倭(わ)の五王の定説と自論
倭(わ)は古代日本を意味して、倭王(わおう)が古代の日本王を意味して、倭(わ)の五王が古代日本の5人の国王を意味して、その意味を理解しないで、歴史認識が曖昧(あいまい)な人たちがいて、正しく理解する必要がある。
倭(わ)の五王の定説は、現代人(僕以外の人間)レベルの専門家(考古学界と歴史学界)が求めた説で、シロウト認識で適当にまとめて、間違った固定観念・先入観に捕らわれて、ずっと超天才の僕に勝てない惨(みじ)めな敗北者である。
現在の中国は、日本をリーベンと発音して、昔にジッポンと発音して、元日(がんじつ)の日(じつ)だからで、ジッポンをマルコ・ポーロがジパングと発音して、世界中にジャパンが普及して、中国で時代ごとに発音が違って、邪馬台国(やまたいこく)が現代中国語で、シェマータイ(邪馬台)で、千年以上前の発音が諸説あって、イヤマードゥ(邪馬台)に近くて、3世紀末頃に記録した『魏志倭人伝』の発音が大和(やまと)である。
古代中国の始皇帝は、秦(しん)と言う国を作って、世界中が「しん」に近い「チャイナ」と中国を呼んで、フランス語が中国を「シナ」と発音して、秦(しん)の発音が「チャイナ」と「シナ」になって、日本語も時代によって、漢字の読み方が違う実例があって、正しい認識力が必要である。
日本神話や邪馬台国(大和国;やまとこく)論争や倭(わ)の五王は、この認識力を勘違いして、発音や解釈を全く変えて、滅茶苦茶に求めた実例も多くて、正しい認識力を徹底的に理解させて、物事の基本を教えて、僕だけにその資格がある。
古代天皇家の歴史は、史実・真実・事実を求めた僕が基本の基本を理解して、徹底的に定説や異説などを調査・分析して、全てを一から作り上げて、無敗の常勝将軍の僕が負けなくて、完全勝利の僕の功績が誰も潰(つぶ)せない。
『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)は、数十年前の考古学会で使って、忘れ去られたが、西暦年の特定方法に注目して、僕が即位年干支法(そくいねんかんしほう)を命名して、2023年5月25日に両方の暦法を統合して、古代天皇家の西暦年を合致した。
僕は2003年9月頃に『アマテラスの誕生』を購入して、古代太陽神の天照神(あまてるかみ)や滝祭神(たきまつりのかみ)に興味を持って、2004年2月に『ホツマ辞典』を購入して、古代太陽神アマテルカミを見つけて、どんどん歴史研究の知識を拡大した。
いつ購入したか不明の『完訳秀真伝』(編著者・鳥居礼 発行・八幡書店)は、八幡書店から消費税込みの3万円で買って、その後に2016年12月21日に収納代行ウェルネットで、『竹内文書・但馬故事記』(著者・亜郷清彦 発行・叶V国民社)を2万7498円で買って、翌日22日に『富士古文書資料 神皇記 附録甲斐古蹟考』(著者多数 発行・八幡書店)を書肆吉成で、6460円で買って、必死に勉強して頑張った。
このような経験で僕は、『ホツマツタエ』や「記紀」を先人が訳本などを作って、過去の先人が蓄積した知識に学んで、自分なりの拡大解釈をして、成長と失敗を繰り返しながら、僕の自論を作り上げて、自分の人生経験に生かして、自分一人の努力など底が知れる。
だが時に僕のような超天才は、アインシュタイン博士のような先天的な天才でなく、後天的に能力を伸ばして、急成長した天才で、後天的な天才のゴッホたちと同類で、圧倒的な超頭脳(超感覚)が絶大すぎて、誰も相手にならない孤独を味わって、ただひたすら独学で学んで、常勝無敗の達人になって、正論の歴史研究の成果を公表して、誰もできない大偉業である。
そんな僕は、2002年10月頃に歴史研究を始めて、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を合致して、その後に考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を合致して、西暦84年から329年まで特定して、330年から506年まで求められなくて、20年以上の年月でも判明しなかった。
しかし2024年5月25日の午後5時頃は、『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)を正しいと証明して、西暦330年から507年まで西暦年で特定して、『歴代天皇の在位期間の対比図』などを作成や修正して、6月13日から何度も僕のホームページを更新し続けて、歴史研究の成果が公然の秘密になった。
このように僕は、歴史研究を20年半以上して、ようやく全てを終える決着で、やっと始まりの第一歩を踏み出して、終わりと始まりの記念すべき出来事で、歴史に僕の名前を刻み込んだ。このようにして僕は、倭(わ)の五王の定説を完全に否定して、長年の謎(なぞ)だった時代をひもといて、僕の自論を論理的に証明して、現代人(僕以外の人間)が基本をすっ飛ばして、根本的な理解がないまま歴史研究して、無知蒙昧(むちもうまい)な研究者の完成である。
『日本書紀』のずれた歴代天皇の在位期間 僕が特定した正しい歴代天皇の在位期間
応神(おうじん)天皇 270年即位 310年死去 応神(おうじん)天皇 261年正月頃生まれ 310年死去
仁徳(にんとく)天皇 313年即位 399年死去 仁徳(にんとく)天皇 334年即位 367年死去
履中(りちゅう)天皇 400年即位 405年死去 履中(りちゅう)天皇 367年即位 372年死去
反正(はんぜい)天皇 406年即位 410年死去 反正(はんぜい)天皇 373年即位 377年死去
允恭(いんぎょう)天皇 412年即位 453年死去 允恭(いんぎょう)天皇 378年即位 394年死去
安康(あんこう)天皇 454年即位 456年死去 安康(あんこう)天皇 395年即位 427年死去
雄略(ゆうりゃく)天皇 457年即位 479年死去 雄略(ゆうりゃく)天皇 427年即位 429年死去
清寧(せいねい)天皇 480年即位 484年死去 清寧(せいねい)天皇 430年即位 457年死去
顕宗(けんそう)天皇 485年即位 487年死去 顕宗(けんそう)天皇 458年即位 471年死去
仁賢(にんけん)天皇 488年即位 497年死去 仁賢(にんけん)天皇 472年即位 474年死去
武烈(ぶれつ)天皇 498年即位 506年死去 武烈(ぶれつ)天皇 475年即位 506年死去
前置きの基本的なことは、ここまでにして、倭(わ)の五王の定説を否定するための基本を求めて、何事も基本を疎(おろそ)かにせず、熟知した達人が凡人(僕以外の人間)に徹底的に教えて、基本を理解した未熟者が成長して、後世に教育する伝統が完成する。
『日本書紀』の神武(じんむ)天皇から始まる歴代天皇の在位期間は、倭(わ)の五王を定説で、讃(さん)が応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇で、珍(ちん)が反正(はんぜい)天皇で、済(さい)が允恭(いんぎょう)天皇で、興(こう)が安康(あんこう)天皇で、武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇を当てはめる。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、天皇名の中国語読みが雄略(ゆうりゃく)で、天皇名の日本語読みが雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごすくねのみこと)で、倭(わ)の五王で最後の武(ぶ)と同じ漢字だが、日本語読みと中国語読みが合致しなくて、そもそも神武(じんむ)天皇以降の歴代天皇の在位期間を否定して、僕の求めた正しい歴代天皇の在位期間が判明して、雄略(ゆうりゃく)天皇を倭王(わおう)「武(ぶ)」でないと100%証明した。
埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山(古墳出土)鉄剣に文字を記して、獲加多支鹵大王(わくかたしるおおきみ;わかたける大王)に仕えた乎獲居臣(おわくこのおみ)が死んで、辛亥(かのとい)年7月(西暦471年8月頃)中に文字を刻んだと僕が解釈して、僕の求めた雄略(ゆうりゃく)天皇の在位期間が427年即位で、429年死去で、雄略(ゆうりゃく)天皇の在位期間と文字を刻んだ年代が違って、考古学界の定説が間違いと証明できた。
獲は「獣へん」に草かんむりがなくて、隻と記すのが正しくて、ホームページで表示できるが注意書きにする。
倭王(わおう)「武(ぶ)」とする雄略(ゆうりゃく)天皇は、南朝宋(そう)王朝の478年と南朝斉(せい)王朝の479年に遣使して、南朝梁(りょう)王朝の502年に遣使せず、この時の倭王(わおう)「武(ぶ)」が別人とするが、倭王(わおう)「武(ぶ)」が一人で30年以上を在位したのが自然で、本当の倭王(わおう)「武(ぶ)」の武烈(ぶれつ)天皇が32年間を在位して、雄略(ゆうりゃく)天皇を完全に否定した。
他の倭王(わおう)の理由は、倭王(わおう)「讃(さん)」が仁徳(にんとく)天皇の日本語読みの大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)か、履中(りちゅう)天皇の日本語読みの去来穂別尊(いざほわけのみこと)などの読み方に対比して、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)の「さ」か、去来穂別尊(いざほわけのみこと)の「ざ」を当てはめる。
倭王(わおう)「珍(ちん)」は、反正(はんぜい)天皇の日本語読みの瑞歯別尊(みずはわけのみこと)と対比して、「珍(ちん)」と「瑞(すい)」が同じ部首を理由にする。倭王(わおう)「済(さい)」は、允恭(いんぎょう)天皇の日本語読みの雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごすくねのみこと)と対比して、「済(さい)」と「津(つ)」が同じ部首を理由にする。
世子(せいし;世継ぎ)「興(こう)」は、安康(あんこう)天皇の日本語読みの穴穂尊(あなほのみこと)と対比して、「興(こう)」と「穂(ほ)」の音読み「すい」の発音と対比した。
倭(わ)の五王の定説は、一貫性のない滅茶苦茶でバラバラな理由で、無理矢理に当てはめて、理論的に嘘(うそ)が通用せず、僕の自論を前にしても、やり通すならあまりに見苦しい。
このように倭(わ)の五王の定説は、論理的根拠で完全に否定して、僕の求めた正しい歴代天皇の在位期間を基本にして、新しい時代の一歩を踏み出して、現代人(僕以外の人間)レベルの専門家(考古学界と歴史学界)が変化して、基本の基本を疎(おろそ)かにしない考え方が重要である。
倭(わ)の五王の人名は、倭王(わおう;古代日本王)の讃(さん)が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)の珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、倭王(わおう)の済(せい)が清寧(せいねい)天皇で、倭王(わおう)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、倭王(わおう)の武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇までの頭文字(かしらもじ)で、漢風諡号(しごう)の使用を証明した。
倭王(わおう)の賛(さん)は、東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年(西暦413年;安康(あんこう)天皇19年)に遣使して、南朝宋(そう)王朝の永初2年(421年;安康(あんこう)天皇26年)と元嘉2年(425年;安康(あんこう)天皇26年)に倭王(わおう)の讃(さん)が遣使して、同一人物の安康(あんこう)天皇である。
倭王(わおう)の讃(さん)の弟である珍(ちん)は、南朝宋(そう)王朝に年代不明で2回遣使して、兄弟関係が安康(あんこう)天皇と雄略(ゆうりゃく)天皇が正しい。
倭王(わおう)の済(せい)は、南朝宋(そう)王朝の元嘉20年(西暦443年;清寧(せいねい)天皇14年)と元嘉28年(西暦451年;清寧(せいねい)天皇22年)に遣使して、清寧(せいねい)天皇である。済(せい)の世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)は、南朝宋(そう)王朝の年代不明に遣使して、清寧(せいねい)天皇の世継ぎの顕宗(けんそう)天皇が正しい。
倭王(わおう)の興(こう)は、南朝宋(そう)王朝の大明6年(西暦462年)に遣使した。
倭王(わおう)の興(こう)は死んで、弟の武(ぶ)が即位したが、叔父(おじ)の顕宗(けんそう)天皇と甥(おい)の武烈(ぶれつ)天皇が正しい。
倭王(わおう)の武(ぶ)は、南朝宋(そう)王朝の昇明2年(西暦478年;武烈(ぶれつ)天皇4年)と南朝斉(せい)王朝の建元元年(西暦479年;武烈(ぶれつ)天皇5年)と南朝梁(りょう)王朝の天監元年(西暦502年;武烈(ぶれつ)天皇28年)に遣使して、倭王(わおう)の武(ぶ)と武烈(ぶれつ)天皇の名前が合致する。
『日本書紀』は、倭(わ)の五王を誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人に当てはめて、勘違いする混乱を生み出して、「記紀」が40年間も研究して、嘘(うそ)の年代を生み出して、思い込みを排除できない凡人(僕以外の人間)が騙(だま)されて、超天才の僕に一任するしかなかった。
倭王(わおう)の讃(さん)は、応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇で、讃(さん)の弟の珍(ちん)を反正(はんぜい)天皇で、倭王(わおう)の済(せい)を允恭(いんぎょう)天皇で、済(せい)の世子(せいし)の興(こう)が安康(あんこう)天皇、倭王(わおう)の武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、雄略(ゆうりゃく)天皇の名前の日本語読み「武(たける)」を中国語読みの武(ぶ)に当てはめて、完全な間違いである。
倭王(わおう)の讃(さん)は、允恭(いんぎょう)天皇2年が西暦413年で、允恭(いんぎょう)天皇10年が421年で、允恭(いんぎょう)天皇14年が425年で、応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇の3人に当てはめて、讃(さん)の弟の珍(ちん)が年代不明で2回遣使して、履中(りちゅう)天皇の実弟の允恭(いんぎょう)天皇に当てはめる。
倭王(わおう)の済(せい)は、允恭(いんぎょう)天皇32年が西暦443年で、允恭(いんぎょう)天皇40年が451年で、済(せい)の世子(せいし)の興(こう)を允恭(いんぎょう)天皇の実子の安康(あんこう)天皇に当てはめて、雄略(ゆうりゃく)天皇6年が462年で、年代不明で興(こう)の弟の武(ぶ)が即位して、安康(あんこう)天皇の実弟の雄略(ゆうりゃく)天皇に当てはめる。
倭王(わおう)の武(ぶ)は、雄略(ゆうりゃく)天皇22年が西暦478年で、雄略(ゆうりゃく)天皇23年が479年で、南朝斉(せい)王朝に遣使してない480年が清寧(せいねい)天皇元年で、武烈(ぶれつ)天皇4年が502年で、完全に誤解させたが、超天才の僕を騙(だま)せなくて、正しいのと間違った年代を2024年5月26日の午後8時頃に追加した。
「記紀」の歴代天皇の歴史は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争で、卑弥呼(ひみこ)が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、男弟(だんてい)が崇神(すじん)天皇で、日本武尊(やまとたけのみこと)が4世紀前半で、神功(じんぐう)皇后が4世紀後半の人物と比定して、神武(じんむ)天皇以降の全ての在位期間を否定して、この定説が完全に潰(つぶ)された。
僕の求めた『歴代天皇の在位期間の対比図』は、「記紀」の干支(えと)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)を利用して、『日本書紀』神武(じんむ)天皇以降の歴代天皇の在位期間を否定して、嘘(うそ)で塗り固めた作り物で、僕が正しい史実・真実・事実を求めて、全てを暴(あば)いて決着した。
名前の発音の理由は、倭(わ)の五王の人名と歴代天皇の中国語読みの頭文字(かしらもじ)を対比して、正しい歴代天皇を求めて、すでに僕の最初の著書で、特定できた事実で、対比に人名の一番初めの文字(頭文字;かしらもじ)を使うのが普通で、定説の滅茶苦茶な理由が笑止千万である。
倭(わ)の五王の讃(さん)から武(ぶ)は、応神(おうじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までの頭文字(かしらもじ)を中国語読みして、讃(さん)が安康(あんこう)天皇で、珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、済(さい)が清寧(せいねい)天皇で、興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇で、完全に対比して、チェックメイトで、応神(おうじん)天皇から允恭(いんぎょう)天皇を否定した。
歴代天皇の中国語読みの人名は、頭文字(かしらもじ)を中国語読みで対比すると、僕の自論の理由が納得できて、100%正しいと証明して、誰も絶対に覆(くつがえ)せない。
倭(わ)の五王の人名は、歴代天皇の中国語読みを対比して、歴代天皇の中国語読みが死後の名称と「記紀」で記して、上皇様を平成天皇で、今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)を令和天皇と呼んで恐れ多いが、死後の名称と思い込ませて、歴代天皇の日本語読みを当てはめる常識が生まれて、定説の理由に使われた。
上皇様の平成天皇と今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)の令和天皇は、「記紀」で死後の名称が常識(当たり前)と思い込ませて、倭(わ)の五王の人名が歴代天皇の中国語読みで、生前から使われたと証明して、平成天皇と令和天皇と呼ぶのが失礼でなく、現在の常識の変革する「きっかけ」である。
倭(わ)の五王の人名は、中国語読みが生前に使われて、後世の歴史書「記紀」が死後の称号と記して、凡人(僕以外の人間)がその常識に捕らわれたが、僕が最初の著書『古代日本史への挑戦』で、打破した内容に触れたように僕が常識に捕らわれず、常識の変革が当然の超感覚で、このことを2023年11月18日に記した。
世界遺産で宮内庁指定の仁徳(にんとく)天皇陵は、大阪府堺(さかい)市にある国内最大の前方後円墳の大仙(だいせん)古墳で、5世紀前半から中頃の築造で、仁徳(にんとく)天皇が334年即位で、367年死去と求めて、仁徳(にんとく)天皇の孫の安康(あんこう)天皇から曾孫の顕宗(けんそう)天皇までが古墳埋葬者で、仁賢(にんけん)天皇も死去年が合致するが、倭(わ)の五王でなくて、除外する考え方をした。
倭(わ)の五王の時代は、5世紀の大阪府に天皇陵と皇居を置いて、考古学(遺跡・遺物)が正しいと証明したが、仁徳(にんとく)天皇が4世紀前半から中頃の天皇と証明して、「記紀」の天皇陵と皇居が当てにならず、むしろ嘘(うそ)をついて、混乱が目的と暴(あば)いてやった。
2007年9月に最初の著書を出版した僕は、当時から本当の倭(わ)の五王を特定して、倭(わ)の五王の在位期間を西暦年で特定できなかったが、別格の才能の片鱗(へんりん)を見せて、圧倒的な超頭脳(超感覚)で決着した。
倭(わ)の五王の時代は、考古学的証拠が少ないが、仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳と稲荷山(古墳出土)鉄剣の定説を否定して、僕の自論で理論的に否定して、それが本当に現実離れした大偉業で、凡人(僕以外の人間)がこれほどの人間や理論が存在したと思わず、生きている時代にひもとけると想像しなかっただろう。
凡人(僕以外の人間)は、常識・固定観念・先入観・理屈・伝統に捕らわれて、現代哲学理論「現象学」を求められず、コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を使えなくて、アインシュタイン博士以上の超天才の僕が圧倒する根本的な理由で、理論的な理由を指摘しても、誰も体得できない奇跡の才能である。
本当の倭(わ)の五王は、基本の基本をしっかり蓄積して、基本的な組み立てを省略しないで、根本的な理由の列挙を忘れず、僕が専門家(考古学界と歴史学界)を出し抜く認識力で、歴史研究で凡人(僕以外の人間)と認識力や判断力などが別次元だが、一方で他の分野が同レベルで、ある分野だけが超越した天才で、歴史上でも多くの人物が実例で、僕もその実例に仲間して、これで綴(つづ)って終わる。
<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『アマテラスの誕生』
著者・筑紫申伸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『これならわかる日本の歴史Q&A@』
発行・株式会社大月書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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