吉野ヶ里(よしのがり)遺跡
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、1986年に発見されて邪馬台国(大和国;やまとこく)の九州説の王都かと騒がれたが、それが間違いと僕が考古学と歴史学の合致で見事に求めて、佐賀県神埼(かんざき)郡吉野ヶ里(よしのがり)町と神埼(かんざき)市にまたがって、弥生時代の大規模な環濠集落で、国の指定史跡として国営吉野ヶ里(よしのがり)歴史公園となった。
都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡は、景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の王都(皇居)で、超天才の僕が古代天皇家の実在を証明して、畿内説と九州説が不毛の論争で、2024年7月2日の午前11時頃に修正した。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、弥生時代前期(紀元前4世紀頃)から後期(3世紀頃)の集落遺跡で、前期の集落がごく小さなもので次第に発展して、中期に墳丘墓を作るようになって、後期が環濠集落の最盛期で、外濠(そとぼり)と内濠(うちぼり)の二重の環濠が作られて、大規模な防御施設を作り上げた。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、濠(ほり)で周りをかこんで、城柵を設(もう)けるなど日本最大級の環濠集落である。
さらに巨大な環濠集落を取り巻く濠(ほり)の内外は、木柵や土塁(どるい)や逆茂木(さかもぎ)など敵の侵入を防ぐ設備があって、内部に内郭(ないかく)と呼ぶ区画が南北2ヶ所あって、ここも土塁(どるい)と濠(ほり)で囲むと同時に見張りや威嚇のための物見櫓(やぐら)が複数あった。
これは『三国志・魏志倭人伝』の記述の宮室と楼観と城柵などを想像するが、完全な間違いと証明して、記述に合致するのが武装した伊勢神宮内宮か、景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや;纏向(まきむく)遺跡)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都(皇居)のどちらかである。
内郭(ないかく)の内外で発見した遺構は、竪穴(たてあな)住居と高床(たかゆか)住居、祭祀(さいし)した主祭殿と東祭殿と祭堂など、食料を保管する高床(たかゆか)式倉庫と貯蔵穴と土坑(どこう)、青銅器の製造跡なども見つかった。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡が要塞(ようさい)になった理由は、吉野ヶ里(よしのがり)が北部九州で、有数の物流や生産の集落遺跡で、富(とみ)と恵まれた環境と豊かな実りなどが敵の侵入を生んで、外敵から守る防御の理由になったが、邪馬台国(大和国;やまとこく)の統治下に入って、国主のいる都になったからかもしれない。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、2千基以上の甕棺墓(かめかんぼ)が出土して、埋葬された人骨で頭部のない物、腕や肩に刀傷のある物、腹部に複数の矢が刺さった物などがあって、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦292年から209年)の九州平定の戦死者を含む可能性がある。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、甕棺墓(かめかんぼ)の他に石棺や土壙墓(どこうぼ)もあって、住民や兵士などを葬礼したと考えられて、遺跡の北部と南部に墳丘墓があって、統治する首長か邪馬台国(大和国;やまとこく)が任命した国造(くにみやつこ;国主)を葬礼した可能性が高い。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦292年から209年)以降に九州各期の統治者…つまり国造(くにみやつこ;国主)か県主(あがたぬし)を置いた集落遺跡の可能性がある。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、遠浅(とおあさ)の干潟(ひがた)の有明海(ありあけかい)と筑後川(ちくごがわ)水系の河川などの水運にも恵まれて、海の幸(さち)の食材も恵まれていた。
2023年5月29日に佐賀県知事の記者会見は、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の謎(なぞ)のエリアで、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の石棺墓(せっかんぼ)を発見したと発表して、石棺墓(せっかんぼ)が地面に穴を掘って、石材で囲(かこ)いを作って、その上から石で蓋(ふた)をした物で、有力者の墓(はか)と考えられるが、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王墓(おうぼ)が絶対にあり得ない。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の謎(なぞ)のエリアは、遺跡のほぼ中央にあって、神社が邪魔になって、発掘調査ができなくて、謎(なぞ)のエリアと呼ばれたが、今回の発掘調査で、石棺墓(せっかんぼ)が出土して、対して大騒ぎする発見でない。
その後に出土した弥生時代中期の遺物は、剣と矛の鋳造(ちゅうぞう;金属を溶(と)かして固める加工法)に使う石の鋳型(いがた)と剣を鋳造(ちゅうぞう)する石の鋳型(いがた)と高温で溶(と)かした青銅を一時的に入れる土器の3点で、青銅器の製造の方法が解明できる可能性がある。
石棺(せっかん)を埋める穴は、縦170センチメートルで、横320センチメートルで、蓋(ふた)の表面に線刻と言う「×」や「キ」のような記号があって、線刻が死者を封じ込める意味と考古学者が解釈して、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の弥生時代後期頃と考えられるが、しょせん古代天皇家に任命された統治者の可能性止まりである。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の王墓(おうぼ)は、崇神(すじん)天皇陵の最有力候補である瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳と景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)石塚古墳が確定して、超天才の僕が古代天皇家の実在を証明して、誰にも一切の反論を許さない。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の石棺墓(せっかんぼ)は、古代天皇家が任命した国造(くにみやつこ;国主)や県主(あがたぬし)か、それ以外の有力な無名の権力者と考えられて、歴史教科書に書かれない雑多な考古学的証拠の一つにすぎなくて、何も知らない凡人(僕以外の人間)が卑弥呼(ひみこ)の王墓(おうぼ)の勘違いを馬鹿騒ぎした結果である。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、国造(くにみやつこ;国主)か県主(あがたぬし)がいた都で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の統治下にある要衝(ようしょう)なら、非常に大きい意味があると考えられる。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡で、九州説を完全に否定して、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡を完全に除外して決着した。
弥生時代の環濠集落は、全国的に考えるのが簡単で、古代天皇家の歴史が分かる超天才の僕に任(まか)せてもらいたい。
<参考文献>
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
発行・株式会社洋泉社
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://www.youtube.com/watch?v=NAIBvL1o3c
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