和田家文書(わだけもんじょ)

『和田家文書』は東北地方の伝承を記した書物で、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』などの文献を総称したもので、東北地方に近畿地方中心の「記紀」史観でない独自の伝承が存在していた。

遥かな昔に津軽(つがる;古代の青森県西部)に最初に現れたのがアソベ族と呼ばれる人々で、日本列島と中国大陸が陸続きだった時代に北から歩いてやって来た。
ミトコンドリアDNAから母系の先祖をたどると、ロシア北部を先祖とする一団がやって来たことが証明されて、『和田家文書』の記述が間違っていない。
アソベ族は農耕をしなくて、獣を狩って木の実や魚介類を採って暮らして、自然に湯のわく所を好んで、活火山の阿蘇部山(現在の岩木山)を聖域として、祭りの日に少女をいけにえとして火口に投じることも行なわれたと言う。
しかし、東の大陸(ロシア北部かアメリカ大陸か?)から新たに渡来したツボケ族がいて、馬を乗りこなしてたくみな戦法でアソベ族を山地へ追い上げていった。
ツボケ族は土器を作る技術を持って、体にいれずみを入れる習慣があって、アソベ族がツボケ族との競争や阿蘇部山の噴火のために次第に滅んでいった。
土器を作る技術は縄文人だとすると、土器を作る縄文人が元々違う土地から現れて、『魏志倭人伝』のいれずみを入れる習慣が縄文人に由来すると考えられるが、この記述の信頼性が低い。

紀元前7世紀頃に津軽に新しく2つの勢力が入ってきた。
一つは中国から春秋の動乱を逃れた晋の公子たちである。
中国正史の『史記』は、紀元前670年頃に晋の献公が公子の多くを殺したために国内が乱れ始めたと記述して、『和田家文書』で公子たちが献公に殺されたのでなく、日本に亡命したと考えている。
もう一つは畿道七道の邪馬台国の王であるアビヒコとナガスネヒコの兄弟と彼らに従う邪馬台国の亡命者たちが津軽にやって来た。
ナガスネヒコ(大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)は、西暦330年代(4世紀前半)に異母兄弟の仁徳(にんとく)天皇(ナガスネヒコを討伐した神武(じんむ)天皇に祖先化)に殺されて年代がずれる。
アビヒコたちは三輪山で邪馬台国を治めていたが、九州経由で南方からやって来た日向族(神武天皇たちのこと)との戦いに敗れて、東北の地に逃れてきた。
日向族にはヒミコという巫女がいて、継体(けいたい)天皇時代の反逆者の筑紫国造磐井(つくしのくにみやつこいわい)がヒミコの子孫だと記されている。
根本的に『和田家文書』の邪馬台国の記述は間違いで、卑弥呼の倭姫命(やまとひめのみこと)が生涯独身で子孫などいなくて、邪馬台国と神武天皇(正しくは仁徳天皇)の時代が根本的に違う。
アビヒコとナガスネヒコの兄弟は晋の公女と結婚して、アソベ族の生き残りとツボケ族を和解させて、ここに新しい民族が誕生してアラハバキ族が誕生した。
『和田家文書』の邪馬台国は3世紀よりもっと以前の可能性があって、根本的に年代が間違いかもしれない。
アラハバキは元々神様の名前で、古代中国の軍神とも製鉄のタタラの神とも太陽と空と大地から生まれる自然万物の神とも言って、縄文時代の東北地方を中心に出土する遮光器土偶がアラハバキの御神体だと言う。
アラハバキ族は寒冷に強い品種の稲を育て、自然に感謝しつつ豊かで平和な社会を作り上げ、東北地方を5つに分けてそれぞれに王を置くアラハバキ五王の制度を取っていたが、その五王がことあるごとに合議して国としての統一を保っていた。
アラハバキ族は命が藻・草・木・虫・魚・鳥・獣・人の8つの形をとって流転するという八生輪の教えを信じて、この八生輪の教えによれば全ての命が平等で、人がいたずらに他の生物の命を奪ってはならない。
また命を奪わなければならない時は、その罪をつぐなうために他の命を育成して、進んで善行を積まなければならない。
日向族が大和を占領した後、その子孫である天皇家は幾度となく東北地方に蝦夷討伐のために進撃した。
西暦250年から234年頃に東北地方南部まで古代天皇家が平定してから、蝦夷討伐が行なわれたのが容易に想像ができる。
アラハバキ族はこれを迎え撃つだけでなく、幾度か大和朝廷を制圧して大和に孝昭(こうしょう)天皇や孝元(こうげん)天皇や開化(かいか)天皇や称徳(しょうとく)天皇などのアラハバキの王も立てたことがあると言う。
孝昭天皇は実在の初代の崇神(すじん)天皇の実父で、孝元天皇と開化天皇が実在の景行(けいこう)天皇とその息子で皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化した存在で、称徳天皇が聖武(しょうむ)天皇の実子の女性天皇で、『和田家文書』の記述が作り話である。
東北地方の安倍(あべ)氏はアラハバキ王の子孫で、平安時代末に安倍一族の宗家となった安東氏(安藤氏)が津軽の十三湊(とさみなと)を拠点に安東水軍を組織して、遠くはインドやアラビアとも交易した。
『和田家文書』が安倍氏の先祖か不明で、安倍晴明(あべのせいめい)を輩出した景行天皇の孫の武渟川別(たけぬなかわわけ)から出た阿倍(あべ)氏を先祖とする説もある。
西暦1340年もしくは翌年に起こった大津波で十三湊が壊滅して安東水軍も失われて、江戸時代に津軽領主となった津軽家が組織的に書物を燃やしたこともあって、アラハバキ王国の栄光は忘れられていったと言う。

アラハバキ信仰は東日本を中心にわずかながら存在するが、『東日流外三郡誌』に膨大なアラハバキ神の記述があっても、津軽の史料にアラハバキ神社の記述がない。
アラハバキ神社は厳島(いつくしま)に地主神として祭られていた痕跡があって、西日本で島根県と広島県に限定してアラハバキ神社が祭られている。
アラハバキ神は一体どのようなものか分からず、『和田家文書』を信用できるのか期待できず、なかなかに難しい問題である。
『和田家文書』はどこまで信頼できるか分からなくて、天皇家の歴史も無茶苦茶に書いていて、全てを偽物とも言えない。

<参考文献>
『『古史古伝』異端の神々』
僕・原田実 株式会社ビイング・ネット・プレス:発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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