日本武尊(やまとたけのみこと)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

「記紀」に小礁尊(おうすのみこと)や日本童男(やまとおぐな)などの別名が書かれて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)や天穂日命(あめのほひのみこと)などに神格化されている。
日本武尊は出雲と深く関係して、「記紀」以外の他書で天皇とされて、なぜか特別扱いの皇子で、悲劇的英雄として亡くなってなどとされるが、圧倒的に偽装工作された人物で、それをひもといていくために下記する。

『ホツマツタエ』の日本武尊に関する記述を記す。

景行(けいこう)天皇2年5月に吉備津彦(きびつひこ)の娘の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)を皇后にして、その年の12月15日に双子の皇子を生んで、兄が大碓命(おおうすのみこと)で、弟を小碓尊で後の日本武尊である。

吉備津彦は景行天皇の異母兄弟の祖別命(みおやわけのみこと)だが、その娘の播磨稲日大郎姫が架空の系譜…作られた存在で、つまり実在しない作り話の人物だと考えられて、景行天皇2年5月から12月の記述自体が全て嘘で、7ヶ月ないうちに生まれた子供なら未熟児で成長自体が心配されるが何も記されていなくておかしい。

景行天皇4年2月15日(西暦194年3月中旬頃)に景行天皇が美濃国(みののくに;岐阜県南部)に行かれて、その時に諸臣が声をそろえ、「良き姫がいます。名前を八坂高依媛(やさかたかよりひめ)と言い、菊桐(きくきり)の宮(旧久久利村;現在の岐阜県可児市か?)にて菊や桐を植え育てて楽しんでいます。この姫を妃にしてはいかがでしょう」と言った。
景行天皇はそれを聞き、美濃国の高城田(たかぎた)の八坂高依媛のいる菊桐の宮に滞在されて、池に面した宮から池の洲(す)をご覧になると、池を覗(のぞ)く姫がいて景行天皇が妃にしたいと言われた。
その姫が結婚の心得をまっとうすることが自分にとって難しいと考えて、「私は天皇に嫁ぐことを望みません。されば御殿にお召しになるのは遠慮ください。その代わり姉の八坂高依媛は、姿も美しく宮に召し上げられても、きっと操(みさお)を貫くことでしょう」と言って、景行天皇はそれを受け入れて、八坂高依媛と結婚された。
景行天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に新しい皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に帰られて、八坂高依媛を皇后に迎えられた。


景行天皇の本当の皇后は播磨稲日大郎姫でなく、本当の日本武尊を生んだ八坂高依媛しか考えられず、景行天皇が何のためか美濃国に行かれて、皇后の八坂高依媛を見染めたというのが事実だと考えられる。
八坂高依媛の父親は『ホツマツタエ』で初代の崇神(すじん)天皇と八坂振色根姫(やさかふりいろねひめ)の間に生まれた八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)と記されて、八坂入彦命が統治を命じられたのが美濃国だと考えられる。
八坂姫(やさかひめ)と言うと祖母の八坂振色根姫と孫娘の八坂高依媛の2人を差すことになる。
八坂入彦命は崇神天皇の皇子でも比較的遅くに生まれて、八坂高依媛も遅くに生まれた姫だとすると、その親子関係も正しいものだと考えられる。

景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に皇后の八坂高依媛が皇太子の稚足彦尊(わかたりひこのみこと)を生んで、諱(いみな)を高義(たかよし)で名を莵道仁(うちひと)で幼名を武内麿(たけうちまろ)と言うと記されていて、その後に皇后の八坂高依媛が10人以上の皇子と皇女を生んで、景行天皇の寵愛(ちょうあい)を深く受けた証である。

幼名の武内麿がもっと後に生まれる初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前;「たけうちのすくね」とも言う)と重なり、そう呼ばれたのが本当に正しいのか不明である。
八坂高依媛が稚足彦尊を生んだのが莵道麿(うぢまろ)の館で、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)がいたと記されているが、屋主忍男武雄心命が景行天皇の孫なのであり得ず、八坂高依媛が紀伊国を訪れていて稚足彦尊を出産したというのも嘘だろう。
僕は自論で皇太子の稚足彦尊(後の成務(せいむ)天皇)と日本武尊を同一人物とするが、全く何の根拠もない架空の推論でない自信がある。
成務天皇は『日本書紀』に稚足彦尊と記され、日本武尊が別名を小碓尊(おうすのみこと)と記されて、同天皇時代に2人の皇子に「尊(みこと)」が使われた例外がなく、「命(みこと)」より「尊」の方が高位であることを示して、神名ならば歴代天皇や皇后や重要人物を神格化した時に使い、人名ならば国政執行…政治をした人物だけに限られて使うと考えられる。

『古事記』に成務天皇の妃が穂積(ほづみ)氏の建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘の弟財郎女(おとたからのいらつめ)で息子の和訶奴気王(わかぬけのみこ)を生んだと記されている。
『日本書紀』に日本武尊の妃が穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘の弟橘姫(おとたちばなひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を子孫化)で息子の稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだと記され、『ホツマツタエ』に弟橘姫の実父が田道間守(たじまもり)で押山(おしやま)が義理の父親に当たると記されている。
総合すると、弟橘姫の実父が田道間守(祖別命と同一人物)で義理の父親が野見宿禰(のみのすくね)と考えられて、建忍山垂根と忍山宿禰が共通の穂積氏の出身で、日本武尊を架空の人物としたのが成務天皇なら、弟橘姫を架空の人物としたのが弟財郎女で、稚武彦王を架空の人物としたのが和訶奴気王になって、要するに実在の人物と架空の人物が同一人物ということになる。
成務天皇の妃と日本武尊の妃らが共通する名前だということも、成務天皇と日本武尊を同一人物とする有力な根拠である。

日本武尊は『ホツマツタエ』や「記紀」などで特別待遇の皇子で、『常陸国風土記』で「倭武(やまとたけ)天皇」と記されて、『阿波国風土記』で「倭健天皇命(やまとたけのすめらみこと)」と記され、天皇になることなく不遇の死を遂げた人物が他書で天皇と記されるのが明らかにおかしい。
日本武尊は天皇と記されるのが明確な根拠があるからで、成務天皇と同一人物でなければ全て説明ができなくて、皇太子で天皇でもあったなら全てのつじつまが合う。
成務天皇は在位期間が60年でありながら、在位10年足らずの記述しか目立たず、むしろ在位しなかったと考えるのが自然で、日本武尊と同一人物だとすれば架空の天皇としても説明しやすい。

南九州の熊襲(くまそ)王国が再び天皇家にそむいて国々を侵略し始めて、景行天皇27年でなく正しくは景行天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)で、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)によって皇太子の稚足彦尊に熊襲王国を討伐させることになった。
稚足彦尊が、「良き弓の名手がいれば伴として連れて行きたい」と言われて、一同が口をそろえて、「美濃国の弟彦(おとひこ)が弓に秀でています」と申して、そこで景行天皇は葛城宮人(かつらぎみやど)を派遣して弟彦を呼ぶと、石占(いしうら;三重県桑名市付近)の横立(よこたて)、田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちちかいなき)なる者を率(ひき)いて連れて来た。
稚足彦尊はそれらの者を皆従えて、12月(248年1月頃)に南九州に到着されて、稚足彦たちが熊襲らの様子をうかがっているうちに、以前に景行天皇が辺鹿文(へかや)と結婚させた取石鹿文(とりいしかや)が川上で、猛々しい族を集め梟帥(たける)と名乗り、円座をなして宴をもよおしていた。
一体どういう状況か分からないが、稚足彦尊が取石鹿文の胸を剣で刺したのは確かだと考えられて、その時の状況を私見で再現する。
稚足彦尊は今とばかりに剣を抜き取り、取石鹿文の胸を一気に刺し通して、すると胸を刺された取石鹿文が、「今しばらく剣を止めよ。言うことがある」と言うので、稚足彦尊がその言葉に従った。
「お前は誰だ」「景行天皇の子供で、世継ぎの稚足彦尊である」「今まで国の兵も諸人も我に及ぶ者がなく、皆が我に従っていた。君のように勇敢な者はいなかった。身分の低い私が捧(ささ)げる名前を名乗っていただけましょうか」稚足彦尊はそれを承知されると、「今からは日本武尊と名乗りたまえ」と言いながら梟帥の取石鹿文が死んで、日本武尊が弟彦を派遣して仲間の熊襲たちをみな討ち滅ぼさせた。


稚足彦尊はまだ10代で少女の格好をして取石鹿文に近づき、隠し持っていた剣で取石鹿文の胸を刺して殺したと記されるが、根本的に間違っていてあり得ない。
稚足彦尊は40歳を越えていて女装などしてもばれる年齢で、少女の格好をして取石鹿文に近づき殺したのが創作で、稚足彦尊が少女に女装しても大丈夫な年齢の記述に合わせてあり、稚足彦尊が日本武尊と同一人物でないと思い込ませる必要があって、年代の変更がされて分からない人間からしてみれば当然である。
おそらく皇太子の稚足彦尊の全軍と取石鹿文の全軍で交戦したと考えられる。
『ホツマツタエ』の景行天皇40年から43年で、『日本書紀』の景行天皇40年に日本武尊が東海平定に向かって、その旅路で亡くなる悲劇的英雄としての最期が記されているが、全てでないが創作であると考えている。
景行天皇40年が正しくは景行天皇60年(西暦250年)になり、日本武尊が悲劇的英雄などでなく逆賊と呼ばれてもおかしくない行為をしたと考えられる。
景行天皇60年10月2日(西暦250年11月中旬頃)に北陸を日本武尊の異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、東海を日本武尊が吉備武彦(きびたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰をお供に平定に向かって、11月7日(12月中旬頃)に景行天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)された。

『ホツマツタエ』の相模(さがみ;神奈川県の古名)の平定の記述は年代不明だが、日本武尊が神奈川県の平定に間違いなく参加して、その後に皇位継承権争いの起こった大和に帰還したと考えられる。
景行(けいこう)天皇46年1月(西暦251年2月頃)に日本武尊と初代・武内宿禰が大和に不在で、皇位継承権を持つ日本武尊の同母兄弟や異母兄弟の皇子たちによって皇位継承権争いが発生したと考えられる。
景行天皇46年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に日本武尊を皇太子に立てたのでなく、皇族の誰にも認められず強行即位した日本武(やまとたけ)天皇になったのである。
『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇10年9月15日(西暦251年10月中旬頃)に日本武尊より遅れて大和に戻った武虎別皇子は那羅坂(ならさか;奈良市近郊の奈良坂)に至り、自分の異母兄弟ら(皇位継承権争いをする皇子たち)のことを止めるために帰還した。
9月17日(西暦251年10月中旬頃)に武虎別皇子は日本武天皇が妻の伊香色謎命と共に反乱を起こしたことを倭姫命に聞いて、日本武天皇が伯母(おば)の倭姫命の助言が邪魔となって倭姫命を殺して、これが即(すなわ)ち卑弥呼の死の真実で、太陽神殺しとも呼べる行為をして日本武尊抹殺命令が出された。
日本武天皇は山城(京都府南部)からで、伊香色謎命が大坂(奈良県香芝市逢坂付近)と別の道から同時に襲撃を開始してきて、垂仁(すいにん)天皇の皇子の誰かが伊香色謎命を大坂に向かわせて伊香色謎命を討ち破りついに殺して、日本武天皇の討伐に武虎別皇子と和珥(わに)氏の誰かを向かわせた。
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武尊を祖先化)は反乱で戦死したとあるが間違いで、日本武天皇が武虎別皇子に敗れて逃れるためにおそらく大阪府か京都府北部から船団で逃げて出雲王国に亡命したと考えられる。
崇神(すじん)天皇10年の武埴安彦命と妻の吾田媛(あたひめ;伊香色謎命を子孫化)の反乱は、日本武天皇による皇位継承権を巡る内乱だった。

景行天皇41年2月8日(西暦年不明)に日本武天皇は碓井(うすい)の坂(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町の境界の碓氷峠)で亡くなった妻の弟橘媛を想い、吾妻(あづま;我が妻の意味)の伊香色謎命がもう亡くなっている歌を三度詠んでなげいたと記されて、これが東(あずま)の国の名前の始まりだという。
日本武天皇として強行即位した反乱で戦死した妻の伊香色謎命を想って吾妻(東;あずま)と詠んだのが確かだとしても、日本武天皇の居場所が出雲王国で伊香色謎命が亡くなった土地が大和である。
大礒(おおいそ;神奈川県中郡大礒町)から上総(かずさ;千葉県中部)に渡る海路で、弟橘媛が入水自殺して日本武尊がその地方を東(あずま)と呼んで、それが東国を指すのが全て創作である。

『ホツマツタエ』の崇神天皇60年7月14日に崇神天皇がタケヒテルの神宝が出雲(いづも)にあるのを見たいと言われて、兄フリネが弟イイリネを殺したと記されているが、正しくは西暦260年と考えられる。
出雲振根(いずもふりね)が日本武天皇で飯入根(いいいりね)が7代目出雲国王で、この2人が義理の親子関係だと考えられる。
『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇9年に神功(じんぐう)皇后が朝鮮の新羅(しらぎ)を討伐しようとしたと記されているが、正しくは出雲王国の討伐であると考えられる。
仲哀天皇9年2月5日(西暦260年)に仲哀天皇が出雲王国との戦争で負傷して、翌日に戦死されたと考えられて、正妻の神功皇后が義父の日本武天皇の討伐を決意したと考えられる。
仲哀天皇9年(西暦260年)に神功皇后は出雲王国に大軍を送り、出雲国王の飯入根に戦闘の意思がなく三種の神器などを返したことから討伐しなかったが、怒った日本武天皇が婿(むこ)養子の飯入根を殺して、日本武天皇を吉備武彦と武渟川別の軍勢が殺して全てが終わることとなった。
宮内庁指定の成務天皇陵や日本武尊陵は全て間違いで、正しく求めると成務天皇陵がどこにも存在するはずがなく、日本武尊陵が大和か出雲のどちらにあるのかも分からない。
素戔嗚尊と天穂日命は日本武尊を神格化していて、その子孫の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が代々続く名族で、出雲王国と日本武尊の関係があまりにも深い。
出雲王国崩壊は西暦260年神無月で、飯入根と日本武尊の戦死もこの時期で、出雲王国崩壊を神話化したのが出雲の国譲り神話である。

日本武尊を英雄として悲劇的な最期を遂げさせる物語を創作したのは、天下の大罪人であることを隠すためであって、古代天皇家の汚名にしないための配慮だったと考えられる。
しかし分かる人間からしてみれば、嘘・偽りで塗り固められた日本武尊という人物の評価は、決して許されない大罪をおかした人物であることが変わらない。
日本武尊は謎に包まれた人物とされるが、僕からすると運命に翻弄(ほんろう)された悲劇的な人物として映(うつ)っていて、このホームページの真実が僕の出版していない3冊目の本が詳しい。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

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