまとたけのみこと;成務(せいむ)天皇と同一人物)の息子で、実質4代目の実在の天皇と考えられる。
実在の3代目の景行(けいこう)天皇は仲哀天皇の祖父で、7年間を天皇自らが九州平定に出掛けて、九州出身の妃が何人もいたと記されて、天皇自らが大和を離れたのが史実かもしれない。
だからと言って仲哀天皇も大和を離れたと考えるのは時期尚早で、唯一の史料『日本書紀』の記述でも信頼性を疑うことも大切で、現代哲学理論「現象学」の「当たり前だと思うことを疑う」考え方を忘れるべきでない。
成務天皇は架空の天皇だから成務天皇時代の記述が仲哀天皇時代に引き継がれて、根本的な年代が狂(くる)う可能性があることを考えないといけなくて、「現象学」の基本的理念に基づいて考えていく。

『日本書紀』は仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;在位しない応神(おうじん)天皇)を生んで、仲哀天皇の妃で大酒主(おおさかぬし)の娘の弟媛(おとひめ)が誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んだと記す。
『古事記』は神功皇后が品夜和気命(ほむやわけのみこと)と品陀和気命(ほむだわけのみこと)を生んだと記して、「記紀」のどちらが正しいか分からないが、誉屋別皇子と誉田別尊の兄弟が実在したのが確かである。
『ホツマツタエ』でオシホミミ(仲哀天皇を神格化)とタクハタチチヒメ(神功皇后を神格化)の子供は、初代ホノアカリ(誉屋別皇子を神格化)とニニギネ(誉田別尊を神格化)とするが、タクハタチチヒメが神功皇后と弟媛を神格化している可能性もある。
タクハタチチヒメは7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の娘で、複数の人間を神格化していないなら、神功皇后の息子が誉屋別皇子と誉田別尊と考えられるが、どちらがが正しいか判断できない。
『ホツマツタエ』は初代ホノアカリ(誉屋別皇子を神格化)の先祖の2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が出てきて、彦坐王の子孫が神功皇后で、弟媛が子孫か分からなくて、彦坐王と誉屋別皇子の血筋がつながらない可能性もある。
しかし誉屋別皇子は火の神様に神格化されて、物部(もののべ)氏の直系子孫の証拠で、神功皇后が物部氏の出身であって、誉屋別皇子が誉田別尊の実兄である可能性が高い。
つまり誉屋別皇子と誉田別尊は、『日本書紀』の異母兄弟よりも『古事記』の同母兄弟の可能性の方が正しいと考えられて、実弟の誉田別尊が皇太子になったのが天皇の末子相続と考えられる。

仲哀天皇2年3月15日(西暦253年4月中旬頃)は仲哀天皇が紀伊国(きいのくに;古代の和歌山県)にいて、熊襲王国が反逆した報告を受けて出かけて、9月(10月頃)に穴戸豊浦宮(あなととゆらのみや;山口県下関市豊浦町)に皇居を建造したと記される。
仲哀天皇8年1月4日(西暦259年2月上旬頃)に九州に入って、9月5日(10月上旬頃)に熊襲王国の討伐を相談されて、この年に熊襲王国に勝てないで帰った。
仲哀天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀天皇は急に病気になって、翌日に崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)されて、神功皇后の命令で7月7日(8月上旬頃)以降に熊襲王国を討伐した。
『日本書紀』仲哀天皇2年9月から仲哀天皇8年1月4日までは記述が皆無で、仲哀天皇の在位に疑問があってもおかしくないが、仲哀天皇時代の熊襲王国の討伐が創作だと考えられる。
『日本書紀』で仲哀天皇時代の熊襲王国の反逆から討伐まで時間がかかりすぎで、『ホツマツタエ』で景行天皇時代の熊襲王国の討伐は正しくて、『ホツマツタエ』より『日本書紀』が後世に成立して、仲哀天皇時代の熊襲王国の記述が信頼できない。
何が正しいか間違いか分からない専門家は、アインシュタイン博士以上の天才の僕の足元にも及ばず、史実・真実・事実を見極めるのが不可能である。

成務天皇4年2月1日(西暦254年3月上旬頃)が正しくは仲哀天皇3年2月1日で、国郡(くにこおり)に長(おさ)で県邑(あがたむら)に首(かみ)を任命することを決められた。
西暦254年3月頃までに武虎別皇子(たけこわけのみこ)と息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)らは、東北地方南部から中部地方を平定して、邪馬台国(古代天皇家)の支配下に置いたと考えられる。
成務天皇5年9月(西暦255年10月頃)が正しくは仲哀天皇4年9月で、国郡に造長(みやつこおさ)で県邑に稲置(いなき)を任命して、全て仲哀天皇がいなければできなかったと考えられる。
国造(くにみやつこ)の任命は、『国造本紀』の成務天皇時代(正しくは仲哀天皇時代)に記されていて、「古墳埋葬者」の章に東北地方南部から関東地方の古墳埋葬者を特定した考古学的証拠を載せている。
杵ヶ森古墳と神門3号墳と4号墳と5号墳と高遠山古墳は、全て3世紀後半が築造年代と考えられる東日本最古の前方後円墳で、東北地方南部から中部地方の平定を証明する考古学的証拠である。

仲哀天皇8年9月5日(西暦259年10月上旬頃)に熊襲王国の討伐を相談されて、ついでに新羅国を服従させるように神功皇后に神託があった。
仲哀天皇9年9月10日(西暦320年10月上旬頃)に新羅(しらぎ)に向けて船団で進軍して、新羅王を屈服させて高句麗(こうくり)も百済(くだら)も神功皇后に勝てないと知って、神功皇后に従ってこれを三韓征伐と言う。
仲哀天皇9年12月14日(西暦321年1月中旬頃)に神功皇后は朝鮮から帰って誉田別尊を生んだと記すが、三韓征伐までの時間が短すぎて創作である。
『日本書紀』の記述から西暦320年は、朝鮮半島に新羅と高句麗と百済の3国が存在していたのが史実である可能性が高いと考えられる。
仲哀天皇時代の熊襲王国の討伐と三韓征伐の記述は、出雲王国の崩壊を書き換えたもので、「出雲王国」や「出雲王国の崩壊」や「出雲の国譲り」などの章を見てもらいたい。
仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国が崩壊(物部氏の屈伏)して、出雲王国の滅亡(物部氏の全滅)と間違ってはならず、物部氏の宗家の直系子孫が物部守屋(もののべのもりや)で出雲王家が存続していた。

仲哀天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀天皇は病気になって、翌日に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、神功皇后の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治代行する役職)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に河内國(かわちのくに;古代の大阪府東部)に葬礼されたと記す。
仲哀天皇は出雲王国との戦争で負傷して、翌日に戦死されたと考えられて、「記紀」で死亡理由が隠されたと考えられる。
摂政2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)の葬礼時期から考えられるのは、奈良県の大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳が仲哀天皇陵の可能性が高い。
歴代天皇陵は『日本書紀』の記述をそのまま信用できず、時代背景や皇居や天皇陵のありそうな場所をしっかりと把握することが大切である。
アインシュタイン博士以上の天才の僕にかかればこの程度は簡単に求められて、専門家など足元にも及ばない超知識である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
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