邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の証明
はじめに
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の証明は、専門家(考古学者と歴史学者)と現代人(僕以外の人間)の凡人レベルの考え方が間違いで、それを正しく指摘できる僕が子供でも理解できる簡単な間違いを細かく説明する。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争は、『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』を世界唯一の僕が正しく完全解釈して、1つの皇居と2つの天皇陵が存在して、全国の前方後円墳が天皇家の勢力拡大を証明して、2022年9月1日に「邪馬台国(大和国;やまとこく)論争」の題名を今の題名に変えて修正して、さらに2024年5月29日に修正した。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が卑弥呼(ひみこ)でない理由
卑弥呼(ひみこ)は、古代中国語読みだから、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を古代中国語読みすると、邪馬台台台卑母母蘇卑弥呼(やまとととひももそひみこ)の漢字を当てはめる可能性が高く、『三国志・魏志倭人伝』の書き方なら邪馬壱壱壱卑母母蘇卑弥呼(やまいちいちいちひももそひみこ)の可能性が高い。
迹迹日百襲(ととひももそ)は、古代中国語読みせず、卑弥呼(ひみこ)が姫命(ひめのみこと)を古代中国語読みして、日巫女(ひみこ)など適当な当て字をするのがシロウト認識である。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、男性の古代太陽神である大物主神(おおものぬしのかみ)の妻で、現在の女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の斎王(さいおう;伊勢神宮で太陽神に仕える未婚の皇女)の倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化して、作られた実在しない人物である。
倭姫命(やまとひめのみこと)の古代中国語読みは、邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)と合致するため、卑弥呼(ひみこ)の漢字だけが残されて、すごく単純な考え方なのに歴史学者が難しく考えて、何も分かっていなくて、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の本質が単純で、僕の超頭脳が優秀すぎる。
卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)は、『ホツマツタエ』でヤマトヒメの異母弟の景行(けいこう)天皇で、「記紀」で景行(けいこう)天皇の実妹が倭姫命(やまとひめのみこと)と偽装工作して、女王国(伊勢国;三重県中部)の皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)と邪馬台国(大和国;やまとこく)の男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇が正しい。
『ホツマツタエ』は、ヤマトトトヒモモソヒメをハシヅカ(箸墓(はしはか)古墳)に葬礼したと記して、『日本書紀』に倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を箸墓(はしはか)古墳に葬礼したと記して、歴史書で固定観念・先入観が植え付けて、埋葬者を女性と思わせて、古代中国人も現代日本人も見事に騙(だま)したが、超天才の僕を騙(だま)せなかった。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の読み方
やまとこく やまとひみこ とよひみこ やまとととひももそひみこ
邪馬台国 邪馬台卑弥呼 台与卑弥呼 邪馬台台台卑母母蘇卑弥呼
やまとこく やまとひめのみこと とよひめのみこと やまとととひももそひめのみこと
大和国 倭姫命 豊姫命 倭迹迹日百襲姫命
邪馬台国は、普通「やまたいこく」と発音して、台与が「とよ」と発音して、邪馬台国(大和国;やまとこく)と台与(豊;とよ)の発音で間違いない。
『後漢書』は邪馬台国(大和国;やまとこく)で、『三国志・魏志倭人伝』が違う漢字の邪馬壱国(やまいちこく)で、どちらが正しいか考えるまでもない。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、古代中国語で「邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)」と書いて、「邪馬台(やまと)」を排除して、豊姫命(とよひめのみこと)が古代中国語で「台与卑弥呼(とよひみこ)」と書いて、「卑弥呼(ひみこ)」が排除されて、簡単な考え方である。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、古代中国語で「邪馬台台台卑母母蘇卑弥呼(やまとととひももそひみこ)」と書くと僕が考えて、『三国志・魏志倭人伝』に基づくと「邪馬壱壱壱卑母母蘇卑弥呼(やまいちいちいちひももそひみこ)」と書くと僕が考えて、「台台卑母母蘇(とととひももそ)」の名前が記されず、また倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化したのが系図から求められて、作られた架空の人物と証明できる。
「記紀」の倭姫命(やまとひめのみこと)は、邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)の6文字が正しくて、『ホツマツタエ』のヤマトヒメが5文字で「邪馬台卑弥(やまとひみ)」と書いて、間違ったのが確実である。
神功(じんぐう)皇后の抹消した名前の豊姫命(とよひめのみこと)は、古代中国語が「台与卑弥呼(とよひみこ)」で、倭姫命(やまとひめのみこと)と合致して、卑弥呼(ひみこ)を消して、豊(台与;とよ)の呼び名が残って、日本神話の万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)などに名残(なご)りを残して、この読み方を2007年9月に出版した最初の著書で求めていた。
「記紀」の人名の末名「尊(命;のみこと)」と「皇子(王;のみこ)」は、名前の後に付けられて、『ホツマツタエ』が名前の後に付けられず、「記紀」の呼び方が古代天皇家の常識で、『三国志・魏志倭人伝』の邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)の6文字から、倭姫命(やまとひめのみこと)を古代中国語に書き直したのが明白である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の読み方は、ずっと混乱して正しいのがなかったが、非常に単純で僕が全てひもといた。
卑弥呼(ひみこ)は、「日巫女(ひみこ)」や「姫子(ひめこ)」や「姫御子(ひめみこ)」など適当に日本語読みして、専門家や凡人の単なるこじつけなどが滅茶苦茶だった。
必読文献の『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』は、「記紀」と『ホツマツタエ』なども含めて、僕が完全日本語訳した僕の最初の著書が100冊程度しかなくて、僕のホームページでも完全日本語訳を公表して、現代人(僕以外の人間)が参考にして、正しい超知識を学ぶ必要がある。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の系図
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の系図は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の国宝『海部(あまべ)氏系図』が日女命(ひめのみこと)と記して、また2世代繰り下がって同じく日女命(ひめのみこと)と記して、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)に比定するが間違いである。
このように現代人(僕以外の人間)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の系図を拡大解釈して、間違いを大きくして混乱させる。
拡大解釈は、言葉や文章の意味を自分の都合の良いように広げて解釈することで、人間が自分で意味を広げて、都合よく書き換えて、本来の意味以上に広がって、僕も拡大解釈がないと言えない。
人間誰しもが拡大解釈して関連付けて、僕の歴史研究も拡大解釈があって、拡大解釈なしで考え方が成立しないと考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』の人物は、古代天皇家の系図の中に巧妙に隠して、超天才の僕が求めて、以上の系図を記した。
後漢王朝と初外交したのは垂仁(すいにん)天皇で、卑弥呼(ひみこ)が倭姫命(やまとひめのみこと)で、魏王朝と初外交して「親魏倭王」の金印を受け取った卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)が景行(けいこう)天皇で、卑弥呼(ひみこ)の死後に立った男王(だんおう)が皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)で、台与(とよ)で西晋王朝と初外交したのが摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の神功(じんぐう)皇后である。
倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼:ひみこ)と神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)で、景行(けいこう)天皇(男弟;だんてい)が月読尊(つくよみのみこと)で、日本武尊(やまとたけのみこと;男王:だんおう)が素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化して、『三国志・魏志倭人伝』を基にして、三貴子(みはしらのうずのみこ;尊(とうと)い三人姉弟の神様)が作られた。
『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』は、卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)と男王(だんおう)と台与(とよ)を記して、『後漢書』が卑弥呼(ひみこ)以外に記さず、古代天皇家の人物で間違いない。
『三国志・魏志倭人伝』は、卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)で、『ホツマツタエ』が倭姫命(やまとひめのみこと)の異母弟が景行(けいこう)天皇で、「記紀」が景行(けいこう)天皇の実妹が倭姫命(やまとひめのみこと)で、どう偽装工作して人物を隠したか想像できる。
『ホツマツタエ』と「記紀」や『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』などの歴史書は、超天才の僕しか求められなくて、現代人(僕以外の人間)に想像できない超次元の考え方の僕を理解できるはずがない。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の考古学
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の考古学的証拠は、僕が邪馬台国(大和国;やまとこく)の王墓(おうぼ;2つの天皇陵)と王都(おうと;皇居)を証明して、考古学の前方後円墳と埴輪(はにわ)を証明して、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の古代天皇家の実在を証明した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の王墓(おうぼ)は、最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)と全長280メートルの前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)で、考古学界が前方後円墳と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を結び付けて、僕が古代天皇家の史実(歴史上の事実)を実証した。
垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に葬礼して、190年年末か191年年始頃に葬礼して、僕が西暦年月日の特定をできないが、間違いなく僕が垂仁(すいにん)天皇の葬礼日を古墳時代の始まりの日と定義付けた。
卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)は、天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)に葬礼して、宇治山田陵墓(うじやまだりょうぼ)と呼んで、宮内庁指定の古墳が間違いで、宇治が三重県伊勢市宇治館町1番地の伊勢神宮内宮を指して、殺害場所の伊勢市の磯(いそ)神社と陵墓名から考えて、三重県伊勢市の古墳に葬礼した可能性が高くて、古墳の形が分からない。
景行(けいこう)天皇陵は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に葬礼した全長280メートルの前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳で、宮内庁指定の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;)の墓(はか)が間違いで、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)の王墓(おうぼ)と勘違いした。
景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)は、景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇が都(みやこ)に入って、都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡に当たって、仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)まで都(みやこ)として、その後に放棄されて、2世紀末から4世紀前半まで考古学的に合致した。
考古学の前方後円墳は、最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)以前が絶対に見つからなくて、「記紀」などの歴史書の記述以降に全国各地の前方後円墳が発掘されて、前方後円墳の全国拡大が理論的に打破できない。
岐阜県揖斐郡(いびぐん)大野町の笹山(ささやま)古墳は、西暦200年頃の築造で、東日本の最古の前方後円墳で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)が古墳埋葬者の可能性がある。
東北地方の最古の前方後円墳は、福島県河沼(かわぬま)郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)が古墳埋葬者である。
関東地方の最古の前方後円墳は、千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳で、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)が古墳埋葬者で、3世紀中頃の西暦255年に国造(くにみやつこ;国主)を任命した。
長野県中野市の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳で、3世紀中頃の西暦255年に国造(くにみやつこ;国主)を任命した地域だが、埋葬者不明で特定できない。
中国地方の最古の前方後円墳は、鳥取県西伯(さいはく)郡南部(なんぶ)町の浅井11号墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、3世紀中頃の西暦260年神無月に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊した。
四国の最古の前方後円墳は、徳島県鳴門(なると)市の荻原(おぎわら)2号墳で、築造が2世紀末から3世紀初頭で、纏向(まきむく)石塚古墳の築造年代を上回らなくて、歴史書に四国の平定の年代がない。
九州の最古の前方後円墳は、福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳で、3世紀中頃の築造で、九州の平定が西暦202年から209年の3世紀初頭である。
近畿地方を除いて示した各地方の前方後円墳は、間違いなく考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致して、邪馬台国(大和国;やまとこく)の実在を証明した。
考古学の埴輪(はにわ)は、西暦150年代頃から180年までに吉備(きび;岡山県と広島県東部)を平定して、吉備(きび)の特殊器台土器を参考にして、179年に殉死(じゅんし;主人の後追い自殺すること)を禁止して、183年に殉死(じゅんし)者の代わりに土器の埴輪(はにわ)を立てて、僕が最古の埴輪(はにわ)を纏向(まきむく)石塚古墳で出土の最古の土師器(はじき)と考えて、考古学で最古の埴輪(はにわ)が箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)で、特殊器台埴輪(はにわ)が出土した。
西暦150年代頃から180年までに吉備(きび)は、垂仁(すいにん)天皇の皇子の祖別命(みおやわけのみこと)が吉備(きび)王国を平定して、吉備(きび)王国の特殊器台土器が作られなくなって、祖別命(みおやわけのみこと)が吉備(きび)氏の氏祖で、垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に後漢王朝への使者の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を子孫化)が派遣された。
垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなって、11月2日(12月上旬頃)に亡骸(なきがら)を桃花鳥坂(つきさか;所在地不明)に葬礼して、先例に従って従者を生き埋めにすると、埋められた人々が叫びうめきながら死んで、その死体を犬が掘り出して鳥がついばんで、垂仁(すいにん)天皇が殉死(じゅんし)を廃止した。
垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、葬礼の時に諸臣を集めて詔(みことのり;天皇の言葉)して、殉死を禁止して、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が出雲の土部(はじべ)を百人ほど集めて、土偶や様々な形を土で作らせて、埴輪(はにわ)の誕生だが、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵が所在地不明である。
垂仁(すいにん)天皇39年に48日間の喪(も)祭りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ;纏向(まきむく)石塚古墳)に葬礼して、纏向(まきむく)石塚古墳から最古の土師器(はじき)が出土して、これ以外に埴輪(はにわ)と考えられる物がない。
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇を倭国(奈良県;やまとのくに)の山辺道上陵(やまのべのみちうえのみささぎ;箸墓(はしはか)古墳)に葬礼して、最古の埴輪(はにわ)の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、吉備(きび)王国の特殊器台土器を参考にした。
このように考古学の埴輪(はにわ)は、完全に年代順にまとめられて、不動の科学的根拠である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の考古学的証拠は、完全に僕の説明で証明できて、誰も覆(くつがえ)せない絶対的な一大理論である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の年表
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)の2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が西晋(せいしん)王朝の泰始2年(西暦266年)に遣使した時までで、合計111年である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)は、『後漢書』の倭国大乱(わこくたいらん)が初見で、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の従弟で、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が起こした皇位継承権争いで、皇后の狭穂姫(さほひめ)が実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)と共に焼死して、終戦となって決着した。
垂仁(すいにん)天皇の娘の倭姫命(やまとひめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、皇女を女王の卑弥呼(ひみこ)と勘違いして、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に伊勢神宮内宮を最終遷宮して、大和の姫の名にふさわしい偉業を残して、天皇不在の年10月7日(251年11月上旬頃)に甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇に殺された。
垂仁(すいにん)天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)生まれで、垂仁(すいにん)天皇29年(180年)の吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定将軍で、垂仁(すいにん)天皇30年2月(181年3月頃)に初めて古代中国の後漢(ごかん)王朝に使者として遣使した。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(181年3月頃)に後漢(ごかん)王朝に向かった使者は、10年ほど古代中国の文化(漢字や製紙業など)を勉強して、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国した祖別命(みおやわけのみこと)が父の死を知って、禁止した殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)をしたか、祖別命(みおやわけのみこと)が病(やまい)で、帰国して亡くなった可能性もある。
景行(けいこう)天皇元年(西暦191年)は、天皇家が漢字を初めて使った西暦年で、漢字の音読みと訓読みを何年もかけて作って、音読みが古代中国語読みで、訓読みが日本語読みで、縄文語や弥生語やアイヌ語などの研究が必要である。
景行(けいこう)天皇は、垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)生まれで、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)として邪馬台国(大和国;やまとこく)を直接に統治して、景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に79才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、在位期間60年が年月を読む意味で、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)である。
景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)に、初めて魏(ぎ)王朝の景初3年6月(239年7月頃)に遣使して、12月(西暦240年1月頃)に宝物を下賜されて、景行(けいこう)天皇50年(西暦240年)が魏(ぎ)王朝の正始元年(240年)で、使者が帰国して、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を卑弥呼(ひみこ)でなく、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇が受け取った。
景行(けいこう)天皇53年(西暦243年)は、魏王朝の正始4年(243年)で、景行(けいこう)天皇55年(西暦245年)が使者の難升米(なんしゅうまい;誰か不明)を派遣して、魏(ぎ)王朝の正始6年(245年)で、景行(けいこう)天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)に南九州の熊襲(くまそ)王国が反逆して、魏(ぎ)王朝の正始8年(247年)の狗奴国(くぬこく)討伐で、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が景行(けいこう)天皇57年12月頃(248年1月頃)に滅亡させた。
天皇不在の年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、三種の神器を強奪して、日本武(やまとたけ)天皇(男王;だんおう)になって、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と息子で、皇位継承者の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子3人が反乱(皇位継承権争い)して、もう一人の息子で、皇位継承者の仲哀(ちゅうあい)天皇と対立した。
天皇不在の年9月15日(10月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇の異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、奈良坂に到着して、時期不明で逆賊の弟橘姫(おとたちばなひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)から出陣して、弟橘姫(おとたちばなひめ)が場所不明で戦死した。
天皇不在の年10月7日(11月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇は、88才の伯母(おば)で卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市の磯(いそ)神社で殺して、半月後の10月22日(11月下旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市に葬礼した。
天皇不在の年11月1日(12月上旬頃)に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、諸国に伝令して、2日に父の日本武(やまとたけ)天皇と合流して、11月4日に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死した。翌年の仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)に日本武(やまとたけ)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命するため、京都府北部の海岸から追撃をかわしながら逃亡した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国の攻撃中に戦場で傷ついて、51才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、戦死で間違いなくて、正妻の神功(じんぐう)皇后が舅(しゅうと)の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んで、この頃に第二子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を身籠(みご)もったと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を攻撃して、17日に67才の男王(だんおう)の日本武(やまとたけ)天皇を殺して、10年間の日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱が完全に決着して、短時間で出雲王国の上層部を一掃(出雲王国の崩壊)して、戦死者が少なかったと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の忘れ形見の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を生んで、出生地が京都市与謝郡(よさぐん)伊根町(いねちょう)の宇良(うら)神社で、祭神が『日本書紀』に記す浦島太郎で、浦島太郎の正体を出版してない3冊目で公表する。
摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟は、義母の神功(じんぐう)皇后から三種の神器を強奪する謀反(むほん)を起こして、鹿坂皇子(かごさかのみこ)が死んで、3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊皇子(おしくまのみこ)が溺死して、京都府宇治市で水死体が見つかった。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の最後の内乱(皇位継承権争い)で神功(じんぐう)皇后は、教訓から三種の神器の神剣を変更しようと考えて、『三国志・魏志倭人伝』の「国中遂定」の記述が内乱を遂(つい)に平定して、魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年までに遣使した。
摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と同族(皇族)で台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、33才(実年齢か数え年か不明)で摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命されて、卑弥呼(ひみこ)が幼少で女王になって、台与(とよ)も13才で即位したと勘違いした。
『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后が摂政(せっしょう)に任命された年は、干支(えと)の辛巳(かのとみ)の年で、西暦261年で間違いなくて、『三国志・魏志倭人伝』が実年齢か数え年か分からなくて、神功(じんぐう)皇后が33才と証明できない。
摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、西晋(せいしん)王朝の泰始2年(西暦266年)に遣使して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争で最後の年号である。
韓国の都市の金海(キメ)は、狗邪韓国(くやかんこく)の加羅国(からこく)で、3世紀後半頃から日本製の遺物が出土しなくて、神功(じんぐう)皇后時代に中国や朝鮮の王朝と外交しなくなって、「記紀」の記述と合致した。
まとめ
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争は、超天才の僕が求めた超知識が後世の教本で、後世の誰も覆(くつがえ)せない一大理論で、100%否定できない論理思考で成立して、自分自身が恐いくらい組み上げて、なぜここまで考えられるのか分からない。
20年間の歴史研究は、ずっと論理的根拠を試行錯誤して、一から作り上げた汗と涙の結晶で、必死な努力の賜物である。
僕のような超天才は、歴史上で滅多に現れなくて、僕と同等の能力者が出現しない可能性が高くて、僕の資料を見ても相当な苦労を重ねて、圧倒的な領域に至る道筋である。
<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『この一冊で「哲学」がわかる!』
白取春彦・著者 株式会社三笠書房・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
岐阜新聞の笹山(ささやま)古墳のネット記事
インターネットの不明サイトから少々拝借
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