黄泉国下(よみのくにくだ)り神話

『記紀』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

するとハナキネは、民の大切な御山木(みやまぎ)まで焼いてしまわれた。
母君(イサナミ)は、それをお防ぎになろうと、火の神のカグツチを勧請(かんじょう)したが、逆にその火の神に御身を焼かれてしまって、お亡くなりになった。
イサナミは、まさに神上がろうとする時、土の神のハニヤス、水の神のミズハメ、火の神のカグツチを勧請して、ハニヤスがワカムスビを請求して、ワカムスビが養蚕・農耕をお広めになった。
これらは、皆が天界より授かったウケミタマの神々である。
イサナミの亡骸(なきがら)は、熊野の有馬にお納(おさ)めして、季節の花と稲穂(いなほ)を供(そな)え祭った。


花杵(はなきね;素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)でなく、火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を稲城(いなき)から避難させた伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)は、火の神で実兄の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)のいる稲城(いなき)に戻ると、兄妹共に炎上する城で焼死した。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、亡くなって魂が天界に行こうとする時、土の神の埴安神(はにやすのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化か?)と水の神の罔象女(みつはのめ;誰を神格化したか不明)と火の神の軻遇突智(かぐつち)を願い求めて、埴安神(はにやすのかみ)が稚産霊(わくむすび;誰を神格化したか不明)を求めて、稚産霊(わくむすび)が養蚕と農耕を広めた。
これらの神は、皆が天界より授かった倉稲魂命(うかのみたまのみこと;誰を神格化したか不明)の神々である。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)と兄の軻遇突智(かぐつち)の魂は、三重県熊野市有馬の花の窟(いわや)神社に納(おさ)めて、季節の花と稲穂(いなほ)を供(そな)え祭った。


黄泉国下(よみのくにくだ)り神話は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)から垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)前半の狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反(むほん)を神話化して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん)に当たる。

狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の兄妹は、反乱の最終決戦の地である三重県熊野市の炎上する稲城(いなき)で亡くなって、遺体が燃え残らなくて、2人を神格化した母の伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を葬礼した花の窟(いわや)神社に魂を祭った。
稚産霊(わくむすび)は、農耕の神で、後世に食事を受け持つ豊受大神(とようけおおかみ)が男性から女性に代わって、稚産霊(わくむすび)の娘を豊受大神(とようけおおかみ)としたのが後世の拡大解釈である。
土の神の埴安神(はにやすのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)と合致して、埴安神(はにやすのかみ)を含む3神が倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とどのような関係があるのか資料が少なすぎて分からない。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)の神生み神話は、5神以外の神々が後世の拡大解釈が子供で、本当の所が神々を呼び出した。

ココリヒメは、悲報を親族にお知らせになった。
イサナキは、その悲しい知らせをお聞きになると、イサナミをお納(おさ)めした山の洞(うろ)まで行かれて、イサナミにお会いになろうとした。
イサナキの妹のココリヒメは、『君よ、ご覧になってはいけません』とお止め申し上げたが、イサナキがそれをお聞きにならず、『悲しいから来たのではないか、この気持ちが分からぬか』とおっしゃって、ユツの黄楊櫛(つげぐし)の雄取(をと)り歯を折られ、それを手火(たび)として、イサナミの亡骸(なきがら)をご覧になった。
するとイサナミのお体は、蛆(うじ)がたかって、『なんと醜いことであろう。汚(けが)らわしい』と、悲嘆(ひたん)にくれながら足を引き引き、坂道を下ってお帰りになって行かれた。
しかしまだ未練のあるイサナキは、その夜また洞(うろ)に行かれて、イサナキが悲しみのあまり気を失ってしまわれると、亡くなったはずのイサナミの御神霊が顕(あら)われて、『ここにはお入れしません。わたくしに恥をかかせましたことを恨(うら)みに思います』とおっしゃって、醜女(しこめ)八人にイサナキを追わせた。
イサナキは、必死になって持っていた剣を振りながら逃げて、葡萄(えび)を投げると、卑(いや)しい醜女がそれを取って食べて、イサナキがその隙(すき)を見てお逃げになると、醜女(しこめ)が再び追って来た。
今度は、竹の櫛(くし)を投げると、醜女(しこめ)たちがこれもまた噛(か)んで追って来るので、イサナキが近くにあった桃の木にお隠れになり、桃の実を投げて、桃の実のゆかしい力が照り輝くと、醜女(しこめ)たちが恐れ退(しりぞ)き、酔ったようにふらふらになってしまった。
これによって櫛(くし)は、魔を払う黄楊(つげ)をよしとして、桃の名も追う神(かん)つ実(み)と讃(たた)えたのである。
幽界に入り込んでいらっしゃったイサナキは、正気を取り戻された時、黄泉(よもつ)の平坂(ひらさか)でイサナミと言立(ことだ)ちをされた。
イサナミがおっしゃるには、『うるわしき君よ、もしも妻の死を追って来るようなことがあれば、日々千人を殺すでありましょう』と。
するとイサナキは、『うるわしきお前よ、私は、それ以上の千五百(ちいも)の小田(おだ)を生む民を豊かにして、悲しみにまどわされいつまでもくよくよせずに、生をまっとうし過(あやま)ちのないことを守りとおすであろう。
黄泉(よもつ)の洞(うろ)の平坂(ひらさか)は、わたしが息絶えている間の過ちを塞(せ)き止める限り岩だ。
わたしはこれらのことを誓い、道をひき返す道返(ちかえ)しの神であるぞ』と。
イサナキは、今までのことを悔(く)やみながら引き返して行かれたのであった。


軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の娘の菊桐姫(ここりひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)は、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の死を皇族に知らせた。
その知らせを聞いた伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は、亡くなった妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に会うために稲城(いなき;山の洞)まで行って、伊弉冉尊(いざなみのみこと)に会おうとした。
菊桐姫(ここりひめ)は、『君よ、行ってはいけません』と止めたが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がそれを聞かず、『妻が亡くなって悲しいから来たのだ、この気持ちが分からないのか』と言われて、湯津(ゆつ;心身を清めて祭り付く)の櫛(くし)の両脇にある太い歯を折られて、それを手に持つ灯火(ともしび)で、伊弉冉尊(いざなみのみこと)のいる所に向かわれた。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の焼死体を見て、遺体が消し炭(ずみ)に包まれて、『なんと醜く汚らわしい』と悲嘆にくれながら足を引いて、稲城(いなき;山の洞)の坂道を下って帰られた。
妻子を取り戻したい未練のある伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、再び稲城(いなき;山の洞)に行かれて、悲しみのあまり立ちつくされると、夫の元を去ったはずの伊弉冉尊(いざなみのみこと)が我が子の火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を抱いて現われて、『もしこの子を天皇の子と思うなら引き取ってお育て下さい』と言って、夫の寵愛(ちょうあい)を受けて、恨(うら)んでいなかった。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、妻子を取り戻すために力強く足の速い兵士(醜女(しこめ)8人)を選んで、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が抱いた火夜子(ひよるこ;剣)を受け取った兵士(醜女(しこめ)8人)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)も捕らえようとすると、逃げられて髪(葡萄(ぶどう);「えび」の名称が古名)を握(にぎ)るとそれが取れて、その隙(すき)に伊弉冉尊(いざなみのみこと)が逃げて兵士(醜女(しこめ)8人)が再び追って来た。
兵士(醜女(しこめ)8人)は、今度が手(竹の櫛(くし)を握(にぎ)ると、手に巻いた玉の緒が切れて、伊弉冉尊(いざなみのみこと)のお召し物(桃の木)を握(にぎ)ると、すぐに破れて、兵士(醜女(しこめ)8人)たちがついに伊弉冉尊(いざなみのみこと)を捕らえられず後悔した。
これによって櫛(くし)は、魔を払う黄楊(つげ)を良(よ)しとして、桃の名も追う神(かん)つ実(み)と讃(たた)えた。
稲城(いなき;山の洞)は、炎上して正気を取り戻された伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が稲城(いなき;山の洞)の外の坂道(黄泉(よもつ)の平坂(ひらさか)で、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)と言葉を交わして言って、『うるわしき君よ、もしも妻の死を追って来れば、日々千人を殺すでしょう』と。
すると伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、『うるわしきお前よ、私はそれ以上の千五百の小田を生む民を豊かにして、悲しみに惑わされていつまでもくよくよせずに、生をまっとうし過ちのないことを守り通そう。
稲城(いなき;山の洞)の外の坂道(黄泉(よもつ)の平坂(ひらさか)は、私が息絶えている間の過ちを塞(せ)き止める限り岩だ。
私はこれらのことを誓(ちか)って、道をひき返す道返(ちかえ)し(誓(ちか)えし)の神である』と。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、亡くなった妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)のことを悔やみながら、大和に引き返して行かれた。


軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の娘の菊桐姫(ここりひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の頃に生まれたと考えられる。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)が伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の遺体を見たのは、稲城(いなき;山の洞)で語っているのが後に来るのが狭穂姫(さほひめ)の死を神話化するために前後した結果である。
醜女(しこめ)8人に追われる伊弉諾尊(いざなみのみこと)は、醜女(しこめ)8人と伊弉諾尊(いざなみのみこと)が兵士と狭穂姫(さほひめ)に入れ替わって、『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の記述から分かる。
黄楊櫛(つげぐし)と桃は、古来より破邪退魔の力があると考えられていた。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は、誓(ちか)えしの神と言うのが伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)との約束で、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘を皇后や妾(めかけ)に迎える誓(ちか)いを守ったからだと考えられる。

僕が歴史研究で初めて求めたのは、『日本書紀』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が合致して、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉平坂(よもつひらさか)を登り逃げる所と狭穂姫(さほひめ)が誉津別命(ほむつわけのみこと)を兵士に渡して稲城に入る所が合致して、史実(歴史上の事実)を神話化したと気付いた。
『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』とも全く異なる伝承で、最も正確に伝承して、『ホツマツタエ』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話が伝承を何重にも神話化したことを証明できて、京都の民話『山姥(やまんば)と馬吉』に民間伝承したとも気付いた。
『ホツマツタエ』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)は、合致したのが海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と共に僕が最も分かりやすく、神格化したと考える日本神話である。

軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の子孫は、雷神の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と火の神様と水神と土の神様と山の神様で、狭穂彦王(さほひこのみこ)が物部(もののべ)氏で、物部(もののべ)氏の直系子孫が雷神と火の神様と水神と土の神様に神格化して、明らかに共通する。
軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の子孫は、確実に物部(もののべ)氏の血筋で、僕の色々な史料に細かく記すが、覚えてない所が多いため記さず、他人(僕以外の人間)が参考にして、分析・研究してほしい。

参考文献『歪(ゆが)められた日本神話』(著者・萩野貞樹 発行・PHP研究所)は、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話とギリシア神話のオルフェウス神話で、共通性の確立が何十万分の一の可能性と書かれて、古代ギリシアの何らかの戦争が神話化されて、古代天皇家の先祖がギリシア神話を作ったのが間違いないと考えられる。

黄泉国下(よみのくにくだ)り神話は、『ホツマツタエ』を基(もと)にして、出版していない6冊目の本に記す『ホツマツタエ』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話を記した。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借

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