邪馬台国と出雲王国


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

出雲王国は『日本書紀』の崇神(すじん)天皇60年に記されて、現代人レベルの頭脳だと固定観念・先入観から崇神天皇時代に出雲王国が存在したと思い込むが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕が西暦260年神無月に出雲王国が崩壊した史実を求めた。
出雲王国は考古学的証拠から実在説が根強くて、歴史書解釈から『日本書紀』の崇神天皇60年説が根強く考えられて、それが『日本書紀』の編者の思惑で固定観念・先入観を利用した思い込みの利用で、うまくだますことが前提で「記紀」が創作されたが、僕の超頭脳をだますことはできなかった。
根本的にアインシュタイン博士以上の天才の僕と現代人レベルの専門家の頭脳差がありすぎて、勝負すること自体間違いで専門家ごときが僕に相手にされる資格もない。
日本神話の神々の領域に踏み込めない者が邪馬台国論争で出しゃばること自体間違いで、「神々に最も近い人間」の僕の頭脳に勝てる人間などこの世のどこにもいない。
出雲王国は僕が存在したことを実証する以外に方法などない。

邪馬台国と出雲王国は互いに深く関わって、古代天皇家が西暦84年(崇神天皇元年)に建国して、出雲王国が西暦94年以降から2世紀前半(弥生時代後期初頭)に崇神天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)が初代国王として建国したと考えられて、西暦156年の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱)で邪馬台国が初めて歴史に登場した。
邪馬台国と出雲王国は親戚関係にある古代天皇家と最古の皇族から出た国家だと考えられる。
歴代天皇は太陽神の子孫で、出雲王国の歴代国王が太陽神の化身と考えられて、邪馬台国(古代天皇家)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の戦争が太陽神と太陽神の戦いである。
初代から7代目までの大物主神(おおものぬしのかみ)は歴代出雲国王(物部氏の人物)を神格化して、警察機構を持つ物部という役職をまとめ上げて、代々右大臣の家柄にあるのが歴代出雲国王だった。
『ホツマツタエ』の系図から出雲王家の千家(せんげ)氏の先祖である飯入根(いいいりね)の息子の濡渟(うかずくぬ)、さらにその息子の野見宿禰(のみのすくね)へと続くとするがこの系図自体創作で、正しくは彦坐王の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)さらにその息子の野見宿禰となる。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
現在の出雲大社宮司家である千家氏の系図は作為的な偽装工作のほどこされたもので、千家氏の実在系譜が飯入根からと思い込むように作られたが、彦坐王から始まる物部氏の系図の中から現在の千家氏に続くのが僕の下した判断であり、出雲王国が物部王国と言い換えても問題ない。
出雲国王の血筋は彦坐王の息子の狭穂彦王、その息子の野見宿禰さらにその息子の物部十市根(もののべのといちね)、さらにその息子の物部夏花(もののべのなつはな)で途切れて、従兄弟の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)に続いて、その息子で最後の出雲国王の飯入根につながって、その息子で最古の出雲国造(いずもくにみやつこ)の濡渟で最後の人物となって、現在の出雲国造で出雲大社宮司家の千家氏につながる。
この系図を求めるに当たって現代人は、常識・固定観念・先入観・理屈・伝統に捕らわれて、現代哲学理論「現象学」を全く理解できなくて、コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を使えなくて、アインシュタイン博士以上の超天才の僕に挑むなど笑止千万である。

2代目出雲国王・狭穂彦王の実妹・狭穂姫(さほひめ)は垂仁(すいにん)天皇の初代皇后である。
4代目出雲国王の物部十市根は垂仁天皇の娘の大中姫命(おおなかひめのみこと)と結婚して、息子の5代目出雲国王の物部夏花をもうけたと考えられる。
景行天皇は出雲王国の物部氏の女性である伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と欝色謎命(うつしこめのみこと)を妃にむかえて子供をもうけた。
皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は婿(むこ)養子で最後の出雲国王の飯入根に一人娘の布忍姫(ぬのおしひめ)をめとらせて、孫の濡渟をもうけさせたと考えられる。
このように邪馬台国(古代天皇家)と出雲王国(物部氏)は婚姻関係や姻戚関係を結んで、互いに深くつながった王国同士だった。

邪馬台国時代は垂仁天皇から神功(じんぐう)皇后までの時代で、『後漢書』と『魏志倭人伝』に記される戦争の倭国大乱が狭穂彦王の反乱で、『魏志倭人伝』に記される戦争の男王の反乱が日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱である。
狭穂彦王の反乱は2代目出雲国王の狭穂彦王が起こした一年以上続いた邪馬台国連合(大和国を中心とした古代天皇家の国家連合)と出雲王国の内乱で、狭穂彦王が三種の神器を奪うために近畿地方にやって来て、最終的に三重県熊野市で亡くなった。
日本武尊の反乱は日本武尊の婿養子で最後の出雲国王の飯入根を巻き込んだ西暦251年から260年神無月までの邪馬台国連合と出雲王国の内乱で、出雲王国が邪馬台国(大和国;古代天皇家)に対して2度反乱したために出雲王国がつぶされた。
『魏志倭人伝』の記述から出雲王家の物部氏は一族郎党皆殺しにされてもおかしくないと考えられるが、彦坐王から始まる古代太陽神氏族の皆殺しなど考えられないと考えられる。

邪馬台国時代の考古学的証拠は、最古の前方後円墳・纏向(まきむく)石塚古墳の垂仁天皇陵、卑弥呼の墓と勘違いされる箸墓(はしはか)古墳の景行天皇陵、都市遺跡の纏向遺跡が景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)などが有力だが、出雲王国の考古学的証拠が全く分からないほど僕自身が馬鹿でない。
出雲の隆盛は弥生時代後期初頭からである。
荒神谷(こうじんだに)遺跡で出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造とされて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)のものなのが間違いない。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域が歴史書解釈から古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いない。
弥生時代中期に出雲で四隅突出型墳丘墓が作られるようになって、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて、出雲王家の物部氏が葬礼されたと考えられる。
弥生時代後期に全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲では3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。
弥生時代後期に発展した出雲が3世紀中頃に衰退したと記されて、これも出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。

邪馬台国と出雲王国は古代天皇家と物部王家のつながりで、「記紀」や『ホツマツタエ』の偽装工作でうまく隠すが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕によって求められて、ここまで再現するに成功したのが一つの奇跡で必然だった。
僕には日本神話の神々のご加護があって、おそらく実在した古代天皇家の人々が神様として見守るのだろう。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲大社と千家氏の秘密』
中見利夫・著者 株式会社宝島社・発行

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