倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)
黒字は、僕の自論や完全解釈などで、赤字が日本神話の神々と特徴などで、緑字が僕の修正した神武(じんむ)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代までの()内の年代で、青字が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の一般的な専門家(歴史書解釈)と僕の考え方である。
僕の歴史を知った始(はじ)まりは、小学校高学年の歴史の授業で、倭国大乱(わこくたいらん)などに興味を持った時で、僕の歴史研究の始(はじ)まりが「記紀」の現代語訳本を買って数日間で、『日本書紀』の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を合致して、僕が日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を合致した瞬間で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の最初の出来事が倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)である。
僕の歴史を知った始(はじ)まりと歴史研究の始(はじ)まりは、邪馬台国(やまたいこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん)で、僕が初(はじ)めて日本神話をひもといた理由で、古代天皇家の歴史の始(はじ)まりも、倭国大乱(わこくたいらん)に集約されて、事始(ことはじ)め(物事を始(はじ)めること)が音楽の弾(ひ)き始(はじ)めの琴始(ことはじ)めに共通して、倭国大乱(わこくたいらん)が古代日本史研究の出発点(事始(ことはじ)め)であって、僕自身の出発点でもある。
自宅の台所にある2025年のカレンダーは、人と電気をつなぐニシムラ株式会社の物で、10月のカレンダーが心の漢字を記して、10月29日(水)が利己心(りこしん)で、他人より自分のことを優先する自己中心的な意味で、倭国大乱(わこくたいらん)を他人でなく、自分のために求める意味が大きい。
10月30日(木)のカレンダーの廉恥心(れんちしん)は、清(きよ)らかで恥(はじ)を知る心で、「廉(れん)」が思い切り良くて潔(いさぎよ)いことで、「恥(ち)」が恥(は)ずかしいことで、「心(しん)」が精神や気持ちを表(あらわ)わす漢字で、羞恥心(しゅうちしん)が恥(はじ)をかくことを嫌(いや)がる心で、全(まった)く違って、10月30日に僕が廉恥心(れんちしん)の関係した行動を起こす可能性があって、自分の恥(はじ)を知りながら、清(きよ)らかに死に逝(ゆ)きたいと考えた。
廉恥心(れんちしん)は、世界中の人々が古代天皇家の歴史を無知な自分の恥(はじ)を知って、清(きよ)らかに超天才の僕が求めた超知識に学んで、一から勉強し直す「きっかけ」である。
倭国大乱(わこくたいらん)は、2世紀中頃に起きて、日本全土が寒冷期で戦争状態に入ったとか、邪馬台国(やまたいこく)連合で内乱が起きたなど多くの説があって、邪馬台国(やまたいこく)が初めて歴史に登場して、僕だけが西暦156年を始まりと特定した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が西晋(せいしん)王朝の泰始(たいし)2年(西暦266年)に遣使した年号までの合計111年である。
戦争の倭国大乱(わこくたいらん)は、邪馬台国(やまたいこく)論争の最初の出来事で、2世紀中頃から後半頃に日本国内が寒冷化で、日本全土が戦乱状態になった倭国大乱(わこくたいらん)の学説と、邪馬台国(やまたいこく)連合の内乱(倭国大乱;わこくたいらん)の学説などが主流である。
『後漢書』は、「桓霊間、倭国大乱(わこくたいらん)、更相攻伐、歴年無主」と記して、「11代目・桓帝(かんてい)と12代目・霊帝(れいてい)の在位期間(西暦146年8月1日から189年5月13日)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)が起きて、さらに互いに攻撃して討伐し合って、何年間も垂仁(すいにん)天皇が統治できなかった」と訳す。
しかし垂仁(すいにん)天皇5年6月1日から7年前半(西暦156年7月上旬頃から158年前半)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、桓帝と霊帝の在位期間(西暦146年8月1日から189年5月13日)の数十年もの戦争でなく、桓帝(かんてい)の在位期間(西暦146年8月1日から168年1月25日)の戦争で、歴年の主(あるじ)が無い一年以上続いた内戦である。
『三国志・魏志倭人伝』は、「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱(わこくらん)、相攻伐歴年」と記して、「大和国が元々男性を天皇で、建国から72年目の西暦156年に内乱が起きて、互いに攻め合って、数年間たった」と訳して、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を内乱(皇位継承権争い)と解釈すべきで、2代目出雲国王で、左大臣の狭穂彦王(さほひこのみこ)を隠(かく)して混乱させた。
『後漢書』の倭国大乱(わこくたいらん)は、『三国志・魏志倭人伝』の倭国乱(わこくらん)と合致して、後漢王朝と魏(ぎ)王朝の歴史書を『ホツマツタエ』や「記紀」と合致して、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(皇位継承権争い)以外に解釈できず、僕の自論を100%否定できない。
桓帝(かんてい)の在位期間(西暦146年8月1日から168年1月25日)は、垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の倭国大乱(わこくたいらん)を含んで、霊帝(れいてい)の在位期間(西暦168年2月17日から189年5月13日)が垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)に正式な卑弥呼(ひみこ)共立、垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)の遣漢使(けんかんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)までを指す。
女王の卑弥呼(ひみこ)共立は、垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(西暦176年4月上旬頃)に皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)を正式な伊勢神宮の2代目斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)に任命して、女王国(伊勢国;三重県中部)の王女の卑弥呼(ひみこ)が正しくて、邪馬台国(大和国;やまとこく)の女王が勘違いである。
後漢王朝の霊帝(れいてい)の次代は、少帝弁(しょうていべん)の在位期間(西暦189年5月15日から9月28日)で、垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)の古代中国の後漢(ごかん)王朝の遣使(遣漢使;けんかんし)が霊帝の在位期間の189年と重なる。
遣漢使(けんかんし)は、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)まで古代中国に滞在したが、献帝(西暦189年9月27日から220年11月25日)の時代まで記さず、『後漢書』の記述が正しいと考えられる。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の息子は、実兄弟の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)で、異母弟(従弟;いとこ)の手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)が内乱(皇位継承権争い)を起こして、実兄弟の豊城彦命(とよきひこのみこと)と垂仁(すいにん)天皇が協力して、従弟(いとこ)の狭穂彦王(さほひこのみこ)と敵対した。
謀反(むほん)が発覚した垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)は、僕が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)の始まりで、垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に野見宿禰(のみのすくね)を3代目出雲国王に任命して、内乱(皇位継承権争い)の決着と定義付けた。
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)は、垂仁(すいにん)天皇の即位の祝(いわ)いに朝鮮半島の任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)の使者である蘇那曷叱智(そなかしち)から献上品が送られて、蘇那曷叱智(そなかしち)が自分の御世(みよ;垂仁(すいにん)天皇時代)を祝(いわ)う天皇の神酒(みき)をいただいた。
任那(みまな)王は、お返しの五色のカゾ峰錦(みねにしき)と綾織御衣(あやおりみは)百着を賜(たまわ)って、潮乗津彦(しほのりつひこ)がのぼりを立てて、蘇那曷叱智(そなかしち)を任那国(みまなのくに)まで送って行かれて、日本国の教えを広められた。
『ホツマツタエ』と『日本書紀』は、垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)のこの年に新羅国(しらぎのくに)と戦争して、武将の潮乗津彦(しおのりつひこ)を派遣したと解釈する。朝鮮半島の加羅国(からのくに)の王子である怒我阿羅斯等(つのがあらしと)は、美しい少女が狭穂姫(さほひめ)の可能性があるが、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱に朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)が介入したか、僕でも証明できない。
朝鮮半島の加羅国(からのくに;日本語読みが任那国(みまなのくに)は、倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)で、外交が断交するまで、古代天皇家に遣使して、西暦239年に邪馬台国(大和国;やまとこく)が魏(ぎ)王朝に遣使する時に帯方郡(たいほうぐん;郡の都(みやこ)が北朝鮮の平壌(ピョンヤン)より南に存在したが、諸説あって確定していない)までの道程(みちのり)で、加羅国(からのくに)の国都(首都)の金海(キメ)に立ち寄ったと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇2年(紀元前28年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)が正しい。)
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)に垂仁(すいにん)天皇は、彦坐王(ひこいますのみこ)の娘の狭穂姫(さほひめ)を皇后に迎(むか)えて、この前から狭穂姫(さほひめ)が実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)と不貞(ふてい)行為があって、新しい皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)に入った。
不倫(ふりん)は、一般的に既婚者(きこんしゃ;配偶者のある人)が配偶者以外の人と交際関係を持つことを指して、特に男女関係の不道徳な関係を意味して、浮気(うわき)と区別して、不貞(ふてい)を既婚者(きこんしゃ)が配偶者以外の異性と性的な関係を持つことで、不貞(ふてい)行為と不倫(ふりん)が同義ともされて、実兄妹の狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)が結婚前の性的関係で、不貞(ふてい)行為でないが、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)がどちらの子か不明で、不貞(ふてい)行為と認識すべきである。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇2年2月(紀元前28年3月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)が正しい。)
垂仁(すいにん)天皇の皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)は、即位から2年以内に建造して、奈良県桜井市にある景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡の近くに存在して、時期的に考えて景行(けいこう)天皇の皇居で間違いなくて、垂仁(すいにん)天皇の皇居が纏向(まきむく)遺跡より規模が小さくて、必ず奈良県桜井市に存在すると考えられる。
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇2年12月(西暦154年1月頃)に垂仁(すいにん)天皇と最初の皇后の狭穂姫(さほひめ)は、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んで、垂仁(すいにん)天皇23年10月8日に誉津別命(ほむつわけのみこと)が出雲と関係して、伯父(おじ)の狭穂彦王(さほひこのみこ)が2代目出雲国王で、3人が出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋である。
『古事記』の本牟智和気王(ほむつわけのみこ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫で、呪(のろ)いを解(と)くために出雲(いずも;島根県東部)に行こうとして、同じく彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の曙立王(あけたつのみこ)と莵上王(うなかみのみこ)の兄弟と行ったと記す。この解釈は、すでに垂仁(すいにん)天皇時代に出雲王国(物部(もののべ)氏)があって、古代天皇家の邪馬台国(大和国;やまとこく)と2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)を証明した。
『日本書紀』の訳本は、誉津別命(ほむつわけのみこと)と発音するが、『ホツマツタエ』のホンツワケを重視して、「ほんつわけのみこと」を取り上げるべきである。
実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、結婚前から狭穂姫(さほひめ)と不貞(ふてい)行為があって、誉津別命(ほむつわけのみこと)が不義の子の可能性から、垂仁(すいにん)天皇の実子と証明できず、以降に誉津別命(ほむつわけのみこと)の子孫が「記紀」に登場しない証拠で、結婚から出生までの期間を逆算して、狭穂彦王(さほひこのみこ)が謀反(むほん)を起こす「きっかけ」で、皇位継承権を持たない黙殺された皇子と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇2年12月(紀元前27年1月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇2年12月(西暦154年1月頃)が正しい。)
参考文献『完訳秀真伝』の日寄(ひよ)る子(こ)は、僕が火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)と修正して、誉津別命(ほむつわけのみこと)が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の時に生まれて、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)が生む時に火傷(やけど)して、火夜子(ひよるこ)が火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)だから、誉津別命(ほむつわけのみこと)の人名に火(ほ)の人名を付けて、火の神様と火(ほ)の人名が物部(もののべ)氏の共通性と2023年11月29日に気付いた。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の子供は、淡路島(あわじしま)が吾恥島(あはじしま;吾(われ)は恥(は)ずかしい島:誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)の意味で、同一神の火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)が不義の子の可能性があって、恥(は)ずかしいと言う意味である。
黄泉国下(よみのくにくだ)り神話は、夫婦神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)が息子の火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を生んで、従兄弟(いとこ)で伯父(おじ)の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)たちが登場した。
『ホツマツタエ』の孝霊(こうれい)天皇3年の春は、出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)の息子の大水口(おおみなくち)と大矢口(おおやぐち)を共に宿禰(すくね)に任命した。
垂仁(すいにん)天皇3年(西暦154年)の春(1月から3月;2月から4月頃)は、出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の2人の息子が大水口宿禰(おおみなくちのすくね;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)と大矢口宿禰(おおやぐちのすくね;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を祖先化)で、共に宿禰(すくね)に任命した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇3年(紀元前27年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇3年(西暦154年)が正しい。)
宿禰(すくね)は、宿儺(すくね)や足尼(すくね)や足禰(すくね)や少名(すくね)などとも書いて、初期の大和政権で、武官や行政官を示す称号で、主に物部(もののべ)氏や蘇我(そが)氏や秦(はた)氏などの先祖に称号を与えて、8世紀に8色の姓(せい)で制定した姓(かばね;天皇から有力氏族に与(あた)えた、その氏族の位階・体裁(ていさい)・性格を示す称号)の一つになった。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、丹波国造(たんばくにみやつこ;京都府北中部の国主)として、西暦150年代まで統治して、西暦74年以前の生まれで、垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の夜に登場して、104才から107才以上まで生きた皇族の最高齢である。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)と異母弟の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)以降に朝鮮国家の加羅国(からのくに)と外交して、朝鮮半島から鉄製品を仕入れて、日本海側の京都府と兵庫県と鳥取県と島根県が弥生時代後期に鉄製品が大量出土して、鉄製品が重くて運べないために奈良県周辺で出土せず、まだ国産の鉄器生産ができず、鉄製品を溶(と)かして加工して、鉄素材を加工して鉄製品を製作してないと考えられて、2025年9月22日の昼食中に鉄製品急増の理由を求めた。
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇3年1月(西暦154年2月頃)は、新羅国(しらぎのくに)の王子である天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が息子の諸助(もろすけ;誰を祖先化したか不明)を家臣にしたが、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子でなく、敗戦した人質(ひとじち)で、王子の息子(朝鮮語読みの人名が分からない)を家臣にして、垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年から逆算した3年(垂仁(すいにん)天皇37年;西暦188年)と年数が重なると考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇3年1月(紀元前27年2月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇3年1月(西暦154年2月頃)が正しい。)
『日本書紀』の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は、事代主神(ことしろぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の娘で、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;皇后の御井津比売(みいつひめ)を祖先化)が神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)をもうけた。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇でなく、彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、阿比良比売命(あひらひめのみこと;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を祖先化)との間に手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)をもうけた。
手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)は、従兄の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の兄弟に討伐された。
豊城彦命(とよきひこのみこと)は、崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)生まれで、垂仁(すいにん)天皇が崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)生まれで、狭穂彦王(さほひこのみこ)が崇神(すじん)天皇38年から崇神(すじん)天皇41年((西暦121年から124年)頃の生まれである。
『日本書紀』の綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の記述は、手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)が崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)頃に父で初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)が亡くなって、手研耳命(たぎしみみのみこと)が2代目出雲国王として、長く政治の経験があって、神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の服喪(ふくも)の期間に邪(よこしま)な心を隠して、綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)を殺そうと計画した。
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、皇后の狭穂姫(さほひめ)に聞いて、「兄と垂仁(すいにん)天皇のどちらをより慕(した)うか」と問われて、実兄と夫の垂仁(すいにん)天皇とどちらの子か分からない息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)の存在から、狭穂姫(さほひめ)がつい「兄です」と答えたのかもしれない。
狭穂彦王(さほひこのみこ)は、狭穂姫(さほひめ)に言って、「お前は美しさを持って、垂仁(すいにん)天皇に仕(つか)えるが、その美しさも年と共にやがて衰(おとろ)えて、天皇の恵みも薄(うす)くなる。それもそう遠い話でなく、願わくは、私とお前が協力して、垂仁(すいにん)天皇の皇位を奪って、私たちの息子かもしれない誉津別命(ほむつわけのみこと)と共に私が天皇になれば、安き日々を暮らせよう。垂仁(すいにん)天皇を殺してくれ、我がために」と無理に攻め寄って、紐刀(ひもがたな)を狭穂姫(さほひめ)に手渡した。
狭穂姫(さほひめ)は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の心根(こころね)のあやまちを諫(いさ)めたが、一向に聞き入れられず、狭穂姫(さほひめ)が恐(おそ)ろしさのあまり、心がわななくばかりで、紐刀(ひもがたな)を仕方なく、袖内(そでうち)に納(おさ)め隠(かく)して、なおも諫(いさ)めたけれど、聞き入れられなかった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の綏靖(すいぜい)反乱1年から4年(紀元前585年から582年)と垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(紀元前26年10月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇4年から7年(西暦155年から158年)と垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)が正しい。)
垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)に夫の垂仁(すいにん)天皇を殺して、皇位(天皇の地位)を皇族の自分に渡してほしいとお願いして、謀反(むほん;皇位継承権争い)を計画した。
『ホツマツタエ』の綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の反乱(皇位継承権争い)4年間は、綏靖(すいぜい)反乱1年から4年(紀元前585年から582年)が垂仁(すいにん)天皇4年から7年(西暦155年から158年)の内乱(皇位継承権争い)4年間と合致して、綏靖(すいぜい)反乱1年から4年が僕の作った造語で、久米道臣(くめのみちをみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の娘の糸薄依姫(いとすきよりひめ;別名を小百合姫(さゆりひめ):狭穂姫(さほひめ)を祖先化)が神武(じんむ)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と結婚した。
神武(じんむ)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の異母兄(従弟;いとこ)の手研耳(たぎしみみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)は、結婚前から実妹の狭穂姫(さほひめ)と不貞(ふてい)関係で、垂仁(すいにん)天皇から無理矢理に奪(うば)おうと考えて、狭穂姫(さほひめ)に夫の垂仁(すいにん)天皇を殺してほしいとお願いして、これが謀反(むほん;皇位継承権争い)の全貌(ぜんぼう)である。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、来目(くめ;奈良県高市郡)の高宮(たかみや;所在地不明)に滞在した時、狭穂姫(さほひめ)の膝枕(ひざまくら)で眠られて、狭穂姫(さほひめ)が自分の何もできない悲しい立場に涙が流れて、垂仁(すいにん)天皇の童顔をぬらして、夢から目覚(めざ)めて言われた。
「今私は、夢に美しい大蛇(おろち)が首にまとわりつき、狭穂(さほ;細い)の雨が顔をぬらしたのが良い兆(きざ)しだろうか、悪い兆(きざ)しだろうか」と。
狭穂姫(さほひめ)は、嘘(うそ)を隠(かく)し切れず、伏(ふ)し転(ころ)がりながら言われて、「天皇から受けた恵みに叛(そむ)けなくて、真実を告(つ)げれば、兄が亡(な)き者になるが、告(つ)げなければ宮中を危(あや)うくするでしょう。
どうしたら良いか恐(おそ)れ悲しみ血の涙を流して、兄が天皇を亡(な)き者にしようと私にせまり、今天皇が私の膝枕(ひざまくら)で昼寝されて、もし心を狂(くる)わせて、天皇を殺そうとすれば、思いもよらぬ機会だと思って、その愚(おろ)かさに我が身の哀(あわ)れさに涙がこぼれて、拭(ふく)く袖(そで)にあふれて、天皇の顔を濡(ぬ)らしたのです。
天皇の見た夢は、きっとこのことを示して、大蛇(おろち)の正体がこれです」と。
狭穂姫(さほひめ)は、紐刀(ひもがたな)を袖(そで)の中から出して告白して、垂仁(すいにん)天皇が初めて狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を知って、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)した。垂仁(すいにん)天皇の詔(みことのり)は、奈良県磯城郡(しきぐん)田原本町(たわらもとちょう)多(おお)付近を統治する豊城彦命(とよきひこのみこと)と息子の八綱田(やつなだ)を召集して、豊城彦命(とよきひこのみこと)が邪馬台国(大和国;やまとこく)側の総大将と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(紀元前25年7月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)が正しい。)
大蛇(おろち)の正体の紐刀(ひもがたな)は、蛇神の2代目オオモノヌシ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を差して、狭穂彦王(さほひこのみこ)が反乱した史実(歴史上の事実)を反映(はんえい)して、作られた物語である。
古代太陽神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、海神の宇都志日金析命(宇都志日金拆命;うつしひかなさきのみこと:狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と同一神である。
剣臣(つるぎとみ;右大臣)の2代目オオモノヌシ(狭穂彦王(さほひこのみこ)に神格化)は、正しく求めると、天皇の次の地位である左大臣だから、内乱(皇位継承権争い)で勢力を敵と味方(みかた)の出雲王国(物部(もののべ)氏)側と邪馬台国(大和国;やまとこく)側に二分したと考えられる。
『日本書紀』の綏靖(すいぜい)反乱(干支(えと)の己卯(つちのとう;紀元前582年)の年)4年11月(紀元前582年12月頃)は、垂仁(すいにん)天皇6年11月(西暦157年12月頃)で、綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と実兄の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)が協力して、手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)の攻撃をよく防(ふせ)いで、先帝の山陵(神武(じんむ)天皇陵;稲城(いなき)が正しい)を作った。
稲城(いなき)は、弥生時代後期中頃の城(しろ)で、稲作が普及した弥生時代と合致して、稲刈(いねか)りが9月から10月頃で、旧暦11月(12月頃)に刈(か)り取った稲穂(いなほ)で、稲城(いなき)を作った時期が正しい。
『日本書紀』の綏靖(すいぜい)反乱4年(干支(えと)の己卯(つちのとう;紀元前582年)の年)11月は、垂仁(すいにん)天皇7年11月(西暦158年12月頃)に修正すると、戦争が終結して矛盾(むじゅん)するため、垂仁(すいにん)天皇6年11月(西暦157年12月頃)に修正するしかなくて、干支(えと)の60年周期を足し算して、西暦139年(己卯;つちのとう)が垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)と合致せず、計算して作られた干支年(かんしねん)である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の綏靖(すいぜい)反乱4年11月(紀元前582年12月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇6年11月(西暦157年12月頃)が正しい。)
『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇30年(アスス暦87年)夏は、垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)夏(4月から6月;5月から7月頃)に修正して、『日本書紀』の綏靖(すいぜい)反乱4年と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を僕なりに対比させて修正して、終戦までを記す。
先帝の山陵(神武(じんむ)天皇陵;稲城(いなき)が正しい)を作り終えてからは、狭穂彦王(さほひこのみこ)が稲城(いなき)を囲んで固く防御して、なかなか降伏せず、狭穂姫(さほひめ)がそれをご覧になって悲しまれて、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えて、こっそり裏門から、稲城(いなき)の中に入った。
狭穂姫(さほひめ)が稲城(いなき)に入られてからは、弓削雅彦(ゆげのわかひこ)に弓を作らせて、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまつまら)に鏃(やじり)を作らせて、矢部(やはぎべ)に箭(や;竹製の矢)を作らせて、弓矢の準備ができて、綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)を射殺しようと考えた。
手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)は、片丘の大室(稲城)の中にいて、一人で床に伏(ふ)せて、綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)に語って言われて、「今こそ好機で、そもそも密事をこっそり行(おこな)うべきで、だから私の計画も誰にも相談せず、今日のことを自分とお前でやって、自分がまず稲城の戸を開けるから、お前がすぐにそれを射よ」と。
垂仁(すいにん)天皇は、「皇后と皇子を出せ」と狭穂彦王(さほひこのみこ)に言われたが出さず、八綱田(やつなだ;豊城彦命(とよきひこのみこと)の息子)が稲城(いなき)を火攻(ひぜ)めすると、狭穂姫(さほひめ)がまず誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えて、稲城(いなき)を越えて出て来た。
狭穂姫(さほひめ)は、「我が兄の罪(つみ)を許(ゆる)していただこうと、私が稲城(いなき)の中に入ったが、共に深い罪(つみ)があることを今知って、たとえ死しても天皇の恵(めぐ)みを忘(わす)れることがなく、私の後宮に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘をお据(す)え下さい」と垂仁(すいにん)天皇に言った。
そこで垂仁(すいにん)天皇は、「そなたの兄を恨(うら)むが、やはり皇后をいとしく思う心に耐えがたい物がある」と言って、力が強くて足の速い兵士を選び集めて、「皇子を引き取る時に同時に皇后も奪(うば)い取って、髪だろうと手だろうと捕らえて連れて来なさい」と言った。
ところが皇后は、前もって垂仁(すいにん)天皇の考えを読んで、すっかり髪の毛を剃(そ)って、その髪の毛で、頭を覆(おお)って、玉の緒(お)を腐(くさ)らせて、それを三重に手に巻(ま)いて、酒で衣服を腐(くさ)らせて、それを完全な衣服のように着て、このように準備して、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱(だ)きかかえた。
力の強い兵士たちは、皇子を受け取ると、皇后も捕らえようとして、髪の毛を取ると、自然に髪の毛が落ちて、手を握(にぎ)ると手に巻(ま)いた玉の緒(お)が切れて、衣服を握(にぎ)ると、衣服が破(やぶ)れて、皇后を捕(と)らえられなくて、兵士たちが帰って来て、垂仁(すいにん)天皇に言った。
「皇后の髪の毛は、自然に落ちて、衣服も簡単に破れて、手に巻かれた玉の緒(お)もすぐに切れて、皇后を捕らえられず、皇子だけを連れて来ました」と申し上げて、垂仁(すいにん)天皇が悔(くや)しさと恨(うら)めしさのあまり、玉作りの人々を憎(にく)んで、その土地を奪って、玉作りの人々が出雲の出身と考えられる。
稲城(いなき)に戻(もど)った狭穂姫(さほひめ)を見た二人(豊城彦命(とよきひこのみこと)と垂仁(すいにん)天皇の兄弟)は、稲城(いなき)に一緒に進入して、綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が稲城(いなき)の戸をつき開いて、神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)の手足が震(ふる)え慄(おのの)いて、矢を射られなくて、その時に綏靖(すいぜい)天皇が兄の持つ弓矢を引き取って、手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)に射られた。
綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)は、一発で胸に命中させて、二発目を背中に当てて、ついに手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)を殺して、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を預(あず)かった垂仁(すいにん)天皇が皇后の狭穂姫(さほひめ)を許して、炎が燃え盛(さか)って、稲城(いなき)が崩(くず)れ落ちて、兵士が皆引き揚(あ)げて、狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の兄妹が稲城(いなき)の中で焼死した。
垂仁(すいにん)天皇は、甥(おい)で武将の八綱田(やつなだ)の功績を誉(ほ)めて、火攻(ひぜ)めで猛(たけ)る火に向(む)かったから、猛火向彦(たけひむかひこ)の名前を与(あた)えて、『日本書紀』の倭日向武火向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)が後世の名前で、意味が分からなくなって、猛(たけ)と武(たけ)の漢字を間違えた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇30年(アスス暦87年;紀元前631年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)が正しい。)
古代日本は、勾玉(まがたま)が御守(おまも)りや宝物の意味や古代人の装飾品で、また祭祀(さいし)や神聖な儀式などで身に付けて、貴重な材料を使用した勾玉(まがたま)が高貴な人や特別な地位を示す意味があったとされて、島根県松江市の玉造(たまつくり)の地名が勾玉(まがたま)作りの産地で、三種の神器の八尺瓊勾玉(八坂瓊曲玉;やさかにのまがたま)が島根県松江市の玉造(たまつくり)温泉で、櫛明玉命(くしあかるだまのみこと;誰を神格化したか不明)が作った神話もあって、土地を奪われた玉作りの人々が出雲(いずも;島根県東部)の住人と考えられる。
崇神(すじん)天皇38年(西暦121年)から崇神(すじん)天皇41年(西暦124年)頃生まれの狭穂彦王(さほひこのみこ)は、33才から36才頃に戦死して、実妹の狭穂姫(さほひめ)が20才から23才頃に戦死して、狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子(同母か異母か不明)の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たえまのくえはや)が参戦して、野見宿禰(のみのすくね)が垂仁(すいにん)天皇で、当麻蹶速(たえまのくえはや)が父の狭穂彦王(さほひこのみこ)に味方(みかた)したと考えられる。
『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱は、誉津別命(ほむつわけのみこと)を預(あず)ける時に狭穂姫(さほひめ)が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘の兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)を妃(きさき)にしてほしいと言い残して、垂仁(すいにん)天皇7年の夏(西暦158年5月から7月頃)に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘の日葉酢媛(ひばすひめ)が生まれた後で、垂仁(すいにん)天皇15年8月8日(西暦166年9月上旬頃)に皇后になったため、記述の前後関係の整合性が正しい。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇15年2月15日(西暦166年3月中旬頃)は、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘5人を妃(きさき)に迎えて、8月8日(9月上旬頃)に長女の日葉酢媛(ひばすひめ)を皇后で、3人の妹も妃(きさき)として、末子の竹野媛(たけのひめ)だけを一人返して、竹野媛(たけのひめ)がそれを恥じて、自ら輿(こし)から落ちて亡くなって、それでその地を堕国(おちくに;京都府乙訓(おとくに)郡)と呼ぶ。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)と丹波之河上之麻須郎女(たにはのかわかみのますのいらつめ)は、日葉酢媛(ひばすひめ)と真砥野媛(まとのひめ)を生んで、3人の妹(異母妹も含む)の渟葉田入媛(ぬはたいりひめ)と真砥野媛(まとのひめ)と薊瓊入媛(あさみにいりひめ)も妃(きさき)にして、末娘の竹野媛(たけのひめ)だけを妃(きさき)にしなかった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇15年2月15日と8月8日(紀元前15年3月中旬頃と9月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇15年2月15日と8月8日(西暦166年3月中旬頃と9月上旬頃)が正しい。)
狭穂彦王(さほひこのみこ)が戦死した頃(垂仁(すいにん)天皇7年;西暦158年)に生まれた娘の高田媛(たかだひめ)は、垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)生まれの景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)で、景行(けいこう)天皇より10才以上も上の年上女房(にょうぼう)で、複数の子供を生んで、景行(けいこう)天皇の筆おろしの意味で、結婚させたと考えられる。
剣臣(つるぎとみ;右大臣)の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、左大臣が正しくて、2代目出雲国王で、警察機構の物部(もののべ)と言う兵士たちをまとめる役職だから、物部(もののべ)氏の先祖でもあって、『古事記』で狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫が日下部(くさかべ)氏で、子孫が日下部(くさかべ)氏の浦島太郎(誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)と息子の仁徳(にんとく)天皇)である。
垂仁(すいにん)天皇は、来目(くめ;奈良県高市郡)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反(むほん)を知らされて、最終決戦地が三重県熊野市有馬町(ありまちょう)の花の窟(いわや)神社か島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の伊賦夜坂(いふやざか)と考えられて、2つの候補地にしぼって、奈良県から島根県に向かったが、三重県熊野市で終戦したと証明できない。
花の窟(いわや)神社は、『日本書紀』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に登場して、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子(実兄)の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の墓(はか)で、実兄妹の遺体が燃(も)えて残らず、岩石の古代信仰の神社に祭ったと考えられる。
花の窟(いわや)神社は、日本神話に登場して、日本最古の神社と錯覚(さっかく)するが、西暦158年以降に祭られて、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に祭った日本最古の神社の大和(おおやまと)神社が証明できて、100%覆(くつがえ)らない。
伊賦夜坂(いふやざか)は、黄泉国(よみのくに)の入り口の黄泉比良坂(よもつひらさか)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)の舞台の可能性が考えられる。
火傷(やけど)で死んだ伊奘冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と火の神様の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、焼死した物部(もののべ)氏の人物を火の神様に神格化して、他の伊弉冉尊(いざなみのみこと)が狭穂姫(さほひめ)以降の皇后2人を神格化して、皇后2人が物部(もののべ)氏の出身でないため、火の神様でない。
倭国大乱(わこくたいらん)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(皇位継承権争い)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に神話化して、黄泉国(よみのくに)が地獄で、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話を京都の民話の『山姥(やまんば)と馬吉』に民間伝承したと僕が証明した。
参考文献『歪(ゆが)められた日本神話』(著者・萩野貞樹 発行・PHP研究所)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)が地獄に黄泉国下(よみのくにくだ)りした神話とギリシア神話のオルフェウスが地獄に冥界下(めいかいくだ)りした神話が共通して、共通性の確立が何十万分の一の可能性と書いて、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話が戦争を神話化して、古代ギリシアの何らかの戦争を神話化したのがオルフェウス神話でなく、シルクロードでギリシア神話を仕入れて、日本神話に記した可能性が考えられる。
つまりギリシア神話のオルフェウス神話は、戦争を神話化した黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と別の物語を神話化して、シルクロードでギリシア神話を知った古代日本人が黄泉国下(よみのくにくだ)り神話を作って、神話の共通性から現代日本人が色々な考察をして、意見の混乱を生んだ可能性があって、古代天皇家がギリシア神話を作った王家と共通の先祖を持つ可能性も考えられる。
『ホツマツタエ』1章の和歌山県の蝗害(こうがい;バッタ類の大発生)は、丹波(たんば)の神様の豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が登場して、日本神話と狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が合致する可能性がある。
『ホツマツタエ』の孝安(こうあん)天皇11年に2代目・火明命(ほあかりのみこと)の孫の天村雲命(あめのむらくものみこと)は、穂汚虫(ほおむし)の被害(蝗害(こうがい;バッタ類の大発生)を宮中に知らせて、孝安(こうあん)天皇が自(みずか)ら祓(はら)い風(かぜ)ふの祭りをして、穂が見事によみがえって、瑞穂(みずほ)の田となって、穂積(ほづみ)の祭りをした。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と孫の天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)でなく、野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の祭神で、穂積(ほづみ)が物部(もののべ)氏の傍系氏族の穂積(ほづみ)氏で、野見宿禰(のみのすくね)が出雲王家(物部(もののべ)氏)で、海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏が遠縁(とおえん)で、穂汚虫(ほおむし)の蝗害(こうがい)が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を指す可能性がある。
『ホツマツタエ』孝霊(こうれい)天皇36年3月7日…(省略)…時に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子の武日照命(たけひてるのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)は、「玉川(たまかわ)の神宝文(かんたからふみ;何か不明)」で、神代(かみよ)の教えを得て、今まで永(なが)らえて、孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)にその文を奉納した。
孝霊(こうれい)天皇は、たいそう喜んで、武日照命(たけひてるのみこと)の子孫で海部(あまべ)氏の武斗米(たけとめ;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を祖先化)の家臣に請(こ)うた。
同じく武日照命(たけひてるのみこと)の子孫で津守(つもり)氏の武筒草(たけつづくさ)が梅大宮(むめみや;富士山本宮浅間(せんげん)神社か?)の祭りを継いで、武筒草(たけつづくさ)が竹田(たけだ)氏の先祖で、後に「玉川(たまかわ)の神宝文(かんたからふみ)」が出雲大社に奉納された。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の「玉川(たまかわ)の神宝文(かんたからふみ;何か不明)」は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱と関係する可能性が高くて、三種の神器や十種(とくさ)の神宝(かんだから)と物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏が関係すると考えられる。
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に湯産隅命(ゆむすみのみこと)は、諱(いみな)が菰積(こもつみ)で、その子供が筒木垂根王(つつきたるねのみこ)で、その娘の樺井月姫(かばいつきひめ)を皇后で、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妾(めかけ)にして、皇后が決まって5日(8月上旬頃)にそのお祝いをして、7日(8月上旬頃)の皇后選定後に初めての棚機(たなばた)の祭礼をした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇7年7月(紀元前23年8月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇7年7月(西暦158年8月頃)が正しい。)
彦湯産隅命(ゆむすみのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物で、大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)が山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)で、娘が同母姉妹か異母姉妹か分からない樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)である。
樺井月姫(かばいつきひめ)は、『ホツマツタエ』に登場する皇后で、「記紀」で偽装工作して抹消されて、おとぎ話のかぐや姫が垂仁(すいにん)天皇と結婚した妾(めかけ)の迦具夜姫(かぐやひめ)から人名を取って、かぐや姫が結婚しなくて、迦具夜姫(かぐやひめ)と無関係である。
棚機(たなばた)の祭礼は、『ホツマツタエ』の日本古来の祭りで、蚕(かいこ)と機織(はたお)りを祭って、現在の七夕(たなばた)が中国の西王母(せいおうぼ)信仰に由来して、漢字が棚機(たなばた)から七夕(たなばた)に変化したと考えられる。
『ホツマツタエ』は、棚機(たなばた)の祭礼である臣(おみ)が「狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子の当麻蹶速(たえまのくえはや)が剛力で、地金(じがね)を伸(の)ばして、角(つの)を裂(さ)くような鉄弓(かなゆみ)を作って、常に『この鉄の弓を踏(ふ)ん張(ば)って、張(は)れる私の怪力を世の力持ちと比(くら)べるの兄弟(同母か異母か不明)の野見宿禰(のみのすくね)と戦わないまま、死ぬのだろうか』とひたすら嘆(なげ)いている」と垂仁(すいにん)天皇に言った。
これを聞いた垂仁天皇(すいにん)は、諸臣に「当麻蹶速(たえまのくえはや)と兄弟の野見宿禰(のみのすくね)を戦わせよ」と申されて、ある臣(おみ)が力を競(きそ)う神事を提案して、長尾市(ながおいち)がこれを召(め)して、野見宿禰(のみのすくね)も名誉なことと喜(よろこ)んで、「明日に競技を行(おこ)なう」と勅命が出されて、これが角力(相撲;すもう)の起源である。
当麻蹶速(たえまのくえはや)は、戦死した父の狭穂彦王(さほひこのみこ)側に加勢して、垂仁(すいにん)天皇に加勢した兄弟の野見宿禰(のみのすくね)と力を競(きそ)う神事の相撲(すもう)で、神聖(神性)さを問(と)いかけて、3代目出雲国王に任命される権利を賭(か)けたと考えられる。
狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子の野見宿禰(のみのすくね)は、説明が面倒臭いので省略するが、間違いなく正しいと僕の諸資料が証明して、100%否定できない事実である。
日本最古の相撲(すもう)は、兄弟(同母か異母か不明)の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たえまのくえはや)の死闘で、体を武器にした力と力のぶつかり合いで、生きるか死ぬかを決める殺し合いで、相撲(すもう)の起源が日本神話の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の取っ組み合いが拡大解釈で、この時代より後世で、日本神話に相撲(すもう)の起源がない。
現在の大相撲(おおずもう)の起源は、野見宿禰(のみのすくね)が実在した人物で、5世紀中頃の力士の埴輪(はにわ)が出土して、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)以降に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵(所在地不明)に埴輪(はにわ)を立てて、相撲(すもう)と埴輪(はにわ)が史実(歴史上の事実)と証明した。
『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)は、角力(相撲;すもう)の里の土俵(つちだわら)を作って、当麻蹶速(たえまのくえはや)が東から、野見宿禰(のみのすくね)が西から上った。
仕切りは、踏(ふ)み組み合えば、野見宿禰(のみのすくね)が強く、当麻蹶速(たえまのくえはや)を投げ倒(たお)して、脇(わき)を踏(ふ)み付けて、腰(こし)までを踏(ふ)んで殺して、時に垂仁(すいにん)天皇が団扇(うちわ)を上げて、「野見宿禰(のみのすくね)の勝ち」と声を響(ひび)かせると、見物の臣(おみ)たちも大いに喜んで、ここを記録する2025年10月29日の午前11時半頃に正夢(まさゆめ)で見たと気付いた。
垂仁(すいにん)天皇は、当麻蹶速(たえまのくえはや)の鉄弓(かなゆみ)と当麻国(たえまのくに;奈良県葛城市当麻町)を野見宿禰(のみのすくね)に与えて、家に名前が不明の妻を迎(むか)えて、世継ぎが生まれて、3代目出雲国王に任命されて、野見宿禰(のみのすくね)が相撲(角力;すもう)の弓取りの祖となって、直系子孫が出雲大社宮司家の千家(たけうち)氏と有力氏族の竹内(たけうち)氏などである。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(紀元前23年8月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)が正しい。)
日本最古のスポーツの相撲(すもう)は、2025年で相撲(すもう)の誕生から1867年目で、邪馬台国(大和国;やまとこく)が歴史に登場して、2年後の出来事で、古墳で力士(りきし)の埴輪(はにわ)が出土するが、僕が歴史研究を公表しない限り、相撲(すもう)の始まりの史実(歴史上の事実)が知れ渡らない。
国技とは、国の固有や伝統的な技芸や競技を表して、スポーツ競技や武術などが多くて定義がなく、事実上で国技としたり、法などで定めた場合もあって、国技と国民の愛好度が比例しなくて、日本の野球などが「国民的スポーツ」であるが、愛好者や観戦者が多い物を国技と呼ぶ場合もある。
日本の国技は、法令や政令で定めず、一般的に相撲(すもう)が日本の国技で、宮内庁が天皇杯(天皇賜杯;てんのうしはい)を下賜したのが大相撲(おおずもう)とアマチュア相撲(ずもう)と柔道と剣道と弓道で、これらも広義で国技とする。
1909年(明治42年)に両国国技館はできて、6月2日に相撲(すもう)が神事(しんじ)から国技に代わって、昭和天皇が大の相撲好(すもうず)きで、1925年(大正14年)に後の昭和天皇が大相撲(おおずもう)に天皇賜杯(てんのうしはい)を下賜したのが最も歴史が古くて特に大きい。
大相撲(おおずもう)の弓取りの起源は、垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)で、弓取りの祖が物部(もののべ)氏の野見宿禰(のみのすくね)で、その直系子孫の千家(せんげ)氏か北島氏か竹内(たけうち)氏などが弓取りの儀式をすれば光栄で、『ホツマツタエ』の記述が重視される。
2018年4月4日に大相撲(おおずもう)の舞鶴市の地方巡業があった時、女人禁制(にょにんきんせい)の土俵(どひょう)に救命処置の女性が上がって大騒ぎしたが、野見宿禰(のみのすくね)と当麻(たえま)の蹶速(くえはや)の角力(すもう)が皇后選定のお祭りの一環で、勝者の野見宿禰(のみのすくね)を祝うために皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)が土俵(どひょう)に上がったかもしれず、また褒美(ほうび)に野見宿禰(のみのすくね)が妻を迎えて、大相撲(おおずもう)の伝統など史実の前には無意味・無価値と知らしめる必要がある。
1957年(昭和32年)3月末に女相撲(おんなずもう)を引退した若緑関(わかみどりぜき;遠藤志げのさん)が初めて女性で土俵(どひょう)に上がって、女性を土俵(どひょう)に上げない大相撲(おおずもう)の伝統など、大した価値があるか?
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん)は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)から垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)までの狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の勢力が衰退(すいたい)して、内乱(皇位継承権争い)後の政治不安で、朝鮮半島との交流を断交した。
崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)以降は、朝鮮半島の加羅国(からのくに)と外交して、日本海側の京都府と兵庫県と鳥取県と島根県で、朝鮮半島から鉄製品を仕入れて、弥生時代後期の日本海側で、鉄製品が大量出土して、鉄製品が重くて運べないために奈良県周辺で出土せず、政治不安で国家間の交流を断交した後も、民間のつながりがあったと考えられて、朝鮮半島と鉄器生産の関係を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明して、2025年9月22日の昼食中に鉄製品急増の理由を求めた。
倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)は、考古学(遺跡・遺物)よりも、歴史学(歴史書解釈)を重視して、ようやく一段落の証明を記した。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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