倭姫命(やまとひめのみこと)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

倭姫命は古代中国の歴史書で卑弥呼とされて、祖先化されて倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)とされて、神格化された男性の古代太陽神アマテルカミ(天照神)と現在の女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に当たる非常に重要な人物である。
倭姫命は古代中国語で書くと邪馬台卑弥呼で、『ホツマツタエ』のヤマトヒメだと邪馬台卑弥としか書けず、倭迹迹日百襲姫命なら邪馬台台台卑母母蘇卑弥呼と書くと考えられて、「迹迹日百襲」が古代中国語で書いてない以上卑弥呼でないのが明白である。

『ホツマツタエ』の倭姫命の記述を記す。

垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に湯産隅(ゆむづみ)の子の筒木垂根(つつきたるね)の娘である樺井月姫(かばいつきひめ)を皇后に、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妃にされて、皇后が定まって5日にそのお祝いをして、7日に皇后選定後初の棚機(たなばた)の祭礼がされた。
垂仁天皇9年9月16日(西暦160年10月中旬頃)に樺井月姫がある夜、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)から垂(しで;紙で作った飾り)をもらう夢を見て妊娠して、臨月となっても子供が生まれず、病に倒れて3年後の垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に倭姫命を生んだ。
樺井月姫は産後の病状が悪く、翌月10月2日(西暦163年11月上旬頃)に亡くなり、後に筒木樺井月神(つつきかばいのつきのかみ)として皆がなげき悲しみながら祭り上げた。


湯産隅は初代の崇神(すじん)天皇の異母兄弟とされるが、崇神天皇の実兄と考えられる彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物とすれば、湯産隅の子の筒木垂根が彦坐王の子の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と考えられる。
樺井月姫は『ホツマツタエ』だけに登場する皇后で、女王の卑弥呼と勘違いされる倭姫命の実母なのが間違いなく、「記紀」で偽装工作されて歴史から抹消された存在だと考えられる。
迦具夜姫は垂仁天皇の妃の一人だが、おとぎ話の「かぐや姫」と名前が一致するだけなのか関係があるのか不明である。
棚機の祭礼は旧暦7月7日で、現在の七夕(たなばた)が中国の西王母(せいおうぼ)信仰に由来するのに対して、『ホツマツタエ』の棚機が日本古来の祭りで、蚕(かいこ)と機織(はたお)りを祭っている。
樺井月姫の夢に出てきた倭大国魂神は、古代の男性の太陽神だと考えられて、倭姫命が釈迦やイエス・キリストのように特別な出生の物語を伝えている。
『ホツマツタエ』のアマテルカミは母親が8年間も身ごもって生まれてきたとあり、天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化されている倭姫命が3年間も身ごもって生まれてきたと記されて明らかに共通している。
倭姫命の出生は卑弥呼の誕生であり、決して女王でなく王女であるが、古代中国人も現代日本人も見事に勘違いさせられて、固定観念や先入観を利用したものである。
皇后の樺井月姫が死後に筒木樺井月神という名前で祭られたのは、日本神話の神々…八百万(やおよろず)の神々が実在した人物を神格化した根拠だと考えられて、筒木樺井月神が祭られたのが京都府城陽市の樺井月神社だろう。

垂仁(すいにん)天皇22年12月28日(西暦174年1月下旬頃)に皇女で11歳の倭姫命を2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)とするため、若子(わかご)親子が共に伊勢国(三重県中部)に向かった。
鈿女命(うずめのみこと)が倭姫命の髪を大垂髪(おおすべらかし)にゆい上げるために、髪をほどいて落としている間に年が明けて、初日が明けるとともに小原を立ち、伊勢の高宮(たかみや)に入って豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕え、9月(西暦174年10月頃)に倭姫命が粥占(かゆうら)をもって異母兄の誉津別命(ほむつわけのみこと)のことをお祈りした。
垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命が103歳で斎王を続けられないとして倭姫命に見習わせて2代目の斎王として、倭姫命も念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王)になった。


若子親子とは伊勢神宮宮司家の度会(わたらい)氏の出身の人物と考えられて、参考文献『新編 姓氏家系辞書』に大若子命(おおわかごのみこと)と弟の乙若子命(おとわかごのみこと)が記されており、この人物の関係が兄弟でなく親子の間違いである可能性が高い。
度会氏の祖先神に天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)がいて、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が祖先神を火明命(ほあかりのみこと)として、その孫が天村雲命(あめのむらくものみこと)だから、海部氏の派生氏族が度会氏に当たる可能性が高いと考えられる。
大垂髪は「おすべらかし」とも言って、平安時代の貴族女性の髪形で、特別に何もせず長髪を垂(た)らした状態のことを差すこともある。
倭姫命の髪の毛をゆい上げる鈿女命は、日本神話で天岩戸(あまのいわと)隠れに登場する天鈿女命(あめのうずめのみこと)という女神でないかと考えるかもしれないが、単に同名異人だと考えられる。
伊勢の高宮は元伊勢の飯野高宮(いいのたかみや)のことで、候補地が幾つもあってどこが正しいかと言いきることができない。
倭姫命の伊勢神宮斎王任命が卑弥呼共立であり、幼少の倭姫命を伊勢神宮斎王として古代大和朝廷の官人たちが満場一致して選び出したと考えられて、卑弥呼が女王でなく王女としての立場でしかないため、女王とは古代中国人の勘違いに他ならない。

景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に14歳の五百野皇女(いものひめみこ)を新しい伊勢神宮の斎王にして、アマテルカミに九州平定の報告と祝いをして、48歳になった倭姫命は喜んで、「私は歳をとったので斎王としてもはや不足です。わが八十物部(やそもののべ)と十二司(そふつかさ)を五百野皇女に引き渡し仕えさせましょう」と言われた。
五百野皇女を新しいアマテルカミの斎王にして、多気(たけ;三重県度会郡大紀町にある滝原宮)の宮居にてつつしみ仕えさせて、倭姫命は宇治機殿(うぢはたどの)の磯宮(いそのみや;伊勢市にある磯神社)にて静かに余生をすごされ、アマテルカミを日々お祭りすると、長く神のご威光もとどこおらずに照り輝いたのだった。


伊勢神宮の斎王の交代は二度目で、最初が垂仁天皇時代に豊鍬入姫命から倭姫命へ交代したもので、二度目が今回のものであって倭姫命から五百野皇女へ交代したものである。
五百野皇女が滝原宮でアマテルカミを祭り、倭姫命が現在の磯神社に隠居して、そこでアマテルカミを静かに祭っていたと考えられる。
五百野皇女に八十物部と十二司を仕えさせるとあるが、八十物部とは80人の兵士のことだと考えられて、そうすると興味深いことが分かってくる。
神社を武装した兵士が守るのは現在だと想像がつかないが、古代だと当たり前なのでないかと考えさせる書物がある。
『魏志倭人伝』に「宮室樓観城柵、厳設、常有人、持兵守衛」と記されて、卑弥呼のいる宮殿は宮中・楼閣・宮殿の柵を厳重に設置して、いつも人がいて兵士を配置して護衛していたと解釈できて、卑弥呼が伊勢神宮斎王の倭姫命であるため、古代の中国と日本の歴史書の記述が一致すると考えて良いが、景行天皇の皇居と勘違いしている可能性もある。
かつて伊勢神宮が防衛していたというのは、この記述で十分に考えられることである。

『ホツマツタエ』で景行天皇40年が正しくは景行天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)で、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定に出立された。
『日本書紀』で景行天皇60年11月7日(西暦250年12月中旬頃)に景行天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、日本武尊が翌年に大和に戻って来て、皇位継承権争いを止めようとしたが止められなかった。
『ホツマツタエ』で景行天皇46年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に日本武尊を皇太子に立てたのでなく、皇族の誰にも認められず強行即位した日本武(やまとたけ)天皇になったのである。
崇神天皇10年9月17日(西暦251年10月中旬頃)に大彦命は皇居に引き返して、那羅坂(ならさか;奈良市近郊の奈良坂)で少女が歌っていたのを話して諸臣で会議をして、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が賢くて歌の意味を理解して、武埴安彦(たけはにやすひこ;日本武尊を祖先化)が謀反(むほん)を起こそうとして、妻の吾田媛(あたひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を子孫化)と共謀して国を奪おうとしていると告げた。
西暦251年10月中旬頃に武虎別皇子は日本武天皇が妻の伊香色謎命と共に反乱を起こしたことを倭姫命に聞いて、日本武天皇が伯母(おば)の倭姫命の助言が邪魔となって倭姫命を殺して、これが即(すなわ)ち卑弥呼の死の真実で、太陽神殺しとも呼べる行為をして日本武尊抹殺命令が出された。
倭姫命は自殺か事故死したと考えたのは僕の固定観念や先入観で、『ホツマツタエ』の日本神話のスサノヲ(日本武尊を神格化)がハナコ(倭姫命を神格化;「記紀」で天照大神とされる)を機織(はたお)りの先のとがった梭(ひ)で死なせたのが、倭迹迹日百襲姫命が先のとがった箸で陰部を突いて死んだ記述と重なって、日本武尊が倭姫命を殺したのが正しい真実だった。
天照大神も倭迹迹日百襲姫命も先のとがったもので死んで、共に太陽神本人や古代太陽神の妻で共通して、日本武尊に倭姫命が殺されたと考えられる。
倭迹迹日百襲姫命は倭(やまと;大和)の迹(あと;東海平定)の迹(あと;伊勢)で日(ひ)が百人に襲(おそ)われた姫(ひめ)の命(いのち)と解釈できて、古代太陽神アマテルカミを祭る倭姫命が襲撃されて亡くなったことを指し示す名前になっている。
倭姫命は垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれの西暦251年9月17日(西暦251年10月中旬頃)以降に亡くなっているから88歳で亡くなって、生涯を太陽神に仕える巫女として生きて、おそらく自分の考えを曲げることなく貫いて生きたりりしい人物だろう。
倭迹迹日百襲姫命は箸墓(はしはか)古墳に葬礼されたと記されているが、正しく求めると葬られたのが景行天皇と考えられる。
倭姫命という皇女の数奇な運命が歴史の闇に埋もれて、長い間に渡ってひもとかれることがなかったのである。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『新編 姓氏家系辞書』
太田亮・著者 株式会社秋田書店・発行
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