和珥(わに)氏の系図
現存する系図は、孝昭(こうしょう)天皇の息子の天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと;彦坐王(ひこいますのいみこ)を祖先化)が始祖で、明らかに作れた架空の人物で、天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)の子孫の彦国葺(ひこくにふく)が彦坐王(ひこいますのいみこ)で始祖として、彦国葺(ひこくにふく)の兄弟の横系譜が正しいか不明で、和珥(わに)氏に含めないことになる。
僕は天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)が和珥(わに)氏の始祖の彦坐王(ひこいますのいみこ)を祖先化して、和珥(わに)氏を彦坐王(ひこいますのいみこ)の後継として、一般的な解釈が彦国葺(ひこくにふく)の兄弟を含めて和珥(わに)氏とするが、僕自身がそれを間違いと考える。
『ホツマツタエ』で、崇神(すじん)天皇10年(西暦93年)に彦国葺(ひこくにふく;彦坐王(ひこいますのいみこ)を祖先化)が登場して、崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に彦国葺(ひこくにふく)の孫の潮乗津彦(しほのりつひこ)が登場して、彦坐王(ひこいますのいみこ)が崇神(すじん)天皇の実兄で間違いない。
崇神(すじん)天皇10年に彦国葺(ひこくにふく)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)などと一緒に記して、彦坐王(ひこいますのいみこ)の子孫の彦国葺(ひこくにふく)が西暦251年(天皇不在の年)に登場して、先祖と子孫の彦国葺(ひこくにふく)が存在すると証明できる。
子孫の彦国葺(ひこくにふく)は、西暦251年に登場する彦坐王(ひこいますのいみこ)の子孫である和珥(わに)氏出身の彦国葺(ひこくにふく)で、和珥(わに)氏の出身の誰かで、先祖と子孫の彦国葺(ひこくにふく)を混同しないため、仮名と考えるべきである。
天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)の息子の和邇日子押人命(わにひこおしひとのみこと)も作れた架空の人物で、その息子の姥津命(おけつのみこと)が瀛津世襲(おきつよそ)で、姥津命(おけつのみこと)の妹の姥津媛(おけつひめ)が世襲足姫(よそたりひめ)で、孝昭(こうしょう)天皇の皇后として長男の彦坐王(ひこいますのいみこ)と次男の崇神(すじん)天皇を生んだ。
海部(あまべ)氏の先祖の瀛津世襲(おきつよそ)は、孝昭(こうしょう)天皇の皇后である世襲足姫(よそたりひめ)の兄で、姥津命(おけつのみこと)と姥津媛(おけつひめ)が一般的に「ははつのみこと」と「ははつひめ」と呼ぶが、面倒なので僕がそう呼ぶことにした。『古事記』は、和珥(わに)氏の先祖である日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと;瀛津世襲(おきつよそ)を子孫化)の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと;世襲足姫(よそたりひめ)を子孫化)が彦坐王(ひこいますのいみこ)を生んで、その妹の袁祁都比売命(おけつひめのみこと)が彦坐王(ひこいますのいみこ)の妃で、世襲足姫(よそたりひめ)の妹が彦坐王(ひこいますのいみこ)の妃と考えられる。
姥津命(おけつのみこと)と瀛津世襲(おきつよそ)の名前が似るのは、彦坐王(ひこいますのいみこ)の妃の息長水依比売(いきながみずよりひめ;誰か不明)、彦坐王(ひこいますのいみこ)の子孫の息長宿禰王(いきながのすくねのみこ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)と同一人物)と娘の息長帯比売命(いきながたりひめのみこと;神功(じんぐう)皇后)などの息長(いきなが)の名字(みょうじ)と共通して、姥(おけ)と瀛(おき)と息(いき)の名前が似て、同一氏族の共通性と考えられる。
姥津命(おけつのみこと;日子国意祁都命;ひこくにおけつのみこと)の長男の伊富津久(おおつく)は、事績がなくて、三男の小篠(こささ)が支部(はせべ)氏の先祖で、四男の乙国葺(おとくにふく)が吉田(きった)氏と飯高(いいたか)氏の先祖である。
小篠(こささ)は、彦坐王(ひこいますのいみこ)の子孫の物部(もののべ)氏に属して、『新撰姓氏録』から初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子である紀角宿禰(きのつののすくね)の子孫が支部首(はせべのおびと)氏で、大彦命(おおびこのみこと)に祖先化した武虎別皇子(たけこわけのみこ)の子孫が支部造(はせべのみやつこ)氏で、小篠(こささ)が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と武虎別皇子(たけこわけのみこ)の血筋に分かれる前の物部(もののべ)氏の人物と考えられる。
乙国葺(おとくにふく)の子孫の吉田(きった)氏は、彦国葺(ひこくにふく)の孫の潮乗津彦(しほのりつひこ)の子孫が吉田(きった)氏の例があって、子孫の飯高(いいたか)氏が平安時代の飯高宿禰(いいたかのすくね)や飯高朝臣(いいたかのあそみ)で、彦国葺(ひこくにふく)の弟である乙国葺(おとくにふく)の子孫でなく、彦坐王(ひこいますのいみこ)の子孫と考えられる。この僕の研究結果を基にして、彦国葺(ひこくにふく)の兄弟が和珥(わに)氏に加えるのを否定した。
彦国葺(ひこくにふく)の長男の彦忍人(ひこおしひと)は、『国造本紀』成務(せいむ)天皇(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇)時代に彦意祁都命(ひこおけつのみこと)の孫の彦忍人命(ひこおしひとのみこと)を武社国造(むさくにみやつこ)に任命したと記して、武社国(むさのくに)が千葉県武射(むさ)郡を指して、彦坐王(ひこいますのいみこ)の子孫の和珥(わに)氏出身者が仲哀(ちゅうあい)時代に武社国造(むさくにみやつこ)に任命したと考えられる。
彦国葺(ひこくにふく)の次男の建耶須禰(たけやすね)は、息子の八千宿禰(やちのすくね)が『国造本紀』で、彦訓服命(ひこくにふくのみこと)の孫の八千足尼命(やちのすくねのみこと)が景行(けいこう)天皇時代に吉備穴国造(きびのあなくにみやつこ)へ任命したと記して、彦坐王(ひこいますのいみこ)の子孫の八千宿禰(やちのすくね)が景行(けいこう)天皇時代の人物で、吉備穴国(きびのあなのくに)が岡山県福山市の周辺で、安那(あな)氏の先祖とされる。
彦国葺(ひこくにふく)の三男の大口納(おおくたみ)は、事績がなくて、彦国葺(ひこくにふく)の子供の全員が彦坐王(ひこいますのいみこ)の子供と否定された。
大口納(おおくたみ)の長男の難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)は、『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇65年に登場して、海部(あまべ)氏の先祖の難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と同一人物で、難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)と難波根子健振熊(なにわねこたけふるくまのみこと)の長い名前の合致が偶然でなく、共に彦坐王(ひこいますのいみこ)を始祖とする和珥(わに)氏と海部(あまべ)氏も合致して、和珥(わに)氏の宗家が海部(あまべ)氏と考えられる。
難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)は、仁徳(にんとく)天皇が即位した西暦330年代頃の人物と考えられて、「海部氏の系図」を見てほしくて、和珥(わに)氏の直系につながるが、難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)の子孫の年代が上下バラバラである。
難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)の子孫は、後に和珥(わに)氏から春日(かすが)氏へ名字(みょうじ)を改めて、それも検証して求める。
春日(かすが)氏は、『新撰姓氏録』に一族が富豪で、酒糟(さけかす)を積(つ)んで堵(かき;垣)にして、仁徳(にんとく)天皇が糟垣(かすが)氏と名付けたと記して、和珥(わに)氏が大和国(奈良県)添上(そうのかみ)郡和邇(わに;天理市和爾町)を本拠地で、6世紀以降に和珥(わに)氏の宗家が春日(かすが)氏に名字(みょうじ)を改めたと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇時代(西暦330年頃)は、和珥(わに)氏が春日(かすが)氏に名字(みょうじ)を改めたか分からず、春日(かすが)氏が大和国添上郡春日(奈良市春日野町)を本拠地とした。
和珥(わに)氏は、本拠地を大和国添上郡和邇(天理市和爾町)から添上郡春日(奈良市春日野町)に移(うつ)して、名字(みょうじ)を改めたと考えられるが、いつ頃に名字(みょうじ)を改めたか明確な根拠がない。
春日(かすが)氏とその同族は、天皇家に妃を多く輩出したが、天皇家の外戚の葛城(かつらぎ)氏や蘇我(そが)氏と違って、大和朝廷の政治的権力者になっていない。春日(かすが)氏は、後に大宅(おおやけ)氏や粟田(あわた)氏や小野(おの)氏や柿本(かきのもと)氏や櫟井(いちい)氏などに分家した。
粟田(あわた)氏は、遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)、柿本(かきのもと)氏が飛鳥時代の歌人の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、小野(おの)氏が遣隋使の小野妹子(おののいもこ)や六歌仙で世界三大美女の一人の小野小町などが知られる。
春日(かすが)氏は、後に蘇我(そが)氏が勢力を伸ばすと、春日(かすが)氏が急速に政治勢力を衰退して表面から消えて、分家した各支族が各方面で活躍した。
大口納(おおくたみ)の次男の彦汝(ひこなんじ)は、葦占(あしうら)氏の先祖で、和珥(わに)氏の系図に神功皇后の摂政(せっしょう)元年(西暦261年)に武振熊(たけふるくま)と共に戦ったと記して、仁徳(にんとく)天皇時代(西暦330年頃)頃に実在の難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)の兄弟が否定して、西暦260年代に実在したと考えられて、葦占(あしうら)氏が古墳時代の滋賀県草津市付近にいたと思われる。
大口納(おおくたみ)の三男の真侶古(まろこ)は、額田国造(ぬかたくにみやつこ)の先祖で、岐阜県揖斐郡池田町から滋賀県米原市の辺りの統治氏族で、『国造本紀』で成務(せいむ)天皇(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇)時代に彦国葺命(ひこくにふくのみこと)の孫の大真侶古命(おおまろこのみこと)を額田国造(ぬかたくにみやつこ)に任命したと記す。
大口納(おおくたみ)の子供たちは、兄弟関係が否定された。
和珥(わに)氏の出自は、2世紀頃に日本海側から近畿地方に進出した太陽信仰の朝鮮系の鍛冶集団、または漁労や航海術にすぐれた海人(あま)族とする説がある。
和珥(わに)氏の始祖の彦坐王(ひこいますのいみこ)は、西暦84年に実弟の崇神天皇が奈良県で即位して、西暦94年に丹波(たには;京都府北中部)を平定した総大将で、丹波(たんば)に子孫の海部(あまべ)氏を残して、西暦95年に出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、海部(あまべ)氏も物部(もののべ)氏も古代太陽神氏族で、2世紀頃に日本海側と近畿地方に進出した太陽信仰の一族で合致する。
また海部(あまべ)氏は、海洋民族でもあって、漁労や航海術にすぐれた海人(あま)族とも一致する。
日本神話は、古代朝鮮国家群の神話と関連したり、彦坐王(ひこいますのいみこ)を始祖とする古代太陽神氏族(天日槍(あめのひぼこ)など)が古代朝鮮国家群と関連したり、太陽信仰の朝鮮系の一族が合致する。
弥生時代後期は、島根県と鳥取県と京都府と淡路島などで、鉄器文化が隆盛して、物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏と考えられて、2世紀頃の日本海側と近畿地方の鍛冶集団とも合致する。
和珥(わに)氏は、朝廷で埴輪(はにわ)などの祭祀土器製作集団を統率して、山稜(山の尾根(おね)の管理や古墳埋葬者の事績の語(かた)り部などをしたらしいが、埴輪(はにわ)を作るのが物部(もののべ)氏の野見宿禰(のみのすくね)の子孫である土師(はじ)氏で、古墳埋葬者の鎮魂をするのが物部(もののべ)氏で、和珥(わに)氏と物部(もののべ)氏が同族だから間違っていない。
『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)は、春日(かすが)氏の市河(いちかわ)に石上(いそのかみ)神宮を治めさせて、市河(いちかわ)が物部首(もののべのおびと)の先祖と記して、市河(いちかわ)の子孫が石上(いそのかみ)神宮の神官の布留(ふる)氏で、春日(かすが)氏と物部(もののべ)氏が和珥(わに)氏と同族である。
物部(もののべ)氏の山無媛(やまなしひめ)は、『先代旧事本紀』に記す女性で、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の妃で、皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の母親である。
難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)の息子の日触使主(ひふれのおみ)は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に生まれた誉田別尊(ほむだわけのみこと)の舅(しゅうと)で、父の難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)が仁徳(にんとく)天皇の即位した西暦330年代頃の人物と考えられて、和珥(わに)氏の人物の年代が滅茶苦茶である。
日触使主(ひふれのおみ)の娘の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)が誉田別尊(ほむだわけのみこと)の妃で、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の実母と『日本書紀』に記して、『先代旧事本紀』の記述の方が信頼できないと普通なら考えられる。
和珥(わに)氏は、物部(もののべ)氏も海部(あまべ)氏も同族で、山無媛(やまなしひめ)の実在時期も正しくて、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)と山無媛(やまなしひめ)が同一人物の可能性があって、「物部氏の系図」を見てほしい。
僕は和珥(わに)氏に物部(もののべ)氏も海部(あまべ)氏も含めて、彦坐王の子孫を全て古代太陽神氏族と統一して、それを和珥(わに)氏で統合する自論を掲(かか)げて、3冊目の本をその自論で統一した。
和珥(わに)氏は、謎の氏族だったが、超天才の僕が分析や解明をして、その系図や特徴をまとめて、正当性を訴えて、2023年3月5日に修正した。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
海部光彦・編著者 元伊勢籠神社社務所・発行
『別冊歴史読本K 新視点 古代豪族の研究』
株式会社新人物往来社・発行
ウィキペディアの和珥氏
ホームページの和邇氏考
インターネットの不明サイトから少々拝借
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