倭国大乱


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垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に2代目出雲国王で実兄の狭穂彦王が皇后の狭穂姫(さほひめ)に聞き、「兄と垂仁天皇のどちらをより慕(した)うか」と問われて皇后はつい、「兄です」と答えた。
狭穂彦王は狭穂姫に言って、「お前は美しさを持って天皇に仕えるが、その美しさも年と共にやがて衰えて、天皇の恵みも薄(うす)くなる。それもそう遠い話でない。願わくは、私とお前が協力して垂仁天皇の皇位を奪って、私が天皇になれば安き日々を暮らせよう。垂仁天皇を殺してくれ、我がために」と無理に攻め寄って、紐刀(ひもがたな)を狭穂姫に手渡した。
狭穂姫は狭穂彦王の心根のあやまちを諫(いさ)めたが一向に聞き入れられず、狭穂姫が恐ろしさのあまり心がわななくばかりで、紐刀を仕方なく袖(そで)の内に納め隠して、なおも諫めたが聞き入れられなかった。

狭穂彦王は垂仁天皇の従兄弟に当たる最古の皇族で、この時すでに二種の神器を手に入れて、垂仁天皇から皇位継承権を奪取する計画を立てていたと考えられる。
狭穂彦王の反乱と三輪山を合致できたのは2012年1月のことで、三輪山の頂上に葬礼したのが2代目オオモノヌシと知ったからである。

垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁天皇は、来目(くめ;奈良県高市郡)の高宮(たかみや;所在地不明)に滞在した時、狭穂姫の膝枕(ひざまくら)で眠られて、狭穂姫が自分の何もできない悲しい立場に涙が流れて、垂仁天皇の童顔をぬらして、夢から覚めて言われた。
「今私は夢に美しい大蛇(おろち)が首にまとわりつき、狭穂(さほ;細い)の雨が顔をぬらしたのが良い兆(きざ)しだろうか、悪い兆しだろうか」と。
狭穂姫は嘘を隠し切れず、伏(ふ)し転がりながら言われて、「天皇から受けた恵みに叛(そむ)けない。真実を告げれば兄が亡き者になるが、告げなければ宮中を危うくするでしょう。どうしたら良いか恐れ悲しみ血の涙を流した。兄が天皇を亡き者にしようと私にせまり、今天皇が私の膝枕で昼寝されて、もし心を狂わせ天皇を殺そうとすれば、思いもよらぬ機会だと思って、その愚かさの我が身の哀(あわ)れさに涙がこぼれて、ふく袖にあふれて天皇の顔をぬらしたのです。天皇の見た夢はきっとこのことを示しています。大蛇の正体はこれです」と。
狭穂姫が紐刀を袖の中から出して告白して、垂仁天皇は初めて狭穂彦王の反乱を知って、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して狭穂彦王の統治する地域の近くの県(あがた)の八綱田(やつなだ)を召集して、狭穂彦王の討伐の命令を下された。
垂仁天皇に反乱を知られた狭穂彦王は、二種の神器で強行即位して狭穂彦(さほひこ)天皇となって、大和国(邪馬台国)の即位の法律に介入したと考えられる。 狭穂彦王は、直接に天皇家の即位の法律に介入できたか、大和まで侵攻して法律を変えさせたか分からないが、出雲から大和まで攻めたのが確かで、三重県熊野市で戦死した理由が分かった。
大和国(やまとこく;邪馬台国)の垂仁天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の狭穂彦天皇のどちらかに味方して、1年以上の内乱状態になって、倭国大乱(倭の邪馬台国の大乱)の出来上がりである。

崇神(すじん)天皇5年に疫病がはやって国民の半分が死んだ記述は、狭穂彦王の反乱の犠牲で垂仁天皇5年(西暦156年)に国民の半分が死んだのか?
大蛇の正体の紐刀(ひもがたな)は、蛇神の2代目オオモノヌシに神格化した狭穂彦王を差す。
2代目出雲国王の狭穂彦王の統治する地域の近くの県の八綱田は、垂仁天皇の実兄である豊城彦(とよきひこ)の息子で、島根県か鳥取県辺りの統治者と考えられて、おそらく討伐の総大将と考えられる。

ついに追いつめられた狭穂彦天皇は、三重県熊野市に稲城(いなき)を囲んで固く防御して、なかなか降伏させられず、狭穂姫がそれをご覧になって悲しまれて、「たとえ私一人が世に永(なが)らえても、血を分けた兄がいなくなって何を楽しめましょうか」と息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えて稲城の中に入って、垂仁天皇が「皇后と皇子を出せ」と狭穂彦天皇に言われたが出さなかった。
八綱田が火攻めをすると、狭穂姫はまず誉津別命を抱き抱えて、城を越えて垂仁天皇に言われて、「我が兄の罪を許していただこうと、私は稲城の中に入ったが、共に深い罪があることを今知りました。たとえ死しても天皇の恵みを忘れることがありません。私の後宮に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘をお据え下さい」と。
誉津別命をあずかった垂仁天皇はそれを許すと、炎が燃え盛り城は崩れ落ちて、兵が皆引き揚げて狭穂彦天皇と狭穂姫が稲城の中で亡くなった。
八綱田の功績を誉(ほ)めて与えた名前は、猛(たけ)る火に向かったことから猛火向彦(たけひむかひこ)と言う。

狭穂彦王の反乱は出雲から始まって、だんだん垂仁天皇の統治する大和に近づき、狭穂彦王が実妹の狭穂姫を巻き込んだから、最終的に三重県熊野市で戦ったと考えられる。
皇后の狭穂姫を女神の伊奘冉尊(いざなみのみこと)に神格化して、実兄の狭穂彦王を伊奘冉尊の息子の軻遇突智(かぐつち)に神格化して、伊奘冉尊と軻遇突智の墓である三重県熊野市有馬の花の窟(いわや)神社に葬礼して、遺体が燃えて残らなかったから石の古代信仰の神社に祭ったと考えられる。
狭穂姫と狭穂彦王の亡くなった地が三重県熊野市で、火傷(やけど)で死んだ伊奘冉尊と伊奘諾尊(いざなぎのみこと;垂仁天皇を神格化)に斬殺された火の神様の軻遇突智が、火傷と火の神様が焼死と合致して、狭穂彦王と狭穂姫が物部氏の出身で、火の神様に神格化したと考えられる。
八綱田に与えられた名前は猛火向彦で、『日本書紀』の倭日向武火向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)が後世の名前で、意味が分からなくなって猛と武の漢字を間違えた。

崇神天皇6年が正しくは垂仁天皇6年(西暦157年)で、国民が離散して村を出てしまって、崇神天皇が収集しがたい疫病が起こった罪の許しを神様に乞(こ)い願うことにして、狭穂彦王の反乱を疫病とたとえたと考えられる。
崇神天皇7年2月3日が正しくは垂仁天皇7年2月3日(西暦158年3月上旬頃)で、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「我が先祖の神々が開いた国が繁栄したのに、我が治世に汚(けが)れがあるのは我が国政が神の御心に届かぬお咎(とが)めだ。しかしながら、これより誠(まこと)を極(きわ)めれば神の許しが出るかもしれぬ」と言って、朝日原(あさひはら;場所不明)に行って、湯立(ゆだて)の神事をして神がかりの神託がされた。
「国民の離散も神々を常に祭らないために、その汚(けが)れを受ける」と語るのが2代目オオモノヌシ(狭穂彦王を神格化)で、その後にこの神が消えて、その夜に垂仁天皇が2代目オオモノヌシの夢を見て、我が子の大田田根子(おおたたねこ)に私を祭らせると平和になると神託があった。

我が治世の汚れとは2代目オオモノヌシが垂仁天皇に殺されたようなもので、崇神天皇時代のオオモノヌシの祟(たた)りに当たると考えられる。
垂仁天皇7年2月3日(西暦158年3月上旬頃)の詔から推測して、この日までに狭穂彦王の反乱が終わったと考えられる。

崇神天皇7年8月7日が正しくは垂仁天皇7年8月7日(西暦158年9月上旬頃)で、3人の家臣が垂仁天皇に告げて、「我ら3名の夢枕に同じように神が立たれて、大田田根子を2代目オオモノヌシの斎主(いわいぬし)として、磯長尾市(しながおいち)を倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主とすれば、国の乱れが治まるだろうとお告げがあった」と。
垂仁天皇自身の夢合わせと同じことに驚き、すぐに大田田根子を捜し求めて、茅渟(ちぬ)の陶邑(すえむら;大阪府堺市東南部)に大田田根子がいるのを見つけて、大田田根子を2代目オオモノヌシの斎主として、磯長尾市を倭大国魂神の斎主と定めた。
崇神天皇7年メ月1日が正しくは垂仁天皇7年10月1日(西暦158年11月上旬頃)で、大田田根子が正式に斎主になって三輪山の祭祀をして、磯長尾市が倭大国魂神の斎主となった。

初代・大田田根子は、狭穂彦王の息子で3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)で、垂仁天皇7年メ月1日(西暦158年11月上旬頃)が正式に三輪山が祭祀された日で、謎の年月のメ月が10月と考えられる。
三輪山の祭祀は2世紀中頃で、その近辺からそれ以前の考古学的証拠が発見されないと考えられる。
2代目オオモノヌシ(狭穂彦王を神格化)が祟りをもたらした神様なのは、狭穂彦王が垂仁天皇に殺されたようなもので、その逆賊を祭ることで祟りが終息した。
出雲大社の社伝は、垂仁天皇時代の創建とされて、一般的解釈なら垂仁天皇の父の崇神天皇60年に出雲が平定されて、おかしな所がないと考えられるが、崇神天皇60年を正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)の出雲の平定で、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が殺されて、垂仁天皇7年までに飯入根の直系先祖の狭穂彦王も殺されて、違う解釈が成立する可能性がある。
出雲大社の祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根を神格化)は、歴代の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)と同一神で、出雲大社の最初の祭神が2代目・大物主神(狭穂彦王を神格化)で、出雲大社の祭神を先祖の狭穂彦王と子孫の飯入根を入れ替えた可能性が生まれる。
考えすぎの理論かもしれないが、世の中に絶対が存在しないように、あり得るかもしれないと頭の隅(すみ)にでも置いて考えてほしい。

崇神天皇8年が正しくは垂仁天皇8年(西暦159年)で、高橋邑(たかはしむら;奈良市杏町高橋か天理市櫟本町(いちのもとちょう)付近)の活日(いくひ)という人物がオオモノヌシに酒を作って奉納して、12月8日(西暦160年1月上旬頃)に大田田根子を斎主として、2代目オオモノヌシの祭礼をした時に垂仁天皇が来られて、活日の献上した神酒(みき)を飲む宴(うたげ)がされて、その宴で垂仁天皇が歌を詠まれた。

  この神酒(みき)は わが神酒(みき)ならず 大和(やまと)なる 大物主(おおものぬし)の 神(かみ)の神酒(みき) 活日授(いくひさづ)くる 杉葉幾久(すきはいくひさ)

  (この神酒は私のための神酒でなく、活日が献上した大物主神(おおものぬしのかみ)のための神酒である。杉の葉に囲まれた三輪山の守護が幾久しくありますように)

宴が終わって今度は臣たちが歌った。

  うま酒(ざけ)や 身(み)は三輪(みわ)の殿(との) 朝戸(あさど)にも 出でで行(い)かなん 三輪(みわ)の殿戸(とのと)お

  (ああ、うまい酒だった。朝早く三輪の殿戸から出ていこうよ。三輪の殿戸から)

すると垂仁天皇が返歌を作られた。

  うま酒(さけ)に 身(み)は三輪(みわ)の殿(との) 朝戸(あさと)にも 押(お)し開(ひら)かねよ 三輪(みわ)の殿戸(とのと)お

  (ああ、うまい酒だった。朝早く三輪の殿戸を押し開こうよ。三輪の殿戸を)

そう歌い終わって殿戸を押し開いて、天皇ご一行は皇居に帰って行かれた。

崇神天皇9年3月15日が正しくは垂仁天皇9年3月15日(西暦160年4月中旬頃)の夜で、垂仁天皇の夢枕に神様が立たれて言うには、赤と白と黄の矛を立てて、宇陀(うだ)や墨坂(すみさか)や大阪などの神々を残りなく祭れとのことで、死んだ罪人の霊が地上にとどまるから祟ると言う。
崇神天皇9年4月22日が正しくは垂仁天皇9年4月22日(西暦160年5月下旬頃)で、大鹿島(おおかしま)と大田田根子が魂返(たまがえ)しの秘法で、迷っている罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻した。

垂仁天皇9年3月15日(西暦160年4月中旬頃)の夜に垂仁天皇は、狭穂彦王の霊魂を祭り上げる夢を見て、垂仁天皇9年4月22日(西暦160年5月下旬頃)に初代・大鹿島と初代・大田田根子の野見宿禰が魂返しの秘法で、彷徨(さまよ)う狭穂彦王の霊魂を祭り上げて、これで狭穂彦王の反乱の後処理が全て終わったと考えられる。

狭穂彦王の反乱は、『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』の倭国大乱で、決して日本全土の戦乱などと解釈できなくて、現代人(僕以外の人間)が決して求められない。
『後漢書』に「桓霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年主無」と記して、後漢王朝の桓帝と霊帝の在位期間(西暦147年〜189年)に倭国大乱が起きて、互いに攻め合って数年間に渡って主がいなかったと解釈できる。
『三国志・魏志倭人伝』に「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年」と記して、大和国は元々男性を天皇で、建国から72年目の西暦156年に内乱が起きて、互いに攻め合って数年間たったと解釈できる。
大切なのは両書に歴年と記すことで、狭穂彦王の反乱が少なくとも一年以上続いたと解釈して、決して数ヶ月で終わるほど簡単な内乱でなかった。
倭国大乱が起こって邪馬台国(大和国)が古代中国の歴史書に記されて、今年で1865年なのが史実である。

黄泉国(よみのくに)下り神話は、狭穂彦王の反乱を神話化して、京都の民話の『山姥(やまんば)と馬吉』が黄泉国下り神話を民間伝承したものである。
『ホツマツタエ』と「記紀」に詳しく記さないが、狭穂彦王が2代目出雲国王でオオモノヌシ(右大臣)でもあって、垂仁天皇より狭穂彦王に協力する支持者がいて、その対立で一年以上の内乱になったと考えられる。
狭穂彦王の子孫が日下部(くさかべ)氏と物部(もののべ)氏と考えられて、先祖の罪を罰せられずに子孫が繁栄し続けて、狭穂彦王の息子の野見宿禰に年の離れた妹で、景行(けいこう)天皇の妃の高田姫(たかだひめ;欝色謎命(うつしこめのみこと)に祖先化)がいて、狭穂彦王が戦死した頃に生まれたと考えられる。

『ホツマツタエ』孝霊(こうれい)天皇36年3月7日…(省略)…時に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子の武日照命(たけひてるのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)は、「玉川(たまかわ)の神宝文(かんたからふみ;何か不明)」で、神代(かみよ)の教えを得て、今まで永(なが)らえて、孝霊天皇(垂仁天皇を祖先化)にその文を奉納した。
孝霊天皇はたいそう喜んで、武日照命の子孫で海部(あまべ)氏の武斗米(たけとめ;丹波道主王を祖先化)の家臣に請(こ)うて、同じく武日照命の子孫で津守(つもり)氏の武筒草(たけつづくさ)が梅大宮(むめみや;富士山本宮浅間神社か?)の祭りを継(つ)いで、武筒草が竹田(たけだ)氏の先祖である。
後に「玉川の神宝文」は、出雲大社に奉納された。

孝霊天皇(垂仁天皇を祖先化)時代の「玉川の神宝文」の記述は、狭穂彦王の反乱と関わる可能性が高い。
「玉川の神宝文」は正体不明の何らかの神宝で、丹波道主王の父である彦坐王の伯父(おじ)が建額赤命(たけぬかがのみこと)で、その息子の武筒草が津守氏の先祖で、海部氏の武斗米(丹波道主王を祖先化)の家臣が武筒草で、武筒草の子孫から竹田氏が出て、彦坐王を始祖とする古代太陽神氏族の海部氏が、古代太陽神氏族でない津守氏と神宝を共有した。
僕が古代太陽神氏族と呼ぶ氏族は、彦坐王の直系子孫だけで、彦坐王の伯父である建額赤命の子孫の竹田氏が古代太陽神氏族に含まれなくて、2代目・火明命(彦坐王を神格化)の子孫に位置付ける神様に神格化した一族全てを含まず、気を付ける必要がある。
「玉川の神宝文」は、彦坐王を始祖とする古代太陽神氏族の海部氏、古代太陽神氏族でない津守氏、出雲大社に奉納した古代太陽神氏族の出雲王国(物部氏)たちが共有して、親戚同士で狭穂彦王の反乱の後に神宝の何らかのやり取りがあったと考えられる。

狭穂彦王の反乱と三輪山は、邪馬台国(古代天皇家)が古代中国史に初めて登場した倭国大乱(皇位継承権争い)で、邪馬台国と出雲王国(物部氏)の太陽神氏族(古代天皇家と物部氏)同士の内乱で、三輪山が物部氏を祭る御神体山で、僕以外に求められなくて、一年以上続いた戦争だった。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
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