仲哀(ちゅうあい)天皇の疑問点
仲哀(ちゅうあい)・・・仲(なか)の哀(かな)しい天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した父親の日本武(やまとたけ)天皇と対立したためで、邪馬台国(大和国;やまとこく)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国の日本武(やまとたけ)天皇の2朝廷並列時代が成立して、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代天皇家が漢字を使い始めて、仲哀(ちゅうあい)の漢字の意味を知っていたのが間違いない。
仲哀天皇は、在位期間が9年間で短くて、『ホツマツタエ』に仲哀天皇時代が記されず、「記紀」の記述に基づくところが大きい。
仲哀天皇は、父の日本武尊(やまとたけのみこと)との関係が重要で、僕以外に求められない。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕は、仲哀天皇の疑問点がよく分かって、細かく記していく。
景行(けいこう)天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)が成務(せいむ)天皇を生んで、成務天皇と日本武尊が同一人物と考えられる。
『日本書紀』仲哀天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀天皇が享年52才(実年齢)で、逆算すると景行天皇17年頃(西暦207年頃)の生まれになる。
『ホツマツタエ』で日本武尊は、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の多牟屋(たんや;朝廷別王(みかどわけのみこ)の娘の両道入姫(ふたぢいりひめ)と結婚して、稲依別王(いなよりわけのみこ)を生んで、次に仲哀(ちゅうあい)天皇を生んだと記すが、年代的に考えると稲依別王と仲哀天皇が双子と考える方が自然である。
景行天皇17年頃(西暦207年頃)に日本武尊は、11才頃で仲哀天皇が第2子なら、双子とすべき年齢だと考えられて、はたして『ホツマツタエ』と『日本書紀』の記述の信憑性(しんぴょうせい)が疑われる。
仲哀天皇の出生は、疑問点があるものの歴史書を信頼するしかない。
成務(せいむ)天皇48年は正しく求めると、景行(けいこう)天皇48年3月1日(西暦238年4月上旬頃)で、仲哀(ちゅうあい)天皇が皇位継承者になったと考えられて、皇太子で父の日本武尊(やまとたけのみこと)以外に、異母弟の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)も皇位継承者である。
西暦251年(天皇不在の年)に皇太子の日本武尊が東海の平定で不在で、日本武尊の2人の息子が仲哀天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)で、皇位継承者だったので日本武尊の不在に皇位継承権争いをしたと考えられる。
皇位継承権争いで蘆髪蒲見王は戦死して、景行天皇46年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に日本武尊は、二種の神器か三種の神器を強奪して、強行即位して日本武(やまとたけ)天皇になった。
崇神天皇10年9月末日(西暦251年10月下旬頃)に日本武天皇の反乱は終了して、日本武天皇が出雲王国に亡命した。
仲哀天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀天皇は、二種の神器か三種の神器で、4代目の天皇に即位して、仲哀天皇(邪馬台国)と日本武天皇(出雲王国)の親子がそれぞれ二種の神器か三種の神器を持っていて、2朝廷並列時代に突入した。
仲哀天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功皇后を皇后にして、父が景行天皇の息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋を継いだふ父娘である。
神功皇后は、邪馬台国(やまとこく;大和国)論争の台与(とよ;抹消した名前が豊姫命(とよひめのみこと;台与卑弥呼)である)で、天岩戸(あまのいわと)隠れ以後の天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化した。
神功皇后は、皇室の直系先祖の天照大神に神格化して、邪馬台国(大和国)論争の台与としても皇室の直系先祖で、現在の皇室と血筋がつながるか不明だが、14代目の武烈(ぶれつ)天皇まで直系の血筋が続いた。
仲哀天皇2年3月15日(西暦253年4月中旬頃)に仲哀天皇は、紀伊国(きいのくに;和歌山県)にいて、熊襲(くまそ)王国(南九州)が反逆した報告を受けて出かけて、9月(10月頃)に穴戸豊浦宮(あなととようらのみや;「あなととゆらのみや」とも言う;山口県下関市豊浦町)に皇居を建造したと記す。
仲哀天皇8年1月4日(西暦259年2月上旬頃)に仲哀天皇は九州に入って、9月5日(10月上旬頃)に熊襲王国の討伐を相談されて、この年に熊襲王国に勝てないで帰った。
仲哀天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀天皇は、急に病気になって、翌日に崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)されて、神功皇后の命令で7月7日(8月上旬頃)以降に熊襲王国を討伐した。
『日本書紀』仲哀天皇2年9月から仲哀天皇8年1月4日までは記述が皆無で、仲哀天皇の在位に疑問があってもおかしくないが、仲哀天皇時代の熊襲王国の討伐が創作で、仲哀天皇の在位期間が嘘でないと考えられる。
仲哀天皇2年3月15日(西暦253年4月中旬頃)に仲哀天皇は、奈良県にいて父の日本武天皇が亡命した出雲王国の報告を受けて、9月(10月頃)に京都府宮津市由良(ゆら)に行ったと考えられる。
熊襲王国は、邪馬台国論争で西暦247年の狗奴国(くぬこく;熊襲王国)の攻撃で、景行天皇57年12月(248年1月頃)に熊襲王国が滅亡して、仲哀天皇時代に熊襲王国が存在しないと考えられる。
『ホツマツタエ』で景行天皇時代の熊襲王国の記述を正しく解釈すれば、仲哀天皇時代に熊襲王国が存在しない可能性に気付ける。
皇居の穴戸豊浦宮(あなととゆらのみや)は、「とゆら」によく似た名前の由良(ゆら)に当たると考えられて、京都府宮津市由良と思われる。
以上のことから、仲哀天皇8年1月4日(西暦259年2月上旬頃)に仲哀天皇は九州に入って、9月5日(10月上旬頃)に出雲王国の討伐を相談されて、この年に出雲王国に勝てないで帰ったと考えられる。
仲哀天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀天皇は、出雲王国との戦争で負傷して、翌日に戦死して、神功皇后の命令で7月7日(8月上旬頃)でなく、仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国を崩壊させたと考えられる。
仲哀天皇は崩御して、こっそり仲哀天皇の遺体を収(おさ)めて、海路で皇居の穴門豊浦宮(とようらのみや)に移(うつ)されて、灯火(ともしび)を焚(た)かないで仮葬したと記す。
出雲王国で仲哀天皇が戦死したなら、遺体を収めて海路で到着するのが京都府宮津市由良で、決して考え方が間違っていないと考えられる。
日本武天皇の軍勢は、実の息子の仲哀天皇を殺して、仲哀天皇の正妻の神功皇后が義父の日本武天皇を恨(うら)んだと考えられる。
成務天皇4年2月1日が正しくは仲哀天皇3年2月1日(西暦254年3月上旬頃)で、国郡(くにこおり)に長(おさ)で県邑(あがたむら)に首(かみ)を任命することを決められた。
西暦254年3月頃までに武虎別皇子(たけこわけのみこ)と息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)らは、東北地方南部から中部地方を平定して、邪馬台国(古代天皇家)の支配下に置いたと考えられる。
成務天皇5年9月が正しくは仲哀天皇4年9月(西暦255年10月頃)で、国郡に造長(みやつこおさ)で県邑に稲置(いなき)を任命して、全て仲哀天皇がいなければできなかったと考えられる。
国造(くにみやつこ)の任命は、『国造本紀』の成務天皇時代(正しくは仲哀天皇時代)に記されて、「古墳埋葬者」の章に東北地方南部から関東地方の古墳埋葬者を特定した考古学的証拠を載せている。
摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に仲哀天皇は、河内国(かわちのくに;大阪府)の長野陵(ながののみささぎ)に葬礼したと記すが、確実な間違いである。
仲哀天皇陵は、年代的に考えて大和(おおやまと)古墳群の中の前方後円墳である可能性が高い。
仲哀天皇は、『三国志・魏志倭人伝』に記されない人物で、邪馬台国論争に関係ないと考えるかもしれないが、間違いなく邪馬台国論争の重要人物である。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕は、この程度のことが簡単に求められて、専門家など足元にも及ばない超知識である。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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