「横並び」に安住しない気構えを持て

人生で一番大切なキーワード、できない理由を探すな
中村修二博士は半導体の研究をする時に量子力学を勉強していなければならないのだが、勉強せずとも半導体の実験結果を理解していれば良いと考えていたという。

僕は古代日本史に考古学と歴史学の知識がなくても求められると考えており、僕が考古学を新聞記事や参考文献を読む程度で、歴史学が全く学んだことなく全く独学で歴史書を自分なりに訳したのであって、「好きこそ物の上手なれ」という言葉の通り好きなだけの人間が何より才能を発揮しただけで、歴史が好きなだけで専門家を出し抜く人間もいるのである。
僕はいつコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を身に付けたか分からないが、古代日本史をひもとくことを運命付けられた人間であり、大した専門知識がなくとも解釈できる能力をいつの間にか体得していた。
「好きこそ物の上手なれ」という言葉の通り実力を発揮できる人がいるとすれば、中村修二博士や僕みたいにずいぶん才能のある人間に限られて、運命に味方された人くらいのものかもしれない。
人生で一番大切なキーワードなのか分からないが、できない理由を探さないことはどんなことをするにも大切なはずで、勉強していないことでも我流でやり方を探して進むことができるはずである。

このくやしさをバネにできる人できない人
中村修二博士が半導体研究をしだした当初は、最先端の技術が必要でも情報も装置もそろわない最悪の状態で、地方の名もない会社というだけで相手にされなかったことをくやしく思いながら、一人で頑張って開発して成功すると周囲の反応が手のひらを返したようになったという。

僕は最初の著書で八百万(やおよろず)の神々の正体を求めて『魏志倭人伝』の完全解釈をして、古代日本史で確実な解答を求めたが全く知名度のないシロウトで相手にされず、アインシュタイン博士クラスの天才であることを隠し続けてきた。
だから僕は3冊目の著書でアインシュタイン博士以上の天才であることを明かして、僕以外の誰も古代日本史の解釈を求められるわけがないことを述べ、日本どころか世界中が注目する圧倒的な存在となった。

アインシュタイン博士以上の天才という肩書きがなければ評価されなかったことがくやしいが、事実そういうのが人間の素直な反応であって、僕ほどの人間になると評価されなかったのが当然なのは仕方ない。
僕の最初と2冊目の著書は、他人からするとただの論理飛躍にしか捕らえられず、凡人も専門家もただすごいもの一言で終わるだけで、なぜそういう結論に達するのか時代の頭脳や知識が追い付かず、アインシュタイン博士の特殊相対性理論が当時理解されなかったのと同じだった。

僕やアインシュタイン博士のような偉人は、時代の頭脳や知識が追い付かない超頭脳の持ち主であって、理解されるのにある程度の時間が必要だったのである。
理解されないくやしさをバネに僕は理解されるように努力して、勝利を勝ち取ったようにバネにできる人間だったわけで、できない人間ならそこが限界なだけである。

一つのことに熱中する根気があるか?
中村修二博士は独創的な人間とそうでない人間を分けるのが、一つのことに熱中できる根気があるかないかでないかという。
ノーベル物理学賞を受賞したファイマン博士は、とにかく自分の実験室で道具を買い集めて自分だけの実験装置を念入りに作り上げる子供で、とにかく根気だけがあったと言っているらしい。

独創性…特に「ひらめき」の強い人間は、発明王エジソンが千件以上も発明できたように、一つのことに熱中する根気が圧倒的にすごかったからからだろう。
僕は一つのことに熱中する根気があるかと聞かれても自覚がないが、古代日本史研究で一つの情報をとことん探求して他の知識と組み合わせることに関して妥協せず、無駄な時間を過ごしていたと一切思わなくて、むしろ解釈に時間をかけるのが当然だと思っている。
たとえば日本武尊(やまとたけのみこと)は、「記紀」で特別扱いの皇子であることや出雲建(いずもたける)を殺したことや他の歴史書で天皇と記されることなどを研究して、僕の3冊目の著書で見事に解答している。
僕が日本武尊の例をひもとけたのは、一つのことに熱中する根気があったからか分からないが、その情報の正当性を信じて細かく研究した結果だった。
一つのことに熱中する根気は、意識せずに自然とやっていればできるもので、一人で考える「ひらめき」が強ければ自然と結果もついてくると思う。

百の未完成品よりも一つの完成品を経験せよ
中村修二博士は百の未完成な物を経験するより、一つの完成品を作ることの方がどんなに大切か知り、研究開発がどんな場合でも未知の分野がどこかに現われて、すぐ製品が完成するようなら何ら研究開発でないという。

僕の2冊目の著書『続・私の半生と古代日本史』に記していることで、僕が古代日本史研究を始めて偶然の発見をしたのが22歳の誕生日頃で、2002年12月の年末頃に垂仁(すいにん)天皇時代の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が倭国大乱に当たる可能性を思い付いたが、なぜこの2つを結び付けたのか忘れたが邪馬台国論争の試行錯誤をし始めたと書いている。
僕は約半年間に渡って邪馬台国論争の試行錯誤をしており、幾つもの考え方を出して論理的根拠からつぶし続けて、結果的に邪馬台国論争に決着をつけたのが2003年5月頃で、僕の最初の著書で邪馬台国論争の正当性を述べているが、ほとんど相手にもされなかった。
僕は邪馬台国論争に関して幾つもの仮説を組み立て、自問自答しながら完全解釈するきっかけを得たもので、このことが古代日本史研究を深く考えるようになる第一歩だった。
僕の場合だと百もの未完成品を作っていないが、邪馬台国論争の自論成立の経験をすることが重要だったわけで、それが後の古代日本史研究を進める上で役立った。

要は人の目にとまること
中村修二博士が日亜化学の開発課に配属されてから十年間で3つの製品を開発して、その実績を当時の社長に評価されて彼の要求する予算をポンと出されて、大切なのはどんなに小さなことでも誰かの目にとまることだという。

2004年5月8日の午前2時から3時までの約一時間、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の第82代目・海部光彦(あまべみつひこ)宮司にお会いして、古代日本史研究の成果を初めて話した人物である。
海部光彦宮司は僕の話に哲学的な物を感じたのか、アインシュタイン博士が哲学をされていたことを話し、僕に哲学の勉強をすると良いだろうとすすめて下さった。
その話を聞いて僕は哲学の参考本を一冊購入して哲学を勉強してみて、後に僕のコペルニクス的転回「自己認識の再構築」がフッサールの提唱した現代哲学理論「現象学」に近い考え方だと考えるきっかけとなり、海部光彦宮司の目にとまったことが大切なことだった。

2007年9月に僕の最初の著書を出版して古史古伝『ホツマツタエ』の第一人者である池田満氏のもとに送って、返事にいただいた手紙で『ホツマツタエ』のもう一人の第一人者である鳥居礼氏を超えている本でないかとまで誉められて、池田満氏の目にとまったことが何よりうれしかった。

2007年9月に僕の最初の著書を出版して25ヶ所の考古学研究室のある大学に送ったが、返事の来た手紙に書いてあることは参考本にさせていただきますという程度で、僕がアインシュタイン博士クラスの天才であることを隠していたからかそんな反応だった。
大切なのは自分の実力を評価してくれないことがつらくても、少しでも自分を理解してくれる人の目にとまったら、それをバネにして努力できるかどうかということだろう。

成功はデータでなく執念でもぎ取れ
中村修二博士は一流大学を出て一流企業に入社したような人たちの場合、ある意味で成功体験ばかり繰り返してきた人たちで、常にまず成功の確率をどれくらいか色々なデータで始める前に結果を考えて、確率が低いと計画を中止して確かに安全な方法に違いないという。
だがデータが過去の情報の集まりでいかに多く集めても未来の扉が開けず、成功の確率が低くても一発当てるといったチャレンジ精神が大きな扉を開けることになるという。

考古学者は過去から現在まで発掘してきた考古学的証拠を根拠に、自分たちで歴史書の一部に符合させて結論を出して、それをメディアなどで大々的に知らせることが多い。
歴史学者は過去から現在までの歴史書解釈を使って、考古学的証拠と合致する点を見つけ出そうと躍起になる。
しかし考古学も歴史学も「記紀」の「嘘・偽り」が分からず、常識に捕らわれて根本的に何が正しいか間違いか判断できなくて、古代日本史の迷宮に迷い込まされていた。

古代日本史研究で僕は、過去の情報の集まりであるデータの歴史書や考古学的証拠を大量に集めて、それを一つずつ徹底的に検証していって非常識的な可能性をさぐって、それを一つの非常識的な可能性としてどんどん組み合わせていって解答を導き出した。
過去の情報の集まりであるデータは、ただの塊(かたまり)でしかなく未来に向けてどう活用するかで、それを生かすも殺すも研究者の判断次第である。
データに頼っても常識か非常識のどちらで考えるかによって、根本的に変わってくることがあって僕のように非常識的な考え方が大きいと見えることもあり、コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)の強みである。

<参考文献>
『「バカになれる男が勝つ!」』
中村修二・編者 株式会社三笠書房・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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