倭国大乱(狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)
彦坐王(ひこいますのみこ)は、崇神(すじん)天皇55年8月14日(西暦138年2月上旬頃)に亡骸(なきがら)を博多原(はかたのはら;奈良県御所(ごせ)市の辺り)に葬礼して、138年頃までに娘の狭穂姫(さほひめ)が生まれて、垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)に狭穂姫(さほひめ)が皇后になって、垂仁天皇2年12月(西暦154年1月頃)に息子の誉津別命(ほんつわけのみこと)を生んだ。
『日本書紀』綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の記述は、手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)が2代目出雲国王で、長く政治の経験があって、神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の服喪(ふくも)の期間に邪(よこしま)な心を隠して、綏靖(すいぜい)天皇を殺そうと計画した。
垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、皇后の狭穂姫(さほひめ)に聞いて、「兄と垂仁(すいにん)天皇のどちらをより慕(した)うか」と問われて、狭穂姫(さほひめ)がつい「兄です」と答えた。
狭穂彦王(さほひこのみこ)は、狭穂姫(さほひめ)に言って、「お前は美しさを持って、垂仁(すいにん)天皇に仕(つか)えるが、その美しさも年と共にやがて衰(おとろ)えて、天皇の恵みも薄(うす)くなる。
それもそう遠い話でなく、願わくは、私とお前が協力して垂仁(すいにん)天皇の皇位を奪って、私が天皇になれば安き日々を暮らせよう。垂仁(すいにん)天皇を殺してくれ、我がために」と無理に攻め寄って、紐刀(ひもがたな)を狭穂姫(さほひめ)に手渡した。
狭穂姫(さほひめ)は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の心根のあやまちを諫(いさ)めたが、一向に聞き入れられず、狭穂姫(さほひめ)が恐ろしさのあまり心がわななくばかりで、紐刀(ひもがたな)を仕方なく、袖(そで)の内に納め隠して、なおも諫(いさ)めたけれど、聞き入れられなかった。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、垂仁(すいにん)天皇の従兄弟で、崇神(すじん)天皇が亡くなって、二種の神器(八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を強奪して、皇位継承権を奪取する計画を立てたと考えられて、実兄妹が大和と出雲のどちらで会ったか分かられない。
狭穂彦王(さほひこのみこ)は、二種の神器を強奪して、天皇に強行即位して、邪馬台国(大和国;やまとこく)の統治国(出雲王国の統治国も含む)を二分する皇位継承権争いの内乱が起きて、味方と敵が大きく分かれたと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、来目(くめ;奈良県高市郡)の高宮(たかみや;所在地不明)に滞在した時、狭穂姫(さほひめ)の膝枕(ひざまくら)で眠られて、狭穂姫(さほひめ)が自分の何もできない悲しい立場に涙が流れて、垂仁(すいにん)天皇の童顔をぬらして、夢から覚めて言われた。
「今私は夢に美しい大蛇(おろち)が首にまとわりつき、狭穂(さほ;細い)の雨が顔をぬらしたのが良い兆(きざ)しだろうか、悪い兆(きざ)しだろうか」と。
狭穂姫(さほひめ)は、嘘(うそ)を隠し切れず、伏(ふ)し転がりながら言われて、「天皇から受けた恵みに叛(そむ)けなくて、真実を告げれば兄が亡き者になるが、告げなければ宮中を危うくするでしょう。
どうしたら良いか恐(おそ)れ悲しみ血の涙を流して、兄が天皇を亡き者にしようと私にせまり、今天皇が私の膝枕(ひざまくら)で昼寝されて、もし心を狂わせ天皇を殺そうとすれば、思いもよらぬ機会だと思って、その愚(おろ)かさに我が身の哀(あわ)れさに涙がこぼれて、ふく袖(そで)にあふれて天皇の顔をぬらしたのです。
天皇の見た夢はきっとこのことを示して、大蛇(おろち)の正体がこれです」と。
狭穂姫(さほひめ)は、紐刀(ひもがたな)を袖(そで)の中から出して告白して、垂仁(すいにん)天皇が初めて狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を知って、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)した。
垂仁(すいにん)天皇の詔(みことのり)は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の統治する島根県の近くの県(あがた;島根県か鳥取県)を統治する豊城彦命(とよきひこのみこと)と八綱田(やつなだ)の親子を召集して、豊城彦命(とよきひこのみこと)か丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が邪馬台国(大和国;やまとこく)側の総大将と考えられる。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は、事代主神(ことしろぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の娘で、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;皇后の御井津比売(みいつひめ)を祖先化)が神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)をもうけた。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇でなく、彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、阿比良比売命(あひらひめのみこと;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を祖先化)との間に手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)をもうけた。
手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)は、従兄弟の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の兄弟に討伐された。
垂仁(すいにん)天皇の実兄の豊城彦命(とよきひこのみこと)は、崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)生まれで、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が始まった時に47才で、息子の八綱田(やつなだ)の父親として、年齢の計算も間違ってない。
垂仁(すいにん)天皇は、来目(くめ;奈良県高市郡)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反(むほん)を知らされて、最終決戦地が三重県熊野市有馬(ありま)の花の窟(いわや)神社か島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の伊賦夜坂(いふやざか)と考えられて、2つの候補地にしぼった。
花の窟(いわや)神社は、『日本書紀』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に登場して、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の墓(はか)で、兄妹の遺体が燃えて残らず、岩石の古代信仰の神社に祭った可能性が考えられる。
伊賦夜坂(いふやざか)は、黄泉国(よみのくに)の入り口の黄泉比良坂(よもつひらさか)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の舞台の可能性が考えられる。
火傷(やけど)で死んだ伊奘冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と火の神様の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦(さほひこ)天皇を神格化)は、焼死した物部(もののべ)氏の人物を火の神様に神格化して、他の伊弉冉尊(いざなみのみこと)が狭穂姫(さほひめ)以降の皇后2人を神格化して、物部(もののべ)氏の出身でないため火の神様でない。
狭穂彦(さほひこ)天皇と垂仁(すいにん)天皇は、支持する敵と味方が分かれて、一年以上続いた内乱で、大蛇(おろち)の正体の紐刀(ひもがたな)が蛇神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦(さほひこ)天皇を神格化)を差す。
狭穂彦(さほひこ)天皇の反乱の終盤は、「記紀」を互いに照合して、互いを組み合わせて下記に記す。
追いつめられた狭穂彦(さほひこ)天皇は、稲城(いなき)を囲んで固く防御して、なかなか降伏させられず、狭穂姫(さほひめ)がそれをご覧になって悲しまれて、「たとえ私一人が世に永(なが)らえても、血を分けた兄がいなくなって、何を楽しめましょうか」と息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えて、こっそり裏門から稲城の中に入った。
垂仁(すいにん)天皇は、「皇后と皇子を出せ」と狭穂彦(さほひこ)天皇に言われたが出さず、八綱田(やつなだ)が火攻めをすると、狭穂姫(さほひめ)がまず誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えて、城を越えて出て来て、垂仁(すいにん)天皇に言われた。
「我が兄の罪を許していただこうと、私は稲城の中に入ったが、共に深い罪があることを今知って、たとえ死しても天皇の恵みを忘れることがなく、私の後宮に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘をお据(す)え下さい」と。
そこで垂仁(すいにん)天皇は、「そなたの兄を恨(うら)むが、やはり皇后をいとしく思う心に耐えがたい物がある」と言って、力が強くて足の速い兵士を選び集めて、「皇子を引き取る時に同時に皇后も奪い取って、髪だろうと手だろうと捕らえて連れて来なさい」と。
ところが皇后は、前もって垂仁(すいにん)天皇の考えを読んで、すっかり髪の毛を剃(そ)って、その髪の毛で頭を覆(おお)って、玉の緒(お)を腐らせて、それを三重に手に巻いて、酒で衣服を腐らせて、それを完全な衣服のように着て、このように準備して、誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えた。
力の強い兵士たちは、皇子を受け取ると、皇后も捕らえようとして、髪の毛を取ると自然に髪の毛が落ちて、手を握ると手に巻いた玉の緒(お)が切れて、衣服を握ると衣服が破れて、皇后を捕らえられなくて、兵士たちが帰って来て、垂仁(すいにん)天皇に言った。
「皇后の髪の毛は、自然に落ちて、衣服も簡単に破れて、手に巻かれた玉の緒(お)もすぐに切れて、皇后を捕らえられず、皇子だけを連れて来ました」と申し上げて、垂仁(すいにん)天皇が悔(くや)しさと恨(うら)めしさのあまり、玉作りの人々を憎(にく)んで、その土地を奪った。
皇子を預(あず)かった垂仁天皇は、皇后を許して、炎が燃え盛って、城が崩(くず)れ落ちて、兵が皆引き揚げて、狭穂彦(さほひこ)天皇と狭穂姫(さほひめ)が稲城の中で焼死して、八綱田(やつなだ)の功績を誉(ほ)めて、猛(たけ)る火に向かったことから、猛火向彦(たけひむかひこ)の名前を与えた。
土地を奪われた玉作りの人々は、大和か出雲のどちらの地域に住んだか不明で、『ホツマツタエ』も「記紀」も最終決戦地を記さないため求められない。
八綱田(やつなだ)に与えた名前は、猛火向彦(たけひむかひこ)で、『日本書紀』の倭日向武火向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)が後世の名前で、意味が分からなくなって猛と武の漢字を間違えた。
綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)は、手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)の企(くわだ)てをひそかに知って、これをよく防(ふせ)いだ。
先帝の山陵(稲城)を作り終えてからは、弓削雅彦(ゆげのわかひこ)に弓を作らせて、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまつまら)に鏃(やじり)を作らせて、矢部(やはぎべ)に箭(や;竹製の矢)を作らせて、弓矢の準備ができて、綏靖(すいぜい)天皇が手研耳命(たぎしみみのみこと)を射殺しようと考えた。
手研耳命(たぎしみみのみこと)は、片丘の大室(稲城)の中にいて、一人で床に伏(ふ)せて、綏靖(すいぜい)天皇が神八井耳命(かみやいみみのみこと)に語って言われた。
「今こそ好機で、そもそも密事をこっそり行なうべきで、だから私の計画も誰にも相談せず、今日のことを自分とお前でやって、自分がまず稲城の戸を開けるから、お前がすぐにそれを射よ」と。
二人は一緒に進入して、綏靖(すいぜい)天皇が稲城の戸をつき開いて、神八井耳命(かみやいみみのみこと)の手足が震(ふる)え慄(おのの)いて、矢を射られなくて、その時に綏靖(すいぜい)天皇が兄の持つ弓矢を引き取って、手研耳命(たぎしみみのみこと)に射られた。
綏靖(すいぜい)天皇は、一発で胸に命中させて、二発目を背中に当ててついに殺して、神八井耳命(かみやいみみのみこと)が武勇に優(すぐ)れた弟の綏靖(すいぜい)天皇を助けて、神八井耳命(かみやいみみのみこと)が多臣(おおのおみ)の先祖である。
垂仁(すいにん)天皇と豊城彦命(とよきひこのみこと)の兄弟は、最前線に立ってと会話して、狭穂姫(さほひめ)と誉津別命(ほむつわけのみこと)の母子を確認したと考えられる。
神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)は、多臣(おおのおみ)の先祖で、豊城彦命(とよきひこのみこと)の子孫の上毛野(かみつけの;群馬県の統治氏族)氏や下毛野(しもつけの;栃木県の統治氏族)氏と同族である。
垂仁(すいにん)天皇と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の記述は、2つを重ねて解釈したのを下記に記す。
狭穂彦(さほひこ)天皇は、稲城(いなき)を囲んで固く防御して、なかなか降伏させられず、狭穂姫(さほひめ)がそれをご覧になって悲しまれて、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えて、こっそり裏門から稲城の中に入った。
稲城に入られてからは、弓削雅彦(ゆげのわかひこ)に弓を作らせて、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまつまら)に鏃(やじり)を作らせて、矢部(やはぎべ)に箭(や;竹製の矢)を作らせて、弓矢の準備ができて、垂仁(すいにん)天皇が狭穂彦(さほひこ)天皇を射殺しようと考えた。
垂仁(すいにん)天皇は、皇后と皇子を出すように狭穂彦(さほひこ)天皇に言われたが出さず、八綱田(やつなだ)が火攻めをすると、狭穂姫(さほひめ)がまず誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱き抱えて、城を越えて出て来た。
そこで垂仁(すいにん)天皇は、力が強くて足の速い兵士を選び集めて、皇子と皇后を捕らえて連れて来いと言った。
しかし皇后は、前もって垂仁(すいにん)天皇の考えを読んで、すっかり髪の毛を剃(そ)って、その髪の毛で頭を覆(おお)って、玉の緒(お)を腐らせて、それを三重に手に巻いて、酒で衣服を腐らせて、それを完全な衣服のように着て、このように準備して、皇子を抱き抱えた。
力の強い兵士たちは、皇子を受け取ると、皇后も捕らえようとして、髪の毛を取ると自然に髪の毛が落ちて、手を握ると手に巻いた玉の緒(お)が切れて、衣服を握ると衣服が破れて、皇后を捕らえられなくて、兵士たちが帰って来た。
狭穂姫(さほひめ)に付き従った狭穂彦(さほひこ)天皇は、一発で矢が胸に命中して、二発目を背中に受けて、稲城の中に戻って戦死した。
皇子を預(あず)かった垂仁天皇は、皇后を許して、炎が燃え盛って、城が崩(くず)れ落ちて、兵が皆引き揚げて、狭穂彦(さほひこ)天皇と狭穂姫(さほひめ)が稲城の中で焼死した。
狭穂姫(さほひめ)は、誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだ年月を『日本書紀』に記すが、『古事記』が狭穂彦(さほひこ)天皇の反乱の時に誉津別命(ほむつわけのみこと)が生まれたと記して、誉津別命(ほむつわけのみこと)の生まれた時期が混乱するようにした。
参考文献『完訳秀真伝』は、日寄(ひよ)る子(こ)と記して、僕が火夜子(ひよるこ)の神名に修正して、誉津別命(ほむつわけのみこと)が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の時に生まれて、狭穂姫(さほひめ)が火の中で生んで、母親だから火(ほ)の人名を付けて、物部(もののべ)氏の血筋だから、火の神様に神格化して、火(ほ)の人名に疑問がない。
火の神様と火(ほ)の人名は、互いに物部(もののべ)氏の共通性と気付いて、現代人(僕以外の人間)が絶対にたどり着けない奇跡で、2023年11月29日に気付いた。
「記紀」の誉津別命(ほむつわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇と狭穂姫(さほひめ)の息子だが、狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の実兄妹の不倫でできた息子を臭(にお)わせて、本当の父親が狭穂彦王(さほひこのみこ)でないと証明できなくて、歴史書の信頼性を信じるしかない。
狭穂彦(さほひこ)天皇の反乱は、垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に樺井月姫(かばいつきひめ)を皇后に迎えるまでに終了して、『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』の倭国大乱(わこくたいらん)で、決して日本全土の戦乱などと解釈できない。
『後漢書』に「桓霊間、倭国大乱(わこくたいらん)、更相攻伐、歴年主無」と記して、後漢王朝の桓帝と霊帝の在位期間(西暦147年〜189年)に倭国大乱(わこくたいらん)が起きて、互いに攻め合って、数年間を主がいなかったと解釈できる。
『三国志・魏志倭人伝』は、「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱(わこくらん)、相攻伐歴年」と記して、大和国が元々男性を天皇で、建国から72年目の西暦156年に内乱が起きて、互いに攻め合って、数年間たったと解釈できる。
両書の歴年は、戦争が少なくとも一年以上続いたと解釈して、皇位継承権争いでなく、日本全土の戦争と勘違いした理由である。
狭穂彦(さほひこ)天皇は、2代目出雲国王で、剣臣(つるぎとみ;右大臣)の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)でもあって、警察機構の物部(もののべ)と言う兵士たちをまとめる役職だから、物部(もののべ)氏の先祖でもあって、『古事記』で狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫が日下部(くさかべ)氏で、子孫が日下部(くさかべ)氏の浦島太郎である。
狭穂彦王(さほひこのみこ)は、戦死した頃に娘で景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の高田姫(たかだひめ)が生まれたと考えられる。
『ホツマツタエ』1章の和歌山県の蝗害(こうがい)は、丹波(たんば)の神様の豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が登場して、日本神話と狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が合致すると考えられる。
『ホツマツタエ』孝安(こうあん)天皇11年に2代目・火明命(ほあかりのみこと)の孫の天村雲命(あめのむらくものみこと)は、穂汚虫(ほおむし;バッタ類の大発生)の被害(蝗害(こうがい);バッタ類の大発生)を宮中に知らせて、孝安(こうあん)天皇が自(みずか)ら祓(はら)い風(かぜ)ふの祭りをして、穂が見事によみがえって、瑞穂(みずほ)の田となって、穂積(ほづみ)の祭りをした。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と孫の天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)を神格化)は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の祭神で、穂積(ほづみ)が物部(もののべ)氏の傍系氏族の穂積(ほづみ)氏で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を指すと考えられる。
『ホツマツタエ』孝霊(こうれい)天皇36年3月7日…(省略)…時に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子の武日照命(たけひてるのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)は、「玉川(たまかわ)の神宝文(かんたからふみ;何か不明)」で、神代(かみよ)の教えを得て、今まで永(なが)らえて、孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)にその文を奉納した。
孝霊(こうれい)天皇は、たいそう喜んで、武日照命(たけひてるのみこと)の子孫で海部(あまべ)氏の武斗米(たけとめ;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を祖先化)の家臣に請(こ)うた。
同じく武日照命(たけひてるのみこと)の子孫で津守(つもり)氏の武筒草(たけつづくさ)が梅大宮(むめみや;富士山本宮浅間(せんげん)神社か?)の祭りを継いで、武筒草(たけつづくさ)が竹田(たけだ)氏の先祖で、後に「玉川(たまかわ)の神宝文(かんたからふみ)」が出雲大社に奉納された。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の「玉川(たまかわ)の神宝文(かんたからふみ;何か不明)」の記述は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱と関わる可能性が高くて、三種の神器か十種(とくさ)の神宝(かんだから)の可能性があって、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏が関係すると考えられる。
黄泉国下(よみのくにくだ)り神話は、京都の民話の『山姥(やまんば)と馬吉』に民間伝承して、山姥(やまんば)が八雷神(やくさいかずちのかみ)とそれを怪物視した黄泉醜女(よもつしこめ)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、馬吉が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を指すのが間違いない。
黄泉国下(よみのくにくだ)り神話とオルフェウス神話の共通性は、何十万分の一の可能性と書かれて、ギリシア神話を生み出したのが天皇家の先祖で、日本神話とギリシア神話が2つ以上の物語の共通性があって、オルフェウス神話もギリシアの何らかの戦争を神話化したと考えられて、2021年2月19日の午後1時頃に気付いた。
倭国大乱(狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の最初の戦争で、僕にしか求められない奇跡である。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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