邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)
日本の建国(天皇家誕生)は、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に初代の崇神(すじん)天皇の即位した時で、古代天皇家が邪馬台国(大和国;やまとこく)そのもので、5世紀初頭から6世紀初頭の倭(わ)の五王も古代天皇家そのものだが、「記紀」で隠して古代日本史を徹底的に求められないようにした。
垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が反乱(倭国大乱(わこくたいらん)して、邪馬台国(大和国;やまとこく)が歴史に初めて登場して、摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が古代中国の西晋(せいしん)王朝に遣使して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争で最後の年号で、邪馬台国(大和国;やまとこく)が歴史から消えた。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の所在地は、畿内説と九州説の他にも、出雲説や吉備(きび)説や四国説や沖縄説や東日本説やフィリピン説など、滅茶苦茶に提唱する者も存在するが、日本神話を完全解釈した超天才の僕が完全に決着して、誰も反論も一切受け付けない最高の自論を作って、古代天皇家こそが邪馬台国(大和国;やまとこく)の正体と突き止めて、内容を2024年11月3日に修正した。
実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)は、島根県を平定して、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に奈良県で、実弟の崇神(すじん)天皇に出雲王国の建国を報告して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国が崩壊して、物部(もののべ)氏が日本各地に広がって、島根県の物部(もののべ)氏が全滅せず、出雲王国の滅亡と言う言葉になるが、僕がずっと崩壊を使う。
出雲王国は、物部(もののべ)氏の王国と2014年1月におそらく求めて、彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする武家の古代豪族で、非常に多くの子孫がいて、色々な謎(なぞ)を解明した。
初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国(出雲の国引き神話)して、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に実弟の崇神(すじん)天皇に報告して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇が戦死して、出雲王国が崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)した。
出雲の建国神話(出雲の国引き神話)は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が朝鮮半島の新羅(しらぎ)や北陸地方の高志(こし)の国などから、土地を引っ張ってきて、出雲の土地を作り上げたのが国引き神話で、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が創造神で水神や巨神(巨大な神様)ともされる。
出雲神話の終わりは、出雲の国譲(くにゆず)り神話で、大国主神(おおくにぬしのかみ;最後の出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の息子の建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が父(婿(むこ)養子)を暗殺して、天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を殺させて、出雲神話が終わる。
出雲の国引き神話は、出雲の創造神の八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が建国して、出雲の国譲(くにゆず)り神話が建御名方神(たけみなかたのかみ;素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一神:日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が出雲王国を崩壊させて、建国と滅亡の西暦年月も僕が正しく特定した。
物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、河内(かわち;大阪府東部)に天孫降臨して、長髄彦(ながすねひこ;誰を神格化したか不明)の妹の御炊屋姫(みかしやひめ;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を神格化)を娶(めと)って、宇摩志麻治命(うましまじのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が誕生した。
物部(もののべ)氏は、出雲王家が僕の自論で、饒速日命(にぎはやひのみこと)が大阪府で、御炊屋姫(みかしやひめ)と結婚して、河内(かわち;大阪府東部)の平定で、彦坐王(ひこいますのみこ)が敵将の娘と結婚して、大阪府でなく、出雲王家の地元である島根県の豪族の娘と結婚した可能性もあるが、御炊屋姫(みかしやひめ)と出雲の関係が見えない。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、息子が多くて、娘の狭穂姫(さほひめ)が西暦130年頃の生まれなら、父の彦坐王(ひこいますのみこ)が孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)生まれだから、約85才の計算で、息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)が155年頃に40才以下と考えられて、狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の実兄妹の年齢が何となく分かる。
奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)は、初代から7代目の大物主神(おおものぬしのかみ;初代から7代目までの出雲国王を神格化)を祭って、物部(もののべ)氏の血筋が出雲王家で、奈良県の古代天皇家の邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の関係が切っても切れなくて、僕の自論を覆(くつがえ)す証拠など見つからない。
大物主神(おおものぬしのかみ)は、大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)の神で、物部(もののべ)氏を束(たば)ねる氏長(うじおさ)の歴代出雲国王を神格化して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の頂点に立つ存在である。
初代出雲国王は、彦坐王(ひこいますのみこ)で、2代目出雲国王が息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)で、3代目出雲国王が息子の野見宿禰(のみのすくね)で、4代目出雲国王が息子の物部十市根(もののべのといちね)で、5代目出雲国王が息子の物部夏花(もののべのなつはな)で、ここで出雲国王を継ぐ血筋が途絶えた。
初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、息子が多くいるが、後を継いだ2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子が少なくて、後を継いだ3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の息子が多くて、物部(もののべ)氏の人数が増えて、氏族が隆盛したのが野見宿禰(のみのすくね)以降である。
3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の養子である弟橘姫(おとたちばなひめ)は、景行(けいこう)天皇との息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、最後の7代目出雲国王が息子の飯入根(いいいりね)で、その息子の盧濡渟(うかずくぬ)が最古の出雲国造(いずもくにみやつこ;国主)で、その直系子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏である。
盧は、「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
5代目・大物主神(おおものぬしのかみ)は、従兄弟の6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)が後を継いで、5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)の後を従兄弟の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が継いで、神話と実在系譜が合致して、血筋が正しいと証明した。
景行(けいこう)天皇の息子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、神櫛皇子(かんぐしのみこ)で、実弟の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の可能性もあるが、息子の飯入根(いいいりね)の実兄弟か異母兄弟が屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)で、その息子が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、直系子孫が竹内(たけうち)氏である。
千家(せんげ)氏と竹内(たけうち)氏は、彦坐王(ひこいますのみこ)から始まる物部(もののべ)氏の血筋で、千家(せんげ)氏が歴代の出雲国王と同じ太陽神の宮司で、古代太陽神氏族として代々続く重要な血筋で、竹内(たけうち)氏も重要な情報の正統『竹内(たけのうちもんじょ)』を伝える。
初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、太陽神の宮司と考えられて、直系子孫の千家(せんげ)氏も太陽神の宮司だから、中間にいる2代目から7代目の出雲国王も太陽神の宮司で、先祖から子孫までずっと太陽神の宮司と考えられる。
『ホツマツタエ』の初代から7代目までのオオモノヌシ(大物主神;おおものぬしのかみ)は、警察機構を持つモノノベ(物部)と言う役職をまとめ上げて、代々右大臣(剣臣;つるぎとみ)の家柄で、歴代の出雲国王を神格化して、左大臣(鏡臣;かがみとみ)の次に重役で、平安時代に左大臣の次が右大臣だった。
このことから歴代の出雲国王は、天皇家(邪馬台国;大和国)の右大臣を務(つと)めて、統治国家群の警察機構のモノノベ(物部)をまとめ上げて、モノノベ(物部)をまとめる物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)を名乗って、罪(つみ)をおかした者を裁(さば)く権利を持っていたと考えられる。
剣臣(つるぎとみ;右大臣)のオオモノヌシの役職は、モノノベ(物部)と言う第一線で国民を指導する立場の者を統率して、モノノベ(物部)が今で言う警察権を持って、国民の夫婦を一組とすると、3200組の家族に一人のモノノベ(物部)を配置して、モノノベ(物部)が人々に善悪や法律を教える立場で、罪を犯(おか)す物を捕まえて、軽犯罪なら自分で処罰したりして、罪が重いと国主のクニツコ(国造;くにみやつこ)に報告して、判断を任(まか)せた。
警察権を持つ役職のモノノベ(物部)は、別名をモノベ(物部)やモノブ(物部)と呼んで、総数が800人とも3000人とも記して、出雲王家の物部(もののべ)氏がモノノベ(物部)の役職をまとめて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の子孫が『ホツマツタエ』でモノヘ(物部)氏やモノベ(物部)氏と呼ばれて、役職名と氏族名が入れ替わった可能性がある。
三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)は、『出雲国造神賀詞(いずもくにみやつこのかんよごと)』で、八咫鏡(やたのかがみ)に大国主神(おおくにぬしのかみ)が自分の和魂(にぎみたま;優しい平和的な魂)を託して、「倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)」と名付けて、「大御和(おおみわ)の神奈備(かんなび;三輪山;みわやま)」に鎮座したと言う。
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、大物主神(おおものぬしのかみ)が同一神で、八咫鏡(やたのかがみ)が三輪山(三輪山)に鎮座して、大物主神(おおものぬしのかみ)の名前を付けて、出雲大社の大国主神(おおくにぬしのかみ)の霊魂を託して、天皇不在の年(西暦251年)の日本尊(やまとたけ天皇)の反乱で、出雲に持ち去って、生まれた物語である。
『古事記』で素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、「八雲立(やくもた)つ出雲八重垣(いずもやえがき)…」の句を詠(よ)んで、三種の神器の神剣が八重垣剣(やえがきのつるぎ)とされて、その後に草薙剣(くさなぎのつるぎ;別名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が三種の神器の神剣に入れ替わって、八重垣(やえがき)神社に素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭る。三種の神器の神剣は、摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后む次男で、2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えた。
『ホツマツタエ』の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代出雲国王を神格化)は、右大臣の剣臣(つるぎとみ)で、武器を使う武家の物部(もののべ)氏に当たって、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と関係すると考えられる。
『ホツマツタエ』で5代目・大物主神(おおものぬしのかみ;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ;彦太忍信命(ひこふつおしのまこと)を神格化)に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を渡して、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の神剣と考えられる。
八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)を付けて、崇神(すじん)天皇時代に神器に加えず、出雲王家の宮殿で保管したと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に皇女の大中姫(おおなかひめ)は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)と結婚して正妻になって、以降に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を皇統に加える代償として、出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納した。
ある時に丹波(たんば;古代の京都府北中部)の甕襲(みかそ;丹波道主王;たにはみちぬしのみこ)の家にいる足行(あしゆき)と言う犬(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の家臣;誰か不明)が貉(むじな;狭穂彦王;さほひこのみこ)を食い殺して、腹(はら)の中から出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)が出てきて、甕襲(みかそ)が石上(いそのかみ)神宮に献上して、二種の神器が三種の神器に増えた。
垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)までに皇后で、物部(もののべ)氏の狭穂姫(さほひめ)は焼死して、以降に皇統に物部(もののべ)氏の血筋を加えることを禁止して、大中姫(おおなかひめ)の結婚で、出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に献上した代償で、二種の神器を三種の神器に増やして、再び皇統に血筋を加える許可を出して、2022年10月30日午後7時半頃に求めた。
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は、二種の神器に加えて三種の神器にして、大中姫(おおなかひめ)の結婚を機に皇統に物部(もののべ)氏の血筋を加えることを許可して、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)に高田媛(たかだひめ)と弟橘姫(おとたちばなひめ)を献上した。
出雲王国は、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇60年の出雲の平定を記して、現代人(僕以外の人間)の頭脳レベルなら、固定観念・先入観から崇神(すじん)天皇時代に出雲を平定したと思い込むが、超天才の僕にその理論が一切通用しなかった。
最初の著書で僕は、出雲王国の崩壊が西暦260年神無月と特定したが、出雲王国の建国を特定したのが2022年9月20日で、あまりに長い時間をかけて、ようやく気付くきっかけになった。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇60年は、西暦260年神無月と合致して、西暦年の使用が明白で、『ホツマツタエ』の最終的な成立が西暦年のできた6世紀以降で、7世紀までに『ホツマツタエ』が成立して、「記紀」の成立した8世紀前半に『ホツマツタエ』を利用して、「記紀」の内容に使ったのが間違いない。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争は、西暦220年滅亡の後漢王朝の記述をまとめた『後漢書』と魏王朝の記述をまとめた『三国志・魏志倭人伝』で求めて、『ホツマツタエ』の日本神話と古代天皇家の歴史を作って、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の史実・真実・事実を隠した。
『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』が記さない出雲王国は、出雲の国譲り神話や崇神(すじん)天皇60年の出雲の平定に色濃く表れて、断片的な情報を『ホツマツタエ』や「記紀」などの歴史書に残して、それらを組み立て直して、史実(歴史上の事実)を求められる僕の登場を待って、ようやく史実・真実・事実が再現された。
出雲王国の実在は、古代中国の歴史書に登場しなくて、『ホツマツタエ』や「記紀」などの歴史書が真実を隠して、考古学の遺跡・遺物が実在性を示して、現代人(僕を含めた人間)に猜疑心(さいぎしん)を持たせて、疑心暗鬼にさせたが、僕が全てを払拭(ふっしょく)して、出雲王家(物部(もののべ)氏)の系図などを再現して、皇室や宮内庁など知らない忘れ去られた古代天皇家の歴史を甦(よみがえ)らせた。
もみじヶ丘病院に医療保護入院中の僕は、2023年7月19日の午後5時頃に物部(もののべ)氏のイメージを求めて、霊魂にまつわる有力氏族のイメージが強いと理解した。
武家の物部(もののべ)氏は、厳(いか)つくて猛々(たけだけ)しいイメージだが、神道の霊魂の荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)、霊魂に深い関係の石上(いそのかみ)神宮や布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)、死者をよみがえらせると言う十種(とくさ)の神宝(かんだから)、物部(もののべ)氏の派生氏族で鎮魂の埴輪(はにわ)を作る土師(はじ)氏、などが関係した。
荒魂(あらみたま)は、「荒(あら)ぶる魂」とか「暴(あば)れる魂」で、和魂(にぎみたま)が「おだやかな魂」とか「平和的な優しい魂」などと理解して、物部(もののべ)氏の荒々(あらあら)しい荒魂(あらみたま)と抑止力の和魂(にぎみたま)の2面性に当てはめる。
石上(いそのかみ)神宮は、物部(もののべ)氏の総氏神で、物部(もののべ)氏が霊魂と深い関係を示す神社である。
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)は、物部(もののべ)氏の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の帯刀(たいとう)で、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)でも活躍した神刀で、霊魂に影響を与える。
十種(とくさ)の神宝(かんだから)は、死者をよみがえらせると言うが、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝である邊津鏡(へつかがみ)が前漢王朝時代(約2050年前)で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢王朝時代(約1950年前)の銅鏡で、よみがえらせる伝説を持つ嘘(うそ)の実物である。
物部(もののべ)氏で3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)は、垂仁(すいにん)天皇32年(西暦183年)に鎮魂の埴輪(はにわ)を作って、その子孫が土師(はじ)氏で、物部(もののべ)氏の派生氏族で、霊魂の関係が深い。
出雲の隆盛は、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)からで、荒神谷(こうじんだに)遺跡で出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造とされて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)の物なのが間違いなくて、出雲の青銅器文化の終わりが弥生時代後期初頭である。
荒神谷(こうじんだに)遺跡と加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域は、全国の古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いなくて、彦坐王(ひこいますのみこ)が埋葬したと考えられる。
弥生時代中期の出雲では、四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて、物部(もののべ)氏を葬礼したと考えられる。
鳥取県鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡と米子(よなご)市と西伯(さいはく)郡大山町にまたがると妻木晩田(むきばんだ)遺跡などは、弥生時代後期の鉄器が大量に出土して、鳥取県が鉄器生産の産地で、出雲王国の建国を証明する。
出雲で青銅器は、弥生時代後期初頭に作られなくなって、島根県の鉄器が弥生時代後期から古墳時代前期に大量出土して、古代天皇家が鉄器生産をした。弥生時代後期から山陰地方は、独自の土器のスタイルが作られて、以後に変化しながらも古墳時代前期まで、同じ流れを組む土器が作られた。
弥生時代後期から島根県出土の朝鮮半島の土器は、朝鮮半島に最も近い九州北部を除いて、日本中に例がないほど集中して出土する。
纏向(まきむく)遺跡は、鳥取県と島根県と山口県の土器が出土して、神功(じんぐう)皇后が出雲王国を討伐した後か日本武尊(やまとたけのみこと)が亡命する前のものと考えられる。
弥生時代後期は、全国的に高地性集落遺跡が作られて、出雲で3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国の崩壊と時期
が重なるのが偶然と考えられない。
弥生時代後期に発展した出雲は、3世紀中頃に衰退して、これも出雲王国の崩壊と時期が重なって、偶然と考えられない。
出雲王国の考古学的証拠は、弥生時代後期が鉄と米が権力の象徴と考えられて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国が崩壊して、現代の考古学を甘く見ないことで、これからの考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の分析が重要である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)は、西暦年月日の出来事を把握して、『ホツマツタエ』と「記紀」などの歴史書を研究・分析して、超天才の僕がいなくても、十分にできるだけの力を現代人(僕以外の人間)が身に付けて、頑張ることを願う。
<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『ホツマ事典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲大社と千家氏の秘密』
中見利夫・著者 株式会社宝島社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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