黄泉国(よみのくに)下り神話
これは出版していない6冊目の本の記述である。
『ホツマツタエ』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。
するとハナキネは民の大切な御山木(みやまぎ)まで焼いてしまわれた。
母君はそれをお防ぎになろうと、火の神であるカグツチを勧請(かんじょう)されたのだが、逆にその火の神に御身を焼かれてしまい、お亡くなりになってしまわれた。
イサナミはまさに神上がろうとされるときに、土の神であるハニヤス、水の神であるミズハメ、火の神であるカグツチを勧請され、ハニヤスがワカムスビを請求された。
このワカムスビは養蚕・農耕をお広めになった。
これらはみな天界より授かったウケミタマの神々である。
イサナミの亡骸(なきがら)は熊野の有馬にお納めし、季節の花と稲穂を供(そな)え祭った。
花杵(素戔嗚尊;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)でなく火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を稲城(いなき)から避難させた伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)は、火の神で実兄の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)のいる稲城に戻ると、兄妹共に炎上する城で焼死された。
伊弉冉尊が亡くなって魂が天界に行こうとする時、土の神の埴安神(はにやすのかみ;誰を神格化したか不明)水の神の罔象女(みつはのめ;誰を神格化したか不明)と火の神の軻遇突智を願い求めて、埴安神が稚産霊(わくむすび;誰を神格化したか不明)を求めた。
この稚産霊は養蚕と農耕を広めた。これらの神は皆が天界より授かった倉稲魂命(うかのみたまのみこと;誰を神格化したか不明)の神々である。
伊弉冉尊と兄の軻遇突智の魂は三重県熊野市有馬の花の窟(いわや)神社に納めて、季節の花と稲穂を供え祭った。
狭穂彦王と狭穂姫の兄妹は反乱の最終決戦の地である熊野市の炎上する稲城で亡くなって、遺体が燃え残らなかったことから2人を神格化した伊弉冉尊(狭穂姫)と軻遇突智(狭穂彦王)を葬礼した古代信仰の花の窟神社に魂を祭った。
稚産霊は農耕の神で、後世に食事を受け持つ豊受大神(とようけおおかみ)が男性から女性に代わって、稚産霊の娘を豊受大神としたのが後世の拡大解釈である。
3神が倉稲魂命とどのような関係があるのか資料が少なすぎて分からない。
伊弉冉尊の神生み神話は、5神以外の神々が後世の拡大解釈で子供とされて、本当の所が神々を呼び出した。
ココリヒメは悲報を親族にお知らせになった。
イサナキは、その悲しい知らせをお聞きになると、イサナキをお納めした山の洞まで行かれて、イサナミにお会いになろうとされた。
イサナキの妹のココリヒメは、『君よ、ご覧になってはいけません』とお止め申し上げたのだが、イサナキはそれをお聞きにならず、『悲しいから来たのではないか、この気持ちが分からぬか』とおっしゃって、ユツの黄楊櫛(つげぐし)の雄取(をと)り歯を折られ、それを手火(たび)としてイサナミの亡骸(なきがら)をご覧になった。
するとイサナミのお体には蛆(うじ)がたかっていたのである。
『なんと醜いことであろう。汚(けが)らわしい』と、悲嘆(ひたん)にくれながら足を引き引き、坂道を下ってお帰りになって行かれた。
しかしまだ未練のあるイサナキは、その夜また洞に行かれたのである。
イサナキは悲しみのあまり気を失ってしまわれると、亡くなったはずのイサナミの御神霊が顕(あら)われ、『ここにはお入れしません。わたくしに恥をかかせましたことを恨(うら)みに思います』とおっしゃって、醜女(しこめ)八人にイサナキを追わせたのである。
イサナキは必死になって持っていた剣を振りながら逃げ、葡萄(えび)を投げると、卑(いや)しい醜女はそれを取って食べた。
イサナキはその隙を見てお逃げになると、醜女は再び追って来た。
こんどは、竹の櫛を投げると醜女たちはこれもまた噛(か)んで追ってくるので、イサナキは近くにあった桃の木にお隠れになり、桃の実を投げた。
桃の実のゆかしい力が照り輝くと、醜女たちは恐れ退(しりぞ)き、酔ったようにふらふらになってしまった。
これにより、櫛は魔を払う黄楊(つげ)をよしとし、桃の名も追う神(かん)つ実(み)と讃(たた)えたのである。
幽界に入り込んでいらっしゃったイサナキは正気をとりもどされるときに、黄泉(よもつ)の平坂(ひらさか)でイサナミと言立(ことだ)ちをされた。
イサナミがおっしゃるには、『うるわしき君よ、もしも妻の死を追って来るようなことがあれば、日々千人を殺すでありましょう』するとイサナキは、『うるわしきお前よ、わたしは、それ以上の千五百(ちいも)の小田(おだ)を生む民を豊かにして、悲しみにまどわされいつまでもくよくよせずに、生をまっとうし過(あやま)ちのないことを守りとおすであろう。
黄泉の洞の平坂は、わたしが息絶えている間の過ちを塞(せ)き止める限り岩だ。わたしはこれらのことを誓い、道をひき返す道返(ちかえ)しの神であるぞ』イサナキはいままでのことを悔(く)やみながら引き返して行かれたのであった。
軻遇突智(狭穂彦王を神格化)の娘の菊桐姫(ここりひめ;欝色謎命(うつしこめのみこと)を神格化)が伊弉冉尊(狭穂姫を神格化)の死を皇族に知らせて、その知らせを聞いた伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は、亡くなった妻の伊弉冉尊に会うために稲城(山の洞)まで行き、伊弉冉尊に会おうとされた。
菊桐姫が『君よ、行ってはいけません』と止めたが、伊弉諾尊はそれを聞かず、『妻が去って悲しいから来たのだ、この気持ちが分からないのか』と言われて、湯津(ゆつ;心身を清めて祭り付く)の黄楊櫛の両脇にある太い歯を折られ、それを手に持つ灯火(ともしび)として伊弉冉尊のいる所に向かわれた。
伊弉諾尊は伊弉冉尊の焼死体を見て、伊弉冉尊の遺体が消し炭(ずみ)に包まれていて、『なんと醜く汚らわしい』と悲嘆にくれながら足を引いて、稲城の坂道を下って帰られた。
妻子を取り戻したい未練のある伊弉諾尊は稲城(洞)に行かれて、伊弉諾尊が悲しみのあまり立ちつくされると、夫の元を去ったはずの伊弉冉尊が我が子の火夜子(誉津別命を神格化;御神霊)を抱いて現われて、『もしこの子を天皇の子と思うなら引き取ってお育て下さい』と言って、伊弉冉尊が夫の寵愛(ちょうあい)を受けて恨んでいなかった。
伊弉諾尊は妻子を取り戻すために力強く足の速い兵士(醜女8人)を選んで、伊弉冉尊が抱いた火夜子(剣)を受け取った兵士が伊弉冉尊も捕まえようとすると、逃げられて髪(葡萄(ぶどう);「えび」という名称は「ぶどう」の古名)を握るとそれが取れて、その隙に伊弉冉尊が逃げて兵士(醜女)が再び追って来た。
兵士が今度は手(竹の櫛)を握ると手に巻いた玉の緒が切れ、伊弉冉尊のお召し物(桃の木)を握るとすぐに破れ、兵士(醜女)たちがついに伊弉冉尊を捕らえられず後悔した。
これによって櫛は魔を払う黄楊を良(よ)しとして、桃の名も追う神つ実とたたえた。
稲城(幽界)が炎上して正気を取り戻された伊弉諾尊は、稲城の外の坂道(黄泉の平坂)で妻の伊弉冉尊と言葉を交わして、伊弉冉尊が言って『うるわしき君よ、もしも妻の死を追って来れば、日々千人を殺すでしょう』と。
すると伊弉諾尊は、『うるわしきお前よ、私はそれ以上の千五百の小田を生む民を豊かにして、悲しみに惑わされていつまでもくよくよせずに、生をまっとうし過ちのないことを守りとおそう。稲城の外の坂道(黄泉の洞の平坂)は、私が息絶えている間の過ちを塞き止める限り岩だ。私はこれらのことを誓って、道をひき返す道返し(誓えし)の神である』と。
伊弉諾尊は亡くなった妻の伊弉冉尊のことを悔やみながら、大和に引き返して行かれた。
軻遇突智(狭穂彦王)の娘の菊桐姫(欝色謎命)は、狭穂彦王の息子である野見宿禰(のみのすくね)の娘とする考え方を最初にしたが、黄泉国(よみのくに)下り神話に直接登場して、狭穂彦王と欝色謎命が親子なのが間違いないと考えられる。
垂仁天皇が皇后の狭穂姫の遺体を見て、稲城で語っているのが後に来るのは、狭穂姫の死を神話化するために前後した結果である。
醜女8人に追われる伊弉諾尊は、伊弉冉尊と入れ替わるのが『古事記』の狭穂彦王の反乱の記述から分かる。黄楊櫛と桃は古来より破邪退魔の力があると考えられていた。
伊弉諾尊(垂仁天皇)を誓えしの神と言うのは、伊弉※冉尊(狭穂姫)との約束で丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の娘を皇后や妃に迎える誓いを守ったからだと考えられる。
僕は古代日本史研究で初めてアインシュタイン博士クラスのコペルニクス的転回を発揮したのが、黄泉国下り神話と狭穂彦王の反乱の一致に気付いた時で、京都の民話『山姥(やまんば)と馬吉』が黄泉国下り神話を民間伝承したものと気付かなかったのが不思議である。
『古事記』の狭穂彦王の反乱は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』とも全く異なる伝承で、最も狭穂彦王の反乱を正確に伝承したと考えられる。
『ホツマツタエ』の黄泉国下り神話は、狭穂彦王の反乱を何重にも神話化したことが証明できる。
<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼編・著者 八幡書店・発行
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