万物に霊魂(神)は宿(やど)る


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

万物に霊魂は宿る思想がいつ頃からのものかと言うと、縄文時代と考える人物がいるかもしれないが有り得ない。
万物に霊魂は宿る考え方自体が神道に由来するもので、神道ができたのが弥生時代後期初頭…西暦84年の崇神(すじん)天皇即位以降のことだと考えられるためである。
そもそも万物に霊魂は宿るという思想がいつ頃から存在したか考えても、思想というのが形に残るものでなく、心の概念化がいつ頃までさかのぼれるか分からない。
ましてや日本は天皇家誕生(建国)をさかのぼっても1937年前で、大和時代以前の考え方を考えるだけ無駄である。

伊勢神宮内宮の五十鈴川(いすずがわ)の流れを祭る滝祭神(たきまつりのかみ)や大神(おおみわ)神社の御神体山の三輪山(みわやま)や花の窟(いわや)神社の岩石などを祭祀する信仰は、古代信仰でこれらが全て万物に霊魂が宿る考え方の元だと考えられる。
古代信仰は日本古来の伝統で縄文時代や弥生時代からのものでなく、古代天皇家が伝えた神道と共にやって来たのが正しい考え方だろう。
万物に霊魂は宿る神道の思想と同じものが世界中のどこかにあるとしたら、根本的につながり合っているかもしれないが発想の飛躍かもしれない。

古代太陽神アマテルカミ(天照神)は中米トルテカ文明の太陽神ケツァルコアトルと深く関係すると考えられて、古代天皇家と共通の先祖を持つ派生した王家が世界中に色々な思想をもたらした可能性が出てくる。
正統『竹内文書』は一見すると突拍子もないかもしれないが、古代天皇家が超古代文明アトランティス大陸やムー大陸の王家の生き残りでないかと考えられる。
ここまで来ると狂気じみているかもしれないが、現代技術でも説明のつかない超技術オーパーツ(場違いな加工品)などの存在を否定する方がおかしい。
万物に霊魂は宿るのでなく、万物に天皇家の心が宿っている気がするのが僕の考えすぎだろうか?
天皇家と神道が切っても切れない関係で、万物に霊魂は宿る思想が皇室と共にあったのが事実である。

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