上記(うえつふみ)


『上記』は神代(しんだい)文字の豊国(とよくに)文字で記されて、豊国文字がカタカナの原型でないかとする人もいて、豊国文字と別の象形文字の五十音図も伝えている。
『上記』の日本神話は、「記紀」や『新撰姓氏録』や『古語拾遺』や『風土記』などと共通のもの、類書に例を見ない独自の伝承もあって、日本神話の集大成のような感じだと言う。

「記紀」が記さない『上記』の出雲神話は、スサノオ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)からオオクニヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)までの5世代の事績を詳しく伝えるが、日本武尊の婿(むこ)養子が飯入根だから間違いである。
出雲の国譲り神話の直後、高天原(たかまがはら;古代大和朝廷)の言語を広めるためにオモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)が提案して、スサノオの子供のオオヤビコ(誰を神格化下か不明)が豊国文字を作成したと言う。
オオクニヌシ(飯入根を神格化)の子供のコトシロヌシ(濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、豊国文字で出雲の歴史をまとめ上げて、日向(ひうが;古代の宮崎県)にいるニニギ(誉田別尊(ほむだわけのみこと;在位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)に『上記』を献上した。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
『上記』の出雲神話以上にウガヤフキアエズ神話は特徴的で、ウガヤフキアエズ(誉田別尊を神格化)を「記紀」の系図をつなげる仮の存在として作成した神様だが、『上記』のウガヤフキアエズ王朝が73世代にも及んで、長大な世襲制の王朝で都を九州に置いた。
ここまでの記述を見てみると、日本神話を滅茶苦茶に書いていて、史実に基づいていないのが明白だが、神武(じんむ)天皇以前に73世代の王朝が九州にあった伝承が重要で、古代天皇家の先祖が世界中の文明を起こしたことにつながる。
正統『竹内文書』はエジプト文明とメソポタミア文明が古代天皇家の先祖が作って再び日本に帰ったとされて、僕がエジプト文明とメソポタミア文明と古代イスラエルなどを古代天皇家の先祖が起こしたと証明している。
日向神話は誉田別尊と仁徳(にんとく)天皇が宮崎県にいて生まれたもので、ウガヤフキアエズ王朝が九州にあったのもそれに基づくだろうが、ウガヤフキアエズ王朝が73世代の王朝が続いて、世界中を巡った古代天皇家の先祖の王朝を連想させる。
古代天皇家の先祖は、途絶えることなく世界中の王朝を起こし続けたはずで、ウガヤフキアエズ王朝が73世代の王朝を伝えるのが空想でない可能性が高いが、ウガヤフキアエズ王朝が作り話の可能性が高い。

『上記』の出雲の国譲り神話は、オオクニヌシ(飯入根を神格化)たちの出雲の神々が地上の平定を終えて、それを高天原(古代大和朝廷)に報告して、天孫降臨の準備をしてニニギ(誉田別尊を神格化)の統治に積極的に協力する。
さらにホスセリ(海幸彦;うみさちひこ:大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)は、弟のホホデミ(仁徳天皇を神格化)が王者の貫禄を身に付けたのを見て、進んで王位に付けて自らその補佐役を務(つと)めた。
そしてトヨタマヒメ(磐之姫命(いわのひめのみこと)を神格化)は、ホホデミ(仁徳天皇を神格化)の裏切りに怒ったが、他の神々のとりなしで復縁して、ホホデミとトヨタマヒメが仲直りのために宮を建てて、共に亡くなった所をナオリ(大分県直入(なおいり)郡)と言う。
このように「記紀」と『上記』の日本神話は、内容の大筋が合っていても、個々の神々の行動が全く違っている所がある。
これは『上記』のウガヤフキアエズ王朝の都合に合わせて、出雲と日向の海神(わたつみ)の勢力を味方に付けて、強力な王権につなげるための裏工作かもしれない。
今となっては『上記』の改変が何のための行なわれたか分からなくて、単なる憶測や推測など何の意味もない。

サンカは日本各地で定住せず、仕事を求め村々を移動して、定住しないため拠点(天幕、急ごしらえの小屋、自然の洞窟、古代の墳墓や遺跡、寺の軒先など)を回遊し生活して、人別帳や戸籍に登録されないことも珍しくない人々で、蓑(みの)作りや川魚漁や遊芸を生業(なりわい)として、 独自のサンカ文字やサンカ言葉を使ったと言う。
サンカは明治時代に全国で約20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定するが、明確に人数を調べられたことがなく、日本のジプシーと言われた民族である。
『上記』に出てくる豊国文字ではなく、もう一方の象形文字がサンカが使う暗号用の文字にそっくりだと言われて、『上記』がサンカの伝承の盗作でないかとも言われる。
豊後(ぶんご;古代の大分県)国守護で鎌倉時代初期に生きた大友能直(おおともよしなお)は、『上記』の編纂(へんさん)に多くの古文書を使ったと記すが、下総(しもうさ)国の伝承に「大友能直がサンカを千六百人も殺し、昔から伝わっていた書物を奪った」とある。
『上記』は大友能直がサンカの伝承をまとめたものか、定住生活に入ったサンカの伝承を仮託されてまとめたなどとする説もあるが、本当の真実が闇の中で求められない。

歴代のウガヤフキアエズ王の主な事績を記していく。
2代目ウガヤフキアエズ王は、ニニギの時代に作られた文字を改良して、筆記具の紙や筆を開発して、これが豊国文字である。
3代目ウガヤフキアエズ王は、カラシナ(唐支那;中国)から使者を迎えて、カラシナが隣国の王カムヌリ(正体不明)との争いで困窮(こんきゅう)して、五穀の種を与えて、その栽培方法を知る臣下をカラシナに派遣して、それ以降の歴代でもカラシナの朝貢がしばしば続く。
また猿を実験動物として様々な医薬や医術を開発して、それを広めるために本州と四国に3代目ウガヤフキアエズ王が巡った。
4代目ウガヤフキアエズ王は、北方のオルシ(オロシャ=ロシアか?)が越(こし)のククキ(新潟県南部)に侵攻してこれを撃退して、薩摩から蝦夷(北海道)までの守りを固めて、それ以降の歴代でもオルシの侵攻がしばしば続く。
また度量衡(どりょうこう)を設定して、そして諸々(もろもろ)の星神99神を祭る。
7代目ウガヤフキアエズ王は最初の女王で、女王が立った時にその夫がヨサキオ(世幸男)として妻に仕える制度を定めた。
11代目ウガヤフキアエズ王は、臣下375名を選んで全国に派遣して、民の教化を行なわせると共に、11代目ウガヤフキアエズ王自らも九州と本州と四国を巡って、それ以降の歴代でも全国巡りがしばしば続く。
また遠江(とうとうみ)のハナナ(静岡県浜名郡)に押し寄せたオオヒト(巨人族)を撃退した。
32代目ウガヤフキアエズ王は女王で、星神の運行からその吉兆を占(うらな)うため、臣下に天文学を習得させた。
36代目ウガヤフキアエズ王は、2代目ウガヤフキアエズ王の時代に改良させた豊国文字で使って、歴代のウガヤフキアエズ王の歴史を編纂した。
38代目ウガヤフキアエズ王は、伊豆半島の沖の陸地を探るために開拓者を派遣して、その地に島守(しまもり)を置いて、研究者の多くが小笠原諸島と考えるが、北アメリカ大陸とする説もある。
39代目ウガヤフキアエズ王は、民の困窮を思って租税の制度をいったん取りやめるが、国の行く末を思う民から税を納めたいと陳情されて、税制を再開して租税の上限を定めた上で、農業を振興して民を富ませる策を取った。
40代目ウガヤフキアエズ王は、諸国の穀倉を開いて人を集めて、市の場所を定めてそこに家屋を建てて、すなわち都市計画の始まりである。
42代目ウガヤフキアエズ王は女王で、魂を空に飛ばすことができるという長老の進言で、南方の海に調査隊を派遣して、彼らが見つけた島を開拓して、その島をフタナギと言い、研究者の多くが沖縄と考えるが、南アメリカ大陸とする説もある。
49代目ウガヤフキアエズ王は、九州各地と近畿地方を巡って、別府温泉と有馬温泉を開発した。
52代目ウガヤフキアエズ王は、臣下に命じて島嶼部(とうしょぶ)の民に漁獲法と航海術を教えて、その臣下らが指導に出ている間に砂鉄鉱を発見して、それを加工して航海に使うことを思いついて、すなわち羅針盤の発明である。
54代目から68代目までのウガヤフキアエズ王の記録は欠落している。
71代目ウガヤフキアエズ王は、日本列島全土を揺るがす大地震とそれに続く飢餓(きが)のため、王と臣下たちが救援に追われて、その隙(すき)に大和宇陀(やまとうだ;奈良県宇陀郡)の豪族のナガスネヒコ(大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)がシラヒト(新羅(しらぎ)か?)の王ユグドブブルと結託して、身分を越えた王を名乗る。
ナガスネヒコは大和の救援に来ていた王の息子のイツセ(菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)を暗殺して、王とナガスネヒコの戦いが全国規模になって、王側の将兵が多く失われて、ついにナガスネヒコを包囲して、自決に追い込んだ。
71代目ウガヤフキアエズ王は、故人のイツセに名目上の王位(72代目)を継がせて引退して、さらにイツセの弟のヒタカヒコサヌが73代目を継いだ。
73代目ウガヤフキアエズ王は、ヒタカヒコサヌという名前でサヌが佐野尊(さののみこと)の神武天皇の意味で、九州から大和に遷都して、それまでの世襲制を廃止して、これでウガヤフキアエズ王朝が終わって、ここから古代天皇家の歴史の始まりとする。
しかし神武天皇は、実在の初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳天皇を祖先化した作られた人物で、本当の古代天皇家の始まりでない。
70世代近い家柄は国内に幾つかあって、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏や出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏や歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)を継承する竹内(たけうち)氏などで、千八百年から千七百年近い歴史があって、ウガヤフキアエズ王朝もそれくらいの年代を考えられる。
ウガヤフキアエズ王朝は千七百年近く九州に都を置いて、神武東征で王朝が交代したとすると、仁徳天皇の東征の西暦330年頃に全国的な地震があったなら考古学的証拠があるはずで、景行(けいこう)天皇の九州平定以降に王朝が存在したことも説明できない。
確かにウガヤフキアエズ王朝を名乗るのは間違いだが、73世代の事績全てを否定できるものでもなく、何らかの下地になる王朝の歴史があった可能性が否定できないが、矛盾点も数多く指摘できる。
『上記』のウガヤフキアエズ王朝は、あまりに謎だらけの興味深い伝承だとしか言えない。

『上記』は古史古伝とされるが、正統な歴史書として価値があるなら、サンカの伝承と考えられる部分に限るかもしれない。
サンカ研究の第一級史料としての価値は、『上記』以外にもあるだろうが期待しても良いかもしれない。
『上記』は重要な歴史書か調べて、もっと細かく研究する必要がありそうである。

<参考文献>
『『古史古伝』異端の神々』
僕・原田実 株式会社ビイング・ネット・プレス:発行
インターネット

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