倭国大乱


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

倭国大乱は『後漢書』に倭国大乱で、『魏志倭人伝』に倭国乱と記されて、日本全国を巻き込んだ戦乱の時代や日本初の大規模な内乱など色々な解釈がされて、現代哲学理論「現象学」の「思い込みの数だけ解釈がある」ためである。
『後漢書』で「桓霊間、倭国大乱」と記されて、後漢王朝の11代目・桓帝と12代目・霊帝の在位期間(西暦147年から189年)に倭国大乱が起きたと考えられて、西暦150年頃から190年頃が世界的な寒冷期で、弥生時代の稲作が主流の時代に米の争奪戦を国々がして、それが倭国大乱の原因だとする意見などもある。
倭国大乱は『後漢書』も『魏志倭人伝』も歴年と記されて、一年以上から数年の規模で戦争が起こったことを意味して、現代日本人に倭国大乱の正体が求められるはずがない。
ここはアインシュタイン博士以上の天才の僕にまかせて、ゆっくりこのホームページを見て正しい歴史を把握することしか専門家も凡人もすることがない。

『後漢書』の「桓霊間、倭国大乱」は、西暦147年から189年までに邪馬台国の倭国大乱と卑弥呼共立と後漢王朝遣使(遣漢使)があったと考えられて、古代天皇家の歴史に当たるのが間違いない。
崇神(すじん)天皇は皇居に神様を祭っていると、大物主神(おおものぬしのかみ)の祟(たた)りが起こって国民が疫病(えきびょう)で多く亡くなって、奈良県桜井市の三輪山(みわやま)を御神体山として大物主神を祭ったとされる。
崇神天皇6年に天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を皇居の外に祭って、崇神天皇7年に三輪山へ大物主神を祭ったと記される。
崇神天皇6年に天照大神と倭大国魂神を祭ったのと崇神天皇7年に大物主神を祭ったのは、同時期の神様の祭祀とごまかした偽装工作と考えられないか?

崇神天皇の息子の垂仁(すいにん)天皇5年は皇位継承権争いの内乱が起こって、これが崇神天皇時代の大物主神の祟りとたとえられた本当の答えである。
2代目・垂仁天皇の従兄弟で2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)をたぶらかして皇位継承権争いの内乱を起こして、古代大和朝廷と出雲王国の最初の内乱である。
垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に狭穂彦王は、狭穂姫に紐刀(ひもがたな)を手渡して垂仁天皇を殺してくれと頼んだ。
狭穂彦王は2代目出雲国王で、垂仁天皇の伯父(おじ)で最古の皇族である彦坐王(ひこいますのみこ)の息子で、狭穂彦王自身が皇位継承権を奪って天皇になろうとして起こした内乱だった。
垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁天皇は来目(くめ;奈良県高市郡)に滞在した時、狭穂姫の膝枕(ひざまくら)で眠られて、狭穂姫が泣いて垂仁天皇の顔をぬらして夢から覚めて言われた。
「今私は夢に美しい大蛇(おろち)が首にまとわりつき、狭穂(さほ;細い)の雨が顔をぬらしたのが良い兆(きざ)しだろうか、悪い兆しだろうか」と。
狭穂姫は嘘を隠し切れず言われて、天皇が私の膝枕で昼寝されて、殺そうとすれば思いもよらぬ機会だと思って、その愚かさの我が身の哀(あわ)れさに涙がこぼれて天皇の顔をぬらして、天皇の見た夢の大蛇の正体が紐刀で、狭穂姫が紐刀を袖の中から出すと、狭穂彦王が反乱を計画していることを知った。
『ホツマツタエ』で三輪山に祭られるのは2代目の大物主神で、紐刀が垂仁天皇の夢で大蛇となって現れて、大物主神が蛇の姿なのが良く知られていて、三輪山に祭られる2代目の大物主神が狭穂彦王である。
父の彦坐王は初代の大物主神で、息子の狭穂彦王が2代目の大物主神で、大物主神が出雲大社の祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神で、狭穂彦王が出雲と関係があって、彦坐王と狭穂彦王が物部(もののべ)氏の先祖で、出雲王国が物部王国だと考えられる。
垂仁天皇5年6月1日以降に狭穂彦王の反乱の記述がなく、反乱がいつ終わったのか分からないが、垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に樺井月姫(かばいつきひめ)を皇后に迎えて、先の皇后の狭穂姫が亡くなっているので、この時までに反乱が終了したことになる。

崇神天皇6年が正しくは垂仁天皇6年(西暦157年)で、国民が離散して村を出てしまって、崇神天皇が収集しがたい疫病が起こった罪の許しを神様に乞(こ)い願うことにしたと記すが、記述から考えて垂仁天皇6年頃に狭穂彦王が亡くなって反乱が終わったと考えられて、狭穂彦王の反乱を祟(たた)りとたとえたと考えられる。
崇神天皇7年メ月1日が正しくは垂仁天皇7年メ月1日(西暦158年何月かの上旬頃)で、大田田根子(おおたたねこ)が正式に斎主(いわいぬし)になって三輪山の祭祀をして、磯長尾市(しながおいち)が倭大国魂神の斎主となった。
大田田根子は大物主神を祭る三輪(みわ)氏の先祖で、垂仁天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)の相撲(すもう)に勝利した野見宿禰(のみのすくね)が大田田根子と同一人物で、野見宿禰が狭穂彦王の息子と考えられて、後に出雲とも関係していることが記されている。
2代目出雲国王の狭穂彦王は戦死して、狭穂彦王の息子の野見宿禰が3代目の出雲国王になって、崇神天皇時代の大物主神の祟りが2代目の大物主神である狭穂彦王の反乱と重なるのが偶然でなく、故意に年代の偽装工作をしたためである。

桓帝と霊帝の在位期間(西暦147年から189年)の倭国大乱と崇神天皇時代の大物主神の祟りと垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)以降の狭穂彦王の反乱は、見事に年代が重なって「記紀」が偽装工作をほどこしているのが確かである。
この程度の完全解釈は、2012年1月に三輪山の頂上に葬礼されたのが2代目の大物主神と知った時に求められた。
古代中国の歴史書程度も現代日本語訳できない専門家は、アインシュタイン博士以上の天才の僕に挑戦しようという無謀さえ分からず、現代日本人が僕に歴史研究で勝てないのを身を持って実感すべきである。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼編・著者 八幡書店・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行

戻る